空気など読むな


ニコマス界隈でもいろいろ書きたいことには事欠かない今日この頃ですが、ここしばらく時間に余裕がないもので、せめて『東方緋想剣』のことだけはリアルタイムで話が綴られているうちに、と思ってもなかなか果たせない。ぐずぐず考えて話をまとめてから書くのではなくて、実況中継的に毎週コメントしていくような形は、とも考えましたが、どうもそういうスタイルは私の性に合わないんですよね。

ゆらゆら氏 【卓遊戯】 東方緋想剣 session 15-11 【SW2.0】 15年11月29日

というわけで、なりふり構っていられる心境ではないので、ネタバレ全開、動画を見ていない人のことは置いてきぼりにする感じで行きたいと思います。

ところで、この記事ようやく書き終わったと思ったら、もう一週間経っているってマジですか……。








・番外編

キース一行との再会、という、どこかで起きるだろうことが、しかもそれが作品の根幹に関わる話をするイベントになるだろうことが想像できたエピソード。そして、それ故に、14章や15章の中の端々のエピソードで顔を出しながら未消化だった問いがいろいろ、もう一度浮かび上がって来ているのが読み取れる回でもあったと思います。
で、今回視聴者コメントでも言及している人がいるように、「エミヤ」や「切嗣」をどう考えるか、というのはこのシリーズを読む上で非常に重要な問題で、私の中では、ターシャは「エミヤ」にも「切嗣」にもならないだろうし、ならないところこそがターシャの良さなんだ、ということを説明する理屈は存在するのですが、ちゃんと書くとなると一仕事で、当分は出来そうにありません。
なので、今回のエピソードに即して簡単にだけ述べましょう。キースの主張を抽象化してまとめると、それは二つの理屈から成り立っています。それは、大きな目的を果たすために小さな犠牲を払うのはやむを得ない、という理屈、そして、どの道犠牲が必要なのであれば、より犠牲の小さい選択肢を取るのが当然だ、という理屈です。しかし私は。これらの理屈には、3つくらいの穴があると考えています。

第一に、たとえば、Aのボタンを押すと50人が死んで100人が助かる、Bのボタンを押すと100人が死んで50人が助かる、どちらのボタンを押すのが正しいか? というような形で、問題をわかりやすく単純化して問われると、いかにもAの選択肢を選ぶのが当然のように見えます。けれども、現実に人が生きていて直面する問題においては、事前にAならきっかり50人だけが死ぬ、Bならきっかり100人だけが死ぬ、とわかりやすく厳密に情報が整理されている場合の方が稀少だし、事後的にすら、Aを選んだおかげで50人しか死なずに済んだのか、それともAを選んだせいで50人死んでしまったのか、そもそもそれ以前に、Aという選択の影響を受けて死んだ人数は全体で何人だったと評価できるのか、といったことは容易に判定しがたいものでしょう。もっと言えば、そもそもの大目的が、たとえば"誰も死ぬことがない世界を作る" といったものだったとして、あの時AなりBなりの選択肢を選んだという判断は、結局その大目的の実現に対して有効に寄与するのものだったのどうか、というのは、さらに別に判断が必要な事柄です。従って、"正しくて合理的な選択肢を選ぶ" ことを行動方針とするのであれば、事前の分析は正しかったのか、選択によって期待した通りの効果が現れたのか、それは全体としてものごとを良い方向に動かすものだったのか、というすべての過程について不断の検証が必要になる筈なのですが、犠牲の少ない選択肢を選ぶのは当然正しい、とだけ簡単に考えてしまった時、それは忘れられやすい。正しくて合理的な選択肢を選ぼう、という指針で行動しているのだから、当然その行動は正しくて合理的なのだ、という錯覚が起こりやすいからです。単に、ちゃんと検証しなければ本当に正しかったかどうかはわからない、というだけではなくて、ある選択肢が自明に正しいと捉えること、そう捉えられるように問題を単純化していくことそのものが、検証の必要性を意識から追いやり、自明に正しいことをしているのだから自明に正しい、という循環した理屈に気づかないうちに収束していく方向性を含んでいると思うのです。
第二に、問題を、AかBか、というわかりやすい限られた選択肢の形に整理することは、問題を解決するための非常に有効な迫り方のように見えますが、有効に見えるからこそそれは、提示された選択肢以外の可能性が存在するかどうか、ということ、そしてそもそも問題の前提が正しいのかどうか、ということに意識を向かなくなる危険を強く含んでいる、ということ。冨樫義博の漫画なんかだとよく、一見AかBかという不可避の選択が迫られているようだけど、実はそのどちらでもない第三の道が正解だった、という展開が出てきますが、そういう、問題に対する解法の部分のみならず、そもそも問題の設定の仕方が適切なのかどうか、という部分も、本来は疑わなければならない事柄です。今回の話で言えば、キースの主張には、"人族とバルバロスの間の戦いは不可避である" という前提があって、それは "そもそも戦う必要があるのか?" という疑問に対して思考停止することによって成り立っているのです。
第三に、大きな目的のために小さな犠牲を払うのはやむを得ない、という理屈は、"犠牲" が際限なく繰り返され、無制限に拡大していく方向性を含んでいる、ということ。
"大きな目的" のために必ず "小さな犠牲" が必要だ、とすると必然的に、最終的に"大きな目的" が完全に達成されない限りは際限なく次の "小さな犠牲" が必要になり続けることになります。そしてまた、何をもって"大きい目的" でありそれに比べれば"小さな犠牲" であるとするか、は結局ものごとをどう評価するかという問題なので、判断する人の都合次第で、"小さな犠牲" が指し示す内容は無制限にふくらみ得るのです。今回のキースはまさに、その典型的な例です。キースたちが使おうとしている兵器は、バルバロス側から見れば皆殺しにされる大量殺戮兵器、人族側から見れば多くの人命を自動的に奪うことでしか使用できない自殺攻撃の兵器ですが、そういうものの存在が、そういうものを使用する行為が、人族が平和に暮らせる社会の実現、という "大きな目的" の前では "小さな犠牲" である、という理屈を使うことによって、いとも容易に正当化されてしまう。

さて、しかし、私がこの記事で書きたいのは、だから要するにキースが間違っていてターシャが正しいんだよ、という主張ではありません。むしろ、そんな簡単な結論にならないお話だからこそ書いている。

面白いのは、キース自身が、人族の平和な社会を実現するという崇高な目的のための行動だから正しい、という自分が言っている理屈に、全面的に依存しているわけでも信を置いているわけでもない節があることです。彼は、「とっくに血が流れ」ているのであり、「いまさら、引き下がる訳にはいか」ないのだ、と述べます。その言葉の中に含まれている主張を説明するならば、それはたとえばこういうものなのではないでしょうか。
それは、ここで、はいはい俺が全面的に間違っていて悪者でした、と認めて相手の言い分に従ってしまっては自分の立つ瀬がない、という"面子""自尊心" の問題であり。
自分はこんなにひどい目にあったのに相手が同じ目に合わないのはおかしい、許せない、という"不公平感" の問題であり。
ここで止めると、ここに来るまでに払ってきたコストが無駄になってしまう、あるいはそれが無駄だったことを認めなければならない。それは認めがたい、認められない、という"自分が掛けたコストを惜しむ" 心情の問題であり。
総じて言えば、理屈として相手に分があるかもしれないからこそ、それを認めてしまうと自分の感情の行き場がない、自分が生きる拠り所が、自分が生きてきた意味が見失われてしまう、ということ。
しかもそれは、自分ひとりの内面だけで起こる問題ではなくて、そこに他者との関係が加算される。ここで引き下がったら犠牲になった仲間に申し訳が立たない、ここで謝ったらついてきてくれた部下の顔まで潰れる、自分は納得しても故郷の住民たちが納得しないだろう。自分の人生は自分ひとりのものではなく他者の想いを背負っている、と考えるからこそ、ますます「引き下がる訳にはいか」なくなるのです。

だからこのお話は、ターシャが理屈でキースを言い負かしてやりこめてやればいい、という問題ではない。
だったらどうすればいいのか、というのは引き続き考えるべき課題で、この記事でも後の方まで顔を出してくるでしょうが、TRPG動画の中、ファンタジー世界の中、という文脈においては、ひとつの確立された問題解決の手法が存在します。
意図してそう描いている人がどれくらいいるかはよくわからないのですが、物語の中で、言葉での言い合いの後に物理的な格闘が始まる、という展開が起こる時、それは、単に物理的に力の強い者こそが主張を通せるんだ、というだけの話ではなく、そこに、理屈で言い合っても決着しないもめごとを終息させるための、一種の"手打ち" の儀式としての側面があるのだと思います。理屈でどう白黒つけようとしても誰かの感情が納まらない問題を、理屈を棚上げして、当事者同士の肉体のぶつかり合い、というまったく別の次元に持っていくことで、両者が合意できる状態を作り出す。"決闘" という作業には、くじ引きとか託宣とかで裁定を下すのと似たような、もめごとを終わらせる儀式としての側面があるわけです。まあ、実際問題としては、物理的に衝突することでさらに遺恨が増えて収拾がつかなくなっていく事柄の方が多いでしょうが、少なくとも期待される機能としては、そうであると。このシリーズでは、テンシやバルバロスたちを通して、肉体的なぶつかり合いを何か神聖な儀式と感じて行っている人間の姿が描かれているので、とりわけ、場面場面で戦闘が起きることの意味、その戦闘がどんな機能を果たしているのか、ということを考えたくなります。

……という話を、一番したかったわけでもなく。

私はこの記事を、キースの言っていることのここがおかしい、あそこがおかしい、という話から始めたわけですが、だったらターシャたちの方はどうなのか、問われたりツッコまれたりする部分がないのか、と言えばもちろんそうではありません。むしろ、ターシャたちこそが問われたりツッコまれたりされるべき部分がたくさんあるからこそ、このお話は難しいし、面白い。

キースの「それはお前が失った事がないから言える言葉だ!」という言葉。相手は幸せで満ち足りた生活をしてきた人間、自分は大切なものを奪われて生きてきた人間、だからわかり合えない、だから相手の理屈は自分には響かない、という理屈。ここで少し注意すべきなのは、これまで動画の中で描かれてきたものを見れば、今のキース自身にもまた、幸せな日常生活や大切な仲間が存在している筈だ、ということ。相手は一方的に得をしている側、自分は一方的に損をしている側、という理屈は、それ自体自分の行き方を正当化するための物語である側面があって、そしてその物語は、自分自身が今手にしているものの大きさ大切さを気づかなくさせる危険、相手もまた自分とは違う形で失っているものがあるかもしれないことへの想像力を奪う危険と一体です。
それはそれとして、投げかけられた言葉そのものは、ターシャたちに対しての鋭い問いです。そしてもちろんこれは、14章でのレイスとの戦闘の根底にあった問いでもあるのですが、そこでは言葉としては充分に語られ得なかったものでもあります。
実際問題として、ターシャやテンシが恵まれた生活をしてきた人間なのは確かです。暮らしに困らず、身分もそれなりに高い家に生まれて、家族に愛されて育ち、充分な教育を受け、心から信頼出来る仲間に恵まれる。そういう人生を送ってきたからこそ、今こういう性格の、こういう考え方をするターシャに、テンシに育っている。誰もが彼女たちのような人生を送て来られたわけではなく、誰もが彼女たちのように安定した立ち場に立ってものを見られるわけではない。まあ、この点においても、動画の中では直接描かれていないターシャのこれまでの人生が、そんなに平坦で楽だったのか? ということは想像されてしかるべきだとは思います。セフィリアという国に生まれて、国教ライフォスの敬虔な信者として育ちながら、セフィリアという国のありようが、ライフォスの受容のありようが間違っている、という考え方をするに至ったのが、ターシャという人間です。そういう考え方に至るまでに、そういう考え方をしながらセフィリアの中でいきていくということに、どれだけの軋轢や葛藤や自問があったことか。私はターシャのことを、冒険者になって殺し合いに参加することで初めて ”現実の厳しさ” を体験した牧歌的でお花畑な人間、というようなイメージでは全く捉えていません。

ターシャは、キースの感じているものが自分とは違うこと、自分にはわからないものであることを認めます。そういう認識を持たなければ、自分の感じ方考え方がどこでも誰に対しても普遍的に通用する当然に正しいものだと考えてしまいかねない、という点においてそれは大事であり、必要である認識ですが、一方で、相手を自分と違うもの、自分にはわからないものと捉えることは、相手をわかり合えない存在、わかり合う必要がない存在だと切り捨てることと紙一重でもあります。
ターシャ自身のうちにも、自分と違う他者を切り捨てる感じ方、考え方に至る危険がつねに存在していることを示したのが15章3話の「私は、そんな理由で他人を傷つける人を絶対……許さない!」という台詞だと思います。大好きなこのエピソードの中で、唯一私がひっかかるのが、この台詞です。それが、誰にも傷ついて欲しくないという想いから、目の前で傷ついていく人たちを見てきた強い悲しみから生じた痛切な言葉であることはよくわかります。強い想いの籠った痛切な言葉であるからこそ、その言葉がどんな論理を内包しているか、何をもたらすものであるかは、よくよく考えられなければなりません。
昔のアイマス動画で、ペデューサーP作の『職業アイドル』というのがありました。その登場人物の一人に、ファンのために活動する、という行動原理を持ったアイドルがいました。ある回で、そのアイドルが別のアイドルに対して、私はファンを馬鹿にする貴方を「絶対に許さない」、そんな奴は私が「叩きのめす」と宣言します。そこで言った当人も、言われた相手も、二人の戦いは "ファンのためにステージに立つアイドル" と "自分のためにステージに立つアイドル" という、対照的で・対立していて・相容れない存在が正面衝突する戦いなのだ、と認識していました。けれども、"ファンを思わない"、"ファンのために行動しない" 相手を、すなわち自分と違う感じ方・考え方をする相手を「許さない」、そんな相手を「叩きのめす」=排除したい、消したりたい、という感情のもとで彼女が行動しだした時、それはすでに、何よりも先にファンのことを考える、何よりもファンともにあることが楽しい、という、そもそも動機だった筈の感情とは関係ない行動原理になっていたのではないでしょうか? 動画を外から見ている視聴者には、彼女がすでに変質して、そもそもの志とは違うところに行き着いた存在になっていることがはっきりと見える。けれども、当事者たちは気づいていない。そういう構図が、計算し尽くされて描き出されていた作品でしたが、話を戻して、先のターシャの台詞にも、似たような変質が生じる可能性が内包されていると思うのです。
そして、「許さない」という言葉に含まれる感情と理屈が行き着く先を示したのが、今回の「セフィリアこそが争いの火種を振りまく元凶」というヴィオの台詞だと思います。
他の人族国家は悪くない。バルバロスも悪くない。ただ「セフィリア」だけが異常で、間違っていて、悪いことをする存在だから争いが生まれる。その理屈は実のところ、 人族は何も悪くない、ただ「蛮族」だけが異常で、間違っていて、悪いことをする存在だから、「蛮族」がいなくなれば争いはなくなる、という"「セフィリア」の理屈" とそっくりではないでしょうか?
そもそも、今私がそうしたような、自分にとって悪い、間違っていると感じられる理屈を「セフィリア」という他者の名前で象徴させる言葉の遣い方自体が、問題そのものとリンクしているわけです。自分にとってよくないと感じられるものに、他者の名前を名付けることによって、それは自分自身のうちに元々存在し、自分自身のうちから絶えず湧き出てくるものではなく、他所から侵入してきた、イレギュラーで自分自身とは本来関係ないものだと捉えられることになる。そこにあるのは、異常で、本来的に悪い他者を排除することで、正常で、本来的に善な自分だけの安全な世界がもたらされる、という理屈そのものです。
けれども、誰にも「他人に傷つけられ」て欲しくないのであれば、その中には当然、セフィリアに生き、「セフィリア」の思想を信奉する人々も含まれているべきではないだろうか。他の人族国家の人々がそうであるように、バルバロスがそうであるように、そしてレイスやキースという具体的な個人の形を取ればそれが目に見えるように、「セフィリア」を信奉する人々にだって、そうあらねばならない、そうせずにはいられない事情、理由というものが存在するのではないだろうか。

それゆえに、現にターシャは、相手は自分とは違う、相手の感じ方考え方が自分にわからない、というところで立ち止まっているわけでも、だから相手と戦わなければならない、と考えているわけでもありません。違うからこそ、わからないこそ、より深く知らなければならない、より深く付き合わなければならない。15章9話でターシャが移住計画を打ち出した時、理念としてあったのはそういう考えでした。(その計画が、理念を現実化する上で適切なものなのかどうか、ということはまた別の問題として。)
そうして、自分とは違う相手、わからない相手との対話を通じて、短期的には、互いに譲れない部分をぎりぎりまで主張した上で妥協点を見つけ出そうとする、長期的には互いを尊重し合える関係を築いていこうとするのがターシャの手法。この場面でのキースに対しての姿勢も基本的には同じだと思うのですが、レイスやキースとの対話でそれが貫徹せず戦闘に行き着くのは、大量殺戮兵器の発動が迫っていて "もう時間がない" という理由があるからです。いかに "時間がない" というのが、"目の前にやらなければならないことがある" というのが、人間から思考を奪うための、シンプルにして強力な大義名分であることか。ただ、それでもなお、この場面でのターシャの思考は、ただにわかり合えないから、時間がないから戦う、というだけの単線的なものではないのだと思います。ターシャ自身は、「セフィリアこそが元凶」とは言いませんでした。そしてターシャが、「私達」が「止め」る、という言葉を口にした時、それはキースの行動を止める、キースの考え方を止める、という意味ではない。それは、直接にはキースのような不幸を体験する人を増やさない、ということであり、ひいてはキース自身の不幸を増やさない、ということでもあり、そしてキースと対話できる時間を作り出す、ということでもあるでしょう。自分と他人では立ち場が違う。だから自分の出来ることには所詮限界がある、のではなくて、だからこそ、自分にしかできない仕事があって、すべきなのは、自分にとってはそれがどういうものであるかを見極めて実行することなんだ、と。

シャナとヴィオの場合、キースやレイスの存在が示唆する問題は、ターシャ・テンシとはまた少し違うでしょう。この二人は、端から見てそれほど恵まれた境遇の人間ではありません。ただ、本人にとって何よりも大切なひとりの伴侶を失っているか失っていないか、という一点だけが、端的にシャナ・ヴィオとレイス・キースを隔てています。実際にシャナにもヴィオにも、自分の主人を守るためなら後は何がどうなってもいい、という行動原理が根強く存在していますが、それはキースやレイスの行動と紙一重、というか表裏の関係にあると言っていいものでしょう。シャナがターシャと出会っていなかったら、あるいはターシャを失ったら、レイスのようになるんじゃないか、ということはよくコメントで言われるし、動画の中でも示唆されています。
シャナについて私がずっとひっかかっているのが、14章のユーシアとの会話で示された、身近で小さなものへの愛着こそが戦う理由にふさわしい、という彼女の考え方です。国とか、宗教とか、街の雰囲気とか、そういう大きくて曖昧なもののために命をかける、というのは信用できない。でも、恋人とか、友人とか、家族とか、そういう身近で具体的なもののために命をかける、というのであれば信用できる、と。
私がそこで連想したのが、『マッドマックス4』に出てきたニュークスという登場人物です。短命な戦闘要員「ウォーボーイズ」の一員として生まれ、カリスマ指導者イモータン・ジョーを熱狂的に崇めながら吶喊する生活を送っていたが、その生活から否応なしに切り離された後、一人の女性と恋に落ち、その女性のために生きるようになったニュークス。その過程を、「成長」という言葉で表現した批評がありました。教え込まれるままに信じ、周囲と一体になって熱狂している状態から、何のために生きるのかひとりで考え、確信した状態へ。こういう変化こそが人間としての成長であり、後者の状態こそが人間としてあるべき姿だ、という理屈は、よくわかります。
けれども、思わずにはいられないのは、大多数の「ウォーボーイズ」は、そもそもニュークスが得たような、自分を想ってくれる魅力的な女性との出会いなんて、想像すらできない生活を送って死んでいくしかない存在だ、ということです。命に代えても守りたいほど大事な存在を身近にイメージできる、ということはそれ自体、万人が得られるとは限らない稀少な幸福なのです。ニュークスのような生きる意味、戦う理由、死ぬ意義を手に出来た「ウォーボーイ」は劇中でニュークスただ一人。一方イモータン・ジョーへの信仰は、恋人にフラれた者も、裏切られた者も、先立たれた者も、そもそもそんな出会いなどなかった者も含めて、あまねく誰にも生きる意味を、戦う理由を、死ぬ意義を、他者との連帯感までも持たせることができる。「ウォーボーイズ」にそういう境遇をもたらしているそもそもの原因はジョーの施政では? とか、けれども指導者が代わったところで彼らがもっとマシな生活を送れる保証はあるのだろうか? とか、考えれば考えただけいろんな要素があって、ジョーのやっていることを一言で白黒判定づけるのは難しいですが、ジョーがカリスマ的、教祖的な存在であることには、直接的にはそういう効果があります。そういえば、『東方緋想剣』でシャナを演じているプレイヤーであるところの東風谷早苗の原作でのテーマ曲のタイトルは「信仰は儚き人間の為に」ですが、まさしく、大きくて曖昧なものへの信仰とは、もっとも辛く、苦しく、具体的な楽しみを持てない暮らしを送っている人間のためにこそ必要とされるものなのです。身近で具体的なものだけが人が信じるにふさわしい、という主張は、辛く、苦しく、具体的な楽しみを持てない暮らしを送っている人間は、生きる意味、生きる希望を思い描いてはならない、と言っているのと同じです。ターシャ(テンシ)が居たからこそ今の自分が存在する、というシャナ(ヴィオ)の想いは、それが単に、だから自分はターシャ(テンシ)のために生きる、ターシャ(テンシ)のために命をかける、という思考だけに結びついて止まることによって、世界をターシャ(テンシ)に利をもたらすものと害をもたらすものに二分し、そして後者と認定されたものを単なる邪魔者として排除する行動原理へと転化していく可能性をつねに帯びています。けれども、ターシャ(テンシ)との出会いがシャナ(ヴィオ)に示唆している可能性は、キースやレイスの存在が彼女たちの投げかけている問いは、決してそれだけの事柄ではないと思うのです。

キースの言説の内容そのものとは別に、キースたちのパーティとしてのありようもまた、示唆的です。明確な志を抱いてそのために突き進むキース、キースと過去を共有しキースの志のために殉じようとするアリサ、これまでのつきあいから生じた義理と人情ゆえにキースと行動を共にするレノン、レノンを慕って付き添い続けているコルト、という一行の人間関係は、ターシャ-シャナ-テンシ-ヴィオの関係のありようと相似しているところがあります。
パーティ全体で目的を共有し、お互いに強固な信頼、相互理解を築き上げ、適材適所の役割分担と阿吽の連携でミッションを効率的にこなしていく。パーティの中に視点を置いて、内輪の人間模様だけを見つめている分には、ターシャたちは理想的な成長を遂げ、理想的なパーティを築いたように感じられます。けれども、その横にキースのパーティを並べた時、あちらもまた、内部を見ている分にはまったく同じように、互いに目的を共有し、強固な信頼で結ばれ、阿吽の連携で行動する理想的なパーティであって、そんな素晴らしい関係を築いた素晴らしいパーティ同士が、いままさに正面衝突しようとしている。その事実は、外から見た時本当に、自分たちが互いに想い合っているほどに素晴らしい存在なのかどうか? 振り返って見直したとき、自分たちははじめに抱いた理想から曲がっていない、本当にやりたいことを出来ている存在になっているのかどうか? を、双方に対して今も、今後も問いかけ続けるものであると感じます。

さて、過去回で言及しようと思った事柄を盛り込んで話が長くなってしまいましたが、今回の眼目はここからです。
様々な示唆に富んだキース一行との再会ですが、話の流れとしては、戦闘による決着が不可避である、という方向に向かいます。興味深いのは、コメントの中にも、ここで戦闘が起こることが必然であり当然である、という考えを示しているものが少なからず見受けられることです。タグに「譲れない思い」「信念の闘い」とあります。
"絶対に譲れない「思い」" "絶対に譲れない「信念」" の持ち主同士が、"互いに絶対に相容れない" がゆえに "信念をぶつけ合うために決闘" する。そういう展開を見たがる欲求、戦いとはそうあるべきものだというイメージが、私たちの心の中にいかに強く根付いているか、ということ。面白いのは、そうして "譲れない「思い」" "譲れない「信念」" が、"相容れない者同士の「闘い」" が要求され称揚される時、求められ、価値が見出だされているのは、「思い」「信念」の内容ではなく、"譲れない" "譲らない" という態度、"相容れない" という構図そのものの方であるように思われることです。「思い」や「信念」や「闘い」は、それを譲らないこと、対立していることそのものによって崇高さを認められて、その時、それがどんな内容なのか、何故そのような形に形成されたのか、何故それを譲ってはいけないのか、といった事柄はむしろ意識の中から外れていく。裏返して言えば、妥協する、相手に迎合する、途中で方針を変える、命を賭けない、といった態度・手法を通して表明される考え方は、その態度・手法そのものによって価値を低く見られ、「思い」「信念」「闘い」として認定されない。
まあ、それは当たり前と言えば当たり前の話で、誰の言っていることもどこまで正しくてどこまで間違っているのか、どこまで一貫しているのかもよくわからないし、互いにどれくらい違っていてどのくらい対立しているかもはっきりしないし、結局勝ち負けがどうなってどんな結論が出たのかもいろいろ解釈のしようがある、なんて物語を読んだところで、もやもやするばっかりでちっとも楽しくないに違いありません。ここまでが全部正しくてここからが全部間違い、誰と誰はここが正反対だから絶対に決闘する宿命にある、勝敗が明確にこう付くから結論は明確にこうなる、そうして派手にスカッと決着がついたからには疑問は何も残らずただただ気分良く終わる、そういうものこそ物語として素晴らしいではないか。ぼくらはわかりやすくて気持ちいい物語が大好きだ。

けれども。どちらのパーティも引っ込めない、パーティの中で誰かが全体と態度を違えることもあり得ない、パーティ対パーティでの正面衝突以外に道はない、という方向に話の流れが定まっていくその中で、一人だけ全然違う方向を向いて、せっかくの綺麗な流れをぶち壊した奴がいる。コルトだ。え、コルトって "あの" コルト? そう、ドジキャラで三枚目で恋愛脳でいつもレノンのことしか頭にない、"あの" コルトだ。
互いに同じ宿に所属する冒険者仲間、付き合いは浅くないし好意もある、出来るならば戦いたくはない、とは、みんな思っているわけです。でも、今この場、この状況においては、"譲れない「信念」" があるから、目の前に "どうしてもやらなければならないこと" があるから、戦うのは "やむを得ない"、自分の中の戦いたくない気持ちは後回しにして構わない、という理屈で誰もが動いていた。ところが、コルトの発言は、その理屈を、暗黙の前提を、あっさりちゃぶ台返ししてしまったのです。え、ほんとにやっちゃうんですか、そんなこと?
コルトは、別にキースを止めたいと思っているわけでも、ターシャのように戦いという行為そのものが嫌なわけでもないでしょう。ただ、本当に言葉通りに、やりたくないと思ったからやりたくないと言っている。コルトにとって大事なのは、気心の知れた仲間と旅をして、レノンに無謀なアタックをしてはいなされ続け、ヴィオにからかわれつつ他愛ないおしゃべりをする、そういう日常のあれこれだけで、キースやターシャが考えていること、やろうとしていることに対しては特にこだわりも興味もないのでしょう。他の誰もが、パーティの内側にある理想や目的や人間関係と、パーティーの外にあるものとを比較計量してパーティの内側にあるものを優先する判断をしている中で、コルトだけが、さまざまな理想や目的や人間関係を、はかりにかけて計量したり、優先順位をつけて取捨する発想で捉えていない。キースたちは大事な仲間、でもターシャたちだって大事な友人。守りたい日常がある、だから犠牲にしたり押し通したりしなければならないものがある、と考えるのではなくて、私が送りたいのは楽しい日常なのだから、楽しくない、やりたくもないことをさせられようとしている今の状況の方がおかしいんだと感じる。コルトにとってターシャたちは、いつどこでどんな状況で出会おうが、いつも隣にいてお茶飲んで楽しくお喋りする仲間、以外の何物でもないのであって、状況が違うからと言って違う接し方をする方がおかしい。レノンが好きだからレノンについていくように、楽しいから(?)ヴィオとお喋りするように、戦いたくない相手なんだから戦わなくていい、やりたくないんだからやらなくていい、彼女にとって行動を決める理由なんて、それだけでいいのでしょう。事前にどんな信念があるから、過去にどんな行きがかりがあるから、周りにどんな義理があるから、今はこんな事情に制約されているから……。どれだけ多くの "やらなければならない" 理由に取り囲まれても、コルトは決していまこの瞬間、自分が本当にやりたいことはなんなのか、やりたくないことはなんなのか、という気持ちに素直に目を向けることを忘れないのです。
レノンがコルトに言います。「真面目にやれ」と。不思議な言葉です。この場は「真面目」でなければならない場で、お前の発言はその「真面目」から外れているからやってはいけないんだ、と。ここは誰もが "譲れない「信念」" を主張すべき場で、互いに「信念」が譲れないことを確認し合って深刻な戦いに移行する流れがもう固まっているんだから、その空気にそぐわないような日常的なふるまいをするな、その流れにそぐわないような全然違う主張をするな、と。「真面目にやれ」という言葉のうちに含まれているのは、個人は周囲の空気を読んで行動すべきであり、全体が押し流されている流れに対して逆らうようなふるまいをしてはならない、という発想です。けれども、この場において、コルトがいつも通りの喋り方をしてはいけない、コルトが自分の思うままの意見を述べてはならない、コルトだけがふるまい方を強制されなければならない正当な理由などというものが、本当に存在するでしょうか? そこに、特定のふるまい方、特定の意見だけをこの場で見聞きしたくない、場から排除したいという心の動きが生じているのだとすれば、その動きそのものが、排除されようとしているものがその場を構成する人間に対してクリティカルな問いを突きつけていることを証明しているのだと思います。

前言を否定しているように聞こえるかもしれませんが、私は、コルトの考え方そのものが無前提に素晴らしい、ターシャやキースの考え方よりも価値がある、と主張しているわけではありません。大きくて揺るぎない「信念」など持つべきではない、身近で日常的なものを大事にする発想こそ素晴らしいのだ、と主張しているわけではないのです。むしろ、今回のエピソードは一面、コルトの考え方、コルトという人間の行動原理のおそろしさを示すものでもあったと思います。なんとなれば、他のパーティメンバー3人は、大量殺戮兵器の発動に加担する、という、自分がいま取ろうとしている行動のおそろしさを意識し、抵抗感を感じている。俺はこういう生き方を選んだから、自分にはこういう決意があるから、こういう義理があるから……。キース・アリサ・レノンが、自分の行動決定の理由を宣言せずにはいられないのは、その理由付けがないと、自分自身の心の中の抵抗感に耐えられないからです。
でも、たぶん、コルトだけは何も考えていません。ただ、いつも通り、いつもの仲間にくっついて一緒に来ただけ。目の前に現れた知人のことは気にするけれども、これから大量の人間の死に自分が寄与することについては、気にするそぶりがない。いえ、彼女が赤の他人の死に対して何も心を動かさない人だとは思いませんが、それが目の前に見える形にならない限り、自分自身が大事にしている日常に直接リンクしてこない限り他人事で、ターシャやキースのように、自分の行動にどんな意味があってどんな結果をもたらすか、なんていちいち真剣に考えたりしないのでしょう。コルトにはコルトで、ターシャやキースの存在によって問われている部分があるのです。

ならば、私は何が言いたかったのか。私はただ、今この瞬間、この場において、コルトが空気を読まなかったことを、素敵だと思ったのです。誰もが暗黙の前提、思考の制限に縛られて行動していた時、たった一人彼女だけが、その前提を、制限を軽々と飛び越えてふるまったことを、すごいと思ったのです。

思えば、私がターシャすげー、と盛んに言い出したのも、 "空気を読まない言動" がきっかけでした。 あれは13章のこと、高いところが苦手なヴィオが意地を張ったり慌てたりするのが可愛くて面白いから、あえて全員空を飛んで移動しようぜ!という展開が、私はこの作品を見ていて初めて感じたと言っていい違和感、抵抗感があって、全然楽しめなかったんですね。多分そんなことを感じた視聴者は私だけだったんじゃないか、というのはコメントの反応に鑑みてそう思うのですが。いえ、ヴィオの高いところが苦手という性質が、大して深刻な問題じゃない、ちょっとした意外なチャームポイント、というようなつもりで描かれて、視聴者もそう受け取っている、というのはわかるんです。でも、私には、そういう感じ方をするのは無理だった。嫌がっている人がいるのにその気持ちが全然真面目に聞いて貰えずに流されていく、という光景がショックだったし、周囲の人間全員の暗黙の連携でその当人に有無を言わさない流れが形作られていく、ということもショックだったし、そうして大好きな筈の作品、大好きな筈のキャラクターたちを前にしてまったく楽しめずにひとり取り残されている自分の状態そのものもショックだった。
まあ、ニコ動見ていれば、ここはこういうノリの場所なんだからこのノリに乗っかってふるまうのがスマートだぜ、乗れない奴はダサいよな、というノリが楽しまれている場所、言い換えれば、弱い者、流れに乗れない者が珍奇な存在として描き出され、みんなに面白がられている場所が、いくらでもあります。ハリアーPとか、プロディPとか、介党鱈Pとかね。あるいは誰か特定作者の手法として、というのでなくても、キャラクターをめぐって「ぼっち」だとか「腹黒」だとか「中古」だとか「ババア」だとか、いろいろありますよね。
私は、だけどこの物語はそんなものとは無縁な、自分がただひたすら楽しく幸せでいられる世界だと信じ込んでいたのだけれども。そんなただひたすら綺麗で幸せなだけの世界なんていうものはなくて、人間関係が発達してくるに従ってどこにでも普遍的に生じてくる問題があって、この物語もまたそれと地続きのところにあるんだな、と、気づいたのはいいとして、それからしばらく、どんな気持ちで、どんな距離感でこの作品に接したらいいのかわからなくなってしまった。あんなに好きで好きでしょうがなかったテンシとヴィオの会話をまともに見られなくなって、心から楽しむことが出来なくなってしまった。まあ、それくらい、私の中では重大なエピソードだったのですが。
でも、ターシャは、ターシャだけはあの時、周りの空気やノリなんて全然読まないで(というより、わかっていても無視して)、本人が嫌がってるんだからやめようよ、と言ったんです。私はそういうことを当たり前に考えられて当たり前に口に出来るターシャを心底凄いと思ったし、何より、あの場面でほんの一言でもそう言ってくれる人が存在した、ということに、見ていた私自身が救われたのです。 

話を戻して、コルトの発言は、別に話の展開に劇的な影響を与えたわけではありません。キースの行動方針を是が非でも止めようとしてきたわけでもなく、積極的に共鳴してきたわけでもないのと同じように、たしかに自分から戦いたいとは思っていないけれども、だからと言って自分のその気持ちを、仲間の意見を遮ってでも、命を賭けても押し通さなければならないとは発想しないんですね、コルトは。
では、この場、この瞬間に何も具体的な影響力を発揮しなかったから、その言葉には何の意味もないのか。決してそうではないと思うのです。もしターシャたちが戦闘に負けた場合にキースたちはターシャたちにどう対したらいいのか、いや勝った場合であってもその後互いにどう向き合い、どう行動していくか、という問題は生じるわけで、その時、最初から戦いたくないし殺したくない、と明言していたコルトがいることが、未来につながる意味を持ってくる筈なのです。
さらに言えば、たとえ他人を押し切れる自信や確信を持たずとも、みんながコルトのように、自分の中にある本当にやりたい気持ち、やりたくない気持ちを素直に言葉に出来れば、この場面での戦いは必要でなくなった可能性もあるわけです。現に、15章3話でのミョウは、他人の言葉を聞き入れたからこそ、自分自身の本当の気持ちに対しても素直になれたのだと思うし、彼が自分の気持ちを大切に出来たからこそ、あの場面では戦いが必要でなくなったのだと思います。言葉は、思いは、言った側、伝えた側だけで完結するものではなくて、受け取った側がそれをきっかけにどれだけのことを思えるか次第で、新たな可能性が生まれるもので。あの時と同じような、"「思い」が通じる" 奇跡は、この場面にも生まれる可能性があったし、これからもあるのだと思います。
まあ、現実の進行としては、彼女たちはこの後、戦うことになるのでしょう。だからこそ、私は書いておきたいのです。15章11話のコルトはすごかった、素敵だった。私は彼女の言葉の中に、新しい未来が開ける音をたしかに聴いたんだ、と。





・本編

ところで、読者諸賢がこの記事のタイトルを読んで期待されたのは上記のような話ではなく、誰もが「よし! いけっ、そこだ!」と色めき立ったあのシチュエーションで、何もできずに終わったヘタレチキンなヴィオちゃんの話題だと思うので、最後にその点について一言しておきます。まったく、見ていたみんなが「日和ってんじゃねーぞおい!」と机を叩いたに違いない迷場面でしたが、同時に、それ故にこそ、ヴィオとテンシの関係のあり方が凝縮された名場面だったなあ、と。
ヴィオとテンシが互いを想っている感情には微妙なズレ、すれ違いがあって、テンシの方は相手を純粋に無二の友人として、相棒として、家族として見ていて、それ以外の想いのありようを意識していないけれども、ヴィオの方にはほんのりとした思慕、恋心のニュアンスがある。これは、シリーズ開始当初からずっと続いている構図です。似たようなすれ違いは、シャナとターシャの場合にもあると思いますが、あちらの二人の場合は、相手が自分に向けている感情がどんな形をしているかまでわかり合った上で二人の関係を築いています。ところが、こちらの二人の場合、ヴィオは素直な言葉を言わないのがアイデンティティ、みたいな子だし、テンシはテンシで、そーいう人間関係の機微については果てしなく鈍感で気が利かないからこそのテンシなわけで、そのズレがいつまでも表面化しないで、すれ違いながらの結びつきが完全に日常のものと化している。
この微妙なすれ違い、ヴィオが自分に寄せる気持ちをテンシの側が充分にはわかっていない、ということは、二人の関係のあらゆる部分に影響を及ぼしています。たとえば、二人にとっての重要なコミュニケーションである、互いにからかい合い、仕返し合う、というイベントもそうです。人間観察が得意で、人をからかうのが好きなヴィオは、テンシに限らずコルトやサリアのような、素直で行動原理の明快な人間を格好のからかう対象にしているし、テンシとの関係も自分が優位に立ってコントロールしているように思っている部分があります。(実際、ある面ではヴィオはテンシの保護者のような役割をしていると思います。また逆に、テンシがヴィオの親代わりである側面もあるのですが。)ところが、同じ素直で単細胞なキャラクターとは言っても、テンシの素直さはヴィオが想像していること、計算していることの土俵をひっくり返してしまうところがあって、振り回しているつもり、操っているつもりのヴィオの方が実は振り回されてしまっている場面が多々ある。
なにしろテンシちゃんは、ヴィオの方では心ひそかに "これは二人の大事な思い出……" とか思っているようなことを、あれ、そんなことあったっけ? と平然と言い放って落胆させたかと思うと、ヴィオの方では怒らせてやったつもりなのに全然気にしないで優しくしてきて拍子抜けさせたり、あっさりストレートに好意や信頼を示してきてどぎまぎさせたり、なんてことを始終やらかすお人なので。
ヴィオにとって、"自分の方ではこう考えてこう動いたのだから、相手はこう感じてこう反応してくる筈" という計算を、いちばん予想できない形で飛び越えてくるのがテンシという人間なんですよね。そういう相手だからこそ他の誰よりも強く惹かれている、ということでもあるし、自分の側の思い入れが強い相手だからこそ、気づける筈のことに気づけない、ということでもある。一番よくわかっている筈の相手のことがわからない、一番よくわかっている相手だからこそわからない、という不思議さ、面白さ。

ヴィオのひねくれた言動って、もちろん本人のポリシーでもあり嗜好でもあるのですが、彼女が根本的には他人と近づくのをとても怖がっている人だから、という部分があると思います。ルネとの関係にわかりやすく現れていますが、他人から好意を向けられる、他人から距離を詰められることに慣れてないし、自分の側から距離を詰めることにはもっと慣れてないのがヴィオ。知らない相手に対して最初の一歩を踏み出すことを苦手としているテンシに対して、相手と距離が近づけば近づくほど、素直になれない、まっすぐ打ち明けられないことが多くなっていくのがヴィオ。

きっと、この二人の関係も、何もかも通じ合い、うまくいっている面ばかりではない筈です。テンシの性格って、たぶん時としてすごく無神経で、まったくなんとも思わずに相手の気持ちを踏みにじってしまうような側面を抱えていると思います。けれども普段、ヴィオ以外の相手に対してはそういうことが起こらないのは、人見知りでもあり基本的に優しい子であるが故もあって、ターシャやシャナやチルのようなもっとも身近で親しい相手も含めて、他人に対して一定の遠慮や礼儀をもってテンシが思考し、行動しているからだと思います。
けれどもそんな中で、この世でたった一人、自分が何の遠慮も節度もなしにまったくの身内として接していい相手だ、とテンシに認識されているのが、ヴィオという存在で。だから、テンシの抱える他人にとって理不尽な側面というのは、ヴィオの前だけに、ヴィオ以外には気づかれない形で現れ、ヴィオだけしか知らない、ヴィオにしかわからないテンシと一緒に暮らすことの辛さが、存在する筈だと思うのです。他方で、テンシの側からすると、ヴィオが何を考えているかわからない場面が、しばしばある。なんでもない会話をしていた筈なのに急に拗ねだしたり怒り出したり、何の説明もないまま意味のわからない行動を取られて狐につままれた気分になったり。テンシがヴィオにとって理不尽である時、ヴィオもまたテンシにとって理不尽なのです。
互いに相手を理不尽に思う時があって、それでも関係がまったく揺らがないのは何故か。上で言及した、ヴィオが無理やり空に連れて行かれた時も、それが終わった後の局面で、全く普段通りの調子で二人は会話していました。からかい合うのはお互い様だから、ということもありますが、おそらくヴィオは、テンシのそういう、時として自分の気持ちをわかってくれない理不尽さ、まで含めてテンシらしさだと認識して、それを受け入れているんですね。テンシの側も同じで、時として何を考えているかわからない理不尽さ、まで含めてヴィオなんだと認識している。だからこそずっと一緒に居られる、ということでもあるし、だからこそ互いにそれ以上相手に踏み込めない、ということでもあるでしょう。

すぐ近くで見ているターシャからすれば、二人のそんなところがちょっともどかしくって、ヴィオちゃんもっと素直に本音をぶちまけちゃいなよ! と感じたりもするわけだけど(ターシャのその意見自体、酔っぱらって初めて表に出てきた "普段は聞けない本音" だというあたりがまた、なかなか複雑ですがw)、でも、ヴィオが、このままの関係でいい、気づかれなくていい、変わらないままのテンシでいい、と感じるのも、よくわかるんですよね。だって、今のままの関係で、こんなに幸せで、こんなに満ち足りていて、 こんなに居心地がいいんだもの。これ以上の近さなんて、想像できないし、なくたって充分だし、自分が踏み込むことで今の関係が壊れてしまうかもしれないのが怖い。
テンシは、そりゃたしかに、人の顔色を読むとか、本音と建前を見分けるとか、惚れたはれたの感情に勘づくとかいうようなことに関してはまったくニブい人です。でも、ヴィオが本当に必要としている時、ヴィオが本当に必要としているものを、決して見逃さない、決して見捨てない。そういう人です。いや、見逃す見逃さないとか気づく気づかないというよりも、考えるまでもないかのように、ごくごく当たり前のように、いちばん大切なものを捕まえて決して離さないでいてくれるのがテンシという人で、説明するまでもなく、説明されるまでもなく、二人はいちばん大事なところで通じ合えている。だから、このままでいい。テンシが生きて、自分の隣にいて、そして自分はテンシが好きだということ。それだけわかっていれば、ヴィオは生きていけるのです。

だからなんだというと、私には、二人は今後こうなるべきだ、こうなってほしい、という意見は特にないのです。ただただ、もう少しでも長く、できるだけ多く、彼女たちの姿を見ていられたらいいな、と願うだけで。
ただ、そうですね、今回を見ていてひとつわかったのは、私はテンシとヴィオの関係で何が好きって、もちろん茶化しあい、憎まれ口を叩き合っている時の二人も、ドタバタしょうもないケンカや意地の張り合いをしている時の二人も、お世話を焼いたり焼かれたりしている時の二人も、シリアスな場面で阿吽の呼吸で通じ合っている二人も、全部が大好きなのですが。何より、テンシに思いがけず優しくされて、居心地悪そうに照れている時のヴィオが、たまらなく好きなんだな、ということ。だって、そんな時の彼女は、世界中の誰のどんな時よりも、幸せな顔をしていると思うから。だから、テンシさんにおかれましては、どうぞこれからも、ヴィオちゃんを存分に照れさせて、困らせてやってください、と思っています。




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