さあ 旅に出よう


ゆらゆら氏 【卓遊戯】 東方緋想剣 session END 【SW2.0】 16年02月07日

もう、何を言えるわけでもないので、ただ、今日私はこの動画を見ました、という記念のために。
上記動画の、またシリーズ全般のネタバレを含みます。





見る前は、見終わった時には寂しさでどうかなっちゃって、文章を書くどころじゃないんじゃないかと思っていましたが、いや実際、見ている間も目の端でシークバーを追って、大丈夫だあと10分もある、いやもう5分しかない、ああ、ああ……となっていましたが、見終わった今は、どちらかと言うと幸せで胸がいっぱいで、やっぱりなかなか書くどころじゃない、という(笑)。

いやでも、実際、私に何が言えるんだろうね。

この回、最終回を見て感じるのは、なんだろう、あるべきものが全部、あるべき場所にある嬉しさ、と言ったらいいのかな。

たとえば、PCたちの物語が締めくくられた後にもう一度、語り手であり演じ手であるGMとPLたちに、焦点が当たる、ということ。それは、物語が物語の内部で何が起こり、どんなものであったのか、というだけでなくて、物語に関わった人たちにとってその物語が生まれたこと、その物語と関わったことにどんな意味があり、彼女たちの今後にどう生きていくのか、ということ。ひいては何故TRPGなどというものをやるのか、このメンバーで集まってこんな遊びをしたことにどんな意味があったのか、ということに、作品が作品として確固たる答えを示している、ということでもある。

このお話は、そもそもは天子がふとしたきっかけでTRPGと出会い、自分もやってみようと思い立つ、というところから始まったお話で、だから、5人で遊ぶことを通じて天子が何を感じ、何を得て、どんな風に変わってきたのか、ということがずっと描かれてきた。その結論がこの最終回の中に籠められている、というのはもちろんなのだけれど、それだけでなくて。
この回を通して見えてくるのは、影響を受けて変化したのは天子だけではなくて、天子といちばん深く関わった紫の側もまた、TRPGを通した天子との関係を通じて変化している、ということ。それは、どちらかがどちらかに一方的に与えるのではない、互いに影響を及ぼし合い、支え合ってきたテンシとヴィオの関係と呼応している。そして、双方向的な関係性、ということは、PCあるいはPLの間同士の関係のみならず、PCとPLの間にもまた言える。PLが一方的にPCを演技し構築しているのではなくて、PCの側の思考や行動、体験、関係から、PLの側もまた影響を受け、変化してきたのだということ。

PCとPLの間の、密接で、複雑で、しかもひとりごとに少しずつありようの違う関係、というのは、今回動画の中のあちこちで示唆されています。ターシャ-シャナの関係だと当然わかっていそうな事柄でも、小傘-早苗の関係だと実は互いに知らない、わからない、という場合がある。それは、PLの側は、PCの側のように年中寝食をともにし、仕事も日常生活も何をする時も片時もそばを離れない、という関係ではない以上当たり前のことで、そうであってもそこにはたしかな結びつきがあって、PLの側の結びつきがPCの間の結びつきを支えていたし、PCの側の体験を通じてPLの側の絆も深まってきた、ということ。
あるいは、今回、この時はこういう風にしたかったからこう演じた、今度は今回できなかったこんなことをやってみたい、という事柄をもっとも積極的に、具体的に語ったのが早苗でしたが、そこから見えてくるのは、早苗とシャナが別の人格、別の個性であるからこそ、シャナに対してこうこだわりたい、こんな願いをこめたい、という想いが生まれ、そしてシャナと歩んだ経験を通じて、異なる選択肢、異なる人生への想像力もまたふくらむ、という、PLにとっての "自分のうちにある他者" としてのPCのかけがえのなさ。他方で、ターシャの、ターシャの信じるライフォスの、想いのありよう、願いのありようを、誰よりも深く追求し、力強く表現してみせる小傘の語りから浮かんでくるのは、"他者のうちにある自分自身" としてのPCのかけがえのなさ。自分とは違うキャラクターとしてのPCを、当初からもっとも意識的に演じているように見えた紫から "ヴィオの口調" が無意識に口をついて出てくる一方で、いちばん自然に、自分が思うままにPCとしての言動を思い描いていたように見えた天子こそが、"テンシとしての体験" から自分が何を得、何を学んだかを、少し離れたところから冷静に、大切に受けとめている側面がある。
そしてもちろん、もう一つ、大きく浮かび上がってくるのが、GM博麗霊夢の存在です。先のテンシ-ヴィオと天子-紫の関係にしても、裏で糸を引いていた……(笑)、もとい、GMとしての物語を通しての関わりにおいても、物語の外での関係においても、彼女たち二人のどちらとも深く結びつき、大きく影響を及ぼし、二人の関係を支えてきたのが霊夢であることが、今回の会話を通して見えてきます。「緋翼連理の四枚羽」の欠かされざる5人目としてのGM霊夢、の存在にいま一度焦点を当てる。これ以上に、お話を締めくくるになくてはならない、そしてふさわしい事柄があるでしょうか。

それから、コメント返しを通じて、もう一度ミョウさんに、そしてあの最初に戦ったボガード(あえて、ここでは後から描き出され、定まっていった名前や姿形で彼のことを考えません)のことを振り返ることができる嬉しさ。だって、まさに彼らとの出会いこそが彼女たちの原点であり、出会った場所こそはたとえ離れていても忘れるべきでない彼女たちの居場所であったのだから。もちろんそれはこの二人だけのことではなくて、そういう大事な出会いが、原点が、居場所がこれまでいくつもあって、それがあったこそ彼女たちの、わたしたちの過去があり、今があり、未来がある。そういうことを、いま一度噛みしめることができる嬉しさ。

あと、あれですね、今この記事を書きながら横目で見ていても、コメント数が凄い勢いで増えているのがわかりますが、最初書き始めた時点では、再生数200代でコメントが300超とかなっていて、驚くとかすごいとかいうより、そうだよな、と納得していたんですが。
私たちは、一篇の物語を、一本の作品を終わりまで語り切る、ということがどれだけ難しいことかを知っています。それは一般論としてもそうですが、とりわけニコニコ動画上の2次創作の場合には、一銭の得にもならないどころかリスクしか生まないし、外から締め切りや目標を与えてもらえるわけじゃない個人作業だし、どこからどんな人がやってきて何を言い捨てていくかわかったもんじゃないし……まあ、一番厄介なのはそういうものじゃなくて、すぐ後でも述べるような、作品にそれなりに思い入れて深く関わろうとするような視聴者との関係だと思いますが、そうやって嫌なこと、辛いことがたくさんあって。そういう中で一つの物語が完結して、しかもそこに誰もがこれで良かったんだと思える答えがある、ということが、どれだけ困難で、どれだけ得がたくて、どれだけ貴重なことであるかを、私たちはよく知っています。
だから、それを成し遂げてくれる人に、それを成し遂げるために困難な道のりを歩んでいる人のために、何かしてあげたい、何か自分にできることはないだろうか、と思った時に、絵を描いたりドット絵を打ったりMMDを動かしたり、という技能を持った人であれば、支援画を上げる、という方法がある。あるいは、広告主には宣伝を打つ、という方法がある。まあ。今は広告チケットのおかげでだいぶ、誰もが気軽に参加できるようになりましたが、それでも、こまめにポイントを管理し、つねに動画の投稿状況を確認して、タイミングを逃さず思いどおりの広告を打つ、というのは、誰にでもできる活動ではありません。また、作者と個人的な交流があれば、とりわけ自分自身も創作活動をしていたりすれば、励まし合い、気持ちを分かち合うことで作者を支えることも可能でしょう。
それから、ブログみたいな場所で文章を書く、というのもまあ、特殊な人しかやらない類いの作業ではあって、私の場合は自分が得をすることだけを考えて書いているので、どっちかというと作り手の方が読んだら困惑したり悲しい思いをするようなことばかりしてきましたが、場所によって、使い方によっては、「応援」や「紹介」としての文筆活動、というのもあり得るでしょう。
けれども、そういう特殊な存在ではない大多数の視聴者にとっては、コメントを打つ、ということ以外に思いを表現する方法がないのです。あるいは、ひょっとすると、いちばん多いのは、自分のコメントを動画に乗っけてしまう勇気すらなくて、ただ黙って見つめている、ただ自分ひとりの中で作品を好きでいるような人かもしれない。
一面、したがって、視聴者というものは、作者が自分を見てくれているかどうか、ということに、とても敏感です。いえ、自分のコメントにレスポンスの言葉が欲しい、という意味ではなくて。畢竟、視聴者というのは動画作者の友達や同志ではなくて(先に挙げたような、特殊な技能によって作者に貢献し得る人は、そういうものへと移行・変質する可能性を持ちます)、ただ単に、動画作者を自分が欲しいものを与えてくれる存在だと認識しているから、欲しいものを与えてくれると思っている限りにおいて褒めそやす、というだけの存在です。
だから、視聴者は、動画のあらゆる細部から作者を想像し、その想像上の作者の一挙一投足に対して敏感です。この動画の作り手が、今も、これからも、自分の望みを叶えてくれる、自分の欲しいものを与えてくれる存在であるのかどうか。もちろん、そこで何が "欲しいもの" であるか自体、視聴者の中ですら一致しているとは限りません。だからこそ、みんなが、これでよかった、と思える結末がここにある、ということが、どれだけ得がたいことであるか、と、前の記事でも書いたし、さっきも書いたわけですが、それは視聴者にとって、名前の無い自分自身の表現し得ない声を、ほんの少ししか伝えられない気持ちをも、作者は見てくれている、想いを汲み取ってくれているんだ、と思える、ということでもある。だったら、その人に、精一杯の気持ちを伝えたい、コメントしたいに決まっているでしょう。
もちろん、本当は、特定の相手、特定の動画においてだけではなくて、どの作者のどんな作品においても、動画とコメントの間で幸福な関係を築けたらいい、築きたい、と思っている、みんな思っている筈なんです。でも、それが叶わない時もあるなら、せめてその願いが届く場所では、「言葉だけでは伝えられない熱い気持ち」を、それでも「少しだけは届けられる幸せ」を、存分に味わいたいじゃないですか。

そんなわけで、今日のこの文章を、とりあえず閉じるにあたって、どうしたらいいものか今悩んでいるところなんですが。つまり、私がメッセージとして伝えたい、届けたい言葉は、すでに動画の上に、どこの誰とも知れない「妖精さんの書き置き」の中の一部として、たしかに存在しているし、それがいちばんふさわしい置かれ方だと思うわけで。けれどもまあ、ブログ上の署名入りの文章は個人的な記録だから、見ました、こう思いました、はいおしまい。……だけで終わります、というのもおかしいので、あらためて書きます。

素敵な物語を、たくさんの幸せを、有り難うございました。大好きです。
テンシたちの、天子たちの、そして作者ゆらゆら氏の未来に、幸多からんことを。

またいつか、どこかで、彼女たちの、あるいは彼女たちではない誰かの物語が、紡がれることがあるのであれば。
そのときは、また一匹の「妖精さん」として再会するのを楽しみにしております。




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