12/30雑記


久しぶりの長文なのと、一息に書いたものではないので、文体が安定してない可能性があります。とりあえず今年のうちに公開しておこうと思うので、少ししてから推敲するかもです。






・今期リアルタイムで見たアニメ。意識的にそういうルールを設定したわけではないのだけれど、私が視聴するアニメは1クールに最大で二つ、という慣習が長年続いていて、今期は1期目を見た行きがかりで『SHOW BY ROCK!!#』と『響け!ユーフォニアム2』を見ることにして、これで立て切りだなと思っていたのですが、悪来氏、garakuta氏、くろ氏がこぞって褒めているのを見て『ユーリ on ICE』を見てしまった結果、この秋は当社比で若干、アニメに生活を圧迫された感があります。結果的には、この『ユーリ on ICE』が、今期、あるいは今年もっとも自分の心に残るアニメになったので、ブロガーズは偉大。

『ユーリ on ICE』の何が凄いと思ったかというと、一つ目は、扱ったネタであるフィギィアスケートというものが、他との比較不可能な "パフォーマンス" "アート" でありながら、同時に "競技" "スポーツ" でもある、という二側面を、描写の中で両立させたこと。一人一人のスケーターが見せる演技、それぞれに唯一無二の個性があり、物語があり、魅力があり、それぞれの形で突き詰められた最高の "パフォーマンス" である、ということと、一方で同時に、それが一定の客観性をもって厳密に優劣を量られ、明確な形で点数が、順位が、勝敗がつけられる "競技" でもある、という両義性が、見ていると自然に納得できる。
二つ目は、一つ一つの試合、一つ一つの演技の一回性、唯一無二性というものが、説得力を持って提示されていること。この競技の選手寿命は極めて短くて、そしてその期間は、10代から20代という、人間の身体が時々刻々、劇的に変容していく時期と重なっている。ジュニアから上がったばかりの選手にも、ベテランの選手にも、それぞれの形で、"明日の自分が今日の自分と同じように跳べる保証はない" という不安、緊張、切迫感がある。だから、それがどんなレベルの、どんな相手との試合であっても、つねに目の前の一試合、目の前の一回の演技において、自分の全力を出し切らなければならない、今この瞬間の自分の "最高" を表現しなければならない、ということが、外部的なドラマを一切設定せずとも、競技そのもののありようによって必然となる。
三つ目にして、もっとも感銘を受けたこと、まさに私が期待していたものを見せてくれたのが、トップに立つことの恐怖、というものを描いたこと。フィギュアスケートには「ショート」と「フリー」の2種目があり、二つの種目の総合得点で一試合の順位が決まる。そして、2種目目で演技する順番は、一種目目において点数が低かった順である。私の知る限り、ウィンタースポーツの個人競技の多くが、これと同工の、"2回のパフォーマンスの総合得点で勝敗を決め、2回目の進行は1回目の成績の逆順" というシステムを持っています("滑れば滑るほど競技場所の条件が悪化する" タイプの競技では事情が違う場合がありますが。)
そのことの端的な意味は、今現在トップに立っている、もっとも勝つに値する筈の人間こそが、他の人間は負わなくてよい特別な注目、特別な重圧を背負ってパフォーマンスしなければならない、ということ。ごく単純化して考えれば、1回目でトップに立つパフォーマンスが出来た時点で、その人間には、持っている力をありのまま発揮すれば自然にライバルたちを上回れるだけのポテンシャルがある筈なのです。にもかかわらず、その、"自分の持っている力をありのまま発揮する" という、当たり前の筈のこと、自然である筈のことを成し遂げるのに、途方もない恐怖が、重圧が、困難さがあって、その困難を乗り越えない限り、勝つことはできない。言い方を変えれば、自分の上に・自分の後に誰もいない、という知覚・体験を通過しない限り、たとえ勝ったとしても、それは単なるまぐれ、偶然、幸運だったという含みがどこまでも残るものでしかないのです。トリになって、なお最後に勝って初めて、それは単に "勝負は時の運。今日は幸運の女神が彼(彼女)に微笑んだ" というものではなくて、その日、その人のパフォーマンスには、余人が到達できなかった、なにか普遍的、絶対的な境地があったからだと信じ得、認められるものとなるのです。
そういう意味で、11話〜最終話のジャン・ジャック・ルロワの描写は、とても印象に残りました。ニコ動の視聴者コメントで、「ファンの声を意識しているのはJJだけ」というのを見かけましたが、私も、彼の11話での体験は、単に「ファイナルの魔物」がそこにいたから、「GPファイナル」とはそういうものだから、なのではなくて、出場者の中で彼だけが達している境地、彼だけに見えている世界があったからこそのものだと感じました。続編があるとすれば、私の興味はやはり、 "トップに立った後の人間" をどう描くか、に尽きることとなるでしょう。
主人公の勝生勇利について言えば、同様に "トップに立った後"を描いた7話が印象的でしたし、その時、その場だからこそのパフォーマンスということ、また、競技に臨む意味の模索、ということの描写において、5話が鮮烈でした。11話〜12話にかけての彼の心情の動きは、私にはまだよく理解できなくて、それは、ひとりの人間だけを追いかけながら競技に打ち込む、というのがそもそも私にはあまりピンと来ない世界だというのもありますが、脇役である他の選手たちのキャラクターの奥行き、サイドストーリーが豊かになっていく中で本線のストーリーも描かなければならないこと、また、綺麗にまとまりつつ続きを作りやすい形に着地させるということで、最終話はかなり尺が苦しかった印象も受けます。(尺との戦いという点では、終わったかと思うタイミングでこれでもかと畳み掛けてくるネタ、という形で昇華していた10話が見事でしたね。)そういうわけで、勝生勇利のヴィクトル・ニキフォロフへの感情については、まだよくわかってないところもありますが、
・競技者であり、みんなのヒーローであるヴィクトルへの、いちファンとしての感情
・専属のコーチであり、自分のそばだけに居てくれる人間としてのヴィクトルへの感情
と整理すると、とてもアイマス的な問題ですね、と思ったりもしました。

『SHOW BY ROCK!!♯』。1期の時には、・「ダガー」という敵とどう対決するか ・異世界からやってきた主人公(シアン)が、自分、元居た世界、今居る世界 という三者の関係をどう整理するか ・主人公のそばに居る、喋るギターは何者なのか  という、物語全体の柱となる要素があったわけですが。2期目となると、喋るギター含め、設定面での伏せカードはほとんど解消されているし、たしかに今回も主人公は異世界から来るしラスボス格の敵も存在するけれども、同じことを2回やってもしょうがないわけで、わかりやすい全体の柱というものは、あまりなかったと思います。にも関わらず1クール12話、ほぼダレもせずワンパターンになった印象もなく、多くのキャラクターを捌きつつ誰が損な役回り、嫌われる役回りになることもなく毎回毎回笑えて泣ける安心の出来。通して振り返ってみた時、すごい仕事をしている作品なのだなあ、と思うわけですが。1期目もわりとそんな感じだったのですが、今期はさらに、終わってからさてどんなお話だったっけ、と思うと、自分の中に、いつどこで何があったという印象が残っていない、自分としてはここが気になる、ここを語りたいという事柄が浮かんでこない、という不思議な存在で。
アニデレの時から思っていたのですが、どうも私は、限られた尺の中に、いろんな必要要素を、器用に過不足なく織り込んだテクニカルなシナリオ、というものに対する感性が鈍いらしい。どっちかというと、どこかが決定的に偏ったり破綻したりしていて、それでも全体をどうにかするために、あるいは何かを達成するために特異な努力が払われている、ように思える物語が記憶に残ったりする。まあ、そういうわけで、一体自分は何が見たくてアニメなんか見てるんだろう、というようなことを考えさせられる作品だったなあ、というのと、あと、これが「劇場版」になったらどうなるのか見てみたい作品、とも言えるかもしれません。

『響け!ユーフォニアム2』。1期からずっと、この物語は "音楽" を描こうとしているのか、"音楽ではないもの" を描こうとしているのか、という疑問があって、まあ、そりゃ両面あるだろ、と言ってしまえばそれまでですが。2期を見て、この物語の主眼は "音楽ではないもの" にあった、というのが私の結論です。もしそれが "音楽" を描く作品だということであれば、たとえば、主人公が朝から1日ひとりでドラムを叩き続けて、夜になったら今まで叩けなかったリズムを叩けていたよ、というだけのお話でもいいと思うのです、私にとっては。
音を出す行為の身体的な快感、単調な練習に没頭する時間、ただの雑音だったものが形をなして楽曲となっていく喜び、人と合わせることで感じられる世界が変わる驚き。そういった、音楽に取り組むということの原初的な喜びをどう物語の中で表現するか、という点においては、1期において、滝先生という存在が生徒たちにそういうものを提示して本気にさせたよ、という過程が手際よく提示されただけで、2期でそれ以上の追及がなされることはありませんでした。滝先生とは異なるアプローチ、考え方を提示するトレーナーの参画とか、重要な場面で楽器を吹くことを通じてコミュニケーションがなされるとか、そのくらいのことはありましたが、人間ドラマ上の必要性に応じた彩り、という程度のものだったと思います。
たとえば、1期で、主人公の女の子が「うまくなりたい!」と絶叫する印象的なシーンがありました。2期では、なるほど、彼女が以前、出来てないから吹くな、と言われていた箇所を吹いていいよと言われる、というオチはちゃんと描写されましたが、具体的な技術や表現の面で、主人公が何がやりたくて、何ができなくて悩み、それをどう乗り越えるか、というようなエピソードはありませんでした。1期で、初めて楽器を手にして、「音楽だった!」と驚いた子が居ましたが、彼女がその後、全く意の通りにならないであろう自分の楽器とどう向き合って、今は「音楽」をどんなものだと感じているか、というような話はありませんでした。1期で、楽器を通して自分が特別であることを示すのだと叫んだ子が居ましたが、彼女がその後どんな限界にぶつかったか、あるいは彼女は一緒に吹く周りの人間の音をどう聴いているのか、はたまた、彼女はいま何を自分の理想と思い描いて演奏しているのか、そういう方向でキャラクターが掘り下げられることはありませんでした。
全体として、1期で語られた "音楽" 面の内容は、2期においては、今の彼女たちは覚悟と情熱をもって部活に取り組む "戦士" へと意識改革されている、というお話の前提条件、背景としてのみ機能していたと思います。なるほど、5話の演奏風景は綺麗でしたし、単に綺麗なだけでなく、そこに、どの楽器、どの奏者にもそれぞれの大切な物語がある、という、描いている世界の豊かさ、複雑さが感じられるものだったかもしれない。けれども、私はその豊かさと、そこまでのあれこれの人間ドラマは、別段関係のないことだと思います。仮にこれが、複雑な因縁も特別な家庭の事情もなく、裕福で恵まれた人間ばかりが大した葛藤もなく集まって、ごく平凡に練習したりダベったりした末の演奏だったとしても、"こんなに多くの人間が、こんなにいろんなことをしてこの空間が成り立っている" というその瞬間の光景の驚異、面白さには何の変わりもないでしょう。
付け加えて言えば、"音楽" と"音楽ではないもの" の境界はどこか、という議論を巧みに避け、曖昧にし続けているのが、1期から貫徹しているこの物語の特徴だと思います。たとえば、2期になって、コンクールなんか嫌いだ、という子が登場します。コンクールを目指すために演奏する、ということそのものへの疑問は、1期では言葉にされなかった視点です。けれども、それはその子が中学時代にコンクールをめぐって酷い目にあったから、という "トラウマ" の問題として描かれて、そして、実際にコンクールに勝って仲間と興奮を分かち合う、という体験の中で解消されてしまう。あるいは、今残っている部員よりも、去年やめた人間の方が実力もやる気もある人間たちだった、ということが明かされて、そういうやめた実力者のうちの一人が再入部したがっているのをどうするか、という展開になる。けれどもそこで、その子の方がうまいんだからコンクールの出場者そのものを差し替えようか、というところまではそもそも話が行かないし、そこに話が行かない展開に対して、1期の出場者オーディションの時は学年や所属期間よりも "うまさ" を優先した筈じゃないのか、という理屈を唱える人間も現れない。それは、1期のオーディションに際して、なぜ我々の合奏には "うまい" プレイヤーこそが優先されるべきなのか、という理屈を、先生も含めて誰も立てようとしなかったことの、必然的な帰結と言っていい。総じてこの物語は、私たちは何のために音楽をやっているのか、どんな音楽が私たちの目指しているものなのか、という問いの糸口がちらついた時、そこに巧みに「私たちは、全国を目指しているのですから」! という覆いを被せることで、問いが掘り下げられるのを防ぐつくりになっています。けれども、通してすべてを見終えた時、結局のところ、彼女たちがやっていたことは何だったのか? 勝ったから過ごした時間に意味があって、負けたから大事なものを得られなかったのだろうか? そういう問いは、そっくりそのまま視聴者に預け渡されているのです。
ならば、この物語が、描いているものは何か。それは、意のままにならない社会の現実、というものであり、そしてそれに立ち向かう武器としての、ひとりひとりの人間のエゴイズム、というものの発見である、というのが私の結論です。
学校という限られた空間の中で、さらに限定された狭い世界に、専用の多量な道具と設備を用意して、何十人という子どもを集中させて、課外で膨大な時間と労力を費やさせ肉体を酷使させ、そしてそういう集団をいくつも作って集めてようやく成立する、「吹奏楽コンクール」という世界。それが、どれだけ多くのリソース、前提条件を必要とする、異常で歪んだ世界であることか。
だって音楽って素晴らしいじゃないか、で済めば話は簡単ですが、実際にはやっている当人たちですら、素晴らしいとも夢中になる価値があるとも思っていなかったりするし、たとえ夢中になって打ち込んだとしても、自分がそれに夢中になった理由を十全に説明できなかったりする。それどころか、それに時間を費やしたことが本当に子どもたちにとっていいこと、やるべきだったのかも、誰にもわからない。「吹奏楽コンクール」って、そういうものだ、と、この物語は描いていると思います。だから、本当はやりたかった筈なのに、やるべきだった筈なのに気づけなかった、やらずに終わってしまった、という人だって居るし、やる意思も能力もあっても、ふさわしい機会を得られない人だって居る。素晴らしい仲間たちと音楽にひたすら打ち込んで素晴らしい時間を過ごしました、という "理想" の脇のそこかしこに、すれちがい、噛み合わず、ままならない "現実" が転がっている。
そして、学校という場所、子どもという主役に即した "ままならない現実" の象徴として、ラスボスとして最後に登場するのが、親という存在です。子ども本人がいくらやりたいと思っていても、そしてたとえ、成績も優秀でコンクールという即物的成果があり本人に理性的に説得する能力が備わっている、と考えられる最高の条件が整っていたとしてもなお、親にダメだと言われたら、大人にそんな無駄なことはやるなと言われたら、それまで。保護者である大人に本気で拘束された時、子どもができることには厳然とした限界がある。そして、できることに厳然とした限界がある、ということそのものは、子どもだけの問題ではない。
そういう、不確実で、不可逆的で、しばしば意のままにならない "現実" に対するものとして、物語は個人のエゴイズムを提示する。1期では他人よりも自分こそがソロにふさわしい、と主張した高坂麗奈は、2期で再加入した実力者について、うまいんだから吹かせるべきだよね、とは言わない。途中で辞めて、今だって自分に吹かせろと言えない奴に席が無いのは当然だろ、と言うのだ。1期のオーディションにおいて滝先生が最後に言ったのも、「あなたがソロを吹きますか?」という問いであって、私は誰がふさわしいと思います、という自分の意見ではなかった。とどのつまり、最初から最後まで、誰がうまいか、誰がふさわしいか、という話ではないのです。誰が、自分こそが吹くべきだと信じられるか、自分に吹かせろと断言できるか、という話なのです。1期の高坂麗奈との関係においても、2期の田中あすかとの関係においても、黄前久美子が辿り着いたのは、他人の都合も理屈の正しさも関係ない、俺がお前に吹いてほしいのだからお前がそこで吹け! という結論でした。久美子の姉も田中あすかも、最後は自分がやりたいことが何であるかを見定めて、それを実現するために全力で手段を尽くしました。そうして、各個人が自分のエゴに対して正直になって、自分のエゴを他人の前で突き通せるようになった先で初めて、他人同士の気持ちの通い合いが、すれ違いの解消が可能となっていく。
個人的に、田中あすかのエピソードはミリマス漫画の最上静香のエピソードによく似た部分があって、従って、両者は同じディレンマを共有していると感じます。親にやりたいことを否定されている子どもが、自分自身のやりたいという気持ちに対して正直になって、親と正面から向き合って説得しようとする。なるほど、それはたしかに彼女にとって重要な意味のある変化でしょう。けれども、”現実的” には、子どもの側がそうして正面から向き合ったところで、そうまで理不尽に抑圧してきた親の側が都合良く折れてくれるものでしょうか? "現実的" というのであれば、なるほど劇場版アニマスの矢吹可奈だって、彼女が実際アイドルをやり続けられる保証はないかもしれませんが、しかし可奈の場合は、今彼女アイドルであろうとする意志そのものに対してまで、物理的な拘束が掛かっているわけではありませんでした。田中あすかの場合も最上静香の場合も、最後の、もっとも大きなハードルである筈のところの、"親を説得する場面" 自体は物語の中で描かれません。"ままならない現実" の内実をよりシビアに描けばこそ、"現実" とエゴが衝突する一番ぎりぎりのところでは "現実" の側を不問にして話を飛ばさざるを得ない、というディレンマがここにあると思います。
……で、あればこそ。何故そうまでして自分のエゴを突き通すのか。何を、何故、そんなに自分はやりたいのか、ということ。"音楽" の側が、もう少し掘り下げられても良かったのではないか、と思うのです。それが、死別した大切な人の願いだから、離れ離れになった大切な人と繋がる道だから、大好きな人に憧れたのが自分の初心だから。だから……「私たちは、全国を目指」す? あなたのやりたいことって、どうしても突き通したいエゴの中身って、本当にそれでいいんですかね? 
けれども、その、どうにも何かが突き詰められていない、語ることを慎重に避けられているもやもや感が、この物語の美質でもあると思うのです。つまり、何故それをやりたいのか、という問いに対して、その行為が持つ原初的、体感的な快感、衝動を提示して、答えとして直結させると、その時論理は行為の内側だけで完結してしまう。なんで部活で吹奏楽なんかやるの? だって"音楽" は素晴らしいものじゃん! で、話が済んだつもりになれてしまう、ということ。『ガールズ & パンツァー』について、だって彼女たちが住んでいる「戦車道」の内側の世界はこんなに熱くて楽しくて気持ちいいんだから、外からガタガタつまんねー突っ込み入れて水差すんじゃねー、と言う人はいるかもしれませんが、『響け! ユーフォニアム』で描かれている「部活」「吹奏楽コンクール」に対して、同じように感じる人はあまりいないでしょう。良くも悪くも、複雑に絡まりあった糸玉を解きほぐすことなくそのまま提示してくる、それゆえに、内包している様々な問いをそのまま視聴者に預け渡してくる物語、というところでしょうか。

映画。1本しか見てないので、先に、すでに言及したものの落ち穂拾いから。『君の名は。』。私の記事はネタバレを避けつつ内容に踏み込もうとした結果、他人には何を言っているのかわけわかめになっていたような気がします。あと、『ドラえもん』をさんざんネタにしながら、いちばんシンプルで合致度が高い、「『君の名。』は、要するにのび太とのび太のおばあちゃんのお話である」というたとえに思い至らなかったのが。なので、言いたかったことを再要約。
終盤で、三葉のおばあちゃんは、瀧くんと三葉の身に何が起こっているかを見抜きましたが、瀧くんの言っていることそのものは全く受けつけませんでした。対して、三葉の友人たちは、何が起こっているのかさっぱり気づきませんでしたが、友人の願いそのものは無条件に受け入れました。物語の最終局面で、三葉のお父さんをどう説得するか、という事柄が重要な鍵になりますが、肝心の説得シーンそのものは劇中では描写されません。しかしながら、その描かれなかった場面で何が起こったかを考えるヒントは、先の、おばあちゃんと友人たちの反応の差にあるのではないか。
つまりは、問題は、瀧くんや三葉の側がどれだけ説得力のある理屈を提示できるか、お父さんにどれだけ必要な知識や想像力が備わっているか、ということではないのではないか、ということ。劇場版アニマスやミリマス漫画は、子どもがエゴを貫く決意をする過程のみをじっくり描いているのであって、その後現実にはこうなる、という結論づけをそもそもしていません。『響け! ユーフォニアム2』は、ぎりぎりの場面で現実の側を不問にする、というマジックを使いました。『君の名は。』は、そのどちらとも違う。ままならない現実の中でなお、人と人が対話し得る、通じ合い得る可能性、その手がかりをあらかじめ提示しておいて、最後に回収した物語だ、というのが私の理解です。どれもご都合主義だとひっくるめてしまえばそれまでですが。まあ、それでもなお、あるいは、だからこそ、省略された場面こそが、もっとも時間を割いて丁寧に描かれるべき場面だったのではないか、という疑問は有効であって、私としては、劇場版アニマスのスタッフが同じお話を撮ったらどうなるか、というのはかなり興味があります。

『聲の形』。言うて結局、あれは当事者が美少女だから成立するオハナシだろ? という言説について。メタ的なレベルで、果たして美男美女の映像で描写されていなければこの物語は私たちの手元に届いただろうか? 届いたとして、同じように受容され、理解され得ただろうか? という問いはたしかに成立すると思いますが、物語そのものに対する突っ込みとしては意味をなしていないと思います。視聴者である私たちにとってキャラクターが美少女に見える、ということと、物語の中の人間にとってどう見えているかは別の問題である、という単純な話が一点。もう一つは、そもそも、この物語は当事者が美男美女であるかどうかにかかわらず成立する物語だ、ということ。主人公がヒロインと関わる動機の中心に何があるかと考えれば、それはおそらく ”罪悪感” というキーワードで説明できる筈で、ヴィジュアルが美男美女でなければ何が変わるかと言えば、二人の間にあるものを恋愛感情だと(視聴者が)感じる余地が少なくなる、というだけのことだと思います。(物語内には恋愛感情なんか無い、と言っているわけでも、美男美女同士でなければ恋愛感情など生じない、と言っているわけでもないです、念のため。) まあそれはいいとして、この物語、結局、別にヒロインと周りの人間が互いにどう向き合うか、とか、そういうお話じゃないんじゃないの、という視点があって、それはたしかにもっともな部分があるよな、と。映画は最初、主人公が自殺しようとするところから始まって、最後、主人公に見えている世界がちょっと変わったよ、という演出で終わる。始めと終わりの対応関係だけから考えれば、つまりお話の中心にある問題は主人公の心境であって、ヒロインや周りの人間はその付属物でしかない。では、そうして、物語の始めと終わりが主人公に集約されることで、どんな状況が生じたか。
この物語ではいろんな人が嫌な目、辛い目にあうけれども、誰が悪くてそうなるのかと言えば、誰もがそれぞれに個性的に悪い奴なのだとも言えるし、誰が悪人というわけでもないのに人間が集まるとクソばかりになってしまうのだ(gouzou氏風)とも言える。だから、こいつが悪いことをしたせいでこんなことが起こったから、それにふさわしいしっぺ返しを受けて悔悛して改心しました、というような、何も考えなくとも胸がスカッとして済むようなオチは、『聲の形』には用意されていない。
この物語の中の世界では、人と人が触れ合うごとに軋轢が、ひずみが、澱が溜まっていって、けれどもそれを処理する簡単なはけ口、わかりやすい処方箋はない。そういう世界の中に、人からも罪を着せられ、自らも自分が悪いと信じて罪を背負いこんでいく主人公がいる。つまり、これは世界に生じるひずみを主人公が引き受けることで世界のバランスがどうにか保たれる、という話なのだ……とまとめると、なるほど、『聲の形』って "魔法の出てこない『まどか☆マギカ』 " だったんですね! ということになりますが。まあ、『聲の形』はファンタジーではないので、主人公は物理的に世界を救うわけではなくて、ただ彼個人がどう生きるかを模索しているだけですが、そういう主人公の軌跡を通して、出口の見えない世界に対してある種の救い、希望が示されている、という点では通じるところがあるでしょう。
そう考えると、そこには、『響け! ユーフォニアム』とはまたちがう形での、現実と物語の関係をめぐるディレンマが生じている気もします。すなわちそれは、現実の社会においては誰も特別な聖人やヒーローではないし、問題を簡単にスパッと断ち切れる単純な解決策もない、という描き方を突き詰めた結果として、そういう世界を総括できる主人公は特殊で唯一無二な存在たらざるを得ない、というディレンマ。もちろん、映画の中では主人公以外の人間も変容していっていることが表現されていたし、可能性としてはもっと群像劇に寄せた描き方にする道もありえたはずです。ただ、そうした場合、映画としてはよりまとまりがない、わかりにくい作品になっていたかもしれなくて、結局、物語に強い求心力を、救済を与えようとすると、その主人公が特別なヒーローとなるしかないのだろうか……、というようなことを考えてしまいます。
最初の、キャラクターが美男美女じゃなかったらどうなのか、という話題に戻ると、まあしかし、この映画はここで私をグダグダ書いているようなことを考えなくとも楽しい作品で、そこにヴィジュアルの力は少なからず影響しているし、この作品の場合には、そうして ”難しいことを考えずとも楽しい” 形であるのは意味のあることだと思います。映画を見るのに難しいことなんか考えたくないよ、という人に対して、そうだよ、そんなことしなくていいんだよ、と言っているわけではない。けれども、どんな見方、楽しみ方をしている人にも味わえる間口の広さはある、という映画だと思うので。

落穂拾い終わり。『劇場版艦これ』。TVシリーズ視聴済み、ゲームのプレイ予定無し。単品で記事を書くつもりでしたが、見に行ったすぐ後に寝込んで頓挫しました。上の方で、どこか破綻していて、それをどうにかするために特異な努力が払われている物語、ということを書きましたが、『劇場版艦これ』はまさにそういう物語で、私は好きです、この映画は。客観的に見てこれはエンターテインメントとしてどうなの、プロの作った商業コンテンツってこういうものでいいの、というところは、私には判断できないです。
『劇場版艦これ』とはどんな物語か。 "ニコマス「めんどくさい」クラスタ" 風に言えば、これは「落とし前をつける」物語だ、というのが私の認識です。何に対して「落とし前をつける」のかと言えば、自らが生み出した主人公に対してであり、自らが生み出した救いの与えられないキャラクターに対してであり、自らの生み出した作品世界に対してです。
『劇場版艦これ』では、「吹雪」と「如月」という二人のキャラクターがストーリーの中心になります。「吹雪」はTVシリーズで主人公扱いだった子であり、「如月」はTVシリーズにおいて、前後に何の見せ場もフォローもなく、唐突に敵に倒されたような描写だけがあった子です。当たり前の話ですが、実際の戦争において吹雪というフネ一隻が何か特別で象徴的な役割を果たしたわけではないし、ソシャゲとしての「艦隊これくしょん」の中で「吹雪」ひとりが特別な地位にあるわけでもないでしょう。「如月」に至っては、TVシリーズでの彼女の扱いはストーリーの進行上、世界観の説明上必要だったからエピソードが置かれただけにしか見えなくて、その後に彼女の存在をどう物語に生かす、という展望があったかどうかすら疑わしい。だから、なんでこの二人が劇場版で特別な地位を得ることになったのかと言えば、それはTVシリーズの際の "作り手の側の都合" の結果だとしか言いようがない。
数多の人気キャラクターを抱える「艦これ」なのだから、ほんのちょびっと出ただけの「如月」ひとりにこだわる必然性はないはずです。物語のクライマックスを、「吹雪」がひとりで決着をつける、という形にする以外の方法だっていろいろあったはずです。なるほど、TVシリーズでの扱いに対して、「如月」ファンには不満があったことでしょう。けれども、描写を増やして情報が増えたなら増えたなりの、他のキャラクターの出番が減れば減ったなりの、別の不満が出てくるものであって、コンテンツとしての戦略上、「如月」にこだわることが有益かと言ったら、なんとも言いがたい。私は、『劇場版艦これ』がこういう形になったことには、合理性や損得では説明し切れない側面があって、それは物語の作り手の、プライドとか、良心とか、感受性、とか、そういう領域の問題だと思うのです。
アニメに登場したと思った途端に退場させられて、彼女がどんな人間で、何を感じ、今はどうなっているのか、誰にもわからない。主人公として売り出されたはいいが、結局何のために彼女が主人公で、彼女のやっていたことにどんな意味があったのか、誰にもわからない。そうやって、アニメの尺の終わりと同時に放り出されたままのキャラクターに対して救いを提示できるのは、彼女の存在には意味があったのだと示すことができるのは、彼女たちをそんな風に描いてしまった、物語の作り手だけなのです。作り手が、それを、やらなければならないことだと感じるかどうか、ということ。アニメ『艦これ』の作り手には、自分自身が生み出したキャラクターに対して、自分自身こそが、彼女が生まれた意味、を与えなければならない、というプライドが、良心があったのだということ。
さて、では二人に対して、具体的にはどんな形で「落とし前」がつけられたのか。「如月」については、シンプルに、彼女の行く末を最後まできちんと描き切ることをした、ということでいいでしょう。一方、「吹雪」は何をしたのか。彼女たちが置かれている世界が、グロテスクで不自然な作り物であり、する意義の不明な戦いが果てしなく繰り返される出口のない世界であり、そしてそんな世界に放り込まれてしまったせいでキャラクターたちが苦しんでいる、ということを認めた上で、その世界の中で生きていくことに希望がある、意味があるとキャラクター自身に信じさせ、語らせること。私は、「吹雪」という主人公を通して語られたのは、そういう話だと理解しました。自作自演というか、自分で出したクソを自分で拾って食べて、これは栄養があって体にいいんだと言ってるみたいな話ですが、現にこの物語世界が生み出されてしまい、そしてそこに、納得のいく "ハッピーエンド" "戦いが終わって問題が解決した状態" なんて描きようがない以上、それでもその世界の中でキャラクターを生かす道はこれしかなかったのだ、ということはよくわかります。「閣下」とか「黒春香」さんとか「哀春香」さんとか「病春香」さんとかと親しくお付き合いしてきた人間としては、あるいは、ニコ動で、自分の生み出した世界と真摯に格闘する多くの2次創作者を見てきた人間としては、この映画はとても腑に落ちるし、作り手を尊敬します。
ところで、「如月」をめぐるエピソードには、今述べたような文脈にとどまらない、SFとしての可能性の片鱗を感じました。味方をかっこよくてかわいくて美しいヴィジュアルで、敵を異形で奇妙でおどろおどろしいヴィジュアルで描き出すことで味方と敵の間にあらかじめ、生理的なレベルでの区別、境界線が引かれている、というのは、「艦これ」に限らず非常によくある手法ですが。「如月」のエピソードを通じて、生理的なレベルで自明だった筈の境界線が、少しだけ揺らぐ。あるいは、生理レベルの嫌悪、恐怖を越えて、味方側である筈の人間と敵側である筈の人間が通じ合える可能性が表現されていて、そこには「艦これ」内側の文脈にとどまらない物語に発展するポテンシャルがあったように思いました。

……えー、長くなったのでここまでで。あと残っているのはなんだっけ。リアルタイムじゃないアニメが2本、ゲームが1本、読み物2本と芝居? 今年中には無理ですね。






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