「偶」と書いて「たまたま」と読む


アニデレの24話についてはですね、私としてやらなければならなかった作業はすでに終わっているので、すぐにまた何か書こう、という予定はなかったのです。
が、これから書く内容に引き付けて言えば、ブログというものも、自分ひとりだけで完結しているものでもないだろう、ということで、いくつか思ったことを書いておきます。

アニメ版シンデレラガールズのネタバレを含みます。







アニデレと言いつつ、のっけからアニデレの話じゃないんですが。
アイマスのゲームのPV、あるいはそれを素材にしたニコマスのMADを見ていて、私は何度か考えたことがあります。ゲームのPVって、DSを別にすると、あるいは、そもそも場所がステージではなかったりするシャイニーフェスタやOfAの映像を別にすると、カメラは舞台だけを写していて、客席が映るということがない。
で、もし何かの魔法でこのカメラを自分が自由に動かせるようになったとして、ぐるっと回してステージと反対側を写した時、そこには、ちょうど現実のライブで声優さん達に対するように、サイリウムを振り、コールを掛け、拍手を送り、熱狂している群集の姿が映るんだろうか?

そんなものはない。そこには誰もいないんだ、というのが私の感覚で。じゃあ、何がそこにあるんだと言われたら、よくわからないんだけれども。
ただ、3Dの彼女たちは、誰の声も届かない、彼女たちだけの世界でああやって踊っているのだ、と。それは本来、我々生きている人間には手の届かない隔絶された世界で遂行される、なにか大切な儀式であって。本当は自分には見ることができない筈のものを、ゲームあるいは動画という窓を通して覗き見しているんだ、と。そういう感覚が、私にはずっとあるのです。

だから、私にとっては、アイマスにおいて、画面にお客の姿が見えないとか、音の中にお客の反応が聞こえないとかいうのは、何の違和感もない、というより、そちらの方が自然だと感じられる事柄です。
まあ、アニメにおいて、キャラクターを取り巻く周りの世界の存在が迫真性をもって感じられない、ということがアニメの作りとして良いかどうかは別の問題として、"アイマスとしては" 私はそれをあまり疑問には思いません。
何の話かというと、24話で島村卯月のステージ中に、ファンの反応が見えない、聞こえない、ということが議論になっているそうで。たしかにそれは、物語的にどういう意味を見い出せるか見い出せないのか、つじつまが合っているのか合っていないのか、という点ではいろいろ論じがいのあるテーマだと思いますが、私にはそもそも、ごく当たり前で自然なことのようにしか感じられなかったんだよなあ、という話です。


アニデレ2期でずっと、私がもっとも気になっているのは、21話の『秘密の花園』をめぐる表現なんですが。21話放送当時には、ここで『秘密の花園』が持ち出されたことは、単に21話の中でストーリーを円滑に進めることだけが目的かもしれなくて、『秘密の花園』がアニデレ全体の中でどれほど意味を持つものなのかわからなかったので、保留にしていたんです。
で、しかし、24話まで見ても、『秘密の花園』とアニデレ全体がどう関わっているのか、関わりがあるのかどうか、やっぱりよくわかりません(笑)。なので、特に結論もないままに、気になったことをそのまま並べておきます。

まず、「魔法」という言葉そのものについて。「シンデレラ」における「魔法」は期限が来ると自動的に解けて、パーティが終わりになるもの。この、誰かによって掛けられて、時間が経つと解けるもの、という「魔法」のイメージは、「シンデレラ」に限らず、結構いろんな物語で見かけるし、視聴者にとっても「魔法」という言葉から思い描きやすいイメージだと思います。

たとえば、アニデレ1期の放送当時のはじC氏の記事は、「シンデレラ」の「魔法」に絡めて、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』 を引用されていました。『トムは真夜中の庭で』はまさしく、真夜中のある特別な時刻に扉を開けて「庭」に出ると、特別な素晴らしい時間を過ごすことができる、けれども、その特別な素晴らしい時間は永遠ではなく、いつかは終わってしまう、というお話です。
ごく大雑把にまとめてしまうならば、時の流れは止めることが出来ないもので、特別な素晴らしい時間にも必ず終わりがある、ということを自覚した時に初めて、その時の流れをも超えて永遠なものが自分の中に宿っていることに気づける……というのが、この作品において、"魔法が解けた" 先にあるテーマだと思いますが、ともかく、はじC氏は、「シンデレラ」的な「魔法」像を踏まえて、それと符合する話の流れを持つ作品を的確に引用されていたわけです。

ところが、『秘密の花園』における「魔法」像は、”時間が経つと解ける” もの、という「シンデレラ」的なイメージとは根本的に異なったものです。以前に書いた通り、『秘密の花園』における「魔法」という言葉の意味は、話が進むに連れて拡張して多義的になっていくところがありますが、人間や生き物が生まれ、育ち、生きていく力そのものこそが「魔法」だ、というのが基本です。ゆえに、『秘密の花園』における「魔法」は、"魔法が届いていない・伝わらない状態"、"魔法を感じられない・信じることができない状態"、はあり得ても、"「魔法」が解けた状態""「魔法」が終わった後" というものは想定されない存在です。
だから、21話で本田未央が『秘密の花園』を踏まえて「魔法」という言葉を使った時、それは「シンデレラ」的な「魔法」の枠を踏み越えたものを含んでいると思う……のですが、24話を見た後に振り返って、そのことにどんな意味があったのかな、と考えるとよくわからないな、という話で。

もう少し細かい話をすると、以前の記事で私は、未央の「外は宝物でいっぱいだって。そうよ、空は高くて、ハリエニシダやヒースやバラが芽吹いているの。」という台詞を引いて、しかし実際には『秘密の花園』の登場人物たちは屋敷の外へは出て行かないこと、また、「ハリエニシダやヒース」と「バラ」を並列に並べることで、この台詞において「開かずの庭」=屋敷の奥深くに秘められた世界、と、「ムーア」=屋敷の外に広がる世界、とが混ぜ合わされたイメージとして「外」が語られていることを指摘しました。
また、同じく未央の「恐れずに踏み出せば、花園は、わたしたちを待っていてくれるわ!」という台詞の中の、「恐れずに踏み出す」という言い回しが、原作中には見られない表現であることも指摘しました。

屋敷の外からやってきて屋敷に住み着き、「開かずの庭」へ至るメアリ。屋敷の中を探し歩いて、奥深くにあるコリンの部屋にたどり着くメアリ。さらに、コリン、ベン・ウェザースタッフ、そして最後に旅から帰ってくるクレイヴン氏、と、物語が進むに釣れ、「開かずの庭」へ吸い寄せられていく人間は増えていきます。
"内から外へ出て行く" という動きを想像させる未央の台詞とは逆に、原作において、特にメアリを通して強調されているのは、屋敷の中心にある「開かずの庭」へ人が入り込み、集合していく、という "外から内へ入っていく" 動きです。

一方、「恐れずに踏み出す」="後ろから前へ"という動きを強調する未央の台詞に対して、原作のコリンにおいて強調されているのが、"下から上へ" という動きです。
寝たきりの状態から"起き上がる" コリン。車椅子から降りて”立ち上がる” コリン。(そうした動きは、植物が地中から生えて"上へ"伸びていく動きと呼応しています。)対して、屋敷の玄関から初めて出る、「開かずの庭」に初めて到着する、など"前に進む" 動きをする場合、コリンは車椅子に乗って誰かに動かしてもらう状態なので、"進む""踏み出す" という要素は必ずしも強調されないのです。

原作の "外から内へ" に対して、未央の"内から外へ"。
原作の "下から上へ" に対して、未央の"後ろから前へ"。
原作で強調されているのとは異なったベクトルの動きが、アニデレ21話においては抽出され、強調されている。おそらくは、意図的に。ただ、なんでわざわざ『秘密の花園』という作品を選んでそういうことをやったのかは、私にはよくわからない、ということで。

ひとつ言えるのは、"『秘密の花園』そのもの"と、"21話の本田未央が『秘密の花園』から受け取ったもの" は違うのかもしれないね、ということ。さらには、"本田未央が提示した(つもりだった)『秘密の花園』" と、"島村卯月が受け取った『秘密の花園』" もまた、食い違っていたのかもしれないね、ということ。(卯月が3人での読み合わせの中で喋っている台詞が、原作中の誰を演じているとも言いがたい曖昧なものである、という点は、以前の記事に書いてあります。)

『秘密の花園』をめぐって言えば、あとはまあ、そもそもアニデレにおける「外」、この物語における "外側" って、一体何だろうね、とか。
あるいは、24話では、台詞としては「前に進む」という言葉が強調されていますが、実際の卯月の動きを見ていると、閉ざされた地下から明るい地上へ、階段を駆けて上へ、という"下から上へ" の要素も結構あるんだなあ、とか思ったりしつつ、映像畑の分析は自分の領分じゃないなと思って、私はそれ以上考えていませんが。
そういうわけで、断片的にあれこれ気を惹かれる事柄はあるのですが、結論らしいものは私にはないので、『秘密の花園』とアニデレの関係について、こうなっているんだよ、と読み解いてくれる文章があったら、是非読んでみたいところではあります。


cha73氏の、「禅」と絡めたアニデレ語りの記事を読んで。
例によって細かい話なんですけど、冒頭の<卯月に何が起こったか>という節で、
「ステージに立つところまでは、みんなに導かれて、でいいと思います。」という表現を読んで、ちょっと考えこんでしまいまして。

私はむしろ逆で、「ステージに立つ」のは、卯月が「ひとり」でやったんだと思ったんですね。「ステージに立つ」までは「ひとり」で、「ステージに立」ってみると、周りに「みんな」がいたんだ、と。
制服で舞台に立ってスポットライトが当たった瞬間の卯月を、私は「ひとり」だと感じました。そう感じた次に、サイリウムを持って客席にいる仲間たちの姿が目に入ってきた。それで私は、ステージ以前=「ひとり」/ステージ以後=「ひとりじゃない」という構図を、頭の中に思い描いた。
で、考えてみるとそれは、武内Pの言葉に沿った捉え方なんですね。録画とかメモとかしないで見てるんでうろ覚えですが、武内Pは卯月に対して、「前に進む」のかどうか、「選択」するのは「あなた自身」だと言った。そしてその後のモノローグで、武内Pは、けれども「進んだ先」で「あなた」は「ひとり」ではない、私たちがいるんだ、と語っています。

ただ、いま一度思い返してみると、あれは本当に、「ステージに立つ」以前・以後という切り分けで簡単に整理できるイベントだったんだろうか、という気がしてきます。
まず、階段を駆け上った卯月が凛・未央と武内Pの前に現れて思いの丈を喋る。これが第一段階。凛・未央と会話した後で、卯月がステージに出て行く。これが第二段階。客席の仲間、舞台袖で見守る凛・未央、プロンプを出さない武内Pがあって、卯月が歌い出す、これが第三段階。
第一段階、階段を駆けている卯月、この瞬間の卯月は、状況として、映像としては完全に「ひとり」ですが、しかしこの時、この映像には、武内Pの ”進んだ先でひとりではない” という言葉が乗っている。第二段階の卯月は、凛・未央と手をつないで、二人の「ひとりじゃない」という言葉を背中に受けながらステージに出る。3段階のどれも、卯月にとって強い決心の必要なアクションだった筈で、そしてそのそれぞれに、周りの人間が卯月に働きかける要素が存在している。
思うに、ステージ以前/ステージ以後、「ひとり」/「ひとりじゃない」という切り分けは、あくまでプロデューサーの側の視点で眺めた時のこのイベントの見え方であって、それは必ずしもアイドル自身に見えているものと同じではないんじゃないだろうか。

で、以下は、じゃあ私としては、アニデレ24話がどういう物語だったと思うことにしようか、という話です。

卯月がステージに出る直前の、「ニュージェネレーションズ」の3人。この時の彼女たちは、今までアニマス・アニデレのアイドルたちが何度もしてきたような、輪になってみんなで顔を見合わせて声を掛け合って手を合わせて、なんてことをしない。卯月も凛も未央も、互いの顔は見ない。そして、これから実際にステージに出るのは卯月「ひとり」だけ。
お互いを見合う、のではなくて、卯月も凛も未央も、同じ方向を向いている。3人とも前を、ステージを見据えていて、3人で手をつないで、そして卯月が、一歩を踏み出す。
24話の卯月・凛・未央は、「みんなで、いっしょ」に舞台に立ったわけじゃない。ただ、凛も未央も、あの瞬間心の中で、卯月と同じように、一歩を踏み出し、「ひとり」でステージに向かったのだと思う。「みんなで、いっしょ」は、「ひとり」で舞台に立つ卯月の助けにはならない。そうではなくて、あの時、凛は凛「ひとり」で、未央もまた未央「ひとり」で舞台と向き合うことによって、卯月が出た舞台は、卯月「ひとり」のものでありながら、卯月が「ひとり」であることそのものによって凛も未央も同じところに居る、「ひとりじゃない」舞台だったのだと思う。

その後に起こったこともまた、同じで。アイドルたちは何故、客席から声援を送っていたのか。彼女たちは、卯月がいなくてはここまで来られなかった自分たち自身のために、迷ったり道を見失いかけたりしながらステージに立とうとし続けてきた自分自身のために、ステージでは「ひとり」であることを知っている自分のために、「ひとり」でステージに立っている自分そのものをステージの上に見て、その自分自身を応援していたのだ。
凛は何故、歌い出した卯月を見て泣いたのか。彼女は、卯月を信じ、ステージに「キラキラ」したものがあると信じた自分自身のために、信じた筈のものを無くしていた、見つけた筈のものを見失っていた自分自身のために泣いたのだ。

それらの声は、すべて、「ひとり」である自分が自分自身のために発した声であるという点において、「ひとり」でステージの上に居る卯月と繋がっている。卯月を応援しているものもまた卯月自身であって、だから、あれは必ずしも現に客席に仲間が実在している必要はなくて、卯月が卯月の心の中で思い描く世界であっても成立したんだと思う(その場合、それはアニマス24話で春香が見た景色と同じ構図になる)。
けれども、アニデレ24話においては、卯月は、客席から現に送られてくる声の中に、自分自身の声を聴き取った。聴こえた時、それはステージ上にいる卯月自身が発する声に変わり、歌となった。

まあ、アニデレはこういう話ですよ、と言いたいというよりも、単純に、「ひとり」であることと「ひとりじゃない」ことの関係を考える、というのが個人的な最近のテーマなもので。その具体的なきっかけはダブルクロス動画における「欲望」と「絆」の関係であったり、無印の春香とSPの春香をどう結び合わせるか、ということだったりするわけだけれども、最近考えていることをアニデレに当てはめてみると、こうなりました、という話です。



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