偶像とダンスだ!


 数日間ニコマスを見る暇がなくて、これから新着を追わないといけないのに、なんで私は『ぷよm@s』紹介ブログの山と格闘しているんでしょう、という話。全部読み終えてから書こう、とか思ってたけど、それでは何時になるかわからないので。何の話をしてるんだか、自分でもよくわかりませんが。

※ 少々追記しました(11/7)


1 キャラクターへの違和感の淵源

 人気シリーズにネガティブコメントはつきものである。私が介党鱈Pの『ぷよm@s』を追い始めたのはかなり遅くになってからで、かつ昔のコメントは流れてしまっているわけで、何時頃からというのは確認できないが、圧倒的な人気を誇るこのシリーズにも、回によってシーンによっては、違和感を表明するコメが見受けられる。

 この作品に否定的なコメントがつく時(完全な荒らしコメントは除く)「このキャラクターは好きになれない」「このキャラクターがこんな行動をするのは納得できない」というキャラクターの描き方への違和感の表明となって現れることが多いように思う。
 そういったコメントを打つ感情がどこから生まれるかと言えば、つまり「飛影はそんなこといわない」ということだ。自分がイメージするキャラクター像と作者の描くキャラクターの間に、ズレがあるからである。
 ただ、考慮しなければならないのは、このシリーズがニコマスを視聴しない層のファンを多く取り込んできたことで、「こいつうぜえ」とか「嫌い」というコメントの主は、元々自分の中にアイマスキャラクターの性格についてイメージを持たず、単純に描かれている言動を不快に感じている可能性が含まれている。

 さて、考えたいのは、『ぷよm@s』のキャラクターに違和感を表明するコメントは、おそらくシリーズ開始からすぐ出現したのではなく、物語がある程度進行した段階で特定のキャラクターの描写を巡って出現している、ということである。
 具体的に言うならば、シリーズ当初から勝負から逃げる描写がされていた春香と、いろいろと思わせぶりな言動の多かった律子。今確認できるところでは、特に11話の千早との対戦時の春香と、10話代後半から雪歩との対戦に至るまでの律子を巡ってコメントの間で応酬が行われている。

 この現象には二つの理由が考えられる。一つ目は、ストーリーが進行してキャラクターの性格づけが明確になってくることで、視聴者が自分のイメージとの齟齬を認識しやすくなること。もう一つは、話数が進むにつれぷよぷよに熱中するキャラクターが増えることで、対戦の勝ち負けの持つ重みが増し、負けるキャラクターが不遇、不憫と印象づけられやすくなってくることである。
 先に述べたことに付け加えるが、視聴者がキャラクターの描写に不満を持つ時、そこには単にそのキャラクターの描写が気に入らないだけでなく、他のキャラクターと比較して、そのキャラクターの物語上の役割に不満を抱いている場合が多い。『ぷよm@s』に即して言うならば、シリーズ前半における主人公格で、勝利や成長を体験する側であった千早や美希と比較することで、初めて「春香が不憫」「律子の役回りが気に入らない」という不満が生じてくることになる。


2 作者とキャラクターと物語と

 上で述べたことは一旦放置して、少し違う話をする。以降の話は、あまり自分でも整理できていないので、意味不明なものになるかもしれない。

 介党鱈Pの物語構築を想像すると、各アイドルのキャラクター像が強固な基盤として存在して、その上で物語世界が構築されているような気がする。
 『ぷよm@s』において、各キャラクターのぷよぷよの学び方、戦い方のスタイルと、各キャラクターの信念や思考の特色が巧みに結び付けられていることは、つとに指摘されている。
 とりわけそれが顕著なのは、"努力の天才" で、あるいは "常識を持った素直" ともいうべき千早と、 "没頭する天才" で、あるいは "無垢の素直" ともいうべき美希の対比である。(この名付けは適当。)おそらく作者がぷよぷよを巡る物語を作ろうと考えた時に、この二つの人間像が真っ先に浮かぶものとして存在し、そしてそれは千早、美希というアイドルと密接に結びついてイメージされていたのではないか。
 このことは、介党鱈Pのニコマス上のもう一つの代表作である『プラネット☆ラヴ』も考えた時、より明確になる。『プラネット☆ラヴ』においても、宇宙人の来訪、という物語が提示する問題に立ち向かうのは、千早と美希、対称的な思考をする二人である。無垢に全てを受け入れ楽しむ美希と、常識に足をつけたまま努力し、受け入れようとする千早。ここでも、作者の中には対比的で原点的な二つの人間像があって、それが千早・美希というキャラクターと不可分に結びついている。
 おそらく、どのような物語を描くにあたっても、こうした明確な人間像が介党鱈Pの中には自然と立ち表れてきて、かつその像は特定のアイドルと切っても切れない形で結びついているのだと思う。それ故に異なる設定の作品の千早と美希の中に、共通する何かが感じ取れるのではないだろうか。

 キャラクターを基盤とした物語構築ということを考えた時、もっと究極的な形でそれを行っている作者として私が想起するのが弓削Pである。
 弓削Pにおいては、『アイドルたちのジャンケン大会』『GENUINE』の長編、『アイドルたちの何気ない日常』等々の短編作品が、全て同じ世界観の基で発表されている。(厳密に言うと百合m@s作品にこれに該当しない例があるが、都合が悪いので飛ばす) 
 弓削Pにおいては、各アイドルがどんな思考の持ち主でどんな過去を辿ってきて、お互いにどのような信頼関係を築いてどんなコミュニケーションを行っているかということまでが、ありありと作者の中でイメージされている。その、作者の内側に確固として存在するキャラクター同士の関係の像から、必然的で自動的な形で物語が紡ぎだされる。
 従って弓削Pの作品を視聴する時には、それが必ずしも長編とリンクさせる必要もない、たった2分の美希と律子の漫才であったり春香と千早の漫才であっても、視聴者はそこに長編で描かれているのと同質の人間関係が流れていると感じずにはいられない。
 
 こうした、作品群の中にキャラクターの核となるイメージが常に存在する作者に対して、対置すべき存在として私がイメージするのが愛識Pである。
 愛識Pの膨大な作品群で描かれるキャラクター像を比較すると、たとえばそのキャラクターがどんな口調でしゃべりどんな行動をとるか、二人のキャラクターの間にどのような関係が築かれているかといったキャラクター像の構築は、作品によって千差万別である。その物語において描くべきテーマ、描かれる視点、作品内でキャラクターが担うべき役割によって、変幻自在に発現される姿が変容するのが、愛識Pにおけるアイドルである。

 話を単純にするために、弓削P、愛識Pを両極の位置にあてはめて対比してみたが、どのような作者の物語構築過程にも、キャラクター像に応じて物語が構築されていく側面と、物語に応じてキャラクター像が構築される側面の両方が存在するであろう。誰を例にしてもいいのだが、私にとって一番なじみ深い世界であるストレートPで例を挙げてみよう。
 ストレートPの『あっというま劇場』と『歌姫奇譚』で描かれる春香を比べた時、両者は設定的には無関係なわけだが、しかし私は両作品の春香に共通したものを見出さずにはいられない。つまり両作品を通じて、作者が春香というキャラクターの核だと考えている部分は、おそらく一貫しているのである。一方で、千早の描き方を比較した場合、『あっというま劇場』における千早はかなり性格的にというか性癖的に特殊なわけで、ストーリー作り上の要請から性格付けが変わっているのである。

 
3 作者と視聴者とキャラクターと

 前項を踏まえて1の話に戻る。作品を視聴者がどう受容するかを考えた時、物語世界に感情移入することとキャラクターを違和感なく受け入れることには、密接な関係があるわけである。

 介党鱈Pや弓削Pの場合、作品を読み始めて、ある段階まではストーリーの圧倒的な魅力をただ楽しんでいればよい。そしてそのまま作者の描く世界にそっくりシンクロしていける視聴者は問題がないのだが、作者の描くキャラクターと自分のイメージとの齟齬を自覚し始めた視聴者をどう扱うかが、連載する側としては問題になると思われる。
 『ぷよm@s』においてそうした視聴者が現れるのが、ぷよぷよ対戦が物語上持つ意味が大きくなり、春香あるいは律子の立ち位置が明確になる段階であると述べた。弓削Pの場合には、作者の持つ世界観、キャラクター像が前面に立ち現れてきて、視聴者が共鳴できるかどうかの関門になってくるのが『GENUINE』である、と私は思っている。 
 弓削Pや介党鱈Pが、折に触れては作品が作者独自の世界観に基づいていることを自ら強調したり、押しも押されもせぬ人気作者でありながら「ひっそりと投稿しました」的な表現を使ったりするのは、作品のどこの部分に自らの内側の世界がとりわけ強く投影されていて、かつそれが視聴者からはどのように見えるかをよく把握しているからだと思われる。
 『GENUINE』が、タイトルからは人気を博した『アイドルたちのジャンケン大会』の続編とはわからない形で投稿され、実際に『ジャンケン大会』ほどは人目に触れなかったことは、作者の意図的な操作であろう。『GENUINE』について、誰もが楽しめるエンターテインメント性を備えた『ジャンケン大会』とはやや異なる位置づけがなされていることが窺える。別の例として、『ぷよm@s』のpart20の動画の説明文を読むと、介党鱈Pが一度視聴者に大きな違和感を与えた要素に対して、連載を通じてきめ細かく違和感を解消する対策をとっていることがわかる。
 視聴者からどう見えるかをよく理解した上で、自分の描きたい世界を押し出していける腕の強さが、この二人のPに共通した特色である気がする。

 視聴者が抱く違和感というものを考える時、興味深いのがハリアーPの手描きノベマスシリーズである。
 ハリアーPの場合、作品につくコメント間の論争のほとんどは、ハリアーPの手描き絵が下手かそうでないかという議論で費やされていて、「鬼畜リボン」であったり「卑屈な絵理」であったりのハリアーPの特徴的なキャラクター造型そのものが槍玉に挙がることはまずない。
 つまりハリアーPにおいては、公式グラと全く異なる手描き立ち絵自体が、そこに内包されるものが公式の世界でも視聴者の世界でもなくハリアーPの世界であることを明示していて、視聴者がハリアーPの世界を受け入れるかどうかの関門になっているのである。ハリアーPが手描き絵を使い始めてからノベマス界有数の人気作者になったことは、偶然ではないように思われる。
 なお、ハリアーPにおけるキャラクターの扱い方もまた、非常に示唆に富んでいると思うのだが、まだそれについて私の中にまとまった考えができていない。

 さらにキャラクターと視聴者の関係を考える上で様々に問題を提示しているのが、ダイアルアップPの『雪ねぇの部屋』シリーズである。
 同シリーズの異常なコメント率の高さ、それを支える、視聴者が物語に抱く共感の強さはよく知られる所であり、ニコマスにおける一つの究極的な謎といってもよいであろう。視聴者が皆共感するということは、つまり作者の描くキャラクターに違和感を持つ者がいないということである。それはどこから生じているのか。
 注目すべきなのは、大半の場面で描かれるのが、ネット上の人格として会話しているアイドル達の姿であることだと思う。乙女な真・素直な伊織・F91な千早等々、アイドル生活上で他人から見えているであろう(と視聴者が想像する)姿とは正反対の言動をするキャラクターがおかれ、彼女たちがネット上で仮想のキャラクターを演じていることがわかりやすく示されている。
 「F91」と「りっさん」のやりとりを楽しんでいる時、視聴者はそこで演じられているのが、自分の思い描く「本来のキャラクター」と異なっていると認識した上で、そのギャップそれ自体を楽しんでいる。通常の物語であれば違和感の源泉となりうる部分が、ネット上の人格というギミックを挟むことで、魅力に転換されているのである。
 さて、これで話が済めば楽なのだが、そう単純な物語ではないわけである。おそらくこの物語を一番最初に読む視聴者の見方は、上記のように本来のキャラクターが存在して、そのキャラクターがネット上で自分の願望を投影した人格を演じている、というあたりではないかと思うのだが、話が進行するにつれてそうした単純な見方は不可能になってくる。
 すなわち昼間は事務所で「雪歩」として扱われる存在がいて、夜にはネット上で「雪ねぇ」として扱われる存在がいる。どちらが本来の姿とも言いがたい。しかも「雪歩」が行動している間にも「雪ねぇ」の人格が顔を出し、「雪ねぇ」が行動している間にも「雪歩」の人格が顔を出す、互いが互いを浸食していく構図が次第に姿を現してくる。
 そうすると、何が表で何が裏でどれが素顔でどれが演じているもので、つまり雪歩とは何なのか…、というようなことを考えだして私の思考は泥沼にはまるわけである。
 ただおそらく、こうして二つの人格が混在し重なり合っているキャラクターの在り方が、視聴者が自分自身のキャラクターイメージを手に持ったまま、作者の描くキャラクターをストレスなく楽しめる結果を生んでいるのだと思う。
 もう一点、ネット上の会話によって話を進めていく構成も、勝ち負けや出番の不均等といった、視聴者に不公平感を呼び起こす要素を取り除くことにつながっている。

 うん、やっぱり話がとっちらかってるな。


4 『ぷよm@s』を読む、語る

 結局最終的に何を私がしたかったのかというと、『ぷよm@s』を語る新しい方法はないのかな、という模索だったのである。『ぷよm@s』という、ニコマス史上でも屈指の熱量、質量をもった言葉で語られている作品の語り方に仮託して、ニコマスの語り方を考えてみたいのである。

 『ぷよm@s』ついて語ろうとする時、いくつかの切り口が存在する。
一つ目は、ぷよぷよのプレイ動画、対戦動画としての側面に焦点を当て、その戦略・技術を分析し、プレイを物語の展開に生かす手腕に注目する切り口。
二つ目は、ノベマス、架空戦記、あるいはニコマス全体の作品史・受容史の中で『ぷよm@s』をどう位置づけるかという、通史的な切り口や比較論的な切り口。
三つ目が、『ぷよm@s』のアイマス2次創作としての面白さ、魅力に焦点を当てる切り口。
 さらに三番目の切り口の中には、位相の異なる二つの方法がありうる。すなわち自分が感じた魅力、面白さそのものを語る方法と、『ぷよm@s』の面白さ、魅力、あるいは人気が何によって生じているかを分析しようとする方法。
(もちろん上記の分類は厳密に区分できるものではなく、複数の要素を持った言説がたくさん存在する)

 私が問題にしたいのは三番目である。三番目の切り口によって『ぷよm@s』を語る人の多くは、当然ながら『ぷよm@s』が大好きで、作品にどっぷりのめり込んでいる人が多いわけである。一方で、ネガティブコメントに表出しているように、全ての人が同じように作品の世界に共鳴できるわけではない。そして、人によってどこまで作品にのめりこみ、どこから違和感を感じるかの度合いは異なる。

 で、共鳴している側の言説は既に数多く存在するから、違和感の側を扱うことで新しいものが生み出せるんじゃないかな、と私は妄想するのである。
 この違和感というものの扱い方は難しくて、『ぷよm@s』について「こういう描き方・考え方は納得できない」という言説がないわけではないけれど、それが違和感の直接的表明に留まっている限り、「そこが私は好きなんだよ」という共鳴している側の言説とは議論が噛み合うことがない。
 しかし、本来どのような作品に対しても、作品世界への共鳴と違和感は、混在した感情として視聴者のうちに存在しているはずである。だから、共鳴と違和感のどちらにも振り切れない位置に立って、己の共鳴が何によって生じ、己の違和感が何によって生じているかを捉える、そんな語り方があり得るはずである。それが生まれた時に、『ぷよm@s』論に新たな地平を切り開く何かが付け加えられるのではないか、と私は思っている。


11/7追記 冒頭に書いた通り、一昨日から『ぷよm@s』を語っている記事をいろいろ見ていて、まだ終わってないのですが。案の上というか、当然のごとくというか、私が妄想していたのに近い切り口や、全く想像しなかったような切り口で作品を語っている記事がやっぱり存在していました。
 なので、私の文章の結論のあたり、新しい地平が云々という表現は勇み足というか、言い過ぎというか、事実に精確ではありませんが、一度書いたものは一度書いたものなので、このままにしておきます。知識が増えるほど書けなくなることって、あるのよね。
 あと、恥ずかしいことに「プラネット☆ラヴ」のタイトル名を誤記していたので、訂正しました。



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ニコニコ動画において"投稿者コメント"は独自の機能を担っているシステム
であって動画の説明文と混同するのはやめて下さい。
動画ページにもきっちり"動画の説明文"と記載されてます。
他人から投コメとか言われて聞き返すのがだるいのです。

Re: No title

NOC様、ご指摘ありがとうございます。
この記事で「投稿者コメント」となっていた箇所を「動画の説明文」に訂正いたしました。
普段、動画の説明文のことを習慣的に投コメ投コメと呼んでいたもので、記事を書く時にも
つい誤用して使ってしまっておりました。真に申し訳ございません。
過去の記事でもずっと「投稿者コメント」「投コメ」と書いてきてしまいましたが、
今後は混同しないように気をつけさせていただきたいと思います。
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