カゴシマPの『QuQ<クック>』26話への批判


天才カゴシマP 天海春香主演 映画 『QuQ<クック>』 アイドルマスター(26) 17年02月11日 18時07分

天才カゴシマPは、私にとって、どれだけ楽しませてもらったかわからない大切な存在、いまニコマスでいちばん好きと言っていい作者です。そして、本作は作者自身最後の長編だと言明している作品ということで、どれだけの想いと労苦で作っていることか。
それが残すところ最終話のみ、というタイミングで、何もこんなことを言わなくてもいいじゃないか、とは自分でも思うわけですが。自分の中で、これを言っておかないとどうしても最終話を迎えられない、という結論が出てしまったので、書きます。26話の一部の展開が、私は納得がいきませんでした、という話です。









ひとつの物語世界の中で話を重ねるにつれ、あるいは繰り返しいくつもの物語を作っていくにつれ、次第次第に、より多くの要素、多くの登場人物が入り乱れる複雑なお話になっていく。そういう傾向はどんな作者のどんな物語にもあるものです。ただ、天才カゴシマPは、「映画」を発想のベースにしている人だけあって、そのあたりのバランスのコントロールに優れている印象があります。
『無免許&轢き逃げ 逃避行』では、主人公が旅をしていく過程で次々に人と出会っては別れていく、という「ロードムービー」の形式、『アイドル・ガード』では主人公がある場所に現れ、その場所を守って去っていく、という「西部劇」の形式、『裏窓』では覗き込む主人公と覗かれる世界の関係、と、それぞれ一定のパターンを踏まえることで話が整理されている。
「ロードムービー」系の正統後継者と言える『マザーロード』『QuQ』ではやはり、後の作品になるほど、同時により多くの登場人物が動き回り、同時により多くのストーリーラインが輻輳することになり、その分話も長くなっています(19話完結の『逃避行』に対し『マザーロード』は27話完結、『QuQ』は現時点で28話)。ただ、消えてしまった『夏休みは終わらない』ではとうとう、カゴシマP初の連載未完という出来事もあったわけですが、その一例を除けば、どんなに途中でこみ入っても結局は物語をしっかり、綺麗に収束させてきたのがカゴシマPです。

ひとつには、どの作品にも、根本は「天海春香主演」だ、これは「天海春香」というアイドルを見せる「映画」なんだ、という、立ち返るべき原点があること。
ふたつには、たとえば『逃避行』なら春香と雪歩、『夏のナンセンス』『アイドル・ガード』なら春香と千早、『アドレナリン☆ダスト』なら春香とP、『マザーロード』なら春香と春香の母……の、出会いと別れ、あるいは別れと再会、という形で、物語の収束点、たどりつくべき景色が明確に存在していること。
みっつには、どんな絵を、どんなシーンを見せたいか、という欲求・発想が、物語を進めていく推進力としてつねに存在する、ということ。それこそ映画的というか、あるいは(ノベマスよりも)アイマス紙芝居(手描き動画)に近い発想とも言えましょうが、ここでこんな絵を見せたい、次にこんな風景を視覚化したい、という動機がつねに基本にあるために、その風景と風景の間を、テキストで、会話で、ストーリーで隙間なく埋めようとせずに、ばっさりと次の見せたいシーンに移動していくことを恐れない。そして、そうして見せてくる絵のひとつひとつに、それだけで視聴者を魅了し説得する力が実際に備わっていることによって、断片の集積がちゃんと連続した物語として感じられるのです。
『マザーロード』にしても『QuQ』にしても、なるほど『逃避行』や『夏のナンセンス』を基準にすれば長大なのですが、このストーリー内容を普通のノベマス作者が描こうとしたら、もっととめどなく長くなって収拾がつかなくなりそうなところ、むしろこれほどに短く簡潔にまとまっているところが特徴的な作品、と私は思っています。

実のところ、『QuQ』のストーリーに関しては、なんて面白いんだ、どうしてこんなすごいことを思いつけるんだ、と感じる部分がいろいろある一方で、もうグダグダでどうしようもないじゃないか、と感じる部分もまた多いのです。ただ、今までは、グダグダになってもいいんだ、そのグダグダになっているところこそが魅力でもあるんだ、と私は思ってきました。
たとえば、洪水の川中に小鳥たちが取り残される、というエピソードがありました。どうするんだ、絶体絶命じゃないかと思っているとフツーにそのまま流されて、おいおいこの後どうするんだよ、と思ったら、次の回では傷一つなく平気で道を歩いてる、みたいなw。話の辻褄とかリアリティとかいう点では、もうしっちゃかめっちゃかなんだけど。
でも、なぜ前後の話のつながりを破綻させてでもあの場面がこの「映画」の中に必要だったのかはよくわかるし、なんで話を破綻させてでもキャラクターを無事に生かしたのかも、痛いほどわかるんですよね。

カゴシマPの作品に出てくる人間って、基本的にどいつもこいつも、社会に適応できないダメ人間です。例に出した洪水の場面、あそこには、いがみ合っている小鳥一行と兵士たち、それを物見遊山に眺めているテレビの前の視聴者、誰かだけが正しいことをしていて誰かだけが下劣なのではなくて、3者全員がそれぞれに下衆で自分勝手で醜い人間じゃないか、という構造がある。
世の中には正しい人間、優秀な人間と間違った人間、ダメな人間が居るのではなく、どいつもこいつもそれぞれの形でダメなのだ、と。そしてダメな人間というのは、自分のダメさ故に居所を失って、どんづまりに追い詰められてのたれ死んでいくものなんだ、という、極めて暗くて悲惨な現実認識が、カゴシマP作品の根底には流れています。
その上で、しかし、カゴシマPは物語に希望を、願いを描き出すのです。社会からドロップアウトせざるを得ない生き辛い人間たちが、どん詰まりでのたれ死んでしまう筈の人間たちが、どっこいたくましく楽しく生き延びて、自分の生き方を押し通す姿を描き出すのです。
あんな場面を描いておいて誰一人死なないなんて、まるっきりギャグです、ご都合主義です。でも、そのご都合主義にこそ、願いが、希望が籠っているんです。だから、たとえ部分的、一面的にはストーリーがどうグダグダになったとしても、それでいい、そここそがいい、と、私は思ってきました。

問題は、26話での兵士たちの描写です。あの場面で兵士たちがどうなったのか、テキストとして明示されたわけではありません。だから、これは私の一人相撲かもしれない。ただ、普通に受け取れば、あの映像があって、その後何の言及もない以上は、あそこで兵士たちは車に轢き殺されて死んだのだとしか思えないでしょう。
別に、彼らを下劣で醜い人間に描いたこと自体がいけないとは思いません。洪水で流された人間がピンピンしてようが、瀕死で腹から血を流している主人公が大立ち回りを演じたり山登りを敢行したりしようが、だからお話が破綻しているとは思いません。
ただ、それが全体として、洪水があろうがヘリコプターが墜落しようが人っ子一人死なないし、瀕死の主人公は大活躍してかっこいいところいっぱい見せる。だけど、こいつらだけは下劣で醜い性犯罪者予備軍だから車に轢かれてのたれ死のうがどうでもいいんだよ、というお話になるのであれば、それはストーリーとして全然ダメだろう、ということです。誰かだけがダメで悪なんじゃないんだ、という公平さと、どんなにダメな人間でもどうにかしてその生に希望を見出すんだ、という優しさを取ってしまったら、残るのは単にご都合主義づくめの破綻したストーリーになってしまうじゃないですか。

いや、この26話も、その後の27、28話も、はちゃめちゃに面白おかしい場面、言葉で言い表せない鮮烈な感動のある場面、一生の思い出になるであろう素敵なところがいっぱいあるんですよ。いずれ来るであろう最終話が素晴らしいものになることも、さらさら疑っていません。ただ、それはそれとして、私は26話のこの部分は納得がいかなかった、という話です。







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