記録 & 記憶 リターンズ


映画『君の名は。』のネタバレを含みます。
あと、念のためお断りしておきますが、このブログは基本的に、表面上何の話をしていても、ニコニコ動画上のアイマス動画界隈のことを知らないと、なんだかよくわからない仕様になっております。









最初に結論を申し上げます。私はこの映画の趣旨に心から同意し、満足するものであります。
すなわち、映画『君の名は。』が語っていることは、次の2項に要約することができます。

教訓①:人の記憶はあてにならないので、記録をしっかりつけましょう。
教訓②:しかしながら、記録もまた脆いものなので、その保存と発掘にはできる限りの努力をしましょう。

私は、本作のこの2つの主張に、全面的に同意いたします。
まあ、②については、どちらかというと

②'α:記憶も記憶もあてにならない中で、それでもいかにして人は生きていくべきか
②'β:あてにならない記憶と記録でも、なおその中に活用できる教訓があり、人はそれを活用することができる

というような話だった、と言った方が正確かもしれませんが、まあ当ブログ的には、いつでも記録の保存と発掘に努めましょう、という結論でいいな、と。
感想、終わり。





……というわけで、以下は、どうでもいい思いつきをまとまりなく書き並べているだけです。

最初に、自分がどういう状況でこの映画を見たのかについて。私、身の回りの人がみんな見ているし、世間でも流行っているみたいだし、というだけの理由でこの映画を見に行ったので、予告すらまともに見たことがなくて、広告ポスターの絵とか見て、この男の子とこの女の子の二人が出会うお話なんだな、という認識しか持っていなかったんですね、見る前は。(なお、新海誠監督の過去作も見たことがありません。)
まあ、二人がどういうきっかけというか、どういうギミックを通して知り合いになるのか、という点だけは、twitterでフォローしている人の中に、さらっと具体的に明確にネタバレしながら感想を連投してくれた人がいて、その人のツイートを読んだので知っていたのですが。ちなみにその人はニコマスの春香Pでしたが、ええ、春香派っていうのは、ああじゃないといけません。ああいう度しがたい無邪気さこそ、春香派と切っても切り離せない重要な特質のひとつです。

さて、真面目に人の感想を探して読む気力がないので、この映画がどういう形で語られているのか、よくわからないのですが(飯田一史氏と藤田直哉氏の対談は読みました)。とりあえず、
・ボーイ・ミーツ・ガールである
・SFである
・アニメである
といった文脈からは手厚い語りがあるに違いない、ということで、私はそれ以外のネタを使って書こうと思います。……いえ、私がSFのことやアニメのことはよく知らない、ってだけの話ですけど。

互いに離れたところに居る二人の人間が、特別なきっかけで出会う、というのは、まあSFでもよくあるかもしれませんが、ファンタジーの領域でよくあるお話でもありますよね。
おとぎ話の「シンデレラ」が既にそういうお話ですし、ジブリで映画化した『思い出のマーニー』なんかも典型的ですし、私は映画を見ながら、アリソン・アトリーの『時の旅人』を思い出したりしましたし。あるいは、「君の名は」というタイトルの言葉通り、呼びかけの声、呼びかける言葉というものが重要な役割を果たしますけれど、その "呼びかけ" という要素だけ注目すれば、『はてしない物語』にも似ているし、『もののけ姫』にも似てるよな、なんて思ったり。

で、ファンタジーの場合、二人の人間は、何が起こっているのかよくわからないような不思議なきっかけで知り合うわけで、知り合った後には、果たして相手は自分の妄想だけではない実在の人物なのかどうか? 実在の人物だとして、一体いつの時代のどこに暮らしていた何者なのか? という謎が生じます。だから、そういう物語には大抵、出会った相手が何者であるかを突き止める "人探し" "謎解き" のパートが存在します。

ところが、『君の名は。』の場合、どう見ても二人ともに現代日本の住人なので、普通に考えて、人探し、場所探しのお話をやろうとしても、どう転んでもそんなにややこしい話にはなりようがありません。
『ルドルフとイッパイアッテナ』や『とっとこハム太郎』みたいに、主人公が動物だとか子どもだとか、大人の人間なら当たり前に出来ることが出来ない立ち場のキャラクターなのであれば、舞台が現代でも人探し、場所探しだけで一つのイベントになり得るでしょう。しかし、ネットを使えて、自力でしかるべき機関や人物を尋ねて必要な話を聞くこともできる人間が主人公となると、そうはいきません。

まあ、『君の名は。』においては、普通に考えたら現代日本では簡単に成功しそうなことがなかなかうまくいかない、という謎があって、そしてそこにはちゃんと理由があって、それが物語全体に関わってくる……というようなギミックが仕組まれていて、よく出来ていると思いましたが。
とにかく、人探し、謎解きだけではお話にならないとすると、この映画は後半でどんな話をするつもりなんだろうか? という疑問が、前提知識なしに見ていた私にはあったわけです。


では、見終わって私は、そこにどんなお話があった、と思ったか。
映画を見るのは、恋愛感情を解し、関心を持つ年齢を通過した人間ばかりではありません。
ボーイ・ミーツ・ガールというと、『天空の城ラピュタ』にしろ『涼宮ハルヒ』にしろ米澤穂信の〈小市民〉シリーズ にしろ、煎じ詰めればボーイ・ミーツ・ガールだ、と言うことはできるでしょうが、それらは冒険活劇だのSFだのミステリーだのの皮を被っている。そして、ボーイ・ミーツ・ガールであることと、冒険活劇やSFやミステリーであることの、どちらが "皮" であり "実" であると感じるかは、見る人によって違うはずです。 

藤子・F・不二雄『ドラえもん』の短編に出てくる道具で、「人間製造機」というのがありました。石鹸とか鉛筆とか鉄釘とか、身の回りの品物を放り込むだけで、「人間の赤ちゃん」を作ってくれる、という道具。しずかに手伝ってもらってこの道具を使おうと思ったのび太は、しずかに向かって、ふたりで一緒に赤ちゃんを作らないか、と発言して、カンカンに怒ったしずかにボコボコにされます。帰り道でボロボロののび太がつぶやくのが、

「なんであんなにおこるのか…………。まったく女の子って、理解にくるしむよ。」

という台詞。
私、初めてこのお話を読んだ時、なんでここでしずちゃんが怒ったのかさっぱりわからなくて、劇中ののび太とまったく同じに狐につままれたような気分になったんですよね。

大人になれば、というか、ある程度性についての知識がつけば、同じエピソードをしずかの立ち場に立って眺められるようになります。けれどもそれは、このエピソードが、大人になってこそ理解できる、大人のためにこそあるお話だ、ということでしょうか? 
私は、そうは思いません。大人になってからこのお話を初めて読んだ人には、この場面で子どもが感じる衝撃と共感を本当には理解できないだろうし、私自身においても、あくまでそれは記憶の中にあるものであって、いまの自分が身体で感じとれるものではないからです。

私は、「人間製造機」のしずちゃんが理不尽に見えた頃の自分にとって、たとえば「グルメテープルかけ」という道具が使用される場面が、どんなにか夢のような、素晴らしいものに思えたかを憶えています。
かつて魔法の宮殿として見えていたその場面が、ただの絵にしか見えなくなった代わり、今の私は、たとえば「たまごの中のしずちゃん」というエピソードが、逆説的になぜ出木杉ではなくのび太こそがしずかにとって特別であるかを、いかに雄弁に物語っているか……、というようなことをつぶさに説明できますが、それでかつてよりも『ドラえもん』を理解できている、と思ったことはありません。
子どもにしか受け取れない『ドラえもん』があり、大人にしか受け取れない『ドラえもん』がある。それは、大人になったら全部を受け取れる、ということではなくて、作品そのものは、たぶん、それら個別の "◯◯にしか受け取れない××" を超えた、どこかもっと高いところで書かれているのです。

私は、この映画は、"子どもの世界" と "大人の世界" の関係を描いたんだ、と思いました。

『ドラえもん』での子どもと大人の関係というと、短編にも大人は出てきますが、映画/大長編の方が話を整理しやすいですね。
大長編ドラえもんは、基本的に子どもが子どもたちだけでどこかに遊びに行く話ですが、同時に、子どもの力や意志だけではどうにもできない局面が、必ず出てきます。それは、わかりやすいところでは、明日、宇宙人が攻めてきて地球人をみんな奴隷にする、という事柄だったり、明日誤作動したコンピュータが世界中に核兵器を発射する、という事柄だったりする。

けれども、明日宇宙人が攻めてくるから対策を! と子どもに言われた大人はどうするか。この子はテレビの見過ぎでおかしくなったのかしら、と思うのが当たり前ですよね。
大人にとって、自分が行動する、というのはなんらかのリソースを費やし、その時間で出来た筈の他の事柄を犠牲にする、ということだし、自分の行動の結果起きることに対して責任を負わなければならない、ということです。大人は、行動にはリスクが伴うということを知っているので、行動するに際して、自分はそのリスクを賭けていいんだ、と思える大義名分を必要とします。

けれども、子どもの世界では、そういうものは不必要なのです。
よく、大長編でのジャイアンが、短編でのいじめっ子とは全然違う "映画版ジャイアン" だ、ということが言われますが、私は、最初から自明にそうだったわけではないと思います。たとえば『のび太の宇宙開拓史』におけるジャイアンとスネ夫なんて、ほとんど全編を通じて、短編そのままの理不尽ないじめっ子でした。

自分より強い中学生の子どもから、理不尽な目に合わされたジャイアンたちが、その埋め合わせのために、自分より弱いのび太に厄介ごとを押し付ける。そして、押し付けた結果、自分の思い通りにいかないことが起きれば、お前のせいでこうなったんだ、とのび太を恨む。『宇宙開拓史』の物語の根底には、より立ち場が弱い者に向かって連鎖的に矛盾が掃き出されていく、どうしようもない現実世界の構造が存在しています。
ところが、そんなどうしようもない、誰でもがなり得るいじめっ子が、最後の最後、のび太がひとりで危険な場所に赴いたと聞いた時、取るものも取りあえず後を追っていくのです。
その延長線上に、『のび太と鉄人兵団』でのジャイアンとスネ夫が居ます。大人が誰もまともに取り合わなかったのび太の訴えを、ジャイアンとスネ夫だけが無条件に信じて、行動しようとする。それはもはや、特筆すべき重大なエピソードですらなくて、彼らにとってごく当たり前のことなのです。

人が、立ち場や考え方を越えて、目の前で困っている相手に対して、思わず手を差し伸べてしまうような心の動きを持っていること。そして、そうした心の動きを通じて、人と人の気持ちが通じ合えること。子ども同士に限らず、そういった現象が、『大長編ドラえもん』では繰り返し描かれ、肯定されます。
その一方で、そうした個のレベルでの人と人との結びつき、子どもの世界の論理が通じない現実が存在することもまた、繰り返し描かれるのです。子どもの訴えを大人はまともに聞かないし、個人と個人が友達になっても戦争は止まらないし、世界を創造したり時間に干渉したりする力を手にしてなお、それらは願わしくない未来の訪れを消し去ってくれる魔法ではありません。
個々の人間ひとりひとりへの、どんな人間のうちにもある心というものへの強靭な信頼と、それら個々の人間が寄り集まって出来た組織、集団、システム……人間社会に対する、きわめて乾燥した、醒めきった諦観と。その二つの態度が両立したところに存在するのが、藤子・F・不二雄の『大長編ドラえもん』の世界でした。

浅学にしてそういう言説の例があるのかどうか知りませんが、従って、"現代の創作に対する提言" 風にまとめるならば、 "藤子・F・不二雄以後の世界は、藤子が定置した、子どもの世界と大人の世界の間の断絶、個々の人間の結びつきと、組織として、集団として、システムとしての人間社会との間の断絶を乗り越え、二つの世界をどう結び合わせるか、という課題を負っている" と言うこともできるでしょう。

賀東招二の『フルメタル・パニック!』というライトノベル、あれもまあ、ボーイ・ミーツ・ガールではありますが、男の子の方は百戦錬磨の傭兵でスーパーロボットの操縦手だし、女の子の方は超能力者だし、で、主人公が普通の高校生な『君の名は。』とは似ていません。
ただ、『フルメタ』という作品は、スーパーロボットで活劇を繰り広げる非日常側のストーリーと、学校でなんてことないドタバタ騒ぎを繰り広げる日常側のストーリーと、という2本立てでずっと話が進行していたのが、最終的に、二つのストーリーが合流する。その、日常の世界と非日常の世界が融合してひとつの問題となる、という物語のありようが、ちょっと似ているかな、と思います。

『フルメタ』の終盤で、主人公たちの日常生活の舞台であった学校が敵に襲われる、というエピソードがありました。その時、実は女の子の方は、全然別の場所に居て、学校の危機とは直接関係しないのです。だから、もし、これが一人の女の子を守れさえすれば後はなんでもいい、ということなのであれば、話は簡単だった筈です。けれども、そうではないからこそ、彼は死に物狂いになるのです。
すなわち、彼がひとりの女の子の出会いを通じて知ったのは、単にひとりの女の子に対して恋をする、ということだけではなく。ひとりの女の子の背後にも、また自分の背後にも、ひとりを支える多くの人たちとの結びつきが存在するのであり、そうした人と人のつながりの総体として、人間社会が存在するのだということ。だから、彼に戦うべき理由、守るべきものがあるとすれば、それは、人と人のつながりすべて、人間社会の総体そのものなんだ、ということ。
それは、のび太や、パーマンや、アンパンマンや、鬼太郎たちにとって、言葉にするまでもなく当たり前だったことを、あらためて形にして見せ、物語として描き出したもの。

『フルメタ』のその話では、日常のエピソードの中でギャグだから許されていたこと、ギャグだから深く考えずに済んでいた筈のことが、すべて壁となり、傷となって立ちはだかる一方で、力となるものもまた、日常生活の中で提示され、築かれていたものだった、という展開が実に巧妙でしたが、さて、ひみつ道具を持っているわけでもなければ、スーパーロボットの乗り手でもない普通の子どもしかいない世界の人間には、何ができるのでしょうか?

『君の名は。』は、その答えを描いた物語でした。
もちろん、その答え自体、誰も見たことがないような奇想天外なものにはなり得ないでしょう。C.S.ルイス『ナルニア国物語』のペベンシー兄弟にとって、E.L.カニグズバーク『ベーグル・チームの作戦』のセッツァー家の人びとにとって、楳図かずお『漂流教室』の高松家の人びとにとって、あるいは伊坂幸太郎『モダンタイムス』の主人公にとっては、『君の名は。』が提示した答えは、初めから知っていたものだったに違いありません。
ただ、子どもの世界と大人の世界との間の懸命なやりとりを克明に描いて、その最後、他にもうどうしようもない、どうにもならないかもしれない、というぎりぎりのところに乗せるラストピースとして、『君の名は。』はその答えを置いた。こんな形で、ぎりぎりの瀬戸際に大切な答えを見事に乗せた物語を、少なくとも私は他に知らないし、それはとても意味のあることだと思います。

いま一つ付け加えるとすれば、この映画のラストピースはきっと、水木しげる『妖怪大戦争』のラストピースと同じでもあるんだな、ということ。水木の『妖怪大戦争』が、鬼太郎と仲間たちの物語であり、鬼太郎と目玉の親父の物語であるとともに、鬼太郎と鬼太郎のちゃんちゃんこ……何十代何百代の鬼太郎の先祖たちが遺した霊毛で編まれた、鬼太郎のちゃんちゃんこの物語であったのと、同じように。

あと、注意して見ていなかったので、映画のラストシーンの時点での主人公の境遇がどんな状態なのか、実はよくわかっていないのですが。少なくとも、その直前まで、主人公が非常に宙ぶらりんな、不安定な境遇にあったことは確かな筈です。
ただ、その一方で、物語を通して主人公が得た経験や思いは、単に主人公を宙ぶらりんな状態に留めておくように作用しているのではなくて、その中で主人公が何をしたいと思い、どうありたいと考えるかに影響している。ただし、短期的にも長期的にも、その思いがやがて実を結ぶのかどうか、主人公の人生を望ましい方向に運ぶのかどうかは、まったくわからない……、そういう匙加減が、絶妙だと感じました。

ラストシーンについては、あの終わり方でいいのか、そもそもあの終わり方をどういうものだと捉えるか、ということで議論があるようですが、私は、あの終わり方でいいのだと考えます。理由は、以下の2点です。

①春香派的には、Fランクで終わろうがSランクで終わろうが、エンディングとは何かがそこで終わるものでは全くなく、常にそこから何かが始まるものでしかないから。そして、実際問題として、この映画のラストシーンでは、何かが終わったり解決したりするわけでは全然ないのだから。
②映画中に直接登場した人物たちの成り行きの如何に関わらず、この映画の中では、最初から最後まで、記録というものが繰り返し破壊され続けています。たとえ当事者たちがその痛みに気づいていなかろうとも、記録が失われるということは、人間にとって致命的な打撃なのです。そのことを、この映画は描いている。
そして、この物語の中の人間たちは、おそらくその痛みを知覚しているだろうし、たとえそうでないとしても、視聴した私たちはそのダメージを認識することが出来る。だから、これでいいのです。

以上です。







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