輝きとは根性と筋肉、と見つけたり


アニメ『ラブライブ!サンシャイン!! 第2期』の、特に3話と5話が素晴らしい、と書いたばかりなんですが、7話でまた、すごいなと思ったので。
上記アニメのネタバレを含みます。








『ラブライブ! サンシャイン!!』2期3話については、こちらのブログの記事が要を得ていると思います。(ただし、あらすじを順番に全部明かしながら記述しているので、未見の方はご注意ください。)

イマワノキワ ラブライブ! サンシャイン!!(第2期):第3話『虹』感想ツイートまとめ

曰く、

「結構地味なネタやってるのに、笑いと多幸感の作り方が極端」。

本質的には大変「地味」である話を、極端なまでの「笑いと多幸感」で覆っている、という指摘です。その通りだと思います。

まあ、私なりの言葉でもまとめ直しておきましょう。『ラブライブ!サンシャイン!!』の主役であるアイドルグループ「Aqours」には、ざっくりと分けて二つの活動目的があります。自分たちの学校の存続に貢献することと、アイドルの全国大会に出場して優勝することです。二つの目的が両立可能であるという前提で、彼女たちの活動は進んでいる。ところが、現実的に、物理的に、どうやっても二つの目的を両立できない事態が出来したのが、3話でした。
そこで、視聴者から見て、まあ常識的にはこういう解決法が出てくるよな、とか、まあ普通だったらここらへんが落としどころになるよな、という手段が、メインヒロインの高海千歌がぽんぽんと軽〜く思いつきを口に出して、みんなで乗っかってひとしきり盛り上がった後で勢いよく否定されて、という、テンション高いボケとツッコミの嵐の中でどんどん消されていって、あれよあれよというまに時間が経って当日になってしまう。
あれ、本気でどうやってオチをつけるつもりなんだ? と思ったところで、さすがにこんなのは予想していなかった、という実に斜め上な解決法が提示されて、そのままラストまでなだれ込む、という。あれですよ、2017年にもなって、架空のお話とは言い条、たてまえの上では現実的な生身の人間の物語である筈のアイドルアニメで、まさかこんな『究極超人あ〜る』のOVAみたいなノリの解法を見ることになるとは思わなかったw。

このオチがすごいのは、第一に、まったく斜め上で予測困難でありつつも、物理的には全く不可能とは言い切れない範囲に収まるオチであること。第二に、奇想天外なアイディアを提示するものでありつつ、同時に、どんな道具やテクニックを使って作戦を練ってもダメだったものを、根本的には根性と体力にものを言わせてどうにかしてしまおう! という、たいへん脳筋な解法でもあること。
他方で気になったのは、こんな、いかにもツッコミどころ満載でバカバカしいノリの展開を出してきたのだから、そこからラストに向かっては、映像的にも勢い任せ、スピード感満点で突き進んでいけばいい気がするところ、意外と疾走感がないこと。だから、私はすげーと思っていたけれども、ニコニコ生放送では、視聴者の側が微妙に乗せられきらず、ツッコミどころの方に注意が向いている感じでした。

私は最初、ギャグ時空で主人公がロボットでOVAの『究極超人あ〜る』と、地上波で放送して、子どもが真似したらどうするんですか、とか、法律違反じゃないですか、とか言われることをそれなりに警戒しなければならないアニメとでは、できることの限界に差があったんだろうな、と単純に思っていました。
ただ、7話を見て思ったのは、そうではなくて、3話の終盤はやはり、あれで作り手の意図通りの演出だったのかもしれない、ということ。ノリと勢いでどこまでも気持ち良くすっ飛んでいきそうに見えて、どこかでその衝動、快感に身を任せきらないしこり、不安が残る。『ラブライブ! サンシャイン!!』はそういうアニメであり、完全にすっ飛んで彼方に突き抜けたように思えた3話も、その例外ではなかったのではないか、と。


3話で、全体の流れ以外にもう一つ、個人的に楽しかったのが、中二病女の津島善子がくじ引きを引くシーンです。大会に出場する、何十組というアイドルグループでくじ引きを引いて、歌う順番を決める。そこで、「Aqours」の順番が最先頭にならないと自分たちの計画は成り立たない、という場面でした。当たり前ですが、先頭を引けるかどうかは完全に運頼みで、パッと映像から判断できる限りでも、当たる確率は数%もない。その当たりを引けるかどうかに、自分たちの未来がすべてかかっているんだ、という。
普通に考えて、誰もそんな、責任重大かつ望み薄な役目を引き受けたいわけがない。ところがそこで、津島善子が手を挙げるのです。客観的に見るとむしろたいへん運が悪い人間である彼女が、ノリノリで志願して、自分なら絶対に当たりを引ける! と意気揚々と引きに行くのです。

面白いのは、外して戻ってきた善子が、天が味方しなかったとかなんとか、一瞬ふんぞり返ったあと、我にかえって「ごめんなさい!」と謝ることです。むろん、客観的には、誰が引いても外して当然のものを外しただけなのだから、善子に責任がある筈がありません。でも、彼女の主観的には、そうではないんですよね。彼女は、引く前は本気で自分なら引けると信じ込んで、役目を引け受けた。にも関わらず引けなかったということは、自分のした約束が空手形で、自分のやったことはただの無責任な安請け合いだった、ということに他なりません。
つまり、津島善子という人は、基本的には勝手に口と体が動いてノリで中二病的言動を取ってしまう人なんだけれども、同時に、心のどこかで、自分の言動はただの無責任な騙りなんだ、という意識があるのです。

それを踏まえて、5話の津島善子と桜内梨子のエピソードがあります。このエピソード、前半を見ていて引っかかるのは、この二人(とりわけ津島善子)の行動が、実にはた迷惑で無責任に思えることです。そもそも自分で飼うあてがない犬を拾ったのも、犬が苦手だと知っている相手にわざわざ犬をけしかけるのも、世話を押し付けるのも、その間中、犬を狭いケースに押し込め続けているのも、どうにもすべてがはた迷惑で無責任です。

けれども、後半を見て、この前半の引っかかりもまた、意図的に演出されていたものに違いないと感じました。
善子は、ほんのいっときエサを与えていただけの(果たしてその行為が本当に喜ばれていたかどうかも定かではない)犬が、自分のことを好きであるに違いない、と信じ込みます。あれは運命の出会いだった、とまで言い出します。自分とあの犬は結ばれる運命にある、というのであれば、論理としては、腕ずくででもさらって自分の手元に置いておくのが犬のためにも幸福だ、ということになるわけで、実際善子も、口ではそれに近いことを言います。ただ、ならば本当に実行するかというと、ぎりぎりのところではそこまで突き抜けられない。最後の最後には、自分のやっていることはただの自分勝手な妄想ではないか、他人への迷惑ではないか、という意識が頭をもたげてくるからですね。

そして同時に、そうやって心の中に自分勝手な物語を描いて、その物語を自分で信じ込んで突き進んで、周りにたくさん迷惑をかけて、それでいて最後は結局突き抜けきれない、そんな善子のありようそのものが、一緒に居る人間にとって、希望になり、救いになってもいることが、最後まで見るとわかってくるのです。なぜか。
善子が自分勝手な物語を思い描くのは、やりきれない現実を生き抜くためです。現実に辛いことがたくさんあって、だけど、その辛さの中を生き続けることに、意味があると自分を納得させるために、彼女は物語を思い描く。しかし、そうやって自分で描いた物語を自分で信じて生きていこうとすると、結局はどこかで、自分の物語の通りに物事が進まない現実にぶつかることになる。
津島善子の言動を見ていると、いかにも極端で変わった人間のようです。でも、自分の中に叶ってほしい理想があって、けれども現実はその通りにいかない、というのは、人間誰しも折に触れて遭遇する、普遍的な体験ですよね。彼女はただ、誰しもが遭遇する問題に、誰よりも力いっぱいにぶつかっていっているだけなのです。
それは、誰もが抱える悩み、誰もが体験する痛みだから、共感することができる、分かち合うことができるし、その悩みと力いっぱい向き合っている人の姿は、見る者にとっての希望になるのです。5話では、津島善子の自分勝手な物語も、桜内梨子の自分勝手な物語も、実現することはなかったけれど、そのやり切れなさと、自分勝手な物語の中に籠めていた願いを分かち合うことで、善子も、梨子も救われたのです。


最後に、7話です。7話は、いわば3話の裏面にある物語を描いたエピソードと言えるでしょう。
最初に書いた通り、「Aqours」には二つの活動目的があります。自分たちが通う学校を存続させることと、アイドルの全国大会で優勝することです。この二つの目的をめぐって、三つの、自分たちに都合がいい理想を信じることで、彼女たちの活動は成り立ってきました。

①自分たちの能力・努力によって、存続も優勝も実現可能である、という、都合がいい理想
②二つの活動目的が同時に両立可能である、という、都合がいい理想
③二つの活動目的は、一方を実現させることでもう一方も実現する互恵関係にある、という、都合がいい理想

3話は、いったんは打ち砕かれそうに思われた理想が、自分たちの頑張りによって奇跡的に維持されるお話でした。7話では逆に、自分たちの頑張りによって守れそうに思われた理想が、ある時点からほころびを見せ始めることになります。

ある日突然、学校の "偉い人" から、何日までにコレコレの条件を満たさなければ廃部だ、あるいは廃校だ、と、課題が降ってくる。初代『ラブライブ!』のアニメから続く、いかにもマンガ的、アニメ的、バラエティ的な、ありがちな展開です。しかも、『ラブライブ! サンシャイン!』2期においては、学校の上層部にどんな人がいてどんな行動を取っているか、とか、生徒の代表者が学校側に対してどんな交渉をしているのか、なんてことは、ほとんど全く描写されません。決定した課題が突然目の前に提示されるだけです。
ただ、それは、この課題設定が、登場人物を動かすためだけに設けられた、物語の都合上だけの存在だけである、ということを意味しません。7話では、「Aqours」に提示されている課題が、ワンマンの権力者が思いつきで突然決めた、というような単純なものではなくて、大人の間で複雑な議論、折衝が繰り返された結果、ぎりぎりの妥協として引き出された最後の条件である、という事柄が、台詞として語られました。7話で描かれている課題は、外形的にはいかにも陳腐で大味な、バラエティ的な設定ですが、しかし、その奥に見据えられているのは、多数の人間の複雑な利害関係の中から、個人にとって不条理な結論が生まれてくる、大人の社会の現実そのものです。

現実が立ちはだかって、都合のいい理想が打ち砕かれた時、これまで物語の中で何度も口にされながら、ふわふわとして掴み所がなかった、「輝き」というキーワードが重みを持ってきます。いったい、自分にとって「輝き」ってなんなのだろう。自分が求めていた「輝き」は、本当のところ、いったい何をすることで得られるものなのだろうか?

さて、おそろしいのは、このエピソードがまだたったの7話目、13話あるとすればまだ折り返し時点だということです。ここからまだ、何度でも話のひっくり返しようがあります。
可能性としては、終盤まで落としに落としたあと、3話のごとく奇想天外などんでん返しを繰り出して、全部いいことづくめ、何もかもうまくいきました、というオチになることもあり得るでしょう。だって、これがただ、どっかの架空の世界の架空の少女たちの物語だったら、美しく叙情的に "挫折する青春" を歌い上げて終わってもいいかもしれませんが、沼津市の内浦、という具体的な舞台を設定しておいて、果たして、結局のところ彼女たちは無力で、過疎化していく地域をどうにもできませんでした、という終わり方をしていいものでしょうか? 
他方で、今の流れであれば、最後の最後になって、全国大会の優勝も学校の存続も、どちらにも失敗してしまいました。さあ、「Aqous」が歌ってきた意味ってなんだったんだろう? という展開になったっておかしくはないのです。

思うに、だから、オチがどの地点に着地するか、ということは、このアニメの本質ではないのでしょう。

2期を見始めた時、私は、このアニメは、ストーリーの細かい部分のつじつまをあれこれ考えるようなものではない。音楽がジャーンとなって、誰かがノリノリで妄想してボケに走って、景気良くツッコミが飛んで、マジカルな展開が次々発生して、どこまでもリズミカルにお話がすっ飛んでいく。その疾走感を楽しむ作品なのだ、と思いました。
だって、なんで、新曲作りで悩む、といういかにも普通のアイドルアニメらしいお話だった筈のものが、嵐の中をさびれた仏堂に籠る展開に接続して、しかもそれで話が解決してしまうのかw。まるで、なんの変哲もない旅をしていた筈なのに、いつの間にか摩訶不思議な夢にはまり込んで、なんだこれはと思うと実は狐に化かされていた、という落語(「七度狐」)の世界じゃないか。

けれども、話が積み重なるうちに見えてきたのは、ノリと勢いでどこまでもすっ飛んでいきそうな遠心力の底に、引き戻して夢見心地の高揚を醒めさせる、現実の持つ求心力がつねに存在して、ぎりぎりの綱引きを続けているのが、このアニメの物語だということです。
音楽に乗って軽快に運ばれていく、夢見心地の高揚が、現実に引き戻されて醒めた時、そこには、理想が叶わなかった、どうしようもないやり切れなさだけが残る。そのやり切れなさの行き場は、どこにあるのか。
きっと、それもまた、音楽の中にしかないのです。
どうしようもないやり切れなさが、音楽の中に、自分たちが歌う歌声の中に昇華されていく。7話の終盤からエンディングにかけては、まさにそういう表現であり、そこにこのアニメの本質があるのだと私は感じました。






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