問題は「笑顔」ではなく、


フリージアP『アイドルマスターfake story』、天才カゴシマP『無免許&轢き逃げ 逃避行』のネタバレを含みます。
アニメ版シンデレラガールズ24話のネタバレは、あんまり含みません。



ワイルドラン ギャートルズ 1:18 のコピー

(ワイルドランP アイドルマスター×ギャートルズ (09年04月24日) より)





アニデレの島村卯月さんの、「私には何にも無い」という台詞を聞いて、まっさきにこれが思い浮かんだのは、ええ、大変申し訳ないと思っております。

……というのはともかくとして。昔の765プロの11人のアイドルで、自分に「何にも無い」ことがテーマになったキャラクターがいたかな、と思い返すと、誰も当てはまらない。まあ、世界に11人しかアイドルが居ない時代には、全員が特別な才能を持った選ばれた存在であって当たり前だし、誰かだけが置いてきぼり、打ち捨てられたままになるかもしれない、というのもテーマになり難かった、と。
自分の中のある一面に自信が無い、コンプレックスがある、というキャラクターは多い。ただしそれは例外なく、別の一面についての強烈な自負とセットになっている。世渡りなんか出来ない、歌以外への対応力なんかない、でも歌では誰にも負ける気がしない、という千早とか。可愛さやスター性なんか持っていない、でも分析力や戦略を立てる力で全部覆せる、という律子とか。運動も泥臭い仕事も嫌いだし頭の良さでは家族に敵わないが、でも自分は超絶美少女だから、という伊織とか。まあ、ここらへんはパラメータで言えば早熟型のキャラクターなので、尖り方がわかりやすい。晩成型の、雪歩とか、やよいとか、あずささんとかだともう少し捉えにくいけれども、彼女たちの場合にも、こだわりだったりプライドだったりする部分と自信を持てないと思っている部分が入り混じって併存している。
で、春香さんもそうだよね、と書いただけで話が終われば簡単なのだけれど、それでは済まないからこの記事がある。……というより、"それでは話が済まないから、私が春香さんのことを書くしかない" という物語の中を生きることによって、このブログが成り立っている部分があるわけですが。

私の、春香さんについての前からの主張として、私は春香さんを「普通」だと思ったことはない、というのがあります。同様に、「無個性」だと思ったこともないし、「象徴」だとも「リーダー」だとも「センター」だとも「主人公」だとも「メインヒロイン」だとも、思ったことはありません。「ヒーロー」というものを、たとえば "世界の危機に際して自動的に浮き上がってくる泡のようなもの" と定義するのであれば、私は天海春香を「ヒーロー」だとは思っていない、ということです。
何故かというと、私は天海春香を、そういう "設定" "機能" "役割"であるより先に、一個の人間として、一つの個性的な人格として、感じているからです。これは理屈というよりは、私自身のアイマス体験によって来たる、感覚的なものです。彼女はどんな時に笑い、どんな時に泣き、どんな時に怒り、どんなところにプライドがあって、どんなことが嫌いで、どんな風に突き抜けていて、どんな風に理不尽で、どんな風に面白くて、どんな点ではつまらなくて、どういうところが自分にはわからないか。そういう細かいイメージが集積した総体として、私は天海春香という人格を思い描いている。
まあ、それが私の天海春香観のすべてかというと、私の春香観にはいくつかの軸があって、これはその中の、”ゲームの中の天海春香” を見る時の軸だ、ということになりますが。

たとえば、春香さんはなんで「アイドル」なんかやってるのか、という問題。私は、「歌」「好き」「お仕事」という、3つくらいの言葉を使って、この問題を理解しています。
「アイドル」になりたいのか、「ステージ」に立ちたいのか、という意識が最初にあるのではなくて、いちばん最初にあるのは、「好き」という気持ち。「歌」を歌うのが「好き」で、楽しい。いろんな人と交流するのが「好き」で、楽しい。今まで知らなかった新しい世界に出会えるのが「好き」で、楽しい。だから、自分の「好き」をたくさん実現できるような「お仕事」がしたい。
従って、人からは「アイドル」と呼ばれる、今彼女がしている「お仕事」が、その条件をみたすものであるのは確かだけれども、春香自身が思い描いている "自分がなりたいもの" のイメージは、今している「お仕事」の形態、内容に縛られているわけではありません。
春香自身がなりたいものは、"大人っぽいジャズをしっくりじっくり聴かせる歌手"でも、"周囲にチヤホヤされて、週刊誌に取り上げられちゃったりする芸能人" でも、"歌のパティシエ" でも、"台所で鼻歌を歌いながら楽しそうにお菓子作りをするお母さん" でもありうるのです。実のところ、春香さんの中で「アイドル」なるものについて、その名称に対してもその活動形態に対しても、どれほどのこだわりがあるかは疑問です。
ただ、春香にとっていろいろ「好き」なことがある中でも、特別な位置を占めているのが「歌」というもの。何よりも「好き」なのが「歌」を歌うことだから、いつも「歌」と共にある人生を生きたい。それは家の中で歌うお母さんであっても、公園で歌うお姉さんであってもいいのかもしれないが、より多くの人に歌いかけられて、より多くの人と「歌」を「好き」な気持ちを共有できたら、もっと楽しい。だから「アイドル」、それもライブハウスよりはアリーナ、アリーナよりは武道館、武道館よりはドームで公演できる「アイドル」になりたい。そしてドームに一杯のお客さんを集められたとしてもそこが終点ではなくて、ファンの前でもっと、ずっと歌っていきたい。
すなわち春香自身が使う言葉に即して彼女がやっていることを説明するならば、春香は「歌」を歌うのが「好き」だから、「歌うお仕事」をしている、ということになるのです。

だから、自分が今何をしているのか考えたら、自分に何があるのか、とか「キラキラ」できるのかどうか、とかじゃなくて、自然にまず真っ先に、"これがやりたい"、 "これが楽しい" 、「好き」という気持ちが浮かび上がってくるはず。私が春香さんを見ていて確立した、「アイドル」についての認識はそういうものなのです……というところで、 "ゲームの中の天海春香" をめぐる復習は一旦止めて。


私の中での春香さんをめぐる別の軸として、"ステージの上の天海春香"を見る時の軸、というのもあります。"ゲームの中の天海春香" を見る時の私の原点にあるのは、ななななな〜Pの動画や文章ですが、"ステージの上の天海春香" を見る時の原点にあるのは、ぽりぺくんPの動画です。

ぽりぺくんP THE iDOLM@STER アイドルマスター 天海春香 太陽のジェラシー M@STERVERSION (07年04月08日)


ステージの上で、なんでもない制服を着て「太陽のジェラシー」という歌を歌う春香さんの、歌声を聴いて、踊る姿を見て。気持ちいいと思った、かわいいと思った、美しいと思った。それが、全ての原点。「太陽のジェラシー」をめぐっては、もっと演出に優れた動画も、シンクロに秀でた動画も、深くストーリーを読み込んだ動画もその後に登場していますが、私にとっては、これ以上何も足す必要はない、足すべきではない、ここが原点で究極。
前にも言ったことがありますが、当時の私は、こういう普通に可愛い春香さんをいいと思っている人はニコマスの中でごく少数で、ほとんどの人は春香と言えばネタで腹黒くてミジメで人気の無いキャラだと認識しているのだと、信じ込んでいました。誰も"本当の天海春香" を知らないこの世界で、だけどいつの日か、春香さんが、私の心を奪った「太陽のジェラシー」というこの曲を歌って世界に自分を認めさせる日が来るんだ……、という物語を脳裡に思い描いて、私は生きてきた。それは、"ゲームの中の天海春香" について、人間天海春香を本当に理解しているのは私だけで、でもいつかそれを世界に理解させるんだ、という物語を思い描いてずっと生きてきた(そして、今でもその物語は私の中に棲み付いている)のと相似形をなしていて、そして両者は、「歌」というものを接点にリンクしています。

さて、春香さんの「太陽のジェラシー」をめぐっては、たとえばこういうノベマスがあるわけです。

フリージアP アイドルマスターfake story (08年01月27日〜最新08年12月08日)

フリージアPの「アイドルマスターfake story」第一部。アイドルユニット同士のステージバトル、最後に春香のユニットと美希のユニットが残った決勝戦で、美希が「relations」を歌い春香が「太陽のジェラシー」を歌って、春香が勝って終わる。筋立てとしては、そういうお話。
この、春香のステージが描写される決勝戦の回については、当時カズマ氏の文章が、私には何も言い足せる部分が何も無いくらい、鋭利に読み解かれているので、カズマ氏の表現を引用しながら話をしましょう。

fake storyの感想を書いてみる ■アイドルマスターfake story 第九話 : フリージアP - 続・空から降ってくるので

作品の見せ場中の見せ場、と言うべき回を、カズマ氏はこう総括します。

「『良くも悪くも現在の自分が滲み出たパートだと思います』というフリージアPの作者コメは、その通りだなあと。」

「良くも悪くもの部分が出てしまったパートだと、僕も思うんです」

なぜ「良くも悪くも」なのか。それは、この決勝戦で試みられていたこと、ひいては「fake story」という作品において一番大事だったことは、「『出来るだけ何もしない』事」、「『アイドルマスターという素材の力』を信じる事」であった筈で、にも関わらず、この決勝戦の春香のステージは結局、それを貫徹できなかったからだ、とカズマ氏は書きます。

何も足さない、ただのノーマルPV、というアイマスが生み出した素材の力を信じる。信じて、ノーマルPVをそのままストーリーの流れの中で見せるだけで、それがこの上なく魅力的なステージであることを視聴者に伝える。それが「fake story」という作品の根本であって、けれども、もっとも純粋に「素材の力を信じ」るべきだった筈の、大トリの春香のステージで、「ノーマルPVそのまま」であることに徹し切れなかった。

カズマ氏はこれを、「つい、文字に頼ってしまわれた」「ステージの傍観者たる人物達に『語らせ過ぎた』」と、演出の面、テキストの面に着目して説明されています。私も全くその通りだと思うのですが、なんと言っても私がいちばん衝撃を受けたのは、"ステージの途中で、春香の声じゃない全くの別人が歌っている、「太陽のジェラシー」ではない全く別の曲に、音声が差し替わる" という部分でした。
物語上は、春香の歌の魅力というものが、初めて広く客席にいる人全体に伝わってみんなが春香のステージに夢中になる……という場面で、しかし絵として、音として表現されているのは、演出の工夫、文字による煽り、全くの別人の歌唱による補強、そういうものをたくさん足して、ようやく成り立っている ”春香のステージ”。

なんでそういうことになったのか、という点もカズマ氏は的確に指摘されていますが、私は、より身も蓋もない言い方で説明することにします。
だって、冷静に考えてさ、春香の「太陽のジェラシー」のノーマルPV置いて、これが他のどんなアイドルのパフォーマンスも及ばない、誰もを夢中にさせるステージです、さっき見せた美希の「relations」より凄いでしょう、と言ったところで、視聴者が納得するわけないじゃないですか。視聴者みんなに、いやあ盛り上がるクライマックスだったねえ、最後の展開素晴らしかったねえ、と納得して帰ってもらえる動画にしようと思ったら、そんな選択をできるわけがない。劇中の言葉通りです。

「全ての人の心を掴むステージなんてありえない……!」

でも、私はこの回を見た時、これは春香さんの物語なんだから、最後はただ単に、春香さんが「太陽のジェラシー」を歌うノーマルPVであるべきだった、と思った。こんなのがクライマックスってありか、前回の美希のステージの方がよっぽど凄かったじゃないか、と視聴者に石を投げられてもいいから、そうあって欲しかった。
まあ、私は春香ファンで、「太陽のジェラシー」が好きな人なので、こういうことを思うのは当たり前なんですが、カズマさんはただ単に、この作品はどこが面白いのか? 何を表現しようとしている作品なのか? と突き詰めて考えるだけで、ああいう答えにたどり着いているわけで、なんというんですかね、そう、ニコマスは凄い場所だね。

フリージアPの動画は、私がノベマス見始めた初期に出会ったものですが、その後のノベマスと「太陽のジェラシー」の関係というと、映像どうこう音声どうこうではなく筆一本でステージをどう表現するか、という陽一Pや にわPの世界を別にすると、「大腸のジェラシー」音源との関わりが主ですね。
今いちいち系譜を並べたりはしませんが。口では、"うまくなくても楽しそう" なのが春香の歌の魅力、"うまくなくても聞く人を笑顔にする" 力があるのが春香の歌、ってなことを言っておいて、春香に歌わせて「大腸のジェラシー」音源を流してみんながズコー、ワッハッハ、というネタはしっかり入れておく……という作品をノベマス史上に数え上げれば、枚挙に暇がありません。
そういう風潮がいつ頃薄れて消えていったか、今から厳密に辿るのは難しいですが、08年的なノベマス春香ネタの影がめっきり薄くなったのは、アニマスを経た2012年頃だったでしょうか。その後はどうなったか。わざわざ遠い昔のライブ音源を引っ張り出してネタにされることもない代わり、春香の歌って一体どうなんだ、なんてことがそもそもテーマにならない、表現されない、という時代がやってきて、今日まで続いています。
ただまあ、ノベマスにおけるネタな春香さん、というのは、そんなようなオチもケジメも何もないような流れが全てかというと、決してそれだけではありませんでした。というよりも、一番くだらなくてどうしようもないような流れの中から生み出されるものにこそ、真価があったりするもので。「大腸のジェラシー」ネタもまた、動画の中でまともに切り結んで何かを生み出した人がいるのです。

天才カゴシマPの『無免許&轢き逃げ 逃避行』という動画は、春香の歌に対して、うまくないけど楽しそうだから、うまくないけどあったかい気持ちになれるよ、そういうおためごかしを一切言わない。要するに、こいつの歌って下手糞なんだよな、聞くに堪えない歌声で、笑い者になっているだけなんだよな、というところから出発する。当然、この春香さんには、まともに「ステージ」に立って歌を披露する機会なんて、待っていても全然訪れなかったわけです。
けれどもそんな春香さんが、劇中で一度だけ、自分からマイクを握って歌おうとする場面がある。


カゴシマ 無免許轢き逃げ 4 1:54 のコピー


その時、彼女が思ったことは二つ。今目の前には、歌を必要としている人間が居る。そして、私の歌声には、人を幸せにし、想いを届ける力がある筈。
そう信じて、自分は「アイドル」になれる筈だと本気で信じて春香が歌い出した、まさにその瞬間に流れるのが「大腸のジェラシー」の音源だ。当然、その歌声は誰を感動させることもなく、ただ場をめちゃめちゃな大混乱に陥れただけで終わる。
そういう情景を、表面上ひたすら馬鹿馬鹿しいギャグであるかのように描いて、そしてその上で、こんな春香さんが自分にとって「永遠のスーパースター」だと言ったのが、天才カゴシマPの『無免許&轢き逃げ 逃避行』という動画でした。

まあ、私も投稿当時にノベマス史上の位置づけとか、ここで「大腸のジェラシー」が流れた意義、なんてことを考えてこの場面を見ていたわけではなくて、当時はただ、この絵、この話の流れの中に置かれるのだったらこのネタもアリだな、と思っただけだったけれども。
今にして思えば、あの歌は、歌が下手で、歌で笑い者になってきたすべての春香さんのために歌われていて、あの歌に行き着いたからこそ、カゴシマPが引き受けて今も抱え続けている業があるからこそ、ノベマスの「大腸のジェラシー」ネタは過去の存在になることが出来たんだな、と。


話変わって、10月2日に私が書いた、「絆」と「欲望」が云々と始まる記事は、元々の構想では、一本の東方動画の話に行き着いて終わる設計になっていました。けれども実際にはそうなっていないのは、アイマスの話はアイマスの話としてまとめた方が通りが良かろう、という戦術的な都合によるものです。だから、結果としてあの記事は、最後になって着地点が見失われているところがあるのですが、書きながら話の落ち着きどころを探す状況だったがために、自分の中でわかったこともあります。
それは、今の私は、SPの春香さんが「ひとり」でステージに立ち続ける "覚悟" を決める、という場面も、アニデレで島村卯月がステージに立つ "決断" をする場面も、別に見たいと感じていないんだな、ということ。もっと言うならば、"ステージに全ての答えがある"、"ステージに立つことで全てが始まる"、そんな物語を、別に見たいと思っていないんだな、ということ。

もちろん、かつての私はそうではありませんでした。SPパーフェクトサンの春香シナリオをクリアした当時、結局何も書き残さなかったので文章としては記録されていませんが、私は、怒っていたんです。
響ちゃんに勝っちゃった、プロデューサーさんはこれからも私のそばに居てくれますよね? そんなエンディングはいらなかった。
我那覇響にはどうやっても勝てなかった、プロデューサーは結局春香を選ばなかった。それでもなお、天海春香は歌い続けるのか? この物語に本当に必要だったのは、そういう問いを突きつけられて、そして春香がその答えを見いだす、そういう結末だった筈なのに、何故それがゲームの中に存在しないのか。
公式がそれを描かないならば、せめてニコマスで誰かがそれを描いてくれないだろうか。以前、ヨルPの「才悩人応援歌」をさして、SPの春香さんでこんなステージをやってくれる動画があったらいいのに、と書いたことがありますが、背後にあったのはそういう文脈です。(ちなみに、たぶん同じ時に書いた気がしますが、SP春香さん動画の最高傑作は吊氏の「ナミダノコエ」だと思っています。)

それが、気がついたら自分の中で、どうでも良くなっていた。"ステージに立つ" とか、"前に踏み出す" とか、"自分で答えを見つける" とか、もう、いいよ、そういうのは。ひとりじゃ何にも決められないダメ人間のままアイドルやって何が悪いんだ、アイドル諦めてステージに立たなくて何が悪いんだ、という気分に傾いている自分に気づいた。
……まあ、弱い人間が傷をなめ合うことを肯定する、というのはたとえば愛識Pの動画でよく出るテーマで、ステージに立たないことを選んだ人間のことを想う、というのはたとえばDianaPの動画に見られるテーマで、そういう作品について記事を書いたこともありましたが。

そんな心境に至ったひとつの理由は、ニコマスと自分の関係との変化だと思います。かつては、世の中の流れがどう揺れ動こうとも、ニコマス動画の中でひとりで歌い踊り続けていく春香さん、そしてニコマス動画の中で歌い踊っている春香さんを見ているだけで満ち足りていられる自分、という世界を思い描けた。けれども、春香動画の現状に鑑みて、もうそんな展望は自分の中に持てないので。
そして、アニデレ24話を眺めていて気づいた、いま一つの理由が、問題は

「歌」

だったんだな、ということです。

無印の天海春香の物語は、「歌」が「好き」だという気持ちが始点で、終点です。しかしその、"春香は「歌」が「好き」" という事柄は、L4U!では、歌が好きな気持ちであれば他人に負けないという思考へ、SPではアイドル我那覇響という他人そっくりになりたいという思考へとすり替えられていきます。そして、その後にくるのが、そもそも天海春香に「歌」を語らせない、「好き」から話を始めない、という時代です。
DSはまだ見てないので、脇に置いておくとして。2も見ていませんが、ウィンウィンPがアイマス2をプレイして、「アイドルマスター2」の「天海春香」ってのは、歌がどうだとかアイドルやってて何が楽しいとかいう話を全然しないね、ということを書かれた文章を、私は読んでいます。

そしてアニマスです。今やっていることの理由を聞かれての第一声が、「アイドルになるのが、夢」です。歌がどうだからとか、何が好きだからとか、一言も言わない。24話に至ってようやく、春香の口から「歌」「好き」という語が出てくる。ただしそれも、「アイドルになりたい」(という「夢」)、「みんなで、楽しく」というキーワードの添え物として、です。添え物だ、という証拠は、24話で春香が最後に戻っていく場所が、「ステージ」ではなく、"「みんな」が待っている「事務所」" だ、ということです。
アニマスの春香のストーリーは、誰よりも長く時間を割いて描かれたエピソードでありながら、その中で ”春香が「ステージ」に立って歌う” というイベントが一度も起こりません。「ステージ」に立つかどうかで逡巡する、というイベントも、「ステージ」で歌うことで何かを見いだす、というイベントもありません。
千早には、あったわけです。20話、21話、千早のエピソードは、彼女が「ステージ」に立って歌う、というイベントに行き着いて収束する。まあ当然ではあって、序盤から「歌」のことばかり言っていた千早の話が「ステージ」に立たないで決着したらおかしい。
見比べて、23話、24話の春香のエピソードに、春香自身の「ステージ」がちっとも出て来ないのも、たしかに不自然ではない。だって序盤からここまで、春香が「歌」をどう思っているのかなんて話、ちっともしていなかったのだから。

私自身、アニマスに春香がソロで歌う「ステージ」が一度も出て来ないことを、今日までまったく疑問に思っていませんでした。(私がそもそも、ゲームの3Dモデルが踊るのではないステージシーンなんかどうでもいいと思っていたし、20話21話の千早のステージに別段何の感銘も受けなかった、そこに至る前の春香とのやりとりだけに感動していた、という事情はあるにしろ。)
アニマスは、あるいは2nd Visionのアイマスは、たしかに春香を物語の中心に置いて、濃密に描いてきました。天海春香とはどういう子で、何を思い描いていて、どんなアイドルなのか。ただし、それは春香と「歌」との関係を語らない、春香の「歌」を不問に付すことで成り立っていて、見ている私自身が、いつの間にかその状態に馴れ切っていたのです。


アニメ版シンデレラガールズの24話。「ステージ」に立つ島村卯月を見て、私は今何を見ているのだろう、と思ったんです。今自分が目にしているものは、今自分の目の前で起ころうとしていることは、一体なんなのだろう。
ああ、わかった、これはヨルPの「才悩人応援歌」だ。このアニメは、島村卯月で、あれをやろうとしているんだ。

私はすっかり騙されていたのだ。「笑顔」だの、「輝き」だの、「魔法」だのを、さも重要きわまりない言葉であるかのように振り回すこのアニメのマジックに、目を眩まされていた。
でも、本当に重要だったのは、そんなものではなかったのだ、この物語にとっても、私にとっても。
本当に大事だったものは、"島村卯月の「笑顔」" などではなく、

"島村卯月の「歌」"。

これは、島村卯月がひとりで「歌」を歌うところにすべてが収束し、島村卯月が歌うところからすべてが始まる、という物語なのだ。アニデレは、島村卯月の歌声が、世界のすべてを変える、という物語だったのだ。

それってつまり、私が天海春香と「太陽のジェラシー」で見たいと思っていた物語、そのものじゃないか。私がずっと、見たいと願って、いつか見られると信じて、けれども、陽一P以外の誰も書かなかった、誰にも書けなかった物語。

アニマス24話に春香の「ステージ」は無い。アニデレ24話には、島村卯月の「ステージ」が有る。
アニマスは "天海春香の「歌」" に物語を託さなかった。誰も、"天海春香の「歌」" に物語を託せると信じていなかったからだ。
アニデレは、"島村卯月の「歌」" に、物語のすべてを託した。"島村卯月の「歌」" は、すべてを託すことのできる存在だと、信じた人がいるからだ。

このブログ上で、アイマスコミュについてくだくだ言って突っつき回す人、としての私は、「春香は本当に「歌がうまい」のか。」というタイトルの記事から始まっています。
最初から、私にとって何よりの問題は春香さんの歌のことで、春香さんの歌が好き、というのが私の大事なアイデンティティで、そして「好き」という気持ちがあればいつか届く、というのが私が春香さんから教わった信念で。でもやっぱり、結局それは、ただの「夢」、なんですかね。
いま、私の胸の奥に生まれる、この複雑な気持ちは、なんだろう。

「何にも無い。私には、何にも無い」

という台詞は、こんな時使えばいいのでしょうか。

こういう時、どうしたらいいんだっけ。
うん、そうだ、ニコマスを見よう。





gouzou 君らとの日々を 2:21 のコピー

gouzou 君らとの日々を 2:25 のコピー

gouzou 君らとの日々を 2:28 のコピー

(gouzouP 君らとの日々を この想いを (12年11月09日) より)




関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

 こんにちは。

 S(mile)ING!は生まれたとき、つまりデレマスCDの第二弾として世に産み落とされて、初めて島村さんの声として届けられた時から、いつか、あのように表現されることが予見されていた、そういう歌ですね。そして、未央のミツボシもまた、たとえアニメで表現されることなく終わることになっても、どういう風に絵として表現されることになるかは決まっていると言っていい歌です。凜のネバネバ、島村さんのS(mile)ING、未央のミツボシはそういう運命を背負って生まれた歌としか言いようがない。まあだから、実際にアニメになるかどうかは、大した問題ではないとさえ言える。

 私の中ではそういう風に強い固定概念と化していて、だから、DSの愛ちゃんがラストでどういう風に「ALIVE」を歌ったか、それは多分、CDに収録されてる戸松さんの歌を遥かに超えるものでないといけないんですが、いえ、あのCDの「ALIVE」は私は感動しましたけど、でも、あれは日高舞には勝てないんじゃないか。しかしまあ、私の中で、その日高舞に勝った「ALIVE」は存在しています。

 天海春香さんの「太ジェラ」は、そういう歌としては私の中にはないです。

 まあニコマスとして、私の中に絵としてあるのは東洋人Pの「覚えてていいよ」だったりはするけれども。それはおいといて、天海春香の歌は、ステージの上にある必要は感じていないです。それこそ、何かの拍子に突然マイクを持って歌いだすかもしれない。千早さんがステージで立ちすくんだら、いきなり飛び出して行って横で歌い始めるかもしれない。女の子が泣き出したらいきなり慰めようと歌いだしたりするかもしれない(というのはOfAの追加シナリオですが)。そこに喝采が待っているかはわからないけれど、あまり心配したことはないです。

 天海春香の歌はステージで完結するのではなく縦には時とともに受け継がれ、横には様々な人々を繋げ、伝播していくものではないかというのが、私の腑に落ちるあり様です。私はだから、あまり1人の少女としての春香さんを考えたことがないです。その時その場に応じた春香さんがいて、周囲の軋轢の中でもがきながら天海春香として行動する。私の知っている春香さんは一度もゴールにたどり着いたことがない。あまり、春香さんとはこういうものである、と決めてしまわないほうが、いいように思っています。

 後、矢吹可奈が自分の歌が「地球をぐるりとひとまわりして背中を押すよ」と歌うに至って、ヨルPの精神がこんなところに受け継がれているんだなあと思ったりしています。彼女の歌も、完結することはなく永遠に世を巡り続けるでしょう。

 そして春日未来もまた、どこへ向かっていくのか見えません。いえ、見えてはいますけど、それが完成形として示される日が来るという気がしない、というのが適切か。

 結論としては、自分は、むしろ天海春香さんには、まだこれから何かやれるだろう余白の部分を十分に保っている方がいいので、なぜあれをやらないんだ、というような評価で見てはいないってことですかね。最強の天海春香のステージというものがあるとしても、それはしまっておきたいです。

Re: No title

そうですね。まあ、私が純粋培養のアケマスプレイヤーででもあったならば、天海春香ってのはこういうものに決まっているでしょう、何故それがわからないのか。 と言い切れたのかもしれませんが、実際には私にはニコマスを見てきた人間なので、春香さんが "至上で絶対な無印天海春香" や "最強の太陽のジェラシー" で縛ることのできない存在だという認識が、私自身のうちにもあります。それは、私の天海春香観にはいくつかの軸があって、と記事中に書いた通りで。
だから、そうですよね、全体としては、まさにおっしゃるとおりだと思います、とだけ言って、話を終わらせてもいいのかもしれませんが。

この記事は、私が春香さんを好きになった原点に立ち戻って考える、というのがテーマなので、その延長で話をしますが、そもそも、私には、ななななな~Pが、ぽりぺくんPが、という前に、ストレートPの天海春香、というものがあるわけです。ストレートPという二次創作者の春香こそが素晴らしいもので、という思いは、無印の天海春香こそが正しくて絶対で、という思いとは、端的に矛盾している。それはその後、私の見る天海春香の範囲が広がっていっても同様で、私は自分の中に、天海春香について互いに矛盾する見方、感情を抱えたまま春香さんを見続けています。そして、その矛盾を抱えたままで居続けよう、というのが、私が自分で出した結論です。

ななななな~Pの名前を出したので、彼の話をしますが、ななななな~Pの描く天海春香の中にあっても、時に応じ場合に応じ変容していくものの総体として春香を捉える、という側面と、絶対的に正しい天海春香像、というものを思い定めてそれを追い求めていく側面と、両方の志向があったと思います。ただ、私はこの問題を、彼がいなくなってからかなり長いこと考えていたんですが、ななななな~Pは結局、”L4U!の天海春香” というものを認めたんだろうか? 
結局の所、彼は最後まで認めなかったのだろう、彼の言う「天海春香  が好きだ」の中から ”L4U!の天海春香” は排除されていたんだろう、というのが結論、というか、今私が想像しているななななな~P像です。
あるいはウィンウィンPは、"アイマス2" の春香も "アニマスの春香" も見た上で最終的に、それらは天海春香ではない、 という判定を下した。私Vinegar56%のうちにも、SPの春香も、2の春香も、アニマスの春香も、あんなものは嘘だ、間違いだ、と感じる心情がある。(まあ、ななななな~PにおいてもウィンウィンPにおいても私においても、春香をどう描くか、ということが問題の全てだったかというと、決してそうではないと思いますが、それはともかく。)

つまりそれは、正しいあるべき天海春香像、というものが存在して、そうでない天海春香は排除されるべきだ、という考え方で。

それに対して、あんな春香もこんな春香もみんな天海春香だよ、どんな春香も愛してあげようよ、と言った人はいろいろいますが。
そうではなくて、天海春香の中のある部分を否定して排除しようとする心の動き、それまでも含めて天海春香として愛するよ、と言ったのが、かーれるPという人で。もっとも、それを、排除される側として生きてきたかーれるPと、正しい天海春香像を押し付ける側として生きてきた私が言うのでは意味合いが同じにはならないとは思いますが、いまの私の思いもまた、同じです。

あんな春香さんもこんな春香さんもある、という考え方も、正しいあるべき天海春香だけが存在する、という考え方も、どちらも否定しない。それには二つの意味があって。
zeitさんがそういうおつもりで書かれているかどうかはともかく。「天海春香の歌はステージで完結」しない、という言葉は、理屈としては"春香にはステージでこそ輝く存在であってほしい" という期待のありようを否定している。「春香さんとはこういうものである、と決めてしまわない」という考え方は、理屈としては、あるべき理想の春香像というものがあると考えてそれを探す、という向き合い方を否定している。
完結しないからこその天海春香、こういうものである、と決めてしまわないからこその天海春香、という考え方自体、ひとつの偏った春香受容のありようだと私は捉えて、そうした考え方が天海春香のすべてだとはしません、というのが一つ。

もう一つは、どんなに偏って歪んだ期待、理解のありようだったとしても、それが私が春香さんを好きになった原点である、という事実は消しようがなくて、私はその原点をなかったことにはしたくない、ということ。
自分の中で渦巻いている、偏見に支えられた憤懣、憎悪のようなものを、なるべく押さえつけて無くしていった方がいいと思っていたこともありますが、今はむしろ、自分自身に対してあんまり透明、公平であろうとし過ぎない方がいいのかな、と思って書いています。

まあ、この記事に限らず、私の文章の書き方って、一点に収縮した綺麗なオチをつけよう、閉じた結論に行き着いて締めようとする傾向があります。
そこらへん、一つの記事の中から零れ落ちたり排除されていくものは、もちろん自分自身で何もかも意識できているとは思いませんが、文章が群となりブログ全体となった時に、もう少し大きな広がりを提示できていればそれでいいかな、と思って書いています。

あれこれ言いましたが、結局は理屈ではないし理屈になっていない部分が多々あるので、このやりとり(が私のこのコメントで終わるかどうかはわかりませんが)の中でも、たぶん他の場所でも、どう言われても私が意固地になって譲らないことはたびたびあると思います。
けれども、それはいただいた言葉が私に響いていないということではありませんので、末永くお付き合いいただければ幸いです。コメント、ありがとうございました。

No title

 そうですね…、自分でも私は何を書きたかったんだろうと、思いつつ物凄く急いで書いたというか夜が明けてしまうのでとりあえず寝ようというのがあったんですが。

 私が言いたいのは多分、あれは私の考える最強の島村卯月であるけれども、同じ事を春香さんが太陽とジェラシーで行なう絵というのは、私の考える最強の春香さんではない、という、1つのエゴの提示ですね。つまり、それでは春香さんは島村さんと対等ではないなと思ったと。

 春香さんはDSで物語上、愛ちゃんに負けますけども、でも、春香さんが最終的に、自分を負かした愛ちゃんを救う。つまりアイドルとは何か? という問に対して答えを持っていたのは、負けた春香さんの方だった。私にはそういうのが強い印象になっているということです。

 別にステージに立つアイドルとしての天海春香の面目というものを見せるときがあってもいいのだけど、今はまだその時ではないだろうという気がするのは、それは千早を越えて美希を超えて響を超えていった先にあるものではないかと。だからゲームとしてのアイドルマスターの中に収まるものだと、思ってないですね、まあ私の中ではそのようになっているので、それはエゴなのですけど。

 blogに書こうと思って没にしたことで、卯月がS(mile)INGを歌うという事は、彼女がシンデレラプロジェクトから外れることだというのがあります。実際には外れなかったけれども、24話は最低限、その瀬戸際まで行く必要があった。

 天海春香についても同じようなことを私は考えていて、つまり彼女がソロでステージを支配するときは、先述のように彼女の隣に千早も美希もいない、というか765がもう彼女の居場所ではない時ではないかということです。

 無印には解散ライブがありますから、それでもいいわけですが。アニメでそれが実現することはないでしょうし、今のアイマスでそれが実現する日も、ちょっと来ないだろうなと。

 来て欲しいかと言われたら、まあ、別に来て欲しくもないなと、私は思っている。何故なら天海春香の物語がそういう方向に進んでいくというのが良いことだと思っていないので。

 まあそういう辺りなので、島村さんのあのステージと春香さんを比較して考えるというのは、違和感があったという、言いたいことはそういうことでした。

 でもまあ、私よりもイマジネーション豊かな人が、私の想像とは違う形で春香さんの素敵なステージを実現する可能性について、否定するものではありません。OfAでは私はまだ見れていませんが、ソロで成功して玲音に勝つはずですし。ニコマスにはハルカニがありましたし。ではでは。

Re: No title

私もここ数日、大概おかしな時間の使い方をして更新してはいるのですが、zeitさんはこんな時間に書き物していて大丈夫なのか、とはちょっと思いましたw。御自愛ください。

前のレスを書いてから、春香さんのステージがどう、太陽のジェラシーがどう、というところには結局何もお答えしていないな、と思ったんですが。

天海春香の究極のステージってどんなものか、という問いを単独で考えるならば、zeitさんとまったく同じものを見ているとは言いませんが、私も、そういうものがゲームやアニメで見られる、とも、見たい、とも思っているわけではないし、具体的にそれはこういう形に違いない、という終点が自分の中に存在しているわけでもないんですよね。
で、島村卯月の最強のステージと、天海春香の最強のステージは同じではないだろう、というのも、おっしゃる通りだと思うんです。それがしかし、この記事がそういう話にならないのは、私の話をややこしくしているのは、「太陽のジェラシー」の存在なんだな、と、いただいたコメントを読みながら考えていて、思いました。

たぶん、この記事で私が言いたかったことって、根本的にはものすごく単純で、
太陽のジェラシーを歌う春香さんがもうちょっと報われて欲しかった、
春香さんの太陽のジェラシーがもうちょっと褒められる世界が見たかった、
という、それだけなんですね。
それは春香さんに対してでもあるし、中村繪理子さんという方に対してでもある、昔からの屈折した思い入れが、島村さんを見ていたら突然噴出してきた。島村さんは立派な「中の人」をお持ちで、持ち歌を歌ったら普通にみんなにすごいって言ってもらえていいですね、みたいな、非常に次元の低いひがみの形で。
ただまあ、書こうと思って考え出せばそれだけでは済まない(そもそも24話を見ていたその瞬間には、自分の心の中でいま何が起こっているのか掴めていなかったわけで)ので、春香さんについての複数の問題がそこに連関して、あんな文章になりましたが。

やっぱり、私のブログって、始めてすぐ9.18とかあって、それ以前のニコマス見てて言いたいと思っていたのに、時代、状況が変わって言わないままになったことがいろいろあって、今でも時々そういう地雷が爆発するんですねw。この記事にしても、ニコマスの「大腸のジェラシー」ネタとかもううんざりなんだよ、とはっきり愚痴る記事を過去のいつかの時点で書いていたならば、書かずに済んだのかもしれません。
ただ、そんな感情の噴出をきっかけに、春香さんについてもアニデレについても、自分でいろいろ考えることが出来たし、こうしてやりとりさせていただくことも出来ているわけで、あんまりそれが悪いことだとも思っていないんですけどね。良し悪しというか、書いた私自身は書いて得をしているので。

ではでは、丁寧にお相手いただきまして、ありがとうございました。


プロフィール

Vinegar56%

Author:Vinegar56%

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
全記事一覧

全ての記事を表示する

検索フォーム
リンク
FC2カウンター
FC2カウンター
現在の閲覧者数: