感性の摩滅、あるいは欠落


『君の名は。』という映画を見て、とても面白かったんですけど。
この記事の内容は、私が普通に映画の感想を書いた場合には最後に書き足される部分なのですが、これだけを記事にする方がいいな、と思ったので単独で書きます。

映画の内容のネタバレはほとんど含みません。






私にとって、わざわざ映画館で映画を見ることの意義は、どういう人たちの、どんな反応と一緒に自分が視聴したか、ということに尽きます。ここで書くのはそういう話です。

劇場はすし詰め満員で、切符の事前確保とかしてなかったので、見た回のほとんど最後の一枚を買って、滑り込むように入場しまして。評判の通り若い女性の観客が多くて、ざっと見回した限り、会場の3分の2が10~20代の女性の2人連れ3人連れ、残り3分の1が同年代の男女のカップル、という感じでした。

終幕後、周りのお客さんたちの会話を聞いていたのですが、全体的な傾向として、女性で連れ立って来ている人たちの感想の方が、素直で、聞いていてうなずける内容だった、という印象がありまして。たとえば私の右隣に座っていたのは、すでに2度3度とこの映画を見ているらしい二人連れの女性たちで、彼女たちは、どこで何があるかなんてとっくに知っている筈なのに、初めて見た時よりもむしろ今の方が泣いてしまう、という話をしていました。また、左隣に居たのは、初視聴らしい女性の3人連れで、こちらは、見ていてひっかかるところ、あざといと感じるところがあちこちあったのに、なぜかすんなりと見ることができてしまって不思議だった、という話をしていました。
どちらのグループの語りにも言えるのは、いま自分は何かとてもいいものを見て、大きく心を動かされたんだ、という感触があって、けれどもその感触に対して、自分の頭での理解、言葉での解釈が追いついていないのを知覚している。だから言葉を探すし、結果として口に出てくる言葉は平易で簡潔なものしかない。そういう語りだったということです。

他方で、全く異なる語りも耳にしました。私の前に居たのはカップルと思われる男女で、ここでは、終わってからずーっと、彼氏の方が饒舌に早口で喋り続けていました。彼氏は映画の中の鉄道に関する描写が大変気になったようで、あるシーンのシチュエーションが現実のその路線の状況に照らしていかにつじつまがあわないか、従ってそのシーンの展開がいかに実際には成立し得ないものであるか、ということをとうとうと弁じました。そして、だからよく作ってある映画だとは思うが自分としてはそういうところが気になって素直に楽しめない、評価できないちょっと残念な作品である、と結論づけて、彼女の方はその間、一言も口を挟むことなく、ひたすら相槌を打ちつつ笑っていたのでした。
で、私は退場中ずっと、そんな彼氏の語りをすぐ後ろで聞いていたわけで、隣の彼女さんが語り合いたいのは、そういう話ではないんじゃないかしら? とツッコミたい気持ちが浮かばないではありませんでしたが。けれども、それと同時に思わずにいられなかったのは、果たして実際に彼氏の語りが彼女の心の中の感想とはいくらかズレていたとしても、あるいは、私が映画を見ていて読み取ったいくばくかの事柄に彼氏が気づかなかったとしても、この映画館での体験を通して、より多くのことを考え、より多くのものをうけとり、より存分に楽しんだと言えるのは、私とこの二人のどちらなのだろうか、ということです。

私にとって、今見たこの映画が楽しかったというのは、文字通り、この映画のどこに何があったからそれが面白かった、という、それだけのことです。けれども、彼にとってはそうではなかった。彼にとってあの時、あの場所で映画を見るという行為は、それを通して彼自身が、隣に座る人に聞かせるための彼固有の物語を見出だし、組み上げる闘いだったのです。彼女を面白がらせ、賛嘆させ、感心させることが出来るような、他の誰よりもユニークで、アタマよくて、カッコいい、彼だけの物語を。
退場中の饒舌な言葉たちは、そんな熱意と努力のこもった闘いの結実なのであり、そして、それを理解しているからこそ、彼女は笑うのです。ひょっとすると、彼女の目から見れば時に滑稽かもしれない彼の振る舞いは、すなわち、その滑稽さに気づくことすらできないほどに、彼が一生懸命に、無我夢中になって、彼女のためにカッコつけていることの誠実な証なのであり、そんな彼の一生懸命さが愛おしくて嬉しいから、彼女は笑うのです。如月千早です。彼女は、如月千早と同じなのです。

無印版アイドルマスターの千早シナリオ、ランクC「雑誌取材」コミュで、ギャグを聞いても滅多に笑わないという千早をプロデューサーが笑わせようとする、ってエピソードがありますが。Pがくだらないダジャレとかこしらえて聞かせても、◯◯と××が掛け言葉になってるだけでしょう、それのどこが面白いんです? と容赦のないマジレスを返してくる千早さん。そんな千早さんが、ただ1つだけ笑うギャグがあります。「びよーん」とかいう、ものすげー単純で、原始的で、意味不明な一発ギャグ。
それは、千早の沸点が低いとか、笑いのツボがずれているとか、そういう話ではありません。今、目の前で一人の男が、わたしを笑顔にしようと一生懸命になるあまり、端から見れば馬鹿馬鹿しくてトンチンカンなふるまいを、大真面目に全力でやっている。その一生懸命さへの驚きと愛しさが、鉄壁の審美者をして笑わしめるのです。そこで示されているのは、人と人とのやりとりの中で生まれる複雑な心の動きをこそ、彼女は掴み、大切に受けとめているのだということ。

私は普段、映画なり何なりを見て周囲と自分の反応が違ったとしても、それで自分自身に疑問を感じたり悩んだりすることって全然ないんですが。まあ、ドラえもん映画を見に行って、周りの小学生と私で面白がってるポイントが全然違う! みたいなことが毎年ありますが、そんな当たり前のことで悩んでもしょうがないわけで。
ただ、この『君の名は。』という映画については。私は映画を見終わるまでの間、自分としては十二分に、存分に楽しんだつもりでした。けれども、見終わって周りを見回した時、左右に、前後にいる人たちの声を聞いた時、なにか、自分は致命的に大事なものを取り落としていたのではないか? 自分の中でなにかが決定的に摩滅していて、あるいは初めから欠落していて、そのために、私はいま過ごした時間から受け取れる筈だった、受け取るべきだった大切なものを、取り落としてしまったのではないか? そんな考えが、頭の隅をよぎりました。それは、ひとりで映画を見ただけでは得られない事柄なので、ここに記しておこうと思った次第です。




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