やだやだやだ、


ありがとうございまし、た - 続・空から降ってくるので


こういうやり方をしたことがないんだけど、書き上がる目処が立たないので、書いた端から部分部分公開してくことにします。(16/1/24 17:50)

とりあえず、この記事は書き止めです。(16/1/25 0:02)






やだよう……、という言葉だけで紙面を埋め尽くして終わらせたいくらいだけれども、そんなもの書いてもしょうがないので、とりあえずなるたけ違う表現を考える。

まあ、それはもちろん、カズマさんの体調が良くなればいいな、と思うし、カズマさんが安定した生活を送れたらいいな、と思うけれども、それは、そう思っています、と言う以上の何も出来ない事柄なので、私が書くのは、リアルな生活者としてのカズマさんについてではなく、ニコマスブログ『続・空から降ってくるので』の書き手カズマ、という存在についてです。

で、何から話を始めたらいいんですかね。「続空」を最初に知ったのはたぶん、09年の3月か4月ごろだったかな、爽快Pのブログまとめ記事の「更新頻度の高いブログ」コーナーの一角にその名前があって。当時の私のニコマス知識と言えば、ノベマスはいくらか知っていたけれども、それ以外となると、「わかむらP」「RidgerP」はかろうじて見覚えがあるけれども、「慈風P」となるとえーっと、という、そのくらいの時分に「続空」を見て、え、なんなの、この ”紹介する” というのでも "論ずる" というのでもない、なんかすっごい暇そうで偉そうな人がくつろいで雑談してる感じの、っていうかこれって何人でやってるの、あれっひょっとして実は一人だけ? この呪文みたいな知らないP名の続出、そもそも何を指し示してるのかすら想像がつかないあだ名や略称や造語が乱れ飛ぶ、なんなのこの世界は? という、思えばそんな第一印象でしたね。ニコマスブログを読んで来た中で、自分の全然知らない世界で自分にはまったくわからないことにうち興じている不思議な生き物が世の中には存在するんだ! というカルチャーショック、もっとも端的な衝撃を私に与えた存在が「続空」だった、と言えるかもしれません。
……とか、こんなところから話をしていったら、どう考えてもきりがないんですけど。

まあ、「続空」を読む上での自分の中でのターニングポイントを挙げるならば、自分自身がブログで文章を公開するようになった、という出来事はひとつ、間違いなくあります。
こう、ほら、ある時期以降に "新参ブロガー" だった人には結構わかる感覚だと思うんですが、あ、俺の記事がid:hunirakunira2にブクマられている! っていう。それどころか、今度は「続空」本文で言及されたぞ! という。 つまりそれは、自分の書いたものが、自分にとってだけ重要なのではなくて、そこに何かしらの "読み応え" を、ある種の客観性をもった存在から認められたんだ、という喜び。
で、時系列的にはどんどん飛ばしていきますが、その次に来るのが、あ、「すごろく妄想格納庫さん」じゃなくて「すごろくさん」と名前で呼ばれるようになったぞ、という段階で、そして最後に来るのが "あだ名呼び" の段階ですね。まあ、私の場合、それが来たのは、すでにカズマさんがブログ上であまり書かなくなった後の話ですが、「すごろくん」という、いまいちこなれてないような、本人の中でも定着しているのかどうか怪しいような呼び方で1、2度呼ばれたのが、実は結構嬉しかったりしましたね。
なんとなれば、「◯◯さん」と呼ばれている間はまだ、一定の礼節と配慮をもって遇すべき"お客さん" として認識されている部分があるんじゃないか、そういう感触があったからです。いつまでここに滞在しているかはわからないから、居る間は大事にもてなしてあげるべきビジター。やっぱ、そういうんじゃなくて、「荒川社長」とか「からっさん」とか「ぜいたん」とか固有の二つ名がついて、さらには「アイツ」「あの野郎」呼ばわりされるようになって初めて、"一人前のニコマスブロガー" 感がある、あったんじゃないか。
いやね、カズマさんと親しくお付き合いしたいとか、いじって遊んでもらいたいとか、そういう事じゃないんです。カズマさんが人を「あの野郎」呼ばわりする時、そこには、こいつはちっとやそっと蹴ったり殴ったりしたところで揺らがないし、自分にとってちっとやそっとやり合ったところでカタなんかつかないでつきあいが続いていく、続いていくべき相手だ、という、こいつはそれくらいニコマスと添い遂げる根性のある存在なんだ、という尊敬と共感が籠められていると思うからです。書くからには、そう感じてもらえるくらいの書き手になりたいじゃないですか。
……うーん、どうしてもカズマさんを語ろうとすると、要するに我々にとって彼はある種の権威で、アイドルで、エンターテインメントで、という話になりがちで、でも私が本当に言いたいのは、そういうことではないです。私は本当は、なんというか、そういうことのもっと底に、もっと奥に、はるか上にある、彼が持っている何かを捕まえられるような話をしたいんだ。 

自分で文章を書いて公開する、ということが何に影響するかと言えば、まず何よりもその行為は、読み手としての自分に対して強く働きかけます。他人がニコマスについて書いた文章を読んで、こういう気づきは、こういうものを感じとることは自分には出来ないな、という、あるいは、書こうとしても、書きたくても、自分にはできない書き方はできないな、という、他人の書く文章のすごさへの驚き。あるいは、ああ、私もまさに、この動画についてこんな風に感じ、こんなことを書きたい、読みたいと思ったんですよ、という、他人の文章への共感。そういう驚きや共感を日々発見して、カズマさん一人について個別にそれを綴っていくだけでも、それこそきりがありませんが。
そういう、個別の読む喜びにとどまらず、「続空」の存在そのもの、自分の住む世界にカズマという人が居るということそのものに感じる安心感。「続空」が存在する、ということが、あるいはブログ上でではなくてもカズマさんがどこかでニコマスを見ている、ということが、あるいはたとえニコマスを見ていなくても、どこかにカズマさんが生きていてものを思っている、ということそのものが、私がブログをやっていく上で、あるいは、ニコマスと付き合っていく上で、もっと大上段に構えれば、生きていく上で励みで、心の支えで、ブログを書き始めていつの頃からか、私にとってのカズマさんって、そういう存在なんです。

ちょっと話を変えて、「動画」と「ブログ記事」が "公" で、それ以外の、たとえばチャットとか、twitterとか、生放送とかが "私" 、と区切る感じ方が、私の中には根強く存在しています。で、"公" の方の動画やブログを見ている時にはあんまりないんですが、"私" の方での他人の言動を見て、「かわいい」と思う感覚というのが、ときどきあります。しかしまあ、見ず知らずの他人を捕まえて、あの人のあの発言かわいいよね、とか言い出すのはどう考えても不気味なので、普段は思っても言わないんですが。ナマモノは危険です、取扱いは慎重に。
ネット上で平常私が接する人の中で、「かっこいい」代表は誰かと言えば、それは言うまでもなく、gouzouさんです。あなたにとって「かっこいい」とはどういうことですか、と聞かれたならば、gouzouさんを見てください、私の考えるかっこよさのすべてがそこに詰まっています、と私は答えます。
rで、「かっこいい」代表がgouzouさんなのに対して、「かわいい」代表はカズマさんである、というのが私の中での定評ですが、この「かわいい」というのは「かっこいい」よりややこしくて、自分の中でも、何を見て何故「かわいい」と感じているのかよくわかっていないところがあります。あるいはそれは、「愛敬」と表現した方がわかりやすいかもしれませんが、わかりやすい分だけ、狭い範囲しか捉えていない気もしますし、私が思う その「愛敬」もまた、単一ではない気がします。あるいはまたそれは、特にカズマさんの場合について言えば、「たくまざるかわいさ」と表現すべきかもしれない。もっともそれは、当人にたくらみや計算がない、という意味ではありませんし、あるいは、部分的には「いじらしさ」とか「ほほえましさ」とか言い換えることも可能でしょうが、それがすべてではなくて、鋭敏で機知に富んだ才知の輝き(それはアイマスで言えば、たとえば私が伊織に対して有ると言い、アニマス伊織に対して時に無いという時のそれ)、というようなものも含まれます……とか、自分でも何を言ってるんだかわかりませんが、要するに、カズマさんはかわいい、ということです。かわいいですよね、カズマさん。わかりませんか。わかるでしょう。わかれ。
カズマさんのかもしだす「かわいさ」は、彼のもつ「含羞」「はにかみ」がもたらすものだと思うのです。じゃあその「含羞」「はにかみ」って何なのさ、というところですが、一端措いて……おいたまま戻ってこないかも。

サイキック青年団と最近の竹内さんについて - 続・空から降ってくるので

たとえば、わりと最近の記事で話題にされている、ラジオの世界もこの人たちのことも私は何も知らないけれども。

「(ノД`) でもさ、聴いたあと調べたら荒れてるファンスレの方にこの放送のアドレス貼られてるのに全然そのことについては誰も触れてないのよ!これの感想とかほったらかしでスレは悪い意味で荒れてる日常運営してるわけ!「最近にしては結構良かった」なり「やっぱ全然駄目だわ」なりの感想が一言もないわけ!何かその瞬間に「なんだよオマエら!」ってなったね!」

これ、たしかにこの前のくだり、スレの荒れっぷりに、アンチコメントの数々に、ものすごく「へこんだ」「気分が沈ん」だ、とは書いてあるけれども、でも、カズマさんが「なんだよオマエら!」と怒っているのは、荒れることやアンチ意見そのものではないわけです。その場所が、どういう方向性であれ「竹内さん」に対してこだわっている人たちの集まりである筈にもかかわらず、そして彼らの目の前に、現に「最近の竹内さん」、「今」の放送が現に存在しているにも関わらず、肝心の「竹内さん」に対して「今」この瞬間に心を動かそうとすること無く、心を動かされること無く、「悪い意味」の「日常運営」に夢中になっている "「竹内さん」の「ファン」" "「竹内さん」の「アンチ」" に、彼は憤っている。

今でもそういう風習があるのかどうか、最近は見てないのでわかりませんが、昔、ニコマス動画を見る生放送というと、コメント芸とかコメント同士のやりとりで発展したネタとかでコメントが盛り上がっていると、くだらないことしてないで動画見ろ、コメントするなら動画について、アイドルについてコメントしろよ、と怒られる放送というのが、人によって、場所によっては当たり前に存在したんですよね。

生放送という場所の使い方、ありようとしてそれが全てだとは、私も思いません。ただ、想いのありようとして、語りのありようとしては。やっぱり、いつでも、そんな風に叫び出す誰かが居てほしいんですよ、私は。だって、ニコマスが好きです、アイマスが好きです、というのはそういうことである筈で、そしてそれは、「好き」や「嫌い」の対象がたとえニコマスでなくなったとしても、まったく同じである筈でしょう?

ブログとtwitterと言えば、昔の「続空」の記事を繰ると、ブロガーがtwitterをやり出すとブログを書かなくなってどうもけしからん、動画作者同士仲良くなって楽しくて動画作らなくなるみたいな現象もどうも困る、みたいな発言があったと思いますが。それは、見る側、需要者の側の、ひたすら自分に都合のいいエゴだ、と言ってしまえばまあ、その通りなんですけど。けれども、それはまた、彼が、とてもストイックで理想的な志を心に抱いて、それを自分にも他人にも求めている人だ、ということでもあると思うのです。

VRF'10の時だったかな、カズマさんが、放送そのものは見ないで、後からブログ記事を読んだりちょこちょこ動画を見たりしてその空気を、凄さを味わう、そういう楽しみ方もあるんじゃないかな、ってなことを書いたのは。
周知の通りカズマさんはゲームもどのくらい実際にプレイしたんだかよくわからないし、アニマスとかアニデレもどのくらい見てるんだかよくわからないというか、自分が見てるかどうかをわざと曖昧にしているような節があるし、もちろんライブなんてどこ吹く風だし、という距離感でアイマス公式コンテンツに対して接している人です。で、そういう態度というのは、ニコマス内部でのイベントに対する接し方と考え合わせた時、単に「公式」と「2次創作」の間で線を引いている、ということではないと思うのです。
もちろん、自分が好きな相手、興味のある対象が居るところにあちこち首を突っ込んで、語らったりちやほやされたりしたい、という面でのコミュニケーション参画、イベント参画には、カズマさんは極めて精力的です。ただ、自分が惹き付けられる対象に対して、その中にある "中核" "熱狂" "常識" "内輪" "当然の前提" 、そういうようなものから外れた位置に慎重に身を置いて、自分自身の内側から湧き上がってくる衝動以外のどんな論理にも制約されまいとする、彼にはそういう態度がほとんど生理的に備わっていて、生放送や公式に対する接し方は、そのひとつの現れだと思うのです。

愛M@S24でもVRFでもハルカニでも、なんでもいいですけれども。その中にあってそれを体験した人が、その素晴らしさを伝えようとして、"あの感動は、あの時あの場に居た者にしかわからない" と宣言したその瞬間、それは"あの時あの場にちゃんと居た特権的な俺ら" だけの玩弄物へと固定されます。別にカズマさんは、そういう楽しみ方、受け取り方のありようを、否定も非難もしない。ただ、カズマさんがそれとは違う自分の楽しみ方を具体的に提示し、実践することそのものによって、どんな出会い方をし、どんな付き合い方をし、どんな味わい方をする誰にも、そのそれぞれなりの楽しみがあるんだ、ということが自然に示される。カズマさんが楽しみ、楽しんだと書くただそれだけのことによって、すべての楽しみ方が相対化され、場が誰に対しても開かれた空間になるのです。

制限時間内にニコマスPの名前をたくさん思い出しましょう、というイベントというか流行があったんじゃないですか、ブログ上で。これは誰と具体的なモデルを思い浮かべたわけではなくて、仮定の話ですけど、たとえば一月前にニコマスを知って、昨日からブログを始めました、という人が、わあ面白そうと思って自分としては精一杯書いて、で、その後に、このイベントに参加しているのは何百という名前を平然と書き連ねるような超人ばかりなんだ、と知ったとしたら、あからさまに言って、その人は恥ずかしい思いをするかもしれないわけですよね。あるいは、これはとても自分にはついていけない世界だから、参加は見合わせよう、と考えて何もしないまま終わる人もいるかもしれない。当たり前ですけど、別に誰も悪いこと、間違ったことはしていないわけです、単に自分に出来る限り全力で楽しもうとしただけで。でも、その結果として気まずい思いをしたり、輪に入れなかったりする人が出る、そういう可能性もあるのかもしれない。

で、そこでカズマさんが記事を書くわけです。なんか思い入れの強いPはフォントで強調しようとか、いろんな思い出し方を工夫している様を表現しようとか、にぎやかにいろいろやったあげくなんか尻切れトンボで終わっちゃった、みたいなやつを。そんなん「続空」だから出来る芸だよな、というのはそりゃそうなんだけど、その記事の存在ひとつによって、とにかく多くの数を挙げ切る以外のやり方はない、という、誰が決めたわけでもないけれど誰もを緊縛いていたのかもしれない縛りがほどけて、この企画を通してどんな楽しみ方をしたっていいんだ、ということが、自然に示される。

たぶん、そんな風に自分だけの楽しみ方を積極的に提示し実践していく、ということと、内輪の熱狂の渦に入り込むまい、とすることと、いつでも誰に対してもストイックで真剣な向き合い方、活動のあり方を求めていくということは、全部つながっているのでしょう。 

「自分のひいきのアイドルさんを象徴するに相応しいと確信するアイマスMADを一本だけ、超厳選して紹介する企画」にのってみる - 続・空から降ってくるので

これ、はじC氏の「ニコマス企画?!僕の誰々さん一選」企画の参加記事で、タイトルの「自分のひいきのアイドルさんを象徴するに相応しいと確信するアイマスMADを一本だけ、超厳選して紹介する企画」ってのは、たしかにレギュレーションにそう書いてあるし、実際どの参加記事も丹精こめて選んで、言葉を紡がれていると思いますけれども、でも、アイマスという場で、「自分のひいきのアイドルさんを」「象徴するに相応しいと確信する」って、文面を真面目にとればとるほど重い言葉じゃないですか。
その重さを、真っ正面から全力で受け止めようとして、そして実際にそれをやり切ってみせたのが、カズマさんのこの記事だと思うんですよ。"紹介" や "セレクション" を提示するのではなくて、「ひいき」の「象徴」と言い切れるにふさわしい存在を自分の中で掘り当てる、その掘り当てる過程そのものから言葉にしていって、そしてその「確信」を、選んだものが自分にとってどんなに特別であるかを言い表す努力を、最大限に積み込んで。ここにはカズマさんが、動画に対して、ニコマスに対して、ニコマスPに対して、アイドルに対して、アイマスに対して向き合う時の 本気 が凝縮されていて、そしてそれはカズマさんの文章の中に、軌跡の上に、いつでも、どこにでも、何に対する時も宿っているものだと思うのです。
何ヶ月、何年も前の、赤の他人の炎上記事をさして、俺はあの時彼が責められたのがいまでも納得できない、と唐突に言い出す。何年も前の好きな動画のことを、今日見ていたらこんな発見があった、と嬉しそうに報告する。本気であることを、自分を本気にさせたもののことを、カズマさんは忘れません。

だから彼は、他人に対しても、本気であることを求める。傷つきやすくてへこみやすいからこそ、自分を傷つけるような力を持った想いや言葉のありように対しても、尊重の念を持つ。なぜなら、そこにあるものもまた、本気だから。人からその本気が、本来核にあるべき情熱が、変質していると、失われていると感じた時にこそ、拳を振り上げる。そして、自己の内側から湧き上がってくるものを、サークルに加入するためのイニシエーションや、社会に通用するたてまえへとすり替えることを、徹底的に拒否する。

ねえちょっと待って、もう日が暮れてるんですけど。今日の残りの時間で、一体どれくらいのことが言えるというんですか。


カズマさんと言えば、ひところというか、ある時期以降というか、カズマさんはあんまり動画見てないのにあんなこと断言しちゃってw、みたいないじり方、揶揄が、あったりなかったりしたと思うのですが。まあ、それは元より半分冗談の話ではあるのですが、どうかすると半分は本当にそう信じちゃう人もいるかもしれないので、念のため書いておきますが。

あのね、カズマさんほど動画をよく見てる人って、いないと思いますよ。
それは、最近だとつまみ食いしかない人に見えるかもしれないけど昔はもっとたくさん見てたんだよ、とか、冒頭だけで切った動画ならたくさんあるでしょ、とか、好きな動画のことはものすごく見てるでしょ、とか、それもそれで事実ではあるでしょうが、それだけではなくて。

そりゃ、ニコマスには、知らない人には想像がつかない程圧倒的にたくさんの動画を見ている人、というのは、ごろごろ居ます。ジャンルや時期を限れば信じられないほど深く知っている人、というのは枚挙に暇がないし、そういうくくりを越えて、なんでもかんでも恐ろしい勢いで見続けている人、というのも、実際いるんです。
でも、カズマさんみたいな人は、他にいない。07年前半の、アイマスMADそのものの勃興。07年後半のim@s架空戦記。08年以降のノベマス。あるいはそこに、ニコマスブログという業界自体の発掘、も含めていいでしょうが、そのそれぞれを熱を持って語れ、それぞれのその後の展開を緻密に把握できる(もしくは、以前はできた)人は、いくらでもいるでしょう。でも、その全部を、あっちの方ではあんなことも起こってるようで、でも、知識としては押さえてますよ、でも、とにかくなんでもかんでも見てますから、でもなくて、わがこととして、今この瞬間に、すげーものが生まれているのを体感しているという自分自身の喜びとして語ることができ、語り続けることができた人を、私はカズマさんの他に知りません。

個別の分野について、あるいは個別の時期の動向について、カズマさんの守備範囲や知識や見解の偏りを突っ込めた人は、いくらでもいました。でも、そのほとんど全員が、カズマさんほどにニコマスの中で次に生まれてきたものをも「面白い」と言うことも、昔自分が「面白い」と行っていたものを今でも「面白い」と言い続けることも、できませんでした。私もそうですが、結局のところみんな、たまたまある時期自分の好みに合致する流行がニコマスの中に生じたからニコマスに居ただけで、その流行が過ぎ去れば、あるいは過ぎ去ったと感じれば、そこがその人の終点でした。とあるキャバクラのお店の中に、たまたま自分の好みの女の子が居たからいっときその子のところに通い詰めて、お熱だったその瞬間には、これは商売でも行きずりの関係でもなく、このお店こそが自分の家だ、と思ったこともあるかもしれないが。その子が退職したから、あるいは容色が衰えたから、もうキャバクラ通いはやめてパチンコにでも行こう、私たちは、そういう顧客に過ぎなかったのです(それがいけないと言っているのではありません。)

でも、カズマさんは、そうではない。彼はよく、自分を「才能イーター」だと称します。「才能」さえあれば、自分が見たものの中に輝かしい才能の爆発が存在しさえすれば、その形は、なんだっていいのです。形はなんだっていいとは、どんな形をしたものの中にも才能の輝きが宿りうる、という揺るぎない確信が、どんな形に宿った輝きも感じとりたいという限りない欲求が、そしてどんな形に宿った輝きをも自分は味わってみせるぞという大いなる野望があるから、なんだっていいのだ、ということです。

もちろん、具体的、個別的な局面におけるカズマさんは、激しい選り好み、偏り、守備範囲をもった視聴者です。ただ、そうであると同時に、あるいはそうであるからこそ、しょっちゅう遭遇する、自分には合わない、自分にはわからないすごさ、というものも鋭敏に嗅ぎ付け、それに対して想像をふくらませることができる。
典型的には、自分自身は見ていない、好みではない作品を熱く語っているブログ記事を読んでいる時のカズマさんの態度に、それを見ることができます。自分にはピンと来ない世界だけれども、ここにもさぞかし面白い世界があるんだろうなあ、と、そんな世界がすぐそこに存在していることを、それを楽しんでいる人がいることそのものを、彼は面白く、興味深く、あるいは嫉妬しながら見守るのです。

それは、アイマスにおいて、誰かの専属Pである、ということとアイマスに関わる何もかもが好きである、という態度がしばしば両立するのと同じように、いわば「RidgerP」や「フリージアP」の "専属見る専" でもあるカズマさんは、同時にだからこそ、自分のこだわりの外にあるすべてを含む、 "ニコマスの見る専" であり、ひいては万物に宿る輝きを愛する「才能イーター」なのです。


……オーケイ、ストップ、ちょっと待て、落ち着こう。
そうだった。この展開は想定していなかったが、こういう形式で更新すると普通に起こりうるんだった。つまり、"こっちが更新している間に、カズマさんも更新している" という事態がだ。そうすると何が起こるかというと、"書き上がった時にはすでにカズマさん自身に内容を先取りされている" 、さらには、"書き上がった時点ですでにカズマさん自身の台詞で私の書いた内容の間違いが示されている" という事態が生じ得る、ということだ。
まあしかし、それはまだ、書いてから後悔すればいい問題として、さらなる問題は、"私がここで書いているどうでもいいことがこれから書くカズマさんの意識に干渉して、本来書かれるべきだった内容をねじ曲げてしまう" という可能性だ。
ほら、好きな作品について書く時、こういう心配って浮かんだことありません? 自分の書いた"この人の作品はここがこうだから素晴らしいんだ" という主張が、作者自身によって読まれてしまった時、それが作者の意識に余計なものを付け加えて、これからその人が書く作品の本来達成される筈だった面白さを阻害してしまったらどうしよう? という。いかにも自意識過剰ですが、見る専というものは、ことが自分自身のこれからの楽しみに直結する場合、異常に神経が過敏になるものなのです。
が、考えて立ち止まっていてもしょうがないので、今思い浮かんだことは捨て置きましょう。あれですね、カズマさんはトラックバックで送られてきた文章なんか読まないでひたすら自分の書きたいことを時間が切れるまで狂ったように書き続け、こっちが書くものについては、あれの中身は、読んだ範囲では大したこと言ってなかったけど、自分が読まなかった部分にはとんでもなく素晴らしい文章が迸っていたに違いない、と脳内補完してくれるのが理想的ですね。


では、ニコマスという場、アイマスという材料そのものは、どうでもいいのか。いいえ、そうではありません。(←ほら、ここらへんがすでに、後の祭り感が)。様々な輝きを秘めた、素晴らしい才能の持ち主を次から次に惹き付けずにはおかなくて、そんな、才能の可能性を存分に伸長させ千変万化に開花させる、可能性のるつぼとして、アイマスは、ニコニコ動画の中のアイマスは、特別だったのです。
そしてそれは、ニコマスという場が、環境が、というだけではなくて、輝きを引き寄せてやまないアイマスという素材への、その可能性を爆発せしめてやまないアイドルという存在への畏敬が、愛情が、そこにはあったと思うのです。

考えてみると、言わずもがな過ぎてなかなか誰も言わなかったのかもしれないけど、カズマさんって、アイドル大好きですよね。あの子のあんなところが見たいとか、こんなところが見られて嬉しいとか、こんな風になってほしいとか、この瞬間の彼女がこんなに美しいとか、かわいいとか、いやらしいとか、面白いとか、かっこいいとか、そりゃことこういうことに関しては、他の誰よりも勝る、なんてことは言わないけれど、でも間違いなく誰にも負けないくらい、いっぱいいっぱいの、アイドルの魅力を、アイドルへの愛着を、熱望をこめて語る。それもまた、カズマさんの大切な、そして読者をひきつけてやまない一面なんです。だって、ニコマスって、そういうものだから。


才能の輝きを、爆発をこそ至上とする、ということは、それさえあれば後は何がどうなろうと構わない、ということで。だからカズマさんのニコマスPへの要求は、おそろしく身勝手で、わがままで、ロマンティックで、ストイックで、高飛車で、不条理きわまる残酷さをいつでも含むけれども。
それは同時に、その輝きに至る道がどれだけ険しいか、その輝きの後に残るものがどれだけさびしいか、すばらしい極上の喜びの周辺で、どれだけの人がもがき苦しんでいるか、ということを、嫌というほど見てきている、ということでもあって。だから、おそろしく身勝手で残酷であるのとまったく同時に、つまらないことでつまづいて、くだらないことで怒ったり泣いたりしている誰も彼も、それぞれがそれぞれなりの、それぞれだけの形で一瞬だけの光を放って散っていく、そんな、あの動画もこの文章も、あの人もこの人も、あの出来事もこの想いも、そのあらゆるものの総体として流れるニコマスをこそ、誰よりも慈しんで見守ってくれるのが、カズマさんという存在で。

ニコマスの終焉を告げる動画 - 続・空から降ってくるので


ニコマスP、大変だよね、そして、そう思うごとに、それぞれ大変な人生を生きている人たちに、僕はあんなひどいこともしてしまったし、こんな悪いこともしてしまったなあ、と考えずにはいられなくて。ブロガーもブロガーで、しんどいこといっぱいあるよね、みんなすぐ燃え尽きちゃうのも仕方ないよねって。優しいよ、カズマさんは。その優しさは、自分に見える範囲、自分で設定された特別な枠の中に入った人間だけに向けられたものではなくて、だからいつでも、私の大切なあの人のことも、私が知らない誰かのことも、私自身も、ちゃんとカズマさんから慈しまれている、そう感じることができる。

才能の輝きこそが至上だから、もっと噛み砕いてしまえば、「うわー、今僕の目の前にこんなにすっごいものがあるよ!」という単純で、純粋な心の動きこそがすべてで、何より大切だから、だからカズマさんは、それがいつ、どこで、何に対してであっても、「すげー」と感じた瞬間にそれを味わい尽くすために、それを伝えるために、突っ走りだす。

で、別にブログに限った話でもないけれども、たとえば、人がブログなんか始めよう、と思うそもそもの発端って、つまり、そういう心の動きでしょう。誰のうちにも、何かと出会って「すげー」と目を見はる単純な子どもが住んでいて、その子どもの声を聞こえたから、たとえばブログなんてものも、始まるのです。
でも、走り出して周りを見渡してみると、自分が届けたかった声は、伝わらなかったり、むしろ人を傷つけたり、悪かったり間違ったいたりすることが次々に起こるもので、どうかするとそもそも自分自身何が大切で何を届けたいのかすらわからなくなって、人はだんだん、心の中の子どもの声に、耳を傾けなくなる。そうであっても、むしろそうであるからこそ、その先には安泰な人生が何の変哲もなく続いていったりするもので。

でも、ニコマスが好きな、あるいは好きだった私たちにはいつでも、カズマさんがいる。心の中で「すげー」と目を見はる子どもをずっと大事にし続けて、その子どものためにいつでも声を張り上げられるカズマさんがいるから、「続空」はいつでもそこにあると信じられるから、何か大事なものと出会って、その大事さを誰かに聞いててほしくなった時、私たちは一人であっても独りではない。
ちょうど件のカズマさんの記事を見て、胡桃坂さんが「前に話してたワートリ記事書いたで!って話そうと思ってたら」とつぶやいていたけれども、まさに、そういうことなんです。私も、何かについて書こうと、放そうとするたびごとに、たとえ直接意識していなくとも、"俺、今日こんなすげーもん見つけちゃったんですけど、カズマさんどう思う?” と、心の隅で思っているんです。
いや、それは実際に話してみたら、お前とはどうも趣味が合わんなあ、と言われることもあるだろうし、っていうか今日のお前の話そのものがどうもつまらんぞ、と言われることもあるかもしれないんだけど、でも、とにかく、この時この瞬間俺は「すげー」と思った気持ちそのものは共有できる、共有できていると思えるから。上の方で、カズマさんが居るだけで、居ることそのものが、私にとって、ブログを書く、ニコマスを見る、ひいては生きていく上での心の支えだと言ったのは、そういうことです。

わかむらPが動画消した時に、カズマさんは、わかむらPは僕らにとって「親父」みたいな存在だったよね、と書いてくれましたが、その伝でいうと、カズマさんは私にとって、 "無二の親友" であり、同時に "お母さん" でした。(※わかむらPとカズマさんが夫婦だという意味ではない、念のため。)

……あれ、誰だったかが "僕らにとってお母さんみたいな存在" だ、みたいな表現、どっかで読んだような気がするな。K_1155さんかな、だれか書いてなかったっけ、そんなこと。……まあいいか。いいことにしよう。


私たちが 「おいおい、これ見ろよ、すげーぜ!」と駆け寄っていくと、向こうから「おいおい、こっちはもっとすげーんだぜ」と飛び出してくる親友が。
こうね、たとえば、私がたまに、いろんなブログを集めて列挙した記事とか書くでしょう。そうするとだいたいみんな、今回はなかなか面白い趣向だったぞ、とか、うちの扱いはこんなんだったか、とか、そういう感想しか言わないんだけど、そこにやってきて、お前あんな面白いこと書いてたあの人の名前が無いじゃないか、なっとらんなあ、と言ってくるのがカズマさん。それはね、私自身、そういう言葉をもらって初めてわかったんだけど、そっか、私がこの記事を通していちばんしたかったやりとりって、欲しかったレスポンスって、これだったんだなあ、って。

あるいは、これさっき入れ忘れたから今書いてるんですが、赤の他人をつかまえて、動画見てないんじゃないのw とか、なにそんな突っ込み所だらけのこと書いちゃってんのw とか、相手がカズマさんだから言えるのであって、普通そんな気楽に言えることじゃないですよね。でも、カズマさんに対してなら、みんな気楽に冷やかしたりからかったりすることが出来る。まあだから、そういうところが、カズマさんというキャラクター自体がある種のアイドルだというか、居るだけで場がにぎやかになる華の持ち主なわけだけども、その底にあるのも、気兼ねなし、回りくどさなしに、ただ、こう思ったから、こうすると楽しいから、だけでつきあえる、"親友としてのカズマさん" なのだと思うのです。


ああそうそう、いや、私はむしろ、次の瞬間「あっはっは、実は10ヶ月遅刻のエイプリルフール記事でしたー。ほんとは明日からも普通に更新できちゃうからね、びろびろーん」とかカズマさんが言い出してくれたらいいなあ、って一番期待してますから。(←レスポンス)……というか、カズマさん的にアリなら別にいいんだけど、やっぱ「すごろくん」、字面というか語感というか、なんか不自然じゃね? ちょっと無理して使ってない?


……えーっと、どこまで行ったっけ。
もう一面として、私たちにとってのカズマさんは、そうしてろくに周りも見えないで駆け回っているあぶなっかしい子どもたちを、おろおろ心配しながらそっと見守っているお母さん、でもあるのです。
よちよち歩きで歩きだした子のことも、でっかくなってグレちゃった子のことも、引っ越しして今どこにいるかわからない子のことも、そっと想っているお母さん。

見守っている、想っている、というのはしかし、ただ遠くにあって思いに耽っているというこではなくて、お母さんであるからには、泣いている子がいるところに、喧嘩している子がいるところに、取るものも取りあえず駆けつけるものなのです。でも、それはあくまで子ども同士の問題だから、手を出してどうにかしようとするのではなくて、ただ、近くで見守っている。
さっき出た、わかむらPの記事の時に、damehumanoidさんが、"いろいろはしょって書いているようで、実は大事なところを外さないカズマさん" というような感想を漏らしていたと思うんだけれども(記憶だけで書いてるのであやふやです。これだからtwitterはいけない)。居るべき時、居るべき場所にいつのまにか立っていて、カズマさんにしか出来ない仕事をすることで、必要な灯りをともしてくれる存在。

ああ、そういう意味では、さっきはカズマさんは「かわいい」の代表で、と書きましたが、カズマさんが「かっこいい」、という場合もまた、あるのです。それが全部ってわけじゃないけど、泣いている子どものところに駆けつけるっていうのは、私の中でヒーローの大事なというか、最重要クラスの要件なんですよ。パーマンは駆けつけるでしょう。アンパンマンも駆けつけるでしょう。春香さんもきっと、駆けつける。

よし、「かわいい」がまた出てきたから、「含羞」「はにかみ」の話をしよう。

歯車 - 続・空から降ってくるので

たとえば、これもわりと最近のこの記事の、

「その「自分には祈ることしか出来ない」とゆー踏み込めなさ、申し訳なさ」

という言葉は、もちろん直接的にはメイPに宛てて書かれたものですが、書き手のカズマさん自身についても何か言い表している気がするのです。いやもちろん、具体的に、かつて千早のSSを読み狂っていた人であるところのカズマさん自身の千早に対する感情がなんらか投影されている可能性はあるでしょうが、それだけではなくて、書き手としてのカズマさんそのものについて。
「踏み込めなさ、申し訳なさ」は、「もっと踏み込みたいのに、それが出来ない、するわけにはいかない」という、したい・するべきだ・できたらいいのに、と、しない方がいい・やっちゃいけない・できないという相反する感情が並行するからこそ、生じる言葉です。その、互いに相反する感情の間の揺れ動き、というところが。

「続空」スタイルと言えばなんと言っても、「(ノД`)」の人が「 (゚Д゚)」の井上さんにキックされるシーンに象徴される、会話形式です。(名前忘れたけど、3人目の、律子派の人はお元気でしょうか。名前忘れたけど。)
何かを語り出そうとした時、つねにその言葉に突っ込みをいれて検証しつつ、でもしっかりと耳を傾けてくれる相手がすぐ隣にいて、その相手との会話の中でこそ、言葉が紡ぎ出されてくる。
あのスタイルは、単にそれが持ち芸だから、表現として完成されているから、というだけでなくて、カズマさんという人が何かに向き合おうとする時のなにか根本的に、自然にそうである姿勢の、顕われなのでしょう。
すごいこと発見しちゃったかも、という自分の中の叫びに対して、自分の中でまた、でもそれはお前の中でしか通じない、ほんとはバカバカしくてくだらないことなんじゃないの? という問いかけが。
悪いことしちゃったよなあ、という後悔に対して、今さら言ってもどうにもならないんだぞ、という反省が。
何かしてあげたいな、できたらいいな、という想いに、でもどうにもできないぞ、そこはお前の領分ではないぞ、という諦観が。

自分のうちから湧き上がってくる声、衝動、感情に対して、いつももう一方から、本当にそうなの? それでいいの? という声が返ってくる。だから、彼の言葉にはいつも、"照れ" がある。本当にこんなこと言っちゃっていいのかな? という"照れ" があって、でも、その”本当に言っちゃっていいのかな?” という限りない問い返しを通過したからこそ、なお強く確信された、それでも今、こう言わずにはいられないんだ、言っておかなければいけないんだ! という想いが迸ってくる。しかも、そうして、自分の中で感情が限りなく問い返され、揺り戻されながら想いが練り上げられていくその過程を、孤独で求道的なものとしてではなく、かろやかで、ほほえましくて、ふっと笑みをこぼしたくなるような営みとして、「続空」は提示する。それを私は、カズマさんの文章の「含羞」「はにかみ」と、言い表してみたのです。


……そろそろ頭が回らなくなってきたので、つまり、書きたかったことのうち何を書けていて何がまだ書けていないかの判断がだんだんつかなくなってきたので、締めるモードに入りたいと思うんですが。

あ、今カズマさんの記事見て、すごく書きたいことが見つかったんだけど、今日はカズマさんには教えてあげない!


さて。こうね、縷々書いてきて思うのは、なんで私がこんなことしてるんだ、ってことですよ。このブログ、2010年8月開設ですよ。ニコマスでww、2010年にもなってようやくブログとかwww、どんだけペーペーの新参だ、って話ですよ。なんでそのぺーぺーの新参が、有史以前から生きている深海魚でございます、みたいな生き物に向かって、いやあ、君のおかげでいろいろ楽しいことも悲しいこともありましたねえ、これからも元気でいてください、是非また会いましょう、みたいなノリで文章書いてんだ、って話ですよ。
私もね、いつかはぼろぼろにすり切れて燃え尽きて、ここから去っていくんだろうな、と、いえ最初からそんな未来を想定していたわけじゃないし、いまやどちらかというと、「ぼろぼろ」になるまでやる、んじゃなくて「だらだら」なんとなく続いている、みたいな感じなわけですけど、それでも、

いつか私がぼろぼろになって消えてしまっても、きっとその時には、カズマさんが、まあアイツもなかなか頑張ったじゃないか、と一言言ってくれて、その後何年かした時、昔あんなヤツがいて、たまにはちょっとは面白いことも言ってたよな、と思い出してくれるかもしれない、と思えばこそ、安心して生きて来られたわけじゃないですか。

だからね、もう、やだやだやだ、カズマさんに会えないとか、そんなのやだ、ありえない、ってことですよ。

こうして今現在のカズマさんの更新を横目でにらんでいてもですね、いちばん思い浮かぶのはやっぱり、
ああそうそう、fake storyが難しい方向に行っちゃったって、うんうん、まさにその通りだよねえ。その通りなんだけど、じゃああの作品にそれ以外の道があったのかっていうと、えーっと、この話続けるとどう考えても今日中に終わらないのでしませんが、うんうん、そう、「綺麗「過ぎる」」んだよね。言われてみれば、私があの動画に感じていたのも、たぶんそういうものなんだけど、それは自分では言えなかった。それこそfake storyの記事でもあったと思うけれど、カズマさんの、その「◯◯「過ぎる」」という表現が巧いというか、その ”何かが◯◯であり「過ぎる」状態” というのを見つけ出して、この動画の中にあるのはそういうものだ、とつまみ出せるのがカズマさんの眼力だよね、とか。

私がカズマさんと一番したい話って、この記事で書いたあれこれよりももっと、そういう話なんだよね。
やっぱね、メイPすげー、タクヲPすげー、佐野倉Pすげー、RigderPすげー、って言ってるカズマさんを見ると、ああこれだな、って思うじゃないですか。こんなに面白いものがある、こんなにすごい人がいる、って、嬉しそうにしているカズマさんをこそ、見たいじゃないですか。
私はアイドルのファンだから、どうしたって、そりゃあアイドル活動というのもいろいろ得るところはあるだろうけれども、現実は厳しいからねえ、というお話じゃなくて、辛いこともいっぱいあるけれど、でも、アイドルはこんなに素晴らしいんだ、というお話を読みたいんです。だって、世界に動かされるんじゃなくて、世界を動かしてこそアイドルってもんでしょう。

だから、カズマさんが早く帰ってきてくれるといいな、ずっと居てくれるといいな、というのもちろんなのですが、カズマさんがいつでも、すごいな、面白いな、と思える世界であってほしくて、そういう世界にこそ、カズマさんには居てほしいのです。

まあね、待つことに関しては、慣れてますから。1日でも1週間でも1ヶ月でも1年でも10年でも、待ってますから。私が生きていて、このブログをちゃんと書ける状態である限りは、の話ですが。また会いましょう。ではでは。


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