カニのナウシカ


映画『聲の形』のネタバレを含みます。

なお、「ナウシカ」はタイトルだけで、本文とは何も関わりがありません。








原作未読。なので、原作をどうダイジェストしているのか、ということがひとつ重要なポイントとなる映画だろうとは思いますが、その点には触れません。

わりと体がガタガタな時に見に行って、こう何か辛くて重い感じの作品だったら、ちゃんと鑑賞できる状態じゃないかもしれないな、と思いながら席に座ったのですが。
実際、後述するように、描かれているものを他人事として済ませられないような訴求力をもった作品ではありましたが、同時に "笑えて、泣けて、すっきりストレスを解消できる" エンターテインメントとしての外形を見事に備えた映画でもあって、まったく問題なく楽しむことができました。

で、多くの人の感想にある通り、我が身に引きつけて考えさせられるというか、心が痛いところがある物語でした。そして、それは別に、この物語が視聴者にとって、小学生中学生の頃の "あるある" な人物や行動を描いているものだから、ということではないのでしょう。
それは、こういう立ち場に立てばすべての出来事を安全に上から見下ろすことができる、という視点、立ち位置ができることを徹底的に避けたつくりになっている、というのがこの物語のあり方だから、なのです。

この物語には、アイドルやヒーローや正義の味方は登場しません。物語の中で「子ども」と 「大人」が対比されているわけでもなければ、"主体的に行動する/できる人間"と”しない/できない人間” が対比されているわけでもありません。
どんな性格の、どんな立ち位置の人間にも、その人間に固有の弱さや醜さ、間違いがある、ということを、この物語は描き出します。(ある意味その、どのキャラクターも、自分の中の見たくない部分を、向き合わざるを得ない、真剣に受け止めざるを得ない形で的確に突きつけられていく、というところが、この物語のもっともフィクショナルな部分かもしれません。)だからこそ、見ている側も、物語の中の登場人物が表面上どれほど自分と似ているかに関わらず、自分の心の中の、薄々勘づいてはいてもなるべく目を向けたくないような部分に思いを馳せずにはいられないのです。
ゆえに、この映画は "過ぎ去った昔の、痛かったり甘酸っぱかったりする思い出" を描いているのではなくて、自分にとってつい昨日のことでもあり、明日のことでもある事柄を描いているのだと、私は感じました。

その上で、にも関わらずそんな物語が "辛くて重い" ものではない、とはどういうことか。
この物語は、弱くて醜いひとりひとりの人間に対して、 "今までのダメな自分"とは百八十度違う天使のような人間に生まれ変われ、と要求しているわけではありません。変わろうとしても変えがたい自分、どうにかしたくてもどうしたらいいかわからない問題をいっぱい抱えた人間たちが、それでも少しだけ前に進もうとする懸命なあがきを、大事に描く。そしてその結実として、各々の登場人物の、弱さとして、他人を傷つけるものとして提示されてきた部分が、最後には、魅力であり、他人の救いともなりうるものとして、ふたたび提示される。
実際のところ、物語の中で起こった様々な出来事は、今後の彼らの人生の中で何度でも繰り返される可能性があるだろうし、物語が終わった時点で何も解決していない、ひょっとすると始まってすらいない問題がたくさんあるはずです。それでも、何度でも人はやり直していけるし、やり直した先で築けるものがある。見終わった時、そう感じさせ、信じさせる力のある作品でした。

別の文脈からの感想として。『シン・ゴジラ』『君の名を。』その他を云々してきた、私の最近の記事の裏テーマ的なものとして、言葉の使い方、あるいは話し合いというものをどう描くか、という事柄があって。その点において、『聲の形』は、私がこういうものを見られたらいいな、と思っていたものがたくさん詰まっている映画でした。
すなわち、この映画は、いくら考えても、いくら議論しても答えが出ないかもしれないような事柄を取り扱う映画で、そして、そういう事柄を語り、考えるのにふさわしい言葉の使い方、時間の使い方がなされた映画だったと思います。映画単体で感じた面白さとは別に、今このタイミングでこの映画を見ることができて良かった、と思いました。


感想として言いたかったことは大体これで終わりですが、以下、例によって、細かいどうでもいいことをグダグダと続けます。ネタバレも増えます。

・最初に、安全な立ち位置というものが無い物語、と書いたのだけれども、特別な立ち位置にあるキャラクターが全く存在しないとは言い切れなくて、たとえば主人公(石田)の母親がそうですね。映画終盤の重要なシーンで、石田の母が立ち尽くしている絵が出てくるけれども、その時彼女の顔は画面に写らない。そして、その後に彼女がどんな態度を示し、どんな会話が行われたかは描かれない。
仮にあの場面で、彼女がなにかを拒絶したり感情をむき出しにしたりする行動を取っていたならば、もう人間関係泥沼で、到底尺の中でお話を収拾しようがない状態になっていたはずで。他方で、許容や共感を示す態度を描いてしまえば、彼女はひとり、全てを優しくあたたかく受けとめてお話を都合良く支えてくれる、特別な存在になってしまう。そう考えると、あの場面の彼女は、ああして立ち尽くしているしかなかったのでしょう。

・言葉の使い方という点で、印象に残ったのが植野というキャラクター。頭いいなというか、自分の中で感覚的に捉えたものを、よくこうも明確に言語化できるな、と。こうして記事ひとつ書くにも、ああでもない、こう書いても違う、と四苦八苦している私としては、正直その能力がちょっと羨ましかったり。
それはともかく、劇中での植野の行動原理として、石田に "壊れる前の元の人間関係" を取り戻させようとする志向が観察できますが、それは何故なのか。
「嫌い」か否か、「理解している」か否か、「味方」か否か、等々、強く言い切って相手に二者択一の答えを迫る物言いが特徴的な植野ですが、果たして劇中、植野の「味方」になってやりたい、と思った人間なんていただろうか? 居るとすればそれは、"小学校6年生の時の石田" だったのだろう、ということになります。
転校生が来てからの植野の疲弊、いらつきを、そばで見ていた石田は気づいていました。このお話のそもそもの発端には、石田の植野の立ち場への理解、二人の間での気分の共有が存在しているのです。そして肝心なのは、にも関わらず、大事な局面で、植野の方は石田の味方ではなかった、ということ。
極論すれば、つまり石田の不幸は全部自分のせいじゃないか、と、少なくとも植野自身は認識していて不思議ではないのです。そう考えると、彼女が "石田の人間関係" ("西宮硝子の人間関係" ではなく)にこだわるのも、小学生の時点では、周りの空気を主導し、周りの空気に乗り、つねに自分に優位な空間の中でしか発言しなかった彼女が、後半では(少なくとも石田や西宮硝子の前では)単独で強い言葉を相手にぶつけるキャラクターになっているのもわかる気がします。
まあ、植野の心理について、どうも私の中でよくわかっていない、掴めていないところがある気がして、たぶんその掴めていないものはここで書いたような事柄ではないのですが、なんだろうと考えているうちにこんな文章ができていました、ということで。

・「月が綺麗ですね」というネタの実にバカバカしい使い方がいいな、と思ったのだけれど。少し考えて、単にバカバカしくてよい、というだけの話でもないな、と。ネット上の2次創作なんかでこのフレーズが使われる時は、"正面から伝えるべきことを正面から伝えない人間がいる" という光景を、なにか美しくて風情のあるものとして表現したい時なのです。ところがこの作品においては、伝えたいことを正面から伝えようとしている人間がいるのにそれが伝わらない、という当事者にとってのっぴきならない悲劇である光景において、同じフレーズが登場するのです。

・アイドルやヒーローは登場しない物語、と書いたけれども、アイマスなんかのアイドルの中に混ざっていてもおかしくないな、というキャラクターなら居ますね。永束とか、西宮硝子の「彼氏」とか、そうではないでしょうか。
つまり、彼らのふるまいには、前川みくの "猫" や神崎蘭子の "中二病" や徳川まつりの "姫" と似て、一種の演技、一種のモードが張り付いているのです。それは自分の心をガードする鎧であり、外の世界と切り結ぶための武装であり、そしてその武装は、相手の世界を直視せず自分の世界を押し付けることで成り立っている側面がある。
物語は、彼らがただそのままであり続けることを許容はしないけれども、彼らのありようを単純に否定するわけでもない。永束の思い込みの強さは、事実いくつかの局面で彼にヒーローじみた他人への影響力を発揮せしめるし、「彼氏」は "西宮硝子の王子様" であることを止めても、ちゃんと「彼氏」らしく魅力的なのです。  

・見ていて気になったのは2点。
一点目。西宮家の祖母のビジュアル。そういう絵柄だから、と言われればそれまでなんだけれども。アニメの中で、"お年寄り" "おじいちゃん・おばあちゃん" を、若者とは頭身も顔の輪郭も何もかも違う、"奇妙で可愛らしい珍生物" 的な造型に描かれると、個人的にはとても引っかかります。孫に優しかろうが言動が含蓄に富んでいようが死期が近かろうが、老人だって若者と同じ人間だと思うのですが。
二点目。とあるシーンで、病室で寝ている人間の体につながっている、何かの管が描写されますよね。いま、”体につながっている何かの管” と書いたのは、書いた以上のことをこの映画が何も描写していないからです。
この物語の中では、たとえば「補聴器」というアイテムが、重要な役割を果たします。補聴器とはどういう物品であって、それを装着している人の体はどういう状態にあるものなのか、ということが、映画の中で事細かに説明されているわけではありません。けれども、視聴者にそういったことへの想像をめぐらさせるつくりになっている。
ところが同じ作品において、あれらの管は、"引きちぎるための邪魔な障害物" としてしか扱われていないのです。別に、世の中にいくらでもある、瀕死で寝たきりの人間が普通に自分の手足で動き回ったり、遠出したりするイベントにいちいち全部文句をつけようとは思いません。そういうのはただ、その部分こそがこの作品のファンタジーであり、願いなんだな、と思うだけで。
ただ、人間の身体と人間のコミュニケーションをかくも大切に描いてきた物語において、たとえ映像の側の文脈からはこういう形になることが必要であるとしても、重要なコミュニケーションの場面がこんな形であるべきだったのかどうかは、ちょっと考えてしまうのです。


ちなみに、字幕上映については、この映画に限らず、映画の上映には字幕がつくのがデフォルトになればいいし、そうでなくとも、この映画は積極的に字幕つきで上映がなされるべきだ、というのが私の意見です。
映画に字幕がつくことで、"字幕を必要としない大多数の視聴者" にとっては
・文字に気を取られて映像に集中できなくなる
・文字なしで音声を聞いた時の新鮮さや想像を喚起する力が失われる
・文字が入ることで、映像本来の構成美や余白が失われる
といったデメリットが生じる、という考え方があるわけですが、私は、そのような「デメリット」は "字幕のない状態" が "映画の本来の、ありのままの姿である" という固定観念のもとでしか成り立たないものだと考えるからです。

私に映画史をどうこう論じる知識はありませんが、少なくとも、映画というものが、 "無音であることが当たり前" だった時代も、"製作者が書いてもいない説明を、弁士が勝手に被せるのが当たり前" だった時代も存在したことは知っています。そして、現在でも、洋画が日本で放映される時には、日本語字幕か吹き替えがつくのが "当たり前" です。字幕と吹き替えのどちらが好みか、あるいはその出来具合の良し悪しがどうか、という議論はあっても、字幕も吹き替えもない"原画原音上映" がデフォルトでないなんてけしからん、視聴者の楽しむ権利が阻害されている! という議論はあまり耳にしたことがありません。”映像があり、音声があるが、字幕はつかない" というのは、別に映画にとって普遍的な形態でもなんでもないのです。

日本の中の、劇場で多人数の観客の前で上演されるコンテンツ、ということに限っても、字幕がつくのがデフォルトの世界はすでに存在しています。たとえば京劇の公演なんかは、電光掲示で台詞を表示するのが当たり前ですね。オペラでも、同様のサービスが存在する場合があります。
で、未だにそういうことをやっていない歌舞伎は、今の時代のコンテンツとしてどうなんだろうね、という議論があったりするわけですが(イヤフォンガイドとか字幕ガイドとかいった、専用の機器を貸し出すサービスはすでに存在します)。実際のところ、歌舞伎の場合日本語話者であっても、耳で聞くとよくわからないが、字幕があればそれなりに理解できる、という人は少なくないはずです(かく言う私自身、役者の台詞はともかく、浄瑠璃は未だにほとんど聞き取れません)。京劇の日本公演と比較した時、歌舞伎は大きな機会損失をしているんじゃないかね? ということ。実は、歌舞伎もテレビで放映される時には、字幕がつくのがすでにデフォルトで、そしてそれに対して、字幕があるせいで鑑賞が阻害される、という意見は寡聞にして耳にしたことがありません。

あるいは、ニコニコ動画の利用者であれば、映画に字幕をつけるのはどうも馴染めない、という人であっても、アニメや生放送を、(字幕の比でなく画面を覆い尽くし、製作者が意図してつけたわけでもない)大量のコメントと共に見て楽しめる人は少なくない筈です。
もちろん、現在の時点では、コメントを表示するかしないかは利用者が自由に選択できますが、それは、今のニコニコ動画はそういうお金の取り方をしている、というだけのことで、選択肢としては、デフォルトでコメント表示、消そうと思ったらプレミアム会員にならないといけない、というお金の取り方だってあり得るわけです。(NG設定その他、プレミアムになった方がコメント管理の自由度が上がる、というのは、それに近い発想だと言えるでしょう。)
まあ、私が、字幕なんて、つくのが当たり前になってしまえば、それで大して問題なんて起こらないだろう、と思う一番の理由は、ニコ動でノベマスとかim@s架空戦記とか東方卓遊戯とかを見てきて、当たり前でもなんでもない表現の形式や手法を、"鑑賞用コンテンツとして当然備えているべきサービス" だと思って視聴者が作者に要求して、そしてその多くが、後でその動画の楽しみ方が理解されてから振り返ると的外れだった、という事例をうんざりするほど目にしてきたからだったりしますが、漬かったことのない人にはピンと来ない世界だと思うので、あまり細かくは言いません。

そして、映画一般と字幕の関係がどうなっていくかに関わらず、この映画には積極的に字幕がつけられるべきだ、と思うのは、この映画が、内容においては、まさにその "健康でノーマルな大多数の人間の、ごく当たり前な感覚・意見" なるものに対する問いかけ、掘り下げを含むものであり、ならば、それにそぐう表現が伴うことによって、よりその掘り下げが深くなるはずだと考えるからです。
私は普段、同じ映画を2度3度と見に行くという習慣がありませんが、この映画に関しては、字幕ありで劇場でもう一度見てみたいと思っています。


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