9/20雑記


続空風に言うところの「で、最近どうよ?」な記事……と行きたいところでしたが、なんか全然そんな感じになりませんでした。
動画関係以外で、自分が今年ここまで見たものをざっと振り返る記事です。











・アニメ。いまリアルタイムで追っているものが二つ。
一つが『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀』。虚淵玄脚本で台湾の技術による人形劇。
コミカルな活劇、台詞のやりとり、計略のめぐらし合い、どの要素もそれぞれに面白くて、お話が何をやっていても飽きないようになっているのだが、やはりなんと言っても殺陣、斬り合いの場面がいちばん面白い。実際にモノを動かしていることの強みが出ていると思うし、その表現と、一瞬の斬り合い・一瞬の決着・一瞬での生死の分かれのうちに、互いの思い、生き方が集約される、というストーリーのありようとが絶妙に噛み合っていると思う。

で、最初の方、わりと派手な斬り合いが連続するので、そうか、この調子で毎話毎話、一癖も二癖もある豪傑が登場しては主人公と斬り合って、バッタバッタ死んでいくのか、実に面白そうだ……と思いきや、全然そうならないのである。なんか、仲間を集めて力を合わせて宝物をゲットしましょう、みたいな話になって、どう考えてもこのまま平和に終わるわけがないのだが、表面上は和やかにコミカルにすいすいと話が進んでしまう、という。状況が見えなくてもなんとなく話の展開に納得してしまうし、情報が増えてきても先の展開を読ませない、という話のつくりが実に巧妙。
ひとつ重要なファクターになっているのが、自称遠い国から来たという、風来坊の主人公の存在。主人公は、他の登場人物にとって常識であることを何も知らないし、他の登場人物は主人公が何者なのかまったくわからない。そして視聴者はその両方がわからない(笑)。なので、視聴者は自然に、主人公側とそれ以外の側の両方の視点から物語を眺めることが出来る。まあとにかく、実によく出来たお話である。


もう一つが『ラブライブ! サンシャイン!!』。タイトルにもその要素があるけど、輝きがどうこう、みたいな台詞が出てくる。ラブライブよ、お前もか。
前作がどんなだったかよく覚えていないので比較は出来ないのだけれども、なんかわりと普通に話が面白い。
全体として受けるのは、
・今までのアイドルアニメが言えてないことは何か、ということがよく考えられている
・一話単位での気持ちよさが重視されている
という印象。

一点目で心に残ったのは、たとえば、 "アイドル以外の可能性" とアイドルであることの関係をどう描くか、ということ。このアニメは、ピアノを弾く、とか、留学する、とかいった、アイドル以外で個人のやりたいこと、出来るかもしれないことを、アイドルであるために諦める、犠牲にすることを否定する。むしろ、アイドルである時間、仲間と一緒にいられる時間をある程度犠牲にしてでも、そういった可能性に手を伸ばすことを、周りの仲間が積極的に肯定し、後押ししていく。
あえて性急にまとめてしまえば、アイドル自体を相対化する視点を眼中に入れつつ、その上で、あえて自分たちがアイドルという道を選ぶことの意味、というものを、このアニメは描こうとしてるのだと思う。

2点目については、たとえば主人公はわりと悩みがはっきりと顔や行動に出る性格なので、周囲が気づかないうちに主人公が難しいことをためこんでいる、みたいなことがあまり起こらない。あるいは、キャラクター同士のすれ違い、ディスコミュニケーションが何度もテーマになるけれども、それは複数話かけて語られることはまずなく、必ず一話の中でわかりやすい和解があり、感情の解放があって綺麗に気持ち良く解決する。(ついでに言えば、前作にあった、ミュージカル的にキャラクターが突然歌い出す演出も無くなってますね。)可能な限り視聴者にストレスを感じさせないお話作りがなされている印象。最後までこの調子で行くのか、どこかでひっくり返してくる計画があるのかは、まだわからないけれども。

ひとつ私の側の事情として、今までアニマスのTVシリーズ、Wake Up, Girls!、ラブライブ! とアイドルアニメを見た中で、あまり特定のキャラクターへの思い入れで視聴する、ということはなかったのだが、この『サンシャイン』に関しては、ヨハネの人(津島善子)を見るのが楽しみで見ている、という点はあろう。(ちなみにアニデレでは、”川島瑞樹が喋ってる時に横で笑ってる星輝子” とか好きでした。)
問題は、私にとってアニメというのは基本的に "作業の片手間に見るもの" なのに、このアニメにおけるヨハネの人の仕事は "画面の隅で変なポーズや表情をしていること" なので、見逃すまいとすると、いくぶん集中してアニメを見なければならないということ。そのせいで他のアイドルアニメよりもよく味わえている、というところはあるかも。

・その他、ニコ生の一気見とかで今年見たアニメ。
『戦姫絶唱シンフォギア』。東方卓遊戯動画の『幽香と緑髪同盟のダブルクロス』で前々からプッシュされていて、『東方緋想剣』でもネタが出てきたので、これは見るしかないなと思って、ニコ動で買って見た。3期まであるようだけれども、とりあえず1期を見たところ。
女の子が歌を歌う話だ、ということだけ知っていたのだが。タイトルやビジュアルからなんとなく、宇宙空間で乗り物に乗って戦争するようなお話かと思っていたら、全然違った。特殊な装備を装着した女の子が歌うことで変身して、街を襲う謎の魔物を倒していく……という、どっちかと言うと魔法少女的なお話だったんですね、これ。
私の事前の想像と違ったり、気になっていたのが判明したりしたポイントとしては、
・歌うことが直接的、物理的に戦う能力と結びついている
・わりと直接的な死の描写がある。わりとあっさりモブが死ぬ(ただし、名前のある主要なキャラクターはそうそう死なない)
というところが。

で、細かいことを考え出すと突っ込みどころだらけの荒っぽいお話なのだが、それでも有無を言わさず運んでいく勢いがある。根底にある世界観がシビアで、その上で少女たちを通して何を見せるか、というところがクリアなので、納得できるストーリーになっているのだと思う。
いちばん好きなのは、主人公と友人のエピソードかな。主人公は、ある日突然自分には戦う力があると知らされて、周りの状況もわからないし、自分に何が出来るのかもわからないし、頑張ってみてもうまくいかないことばかり。他方で友人の方はそもそも何の力もなくて、主人公がいま何をしていて何に悩んでいるのかもわからないし、それに対して自分がどうしたらいいのかもわからない。それぞれに、相手に対してわからないところ、自分自身に対して不安なところがあって、そんな中でも、どうやって人と関係を結んでいくのか、ということ。このエピソードで主人公が歌い出すところは、歌詞と物語とが緊密に結び合っていて、胸が熱くなった。
あと、アニメを見て、「緑髪同盟」の某キャラクターが、シンフォギアの主人公を性格的には忠実に踏まえていることがよくわかったけれども、歌というものの扱いやキャラクターの役割は全然違っていて、あらためて、あれは見事な換骨奪胎だと思った。

『ばらかもん』。ネギリボンPのMADが素敵だったので。書道家の青年が五島列島で自分探し。
感想。良い話でした。……だけで終わるのあんまりかもしれないけれども、どうこう言わなくても大丈夫な良い話、というか。つまり、主人公は、こんな人たちと出会って、こんな体験をした。だからこんな風に変わって、こんな作品を作るんですね、という、お話のいちばん核のところが、とても自然で、納得がいって、ああ良い話だなあ、と思えるような物語なので。

『四月は君の嘘』。ピアノ弾きの少年とヴァイオリン弾きの少女が出会う話。
まず、物語の中で音楽を聞かせて、"今聞かせた演奏は凄いものなんです" と視聴者に納得させる、そこの部分のつくりがよく出来ている。演奏自体の変化と、映像上の表現と、物語的な、あるいは言葉での盛り上げの三位一体、総動員で、"今のがコンクールで勝った演奏である" "今のが常識はずれの自由奔放な演奏である" といった物語上の筋を、視聴者に説得的に提示してくる。凄いなあ、と思って、実際それは最後まで凄いのだが。
こう、後で書くこととも関係しているのだけれども、だんだん複雑になってくるんだよね。主人公は何度も演奏する場面があって、その度ごとに "今までよりも新しく、凄い演奏" を提示しなければならない。この物語は、一回ごとにその演奏特有のシチュエーションを用意することで、その課題を解決する。それは、最初はたとえば、初めての別種の楽器との共演にどう対応するのか、というような比較的単純なものだけれども、だんだんと、主人公が弾いているシチュエーション、主人公がその演奏を通して何を成し遂げるタスクを負っているのか、というところが複雑に込み入っていって、それに対応して、最後の演奏では流れる音楽自体にも大幅なアレンジが入っていたりする。そこらへん、一回ずつしか演奏上の見せ場がないライバルたちの方が、ピアノ一本、語り一つだけでシンプルに構成出来ていたりするのと見比べると、大変だなあ、と。

この物語はまず、"ピアノ版『ばらかもん』" あるいは "高校生版『のだめカンタービレ』" 的なものとして楽しむことが出来て、そういう、音楽をめぐる青春群像的なお話としてだけでも、十二分に面白い。
その面白さの一つのポイントは、「怖さ」というものへの着目にある。どんな性格、経験、立ち場の演奏家にとっても、ステージに立って他人の前で演奏する、という行為は、等しく「怖い」ことなのだ、と。けれども、その「怖さ」と向き合った先に、何かとても素晴らしいものがある。怖さへの向き合い方、その先にあるものの理解の仕方、捕まえ方は人それぞれであって、それが各々の音楽家としての個性になっていくのだ、と。
もう一つは、ある特別な才能が描き出す作品、軌跡が、人に何かを想わせ、衝き動かす原動力になっていく、という流れの描写。『ばらかもん』にもよく似た要素があるけれども、つまりこれは、憧れが、意志が、伝導し、人の輪を生み出していく物語なのだ。

一方で、この物語には別の要素もあって。何かというと、これは "ピアニスト版『Air』" なんだなあ、ということ。中心に、逃れがたい、信じがたいほど過酷な運命を背負った人間が居る。その大いなる過酷な運命の軛の中で、どう人間が懸命に生きて、どんな軌跡を描くか……そういう物語。つまりこの作品は、"ピアニスト版『ばらかもん』" として味わっても美味しいし、"ピアニスト版『Air』" として味わっても美味しいのだけれども、さて、その二つは一緒にしなければならないものなのだろうか、とは、ちょっと思う。
まあ、『のだめ』がそうであるように、仕事として音楽をやる人間を描いていけば、結局は学校とかコンクールとかいう枠の中に限定して話をする意味が無くなっていくわけで。『四月は君の嘘』はこういう形の物語であるからこそ、学校生活、という時間と空間の枠で、強い求心力をもって完結できている、とは言えるかもしれない。

・映画。ほぼ全部アニメ。
『ガールズ&パンツァー』。ひたすらに楽しくて気持ち良い映画、という感想。
具体的なところで、とりわけ凄いと思った事柄から。TVシリーズの時から、それぞれの学校にそれぞれの気風があって、そしてその気風はリーダーの人格と呼応している、という構図があるが。その中でアンツィオ高校とそのリーダーのアンチョビというのは、おバカでノリが良い校風と、その中では常識人で苦労人で、けれども理解のあるリーダー、という、校風とリーダーの性格の関係性が持ち味だった。では、リーダーチーム一組しか登場しない映画において、”アンツィオ高校らしさ” と "アンチョビらしさ" を同時に成立させつつこのチームを活躍させるには、何をやらせたらいいのだろうか? 
あるいは、継続高校のミカ、という新キャラが出てくるが、既存のキャラクターと今まで何の絡みもない彼女を、周りの物語の邪魔にならず、それでいてキャラクターが伝わり、ちゃんと見せ場があるようにするためには、彼女をどのように造型し、何をやらせたらいいのだろうか? 
そういう、考えてみると難しそうなことが、なんでもないかのように成立していて、彼女たちのいずれも鮮やかに活躍したキャラクターとして印象に残っている。凄いなあ、と。
そんなわけで、アンチョビもミカも好きですが、一番好きなのはアッサムです。

さて。「戦車道」という、架空のスポーツが題材なわけだが。その「戦車道」の中に、つまりスポーツの中での人間と人間のぶつかり合いの中に、すべてがある、というのがこの物語の、唯一にして絶対的な主張である。
親・家族との関係での悩みとか、ライバルや同僚との絆とか因縁とかすれ違いとか、そういう人間ドラマ的な要素はたしかにある。あるけれども、それらはスポーツと並行した別のドラマとして語り込むために存在しているのではない。そういう関係や想いのすべてが、スポーツをやる快感、スポーツを見る興奮のうちに集約され、解消され、昇華されていくところに、それら人間ドラマ的要素の意義があるのだ。
役人に廃校を強制される、という、TVシリーズとまったく同じ展開が映画の冒頭で繰り返されるが、つまり、大事なのは少女たちが結集し、共同生活を送り、スポーツでの壮大な決戦に挑んでいく、という状況であり、その中で少女たちが描く軌跡であって、その状況を用意する理由なんて、使い回しでもなんでもいいのである。

また、この物語に特徴的な事柄として、"スポーツの中で起こることの素晴らしさ" 以外のあらゆるもの、価値をフラットに扱う手つき、態度が挙げられよう。私は基本的にモノや概念の擬人化、キャラクター化というものが嫌いだし、お国ジョークも嫌いなのだが、『ガールズ&パンツァー』という作品は、たとえば "いつどこででも紅茶を飲もうとするイギリス人" というような "お国ネタ" を、面白おかしいネタとして描き出しつつ、しかし貶めるというほどではなく、むしろ魅力的で愛すべきものとしても見せる……、というような、絶妙のバランス感覚をもって取り扱う。
そうした、あらゆるネタをフラットに等価に扱う態度は、映画で日本軍をネタにしたチームを出したことで、より洗練されたと言えよう。
『ガールズ&パンツァー』は、"軍歌を楽しく歌いながら歩き回る光景" も描くし、"やたらと突撃したがる非合理な行動" も描く。"負けを明朗とさばさばと受け入れる態度" も描けば "ズルをしてでも勝ちに行く態度" も描く。"勝敗よりも仲間を気遣う優しい場面" も描けば "仲間のために自己を犠牲にする美しい場面" も描く。何か特定のものを賞賛しているのでも、批判しているのでもなく、すべては "スポーツの中での素晴らしいぶつかり合い" の細部を豊かにするための一枝葉であり、より話を面白おかしくするためのネタなのですよ、と。

思ったのは、この物語で 「戦車道」という名前と形をしているものを、たとえば ”組体操で、学校全員で巨大ピラミッドを作り上げる競技” に置き換えても、まったく同じように熱く面白くて気持ちよい映画として成立するな、ということ。
楽しくて、気持ち良くて、すっきりストレスが解消されて、難しく考えなくていいし、何を押し付けられた気もしない……そこにはなんでも自然に溶かしこむことが出来る、透明な溶液のような作品。

『映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生』。ドラえもん映画に関しては積年の経緯があって、まともに書くと長くなるので、かいつまんで。
私の認識では、世代交代後のドラえもん映画(いわゆる「わさドラ」)は、基本的にどれもこれもシナリオ面では支離滅裂で、まともなストーリーの体をなしていない。まあ、かりふらPなどにはこういうものも「映画」として語りようがあるのだろうけれども、ストーリーにしか関心がなくて、ストーリーしか語れない私の手には余る代物で。

が、その中で例外が二つあった。一つ目が2013年のオリジナル『のび太のひみつ道具博物館』。これは、藤子の大長編としてはあり得ない方向性に舵を切った結果の傑作であった。
すなわち、藤子の大長編にはつねに、物語の中の世界がなんらかの形で子どものための「夢」であり「冒険」である、という要素がある。ところが、『ひみつ道具博物館』には、そんなものはないのである。何故ならば、この映画が描いているのは、”ダメな奴はどこに行ったってダメ” ということだから。
『ひみつ道具博物館』の中心にいるのは、ダメで、無能で、何をやってもうまくいかなくて、他人に助けてもらってばかりいるようなヤツである。何をやってもダメで、だけどどこまでも友達思いのヤツ。何をやってもダメで、だけどいつまで経っても自分の夢を諦めないヤツ。ダメなヤツが、ダメなせいで周りじゅうに迷惑を掛けて、みんなに助けてもらってやっと生きていて、それでもなお懲りることなく、自分にとって大切なものを大切にし続けている。この映画は、そんなダメなヤツの姿を描いて、それを力強く肯定し、しかもそんなラディカルなメッセージを含んだストーリーを、見事に ”親子で安心して楽しめる映画” に仕立てあげてしまっているのだ。

もう一作が、2014年のリメイク『新・のび太の大魔境 〜ペコと5人の探検隊〜』。この映画の凄さは、リメイク前の骨格に何も足していない、というところにある。リメイク前の骨組みを何一つ変えず、ただ、細部に、丁寧に今のドラえもんならではの化粧、味付けをしていくだけで、今の観客の視聴に耐え、今のドラえもんならではの内容をもった映画を仕上げてみせた。
そんなわけで、2年続けて傑作が来て、「わさドラ」映画に黄金時代が到来したのかしら、と思いきや、2015年のオリジナルが従来通り(?)の、箸にも棒にもかからない支離滅裂なストーリーだったので(苦笑)、ではリメイク作の場合はどうなのだろうか? と思いながら見に行ったのが今年だった、と。

結論としては、一頃に比べれば、シナリオは確実に洗練されたと思う。『新・魔界大冒険』や『新・鉄人兵団』のように、あれこれと新機軸追加要素を盛り込んだ結果、ごちゃごちゃとひたすら忙しなくて目まぐるしいだけ、みたいなことにはなっていない。
一方で、『新・大魔境』の、骨組みそのまま、とも違って、『新・日本誕生』の特に終盤の展開は、リメイク前と大幅に異なっている。そして重要なことは、見た目の改変の多寡にも関わらず、”原作にどんなメッセージを足そうとしたか” という点は、実は『新・日本誕生』も『新・大魔境』も、それ以前のどのリメイク作品も同じであって、今のドラえもん映画の製作者の思想が根本的に変化しない限り、今後とも本作と同程度にはまとまっていて、本作と同じように原作とは異質なリメイク作が生産され続けるのだろう、と確信できる内容だった、ということだ。

『君の名は。』の感想記事で書いたけれども、藤子・F・不二雄の大長編ドラえもんの重要な特徴として、子どもたちの想いや勇気や友情といったものは、戦争や環境破壊やその他社会の大きな問題を直接解決したりしない、という原則がある。だから、藤子の大長編ではしばしば、お話を解決する最後のオチが ”タイムパトロールが駆けつける” だったり、ものによっては "単なる幸運な偶然" だったりする。藤子のドラえもんは、"子どもたちが自力で問題を解決する" ということには、さらさら重きを置いていないのである。

「わさドラ」映画はその正反対で、"大人の助けなしに、子どもが自分たちの力だけで何かを成し遂げる" ということを極度に重視する。それは裏面から見れば、物語の中で戦争を描こうが大災害を描こうが、すべては子どもが「信じよう!」「頑張ろう!」と一念発起しさえすれば、あっさりひっくり返って解決する程度の "障害" でしかなくなる、ということだ。
子どもの意志がすべてを解決する、という確固たる結論があらかじめあるから、そこに至る過程での話のつじつまみたいなものはどうでもいいし、あらかじめ伏線が提示され、それが回収されて話にオチが付く、というような、物語の基本的な作法みたいなものも、そんなにこだわらなくていいじゃん、ということになる。
もう一つ言えば、藤子はSF大好きで、パラレルワールドとか過去改変とかのネタを好んで扱う人だが、つまりそれは、藤子の物語は、あり得たかもしれないいくつもの他の可能性、あり得るかもしれないいくつもの他の未来を常に視野に入れながら紡がれているものだ、ということだ。たぶん、今のドラえもん映画の製作者は、そういうSF的なものの考え方には、あまり興味がないのだと思う。

だから、私が今挙げたような事柄が別に気にならなくて、単に、子どもたちが友情や信念や努力を歌い上げるミュージカルとして素直に楽しめるのであれば、この作品は、ちゃんと作り込まれた、それなりによく出来た映画である。
実際、たとえば原作で一方的に虐げられる立ち場であったヒカリ族が、本作ではより主体的に積極的に抵抗する存在になっている、といった改変にはそれなりの意義があると思うし、メインのゲストであるククルの特性が最後で鍵になる、という発想も良かったと思う。ただ、話の経緯をそういう風にしたり、そういう台詞で自分たちのやってることを正当化されたりすると、私の中では物語全体に対して根本的な疑問や矛盾が見つかってしまうなあ、という箇所がいくつも目に付く、というだけの話で。

『響け! ユーフォニアム』。高校の吹奏楽部がコンクールを目指す話。なんか映画館の前を通ったら劇場版と書いてあったので、なんだ続編があるのかと思って入ったら、ストーリー的には去年のアニメのダイジェストだったという。まあ、2期もあるということで、見ておいて良かったと思う。
劇場で見て、印象が変わったのが、公開オーディションのシーン。顧問の滝先生という人の、「あなたがソロを吹きますか?」という台詞があって、TVで見た時は、これは、滝先生の中では尋ねる前から結論が出ていて、誘導のための質問なんだと思った。が、必ずしもそうとは限らないのかもしれない。

滝先生というキャラクターは、生徒たちが "自分たちで決める" ことを強調する。具体的には、最初の”コンクールを目指して真剣に練習する” か "楽しく無理せず練習する" かを多数決で選ばせる場面。そしてこの、生徒の投票でソロを吹く人間を決めさせる、という場面。
容易に想像がつくことだと思うのだが、中高生の集団にいきなり "自分たちで話し合って結論を出しなさい" と言ったところで、普通は主体的な意見の交換になどなりようもない。先生の顔色をうかがい、周りの空気を読んで当たり障りのなさそうな結論でまとまろうとするのは目に見えているし、何が当たり障りのない結論かが見えにくいテーマであれば、グダグダと気まずいだけの時間がひたすら過ぎて行く展開になるに違いないのだから。
実際、先生に真面目にやりますか、やりませんか、と聞かれれば、とにかくその場では真面目にやると答えるのが穏当だと皆が思ったからあの展開になったわけだ。公開オーディションにしても、その場ではっきりと意志表示をしたのは黄前久美子と吉川優子の二人だけ。しかも、この二人は、単にオーディションが始まる前から "この人にソロを吹いて欲しい" というこだわりを持っていたからそうしただけであって、要するにこの時、その場の演奏を聞いて、自分で判断した意見を表明した人間は、誰一人いなかったわけだ。

仮にも教員である滝先生に、そういう展開が読めていなかったとは思えない。なのに何故、彼はそんなやり方をするのだろうか?
①彼が情熱家で夢想家で、本気で部活は生徒の主体性によって運営されるべきだと考えているから
②自分たちで主体的に判断しないで周りに流されていると、こんなひどいことになりますよ、という教訓を与えるため
③”君たちが自分で決めたことだから” という口実で有無を言わせなくする、という指導者としてのテクニック
TVシリーズを見た時点では、私は③に力点を置いて解釈していたのだけれど、もう少し①②を重視してもいいのかな、と。つまり、もしこの時、尋ねられた彼女が、はい、自分がやりたい、自分がやるべきです、と答えていたら、話は変わっていたんじゃないか? と思った。

ついでにどうでもいい話。私がこのアニメの、高坂麗奈というキャラクターに対して基本的に冷淡なのは、本気で自分の才能に自信があって、周りの連中に理解されないと思うなら、出て行けばいいというか、実際にそうやって出て行っちゃった如月千早さんという御仁を思い浮べてしまうからですね(笑)。くだらないくだらないと言いながら高坂麗奈がそうしないのは、”この学校の吹奏楽部” とか ”滝先生が居る場所” とかいう枠に対して彼女がこだわりを持っているからで。とんがっているとは思うし、そのとんがりを否定はしないけれども、たぶんそれは、音楽がどう、とか、才能がどう、とかいう話とはあんまり関係ないものなのだ。

『シン・ゴジラ』。前にどっかで書いた気がするが。私は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 』という映画を、決してつまらないともわけわからないとも思わなかったけれども。あれを見ていて愕然としたのは、十何年経っても、これだけ小手先の工夫を重ねても、結局最後は "ベートーヴェンの第九" という存在の権威と物語性にすがるしかないお話なんだな、これは、ということ。
『シン・ゴジラ』はベートーヴェンを召喚しない代わりに、伊福部昭の音楽が流れる。この映画では、鷺巣詩郎のいつもの "司令部が快調にミッションを遂行している時に流れるBGM" に対して、伊福部の、土臭くて、荒々しい情動が籠った音楽が対置されなければならない必然性があるし、その、音楽が持つ重み、音楽が象徴として背負ってきた物語に対して、映画の提示する物語と映像とが拮抗して存在し得ている。そう感じて、こういう関係の音楽と映画が聴きたかった、見たかったのだと思った。ストーリーの内容を具体的に云々するのはとりあえず措いて、そこが素晴らしかった。

『君の名は。』。単独の記事で書き落としたことをいくつか。
一つ目。ヒロインの家の人間たちはおそらく、ヒロインと似たような体験をしたことがあり、そのことがお話の重要なファクターになっている。 ……というのは多分そうなのだが、それが全てではない。何故ならば、”どういう事態が起こっているかを鋭く見抜く” という事柄と、"誰かの言葉を信じて動く" という事柄は、無関係ではないにしても、別の問題なのだと、物語の中で明確に示されているからだ。主人公たちの周りには、状況は見抜けても "信じて動く" ことはしなかった人間もいたし、何もわかっていなくても他人を信じることは出来る人間もいた。だから、私の考えるラストピースは、彼らが共有している(かもしれない)体験や能力、そのものではない。
二つ目。このお話の中で主人公たちが見聞きした出来事は、部外者から見ると謎になっているわけだ。なぜ部外者には謎なのかと言えば、当事者が語らなかったから。ではなぜ、当事者は語らなかったのか? 私は、それは身の周りの人間を世間から守るためだろう、と、つまり、直接的にはあまり語られていない、周りの人間に対するその人物の思いがそこに現れているんだと思っているけれども、まあ、別に根拠がある話ではない。

さて。いくらか他人の感想を読んでみてわかったのは、私の記事で長々と書いたあたりの事柄について、よくわからなかった、あるいは、話はわかったけれども釈然としない、という感想が結構あること。何故そうなったのかは明らかで、肝心要の部分が直接描写されていなくて、前後の話から頭で考えて想像しなければならない、というつくりになっているからだ。では、違う選択がなされて、省略された部分が描かれていたらどうなっていたか、ということは、たしかに考える必要があるな、と思った。

たぶんそれは、地味で、退屈で、とげとげしくて、目で見ても耳で聞いても映えない、言葉の応酬になった筈である。
もっと言うとそれは、理性的で整然として説得的な議論ですらなくて、せっぱつまっていて、感情的で、支離滅裂ですらあるかもしれないやりとりになっていた筈である。

この映画は、限られた尺の中で、そんなものを描く代わりに、主人公とヒロイン二人の時間を描き込む、という選択をして、結果とても良い物語を描き出した。だから、この映画の選択自体は、これでいい。
しかしながら、世のいろんな映画が、みなこの映画と同じような選択をするようになったらどうなるだろうか、とは、少し思う。描きにくい、絵にならない、だから描かない。描かなくても、描いてあるものを繋ぎ合わせれば読み取れるようになっているんだから、後は視聴者の側の注意力の問題じゃないか、と。
『シン・ゴジラ』も、そういう点では『君の名は。』と似ている。大量の言葉が交わされる映画だけれども、その中に、地味で、退屈で、先の見通しがない議論をじっくりとやる、という言葉の交わし方は無い。

まあ、C.S.ルイスの『カスピアン王子のつのぶえ』という、私の認識では、地味で退屈な議論を延々としている場面が核心の物語があって。映画になったらその核心が、いちばん大事だった筈の部分が影も形も無くなっていた、という例を私は知っているけれども。前作の『ライオンと魔女』では、きわめて原作を大事にした映像化がなされていたのだから、それは、製作者に原作を解する能力や意志が無いからそうなった、という話ではないのだ。だから、映画でそういうことをするのは難しいよね、という一般論で終わらせるべきなのかもしれないが。
『シン・ゴジラ』でも『君の名は。』でもいいけれども、劇場版アイドルマスターのスタッフが同じものを撮ったらどうなるか? というのは、ちょっと見てみたくはある。劇場版アイマスもまあ、交わした言葉自体がじっくりたっぷりしていた、というわけではないかもしれないが、時間の使い方、という点で。

川本喜八郎『死者の書』。2005年の映画で、折口信夫の小説を人形アニメーションで映像化したもの。
伊福部昭の弟子の松村禎三が協力していて、能の観世銕之亟が主役を演じていて、ついでにエンディングロールで協力者の名前が五十音順でバーッと流れるので、実質『シン・ゴジラ』……というネタはともかく、あまり私に言えることはない作品。人形アニメの表現とか、能楽師の声とか、よう語れんです。折口信夫も語れんです。どっちかというと雅雪Pの領分な気が。
とりあえず私にわかることとしては、神がかりの巫女の役の黒柳徹子と、大貴族で権力者(恵美押勝)役の江守徹が怪演。特に江守の役は、ワンシーンだけの出番なのだが、雅さとかナチュラルに人を見下す高慢さとか教養とか、そういう生まれついての貴族ならではのものが一体となって身に貼り付いたような男、という地の文での語りが、喋りを聞いて、なるほどまさにその通りだと感じられるという。演技とはこういうものか。あと、観世銕之亟の声の、"この世ならざる者の声" としての説得力。

芝居。書くと長くなるので、何を見たかだけ心覚えに。
一月。時間なくて行かず。
二月歌舞伎座。昼の部通し、菊五郎・梅玉・吉右衛門の『新書太閤記』。夜の部幕見、吉右衛門・菊之助・菊五郎の『籠釣瓶花街酔醒』。
三月歌舞伎座、芝雀の雀右衛門襲名。昼の部幕見、新雀右衛門・吉右衛門・菊五郎の『鎌倉三代記』、仁左衛門・孝太郎の『団子売』。夜の部幕見、橋之助・高麗蔵・菊之助の「角力場」、雀右衛門襲名披露口上、雀右衛門・幸四郎・仁左衛門・坂田藤十郎「金閣寺」。
三月国立劇場新派公演。波乃久里子の『遊女夕霧』と水谷八重子の『寺田屋お登勢』。
四月歌舞伎座。昼の部幕見、仁左衛門・又五郎・左団次『身替座禅』。夜の部幕見、仁左衛門・歌六・東蔵『彦山権現誓助剱』。
五月歌舞伎座、団菊祭。昼の部幕見、菊之助・時蔵・左団次「十六夜清心」、吉右衛門・菊五郎「楼門五三桐」。
六月以降、暇がなくて観劇せず。
あと、ニコニコの獅童・澤村國矢・初音ミク「今昔饗宴千本桜」をニコ生で。

こうして振り返ってみると、バタバタしていてあまり見に行かなかった結果、”音羽屋と播磨屋と松嶋屋” という自分の選り好みの傾向が如実に出ることに。
ニコニコの「千本桜」は、"知らない人に魅せるために歌舞伎に出来ること" を工夫しつくした総力戦、という感じで、とても良かったと思う。



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