酒中本人


ゆらゆら氏 【卓遊戯】 東方緋想剣 session 15-3 【SW2.0】 15年10月04日


上記動画のネタバレを含みます。






この回のひとつの眼目は、ターシャ(多々良小傘)が酔っぱらっている、ということの衝撃でした。

たかだか酔っていることが、なんで衝撃なのか。
ターシャは基本的に真面目でおふざけに走らない子で、演じ手の小傘はこれまで、そんなターシャというキャラクターを、大事に慈しんで育ててきました。ここまで15章120話にわたる物語の中で、ターシャがネタに走ってひたすら奔放にふるまう、なんて場面はついぞなかったわけです。
それにまた、このシリーズの作風として、楽しくてほのぼのした日常の局面と、シリアスな対話が交わされる非日常の局面が、かなりはっきりと区別されて描かれている、ということもありました。ネタもシリアス要素もごたまぜごった煮、ノリと勢いでお話が進んでいく、そんなスタイルの作品ではなかったわけです。

それが、しかし、物語も佳境中の佳境、場面はシリアス中もシリアス、ドシリアスなシーンに、突如、”酔っぱらったターシャ” が闖入してくる、という衝撃。
大真面目に抜き差しならないやりとりをしていたその場の全員が、たった1人の酔っぱらいの、それも、ぽわぽわしてろれつが回らないような、非力な女の子の酔っぱらいひとりの言動に振り回されて、それまでの話の流れが百八十度ひっくり返ってしまうおかしさ。視聴者も皆、ターシャが出てきた瞬間に、酔っぱらったターシャが可愛い、酔っぱらったターシャの言動が楽しい、という話題で一色になって、コメントの流れが一気に塗り替えられてしまう愉快さ。

けれどもその流れは、単に面白おかしくて愉快なのではなくて、そんなターシャの言動を通じて、彼女がずっと抱えているやり切れない痛烈な想いが、この作品の核心にあるいちばん大切なものが、この上なく強く、まっすぐに発せられ、訴えかけられているものでもあって。
その重くてまっすぐなメッセージを、愉快でしょうがない感情と一緒に受け取ってしまったこの感覚を、なんと表現すればいいのだろう。即物的に、作劇のテクニックという点からしても、すさまじい回だったと思います。

さて、しかし、この ”酔っぱらったターシャ” というのは、読者としていろいろ考えずにはいられない存在です。
劇中でも言われているように、たとえ酔っぱらっていなかったとしても、この場面で彼女が取ろうとする行動、伝えようとするメッセージは、まったく同じだったことでしょう。
けれども一方で、これも劇中で言われている通り、この場面でこんな風にうまく話が運んだのは、ターシャが酔っぱらっていたからこそで、素面の彼女が普通に真面目に説得しても、こうはならなかったかもしれない。
普通の人間が、正攻法で真剣に理屈を説き、心を尽くして思いを打ち明けても、通じなかった(かもしれない)ことを、酔っぱらった女の子の、面白おかしくて、他愛もなくて、愛くるしい言動が、あっさりと成し遂げてしまった、ということを、どう考えたらいいのか。
まあ単純に、可愛い女の子に愛嬌たっぷりに訴えかけられたらみんな無視できないよね、可愛いは正義だね、という結論でもいいのかもしれませんが。

私が思ったのは、ターシャが酔う、というのは、黙阿弥の「魚屋宗五郎」の宗五郎が酔う、みたいなものなんだな、ということです。
江戸の市中で魚屋を営む宗五郎は、真面目一徹の善人。ただ酒癖の悪いのだけが玉に瑕で、かつて一度、酒で身を持ち崩している。けれども妹が武家の家に奉公に行き、その時奉公先の殿様から下された金を元手に、酒を断って仕事に励んだ結果、今は妻や父とともに穏やかで満ち足りた暮らしを送っている。
ところがそこへ、妹が奉公先で手討ちになって死んだ、という報せが届く。
こんな非道があるか、といくら周りの家族が息巻いても、殿様の大恩あっての今の我々の生活なのだから、武家の家では主人が奉公人の生殺与奪を握っているのがルールなのだから、とあくまで理屈を説いて、悲しみも怒りも、憎しみも後悔も、一言も口にしない宗五郎。気晴らしにせめて一口でも、と勧められても、いや酒だけは絶対ダメだから、と決して飲まない宗五郎。
そんな宗五郎が、最後、妹は何の罪も無かった、まったくの濡れ衣で殺されたのだと聞いて、ついに言うのだ。親父、俺にも一杯だけ、飲ませてくれ、と。

まあ、ターシャの場合、この場面で酔っぱらっていたのは単に偶発的な事情によるものだし、ターシャは宗五郎のように自分の本当の思い、生の感情を押し殺して生きてきたわけでもありません。(自分が負っている立ち場や責任と、自分自身の生の感情との板挟み、という点で、より相通じるのは、本回の一方の主役であるミョウ(魂魄妖夢)ですね。そう言えばミョウには、ターシャたちのいる宿に食事に来て、ぼそりと仕事の愚痴を言う、なんてエピソードもありました。)
ただ、自分ひとりの意志や力ではどうにも出来ない、巨大で不条理な現実と向き合っている、向き合わざるを得ない生を送っている、という点において、二人が置かれた状況はよく似ていると思うのです。

『魚屋宗五郎』の場合、宗五郎が酔っぱらって仕出かした所業には、それによって世の中が変わるような力はありませんでした。ただ、舞台の上、お話の世界の中ではそうだったとしても、それはそれだけでは終わらない。何故ならば、「魚屋宗五郎」はお芝居であって、芝居である以上は舞台の外に観客が居て、そして観客はさらに外側の現実世界と接続している存在だからです。
すぐれた演じ手によって、宗五郎の酔態が、一人の人間が正体を失って、その底から奔放な人格が目を覚ましてくる様が面白おかしく描き出された時、そこには同時に、彼の痛切でやり切れない人生の重みが乗っている。わたしたちはそれを見て、なんて楽しくて幸せな時間を過ごしているのだろう、と感じる。その時、そこに籠められているものの意味を、その場で意識的には理解していなくとも、なにか心に響く、ずっしりと重いものを受け取って、現実世界に帰ってきている筈なのです。

ターシャの酔態に籠められているのも、そういうものだと思うのです。やり切れない、どうにもならない、痛切な想いだからこそ、それは、可愛いいな、面白いな、楽しいな、愛しいな……そういう、幸せに満ちた、生きる喜びを呼び起こす表現によってしか昇華されない。かろやかで、愉快で、笑いに、喜びに満ちた表現だからこそ、重くて、哀しくて、大切なものを受け渡せる。
まったく異なるものが偶然同居したのではなく、喜びと悲しみとは表裏一体の存在なのであり、そしてそういうものを形にして、人から人へ受け渡せるところにこそ、芸とか、歌とか、物語とかいうものの真価があるのでしょう。

だからやっぱり、大事なのは、ターシャは可愛い女の子だから良かったね、とか、たまたま酔っぱらって変なノリだったのが功を奏したね、という、具体的な手段、武器の形状のところではありません。
本当に大事なのは、自分の願いを叶えるには、想いを人に伝えるにはどうしたらいいのか、真剣に悩み続けてきた人間が、そのもっとも必要とした時に、たとえきっかけは偶然であれ、自分にふさわしい、場面にふさわしい伝え方を見つけ出し、表現してみせたんだ、ということ。
それは、ターシャという人間がこれまで歩んできた人生の凝縮であり、そして同時に、彼女がこれから一生をかけて歩んでいくであろう道の、ほんのささやかな一歩でもあって。だから、彼女のファンである私は、今ここで、ターシャのこんな姿を見られたことが、心から嬉しいのです。








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