いいえ、ガオでした


そのうち書こうと思いつつタイミングが掴めなかったんだけど、今書いておくとちょうどいいかな、というような話を寄せ集めた記事です。

無印版アイドルマスター春香シナリオ、アイドルマスターSP春香シナリオ、アニメ版アイドルマスター、アニマス劇場版、アニメ版シンデレラガールズ、天才カゴシマP『無免許&轢き逃げ 逃避行』のネタバレを含みます。









アイマス関係の作品ではこれまで、「団結」「家族」「みんな」「約束」といった言葉がキーワードになったことがありますが、アニメ版デレマス22話で「絆」というキーワードが出てきたのを見て、なるほどデレマスはダブルクロスTRPGだったのか、と思った次第。


卓ゲ喫茶 秋月ダブルクロス 2−6 12:16 のコピー
(卓ゲ喫茶P 【卓m@s×DX3rd】秋月ダブルクロス!シリーズ(10/12/2~)より)

芳川南海 緑髪同盟 1−12 3:00 のコピー
(芳川南海氏 【東方卓遊戯】幽香と緑髪同盟のダブルクロス【ダブルクロス】シリーズ(13/5/7~)より)

ブースP ダブルクロス 6 9:24 のコピー
(ブースP ダブルクロスオンラインセッション!!!!11172シリーズ(12/6/24~13/1/1完結)より)


そんなわけで、「ダブルクロス」の世界観では、「絆」という概念が重要な意味を持っています。すなわち、一方に人と人の「絆」をよりどころにして生きる者たちがいて、もう一方には自分自身の「欲望」を糧にして生きる者たちがいて、前者が後者を倒していく……というのが、「ダブルクロス」の世界の初歩的な枠組みであるわけです。
もちろん実際には、優れたシナリオほど、両者の関係はそんなに単純なものではありません。多くの作品において、「欲望」という概念もまた、重要な役割を果たします。


ゆっくり華扇 2−9 6:37 のコピー
(ちりめん氏 ゆっくり華扇とぶち破るダブルクロスシリーズ(14/9/23~)より)

干ししいたけ 厨二病を突き抜けてく 10 15:57 のコピー
干ししいたけ氏 【ゆっくり】厨二病を突き抜けてくTRPG【DX3rd】シリーズ(14/9/15~)より)

ブース ダブルクロス 5 11:47 のコピー
(ブースP ダブルクロスオンラインセッション!!!!11172シリーズ(12/6/24~13/1/1完結)より)

そして「欲望」が重要な役割を果たすのは、「ダブルクロス」の世界の話だけのことではありません。「欲望」という言葉をソードワールド語に翻訳すれば「汝の為したいように為すがよい」となり、アイマス語に翻訳すれば「どうしたいか、だけでいいんだよ」となるでしょう。……なるほど、春香さんはファルスハーツ所属でファラリス信者でミラニスタだったのか。

アニメ版デレマスにおいてはどうでしょうか。劇場版アニマスの春香の「どうしたいか、だけでいいんだよ」を、デレマス22話後の島村卯月にぶつけたらどうなるのか、という話がありました。「どうしたい」という言葉を表面的に、"ビジョン" だとか"将来の展望" だとか "行動の指針" だとかいうようなもののことだと捉えてしまうと、それは島村卯月にとっては何の解決にもならない、むしろ追い詰める言葉のようにも思われます。でも、本当はそうじゃないですよね。
卯月が何にも見つけていないうちに、"自分が輝ける方法" を見つけて輝いていく、周りの仲間たち。同じ場所からスタートした筈なのに、それどころか自分よりも "何もない" 地点からスタートした筈なのに、あっというまに自分を追い抜いて、どんどん高いところに行ってしまう、渋谷凛と本田未央。島村卯月が悩むのは、シンデレラプロジェクトの仲間、という他者と自分を比較するからです。
矢吹可奈が悩んだのもまた、他者と自分を比較したからでした。劇場版で彼女(や望月杏奈や箱崎星梨花たち)が頻繁に口にしたのが、「迷惑」という言葉です。いくら頑張っても「春香ちゃん」のようにキラキラした存在になれない自分。いくら努力しても、周りの仲間と同じレベルでダンスを踊ることすらできない自分。そんな自分が一緒にステージに立つことで、周りの足を引っ張り、ステージをダメにしてしまう。だから、自分はステージから消え失せて、誰からも気にされない存在でいた方がいい。
デレマス23話の島村卯月もまた、「迷惑」という言葉を口にします。自信が無いから今はステージに立てない、というだけではなくて、そんな自分を仲間や武内Pが気にかけて自分のためにかけずり回ることで、より高みにいけるはずの彼女たちの大事な時間を奪ってしまう。これは、アニマスにおいて可奈や杏奈が、自分の悩み事を先輩アイドルに相談することすら出来なかった理由でもあります。 "切り捨てろ。わたしはプロジェクトの足を引っ張っているんだ"。
けれども、アイドルを続けるかどうか、というのは、本当はそういう問題じゃないでしょう? 他者との比較で自分を量り、行動を決めるのではなくて、そもそもわたし自身はなんでアイドルになろうと思ったのか、今でもわたしの中にアイドルを目指したい気持ちがあるのか。そこまで立ち戻って考えよう。「どうしたいか、だけでいい」とは、本来そういう意味であって、それは矢吹可奈のみならず、島村卯月においても意味を持つ問いである筈です。

では、そう言う天海春香自身はどうなのか。なるほどアニマスの春香の場合、他者と自分を比較して悩む、という要素はあまり強調されていません(全く無いとはいいません)。TVシリーズ序盤で、自分も名前に「海」が入ってるから「竜宮小町」に入れてくれてもいいんじゃないか、と言い、劇場版では何故自分が「リーダー」に選ばれたと思うか、と問われて、たまたまプロデューサーのそばに座ってたからじゃないか、と応じる。春香は明らかに、「竜宮小町」だの「765プロのリーダー」だのといった存在が、特定の個人だけが持つ何か特別な資質によって選別され、特定個人の特別な資質によって存立するものだと捉えていません。彼女にとって全ては、やりたいから志願するものであり、同時にたまたま運が良いから選ばれるものなのです。これは、1話において、まったく仕事が回って来ない、いくらオーディションを受けても落ち続ける、という状況に対して、春香が何の悩みも疑問も持っている様子がないこととも符合するでしょう。
ただ、アイマスコンテンツの中で、天海春香というキャラクターが、いつでもそのような思考をする人間として描かれてきたわけではありません。

遡ってみると、アケマスの春香は、他者との比較で悩まない存在でした。いえ、細かくみれば、仕事の中で自分の能力の絶対的な、あるいは他者と比べての相対的な不足について、春香が悩んでいる描写はありました。社長から声量が足りないと指摘される、しょっちゅう転ぶのをどうにかできないか悩む、口の達者なDJを相手にちゃんと受け答えが出来るか悩む、etc.……。
ただ、アケマスにおけるそうした問題は、春香が努力を重ね、経験を積んでいく過程である程度自然に解消していくものであって、最終的にストーリーの大きな柱となるようなテーマではありませんでした。ランクA「ランクアップ」コミュにおいて春香が口にするのは、歌う仕事を楽しいと思えているか、自分は歌うということをどう思っているのか、すなわち、自分が「どうしたいか」、という問いだったのです。アケマスの春香の思考の中心には、つねに自分は何をやりたいのか、自分がどうしたいのか、という問題があります。できるのか・できないのか、という問題に対しては、今はできなくても、地道に気長に努力していけばそのうちなんとかなるんじゃないか、という楽天的な気分が一貫して流れ続けているように思います。

なぜアケマスの春香は、できるか・できないかで悩まないのか。それは、アケマスコミュの中には、他者と競い合うという要素、期限までに何かをやり遂げなければならないという要素が無いからでしょう。そして、何故コミュの中にそれらが無いかと言えば、前者はオーディションでのプレイヤー同士の駆け引き、後者はランクアップリミット、というゲーム的な要素で表現されているからです。
オーディションでの勝利も、ランクアップの条件を満たすことも、プレイヤーがゲームプレイヤーとして当然クリアすべき任務です。アケマスにおいて、ライバルとの競い合いに勝つということ、期限までにやらなければならないことをやって活動を存続させるということは、プロデューサーがプロデューサーの責任において当然成し遂げるべき仕事であって、アイドルがそのために思い悩む事柄ではないのです。
もっと言うと、今のコンビで活動がうまくいかなかった(オーディションに負け、低ランクで引退した)ならば、アイドルの側もプロデューサーの側も、当然それぞれに別の相手に乗り換えて次の活動に入る、というのがアケマスのシステムであり、世界観でした。今目の前のオーディションに負けること、今目の前の活動が低ランクのまま終わることは本来、次週以降の仕事、次周回以降の活動でいくらでも挽回可能な事柄であって、アイドルにおいてもプロデューサーにおいてもそれ一つで全人生の死命が左右されるものではない。だからこそアケマスの天海春香は、基本的に楽天的で、できるか・できないかでは悩まない人間だったのだと思います。

けれども、これが無印になると、若干様子が変わります。「アートの番組」でのコメントに悩む「10月の仕事」。「情報系の新番組」でのレポーター役に自信が無いと言う「4月の仕事」。「かくし芸番組」でやる筈のマジックが徹夜で練習してもできなかった、という「1月の仕事」。無印の「月の仕事」系のコミュでは、求められているであろう水準の仕事を "できない" こと、仕事をこなすために必要であろう特別な資質を "持ってない" ことを春香が悩む、という筋立てのエピソードが次々に現れます。
無印で現れ始めたこの傾向が、より明確に表現されるのが、 L4U!においてです。

散髪屋P 【アイドルマスター】春香/フレ!フレ!大丈夫【CHI-MEY】 (10/12/7)

散髪屋Pの上記動画の冒頭に引用されているのはL4U!のアイドラですが、ここでは春香の台詞として「歌が好きってだけで、特にとりえがあるわけでもないし」「うまいならいいですけど、好きってだけじゃ」という言葉が登場します。自分は「とりえがない」、歌が「うまくない」、という明確な自己認識、自己認定。
アケ〜無印の春香コミュにおいて、管見の限り「うまい」「うまくない」という言い回しは登場しません。大人っぽい雰囲気のジャズ(「ライブ鑑賞」)、激しいロック(「夏の祭典」)、家で母が歌う明るく楽しい歌(「ある日の風景6」)。様々な歌を様々な歌い方で歌う歌い手がいて、その中で自分はどんな歌をどんな風に歌いたいか。アケ〜無印において、春香にとっての「歌」をめぐる問題とは、あらゆる方向に向かって様々な可能性が広がっている中で、自分がどんな道を選び取っていくか、というものであって、自分が "うまい" のか、"うまくなれる" のか、という問題ではありませんでした。
対して、「うまいならいいけど」というL4U!アイドラの台詞は、あらゆる歌い手のあらゆる歌を、「うまい」かどうかという一律の基準で一直線に並べ、その中で自分をどこに位置づけるか、という価値判断から出てくる言葉でしょう。L4U!の春香の歌の捉え方は、無印までとはずいぶん異なるようです。
しかも、「とりえがない」「うまくない」という自己認識は、他のアイドルは「とりえ」を持っている、他のアイドルは自分より「うまい」、という他者への認識と表裏一体であり、そしてそれは、「とりえ」がある、「うまい」他のアイドルが存在するのであれば、「とりえがない」「うまくない」自分はアイドルとして必要ではない、という論理を含み込んでいるはずです。

けれども、L4U! においてもまだ具体的に姿を現してはいない、春香が自分自身と比較せざるを得ない他者の存在が、明示的に描写されたのが、SPパーフェクトサンのストーリープロデュースのシナリオにおいてです。
パーフェクトサンの春香にとって、歌とは、"我那覇響のように歌うべきもの" です。我那覇響が歌っている歌を、我那覇響が歌っているように歌い、我那覇響がステージでしているようにパフォーマンスする。響の歌に出会い、響のステージに接すれば接するほどに、それが春香の目指すアイドル像、春香にとっての理想の歌となっていくのです。そして、目標として、理想として響を意識すればするほどに、 "どう頑張っても響のように歌えない自分" "同じように練習し努力している筈なのに、どんどん響の成長に引き離されていく自分" をも、春香は強く意識するようになります。

「ダメだ。やっぱり、響ちゃんみたいには、うまく歌えないよ……。私にはムリなんだ」(IU予選3回目終了後)

「私の歌より、響ちゃんの歌のほうが、ずーっと、皆を楽しませて、元気にできるんです……」(IU予選突破後)

こうしてステージに立つ自信を失った春香からPに対して、ひとつの疑問が発せられます。

「私が持っていて、響ちゃんが持っていないもの……。あの、それって、何ですか?」(IU本戦準々決勝後)

3つの選択肢すべての展開を見るとわかりますが、このコミュにおいて、春香に、春香だけが持つ何らかの特別な資質が備わっている、という形での説得は、春香を納得させることができません。そして、ここで春香自身によって否定される"春香だけが持つ特別な資質" の中には、アケマスランクA「ランクアップ」において、そしてL4U!アイドラにおいても最終的な結論だった、"「歌が好き」という気持ち" も含まれるのです。
現に自分が歌いたい素晴らしい歌を、自分よりもずっと素晴らしく歌っている歌い手が目の前にいる。そんな歌い手を前にして、でも、好きな気持ちだけは負けない!  と言ってみたところで、何の意味があるというのか。そもそも、そんな素晴らしい歌を歌える人間は、才能や努力で自分より上なだけでなく、"「歌が好き」という気持ち" そのものだって自分に負けないくらい持っている、いやむしろ勝っているくらいかもしれない。そう考えるのが、自然というものではないだろうか。

「でも、響ちゃんだって、そういう気持ち、持ってないわけじゃないと思いますけど……」
「その上、実力があって、気合いもじゅうぶんで……。うう、やっぱり強敵ですね……」

プロデューサーさんは、私の良いところは「歌を好きな気持ち」だ、って……。だけど、「歌を好きな気持ち」なんて、誰だって持ってるもん。

"「歌が好き」という気持ち" が、春香がアイドルを続ける、続けられる理由にならないとすれば、何が理由たりうるのか。正解と思われる選択肢は、春香には「俺」、すなわちプロデューサーがついているから、というものです。「ひとり」で戦う961プロのアイドルと、Pと二人三脚で、また仲間や家族や事務所に一丸となって支えられて立っている「ひとりじゃない」765プロのアイドル、という、SPの全シナリオを貫く構図が端的に表現されている場面ですが、面白いのは、この選択肢を選んだ場合、春香にアイドルたる特別な資質が存在するかどうか、が示されないのと同時に、Pにとって春香が特別な存在かどうか、もまた示されなくなれる、という点です。

たしかにパーフェクトサンの物語において、Pは俺が応援しているから大丈夫だ、と言い、春香はその言葉をよりどころにアイドルアルティメイトを勝ち抜きました。けれども、「ひとり」で決勝戦に臨む前の響の心身は、既にボロボロだったのです。だから、決勝戦での春香の勝利は単に運が良かっただけの部分があって、春香自身にアイドルとして響に負けない何かがあることが証明されたわけではありません。
そして、春香にはプロデューサーが居て、響にはいないのも、要するに春香は765プロにスカウトされ、響は961プロにスカウトされたから、という運の問題に過ぎません。少なくとも春香自身の目から見た時、対等で公平なスタートラインに並んだ時に、響やその他の素晴らしい才能を持ったアイドルたちを差し置いて、プロデューサーが自分を選んでくれる保証は何も無いのです。
実際、シナリオを通してずっと、春香はPが響を初め他のアイドルのことを話題にしたり、他のアイドルとコミュニケーションするごとに、警戒したり拗ねたりするそぶりを見せます。パーフェクトサンの物語において、春香の心の底には、自分はアイドルとして何も持っていないかもしれない、という不安と同時に、何もない自分を捨ててPが他のアイドルを選ぶかもしれない、という不安が流れ続けていたのでしょう。そして、その不安は、決して杞憂ではありませんでした。現にシナリオを通してPは響のことを強く気にかけているし、EDにおいて響は765プロに加わり、今後は春香とまったく対等の条件でPと接していくことになるのですから。

そういう意味では、SPの春香シナリオはエンディングで解決、完結している物語ではなくて、終わった後になお、問いの残っているお話です。それは、いつかプロデューサーと離れたとしても、春香はアイドルを続けられるのだろうか? たとえプロデューサーに選ばれなかったとしても、春香はアイドルなのだろうか? という問いです。
アニマスにひきつけて言うならば、パーフェクトサンの春香の物語は、1シナリオすべてを掛けても、春香自身が「どうしたいか」という言葉にたどり着きすらせずに終わるお話だ、とも言えます。

一方で、そういうお話であるからこそ、アイマス公式の他のどんなシナリオも描けなかった世界を描き出しているのがSPの春香シナリオだ、という側面もあるでしょう。
つまり、アイドルを目指す、ある女の子(それは天海春香かもしれないし、あるいは日高愛でも、矢吹可奈でも、春日未来でも、他の誰かでもあり得るでしょう)が、自分が何も持っていないことに悩む、という物語があったとして。しかし、その結末に、その女の子が自分自身の思いで、アイドルを続けることを決断する、という結論を置いた場合、そういう決断をできる、という事柄そのものが、彼女にアイドルたるための特別な何かが備わっていることを証明することになります。
けれども、ならば、弱くて、一人では決断できなくて、誰かに支えてもらわないと夢を見続けることすら叶わない、そんな子はアイドルを続けてはいけないのでしょうか? 突き放されても、自信がなくても、絶望しても、それでも最後には自分の力で立ち上がってアイドルをやる "覚悟" を決められる、そういう特別に強靭な精神の持ち主でなければ、ステージに立つ資格はない……。アイドルって、そういうものなのでしょうか?

SPの春香は、本当の意味で、あらゆる面にわたって何も持っていない人間かもしれない。彼女自身はただひたすら弱いだけの人間で、アイドルをやれているのは運が良くて周りの人間に助けてもらっているから、だけでしかないのかもしない。(実際にはSPの春香も、そんなに単純な存在ではありませんが、ここではとりあえず措いて) 。
でも、そんな弱い人間が、他人に支えてもらうことで、ステージという居場所を持ち、誰かに夢を届けられる、そんな世界があったっていいじゃないか。「どうしたいのか、だけ」がアイドルの全てじゃない。応援してくれる人が居るから、想ってくれる人がいるから、みんながいるから、「ひとりじゃない」から、だから私もアイドルでいられる、アイドルでいたい。ステージとは、そういう場所であってもいいんじゃないか。パーフェクトサンの春香の物語が提示しているのは、そういうものだと思います。

「……正直、 自信がないのは、さっきと変わらないですけど」
「でも、プロデューサーさんのことは、信じてるから……」
「プロデューサーさんが信じてくれてる、私の力を信じます!」(IU予選突破後)

また別の話。アニマスTV23~24話の春香をめぐるエピソードは、春香に着目してみると、自分が何をやっているのか、何をやりたかったのかわからなくなってしまった彼女が、アイドルを志した原点に立ち戻って何がやりたかったのかを見つける、という、春香自身の「どうしたいのか」をめぐる物語です。
けれども、春香以外の仲間たちに焦点を当ててみると、また別の側面があったはずです。簡単に言ってしまえば、春香以外の765プロのメンバーにとって23~24話は、"春香という仲間のことを考える" 物語でした。その "仲間のことを考える" の中にはさらに、二つの要素があるでしょう。

第一に、春香がいなくなることを通じて、彼女たちは春香が考えていた問題を自分自身の問題として考えるようになった、ということ。誰も、いざ春香がいなくなるまで、春香がそこまで悩んでいるとは思っていませんでした。それはすなわち、春香にとっては問題として感じ取られていた事柄に、他の人たちは気づいていなかった、ということでもあります。
春香が、目の前に "やらなければならないこと" がある場合でも、それ以外の "自分のやりたいこと" を放り出さない人間であることは、シリーズの最初から一貫して描かれていました。合宿で、売れたらこんな風に合宿できなくなるのかな、と呟き、アイドルやってても家に帰れば真面目に机に向かって勉強し、忙しくなっても必ず事務所には顔を見せてお喋りする。あっちがあるからこっちは諦めるしかない、という発想を春香はしない。「生っすか」の打ち切りを悲しみ、全員でのライブのために奔走するのも、その延長線上にある行動です。

「生っすか」が打ち切られる。淋しいけれど、もっともな事情があるんだから仕方じゃないか。ライブの練習にろくろく集まれない。残念だけど、忙しいんだからしょうがないよね。今は目の前にやるべき仕事があるんだから、とにかくそれを一生懸命やればいいじゃないか、やるしかないじゃないか。指導する立ち場の律子も含めて、みんなそう考えていた。
そうやって大事だった筈のものを、仕方ないやむを得ないでどんどん譲っていって、今は仕事が増えること自体が嬉しくて、新鮮でやりがいがあるから、それでもいいかもしれない。でも、いつかふと気づいた時、スケジュールも仕事の内容もガチガチに外から決められて、ただひたすら次々流れてくる仕事をこなすばかりで、あれ、私ってこんなことがやりたかったんだっけ、となりはしないだろうか。

放送当時、24話で、本気でやりたいと思っていた他のアイドルを負かして獲った仕事を、なぜ真面目にやらないのか、と一旦は "正論" で春香を言いこめたはずの美希が、なぜ美希の方から「迷子になっちゃいそうだったから」などと言って歩み寄ってしまうのか、という疑問の声がありました。
たぶん、これは美希自身の言葉通りのお話なのです。23話の美希は、何か見通しがあって春香を説得したり追及したのではなくて、単純に、本気で春香が何を考えているかわからなかったのでしょう。だから、春香が765プロを離れている間、画面には写っていなくとも、美希もまた、春香が一体何に悩んでいたのか、ずっと考えていた。そしてその結果、春香の悩みが春香に固有の問題ではなくて、誰にとっても、自分自身にとっても本質的な問題だったのだと、美希は気づいた。自分自身もまた、気づかないうちに自分を見失いそうな瀬戸際にいたのだ、と理解したからこそ、その台詞になるのです。他のメンバーたちにおいても、事情は同じだったはずです。

第二に、春香がいなくなって初めて、春香という人間が自分にとってどんな存在なのか、という事柄が意識された、ということ。仲間たちが楽しく集っている時、いつもその中になんとなくいた春香。どんなに忙しい時でも、事務所に行くとなんか居てどーでもいいことを喋っている春香。彼女たちにとって、春香がいることで楽しかったり、励みになったり、支えられたりする部分というのがあった筈です。
けれども、春香が765プロの輪の中にいる、ということがあまりにも当たり前すぎて、いざ失われるまで、それが失われるのがどんなに重大なことなのか、意識されなかった。それは春香だけが対象の事柄ではなくて、今自分の隣に当たり前のようにいるあの人が、この人が、もしいなくなってしまったら、何かに思い悩むことがあったら。その時自分はどうしたらいいんだろう、そうならないためにはどうしたらいいんだろう。そういう想像力を持つ、ということでもあった筈です。

アニマス23~24話は、春香自身にとっては、自分はどうしたかったのか、という「欲望」の物語でした。春香以外にとっては、仲間のことを自分のこととして考え、思いやる、という「絆」の物語でした。それぞれが行き着く結論が、自然に同じところに合流していたから、お話はとても円満に、すんなりまとまりました。ただ、それ故に、そこにはまだ問いが残った、と言えるかもしれません。それは、春香は、自分を想う他者のことを、そして他者に想われている自分という存在を、どう意識したのだろうか、という問題です。
そう考えると、TVシリーズで語られなかった部分を語るお話として、劇場版の物語は必要性と必然性を持ったもの、ということになるでしょう。劇場版は、春香と765プロのメンバーが、矢吹可奈とバックダンサー達という他者との関係を考え、また他者から見た自分の存在を意識する物語だからです。

ただ、劇場版に経てもなお、語られていない領域というものも、存在するのかもしれません。TV20話の千早の「おせっかいはやめて!」という言葉、そして劇場版の可奈の「春香ちゃんみたいに、なれない……」という言葉。それらを通じて春香が意識したのは、他者に拒絶される存在、他者を傷つけるかもしれない存在としての自分でした。
一方でしかし、人が誰かにとってアイドルである、というのは、その誰かにとって自分が救いであったり、期待されていたり、希望を託されたりする存在である、ということでもある筈です。けれども、自分はたまたま「プロデューサーさんの近いところにいたから」リーダーになった、と考える劇場版の春香は、他者に期待されたり大切に想われたりする存在、という自分の側面には、無頓着なままであるように見えます。(可奈に電話を掛ける時の、「ちょっとは、自信を持ってもいいかな」という台詞がありますが。)アニマスの春香がそういうことを意識すべきかどうかはともかく、そこにはなお、さらに先の物語を想像する余地が残っている、とは言えるかもしれません。

ニコマスにおいては、他者に希望を託される存在としての自分、というものへの意識を持ったアイドルを描いた作品が、すでに存在します。その例として、たとえば天才カゴシマPの『無免許&轢き逃げ 逃避行』が挙げられる、という話は、ちょっと前にもしました。
無免許で人を轢いて逃げてきて、世の中には神も仏もない、自分にはもう夢も希望もない、と思っている春香が、けれども他者の前で、この世には神さまがいる、希望を捨てるな、と言い放つ。偶然結果的に、や、なんとなく気持ちが動いて、ではなく、春香はその時、自覚的に他者のためにアイドルであろうとした。おもしろいのは、そうして他者のために、神はいる、希望はある、と断言したことで、結果的に春香自身もまた、希望を持ち、心にささやかな平穏を得たように見えることです。神さまのBirthday。

私は、アニデレ16話における安部菜々と前川みくの関係に、カゴシマPの動画におけるのと似た構図が存在すると感じます。
前川みくのウサミンコールを聞いて、安部菜々はウサミンにメルヘンチェンジする。gouzouPの言い回しを借りれば、「一方的な憧れという暴力に応えるのがアイドル」であり、それは「全国のPの、アイマスの象徴としての期待に応え続ける春香さん」に繋がっている、ということになりますが。
たしかに、他者に期待され、他者の希望を背負う、というのはプレッシャーであり、しかもそれは、自分自身が思う自分とはまったく異なった理想像を一方的に押し付けられる、ということでもあるかもしれません。だから、それはステージに立つ側にとっては重く苦しい覚悟と決断の集積であって、菜々のメルヘンチェンジは、アイドルの側の、重く苦しい覚悟の顕われだと。一面として、たしかにその通りだと私も思います。

しかしながら同時に、私は、それがこのエピソードのすべてではないと考えます。前川みくの前でメルヘンチェンジしたことが、安部菜々自身の心を救った側面があると思うからです。(その後、シンデレラプロジェクトに迎え入れられたから、という話ではありません。ステージの上、ウサミンになったその瞬間において、の話です。)
このステージに出るまで、菜々はもうウサミンはやれないだろうし、アイドルも辞めざるを得ないのかな、と思っていた。それは、菜々が、結局のところウサミンという存在は、自分がやりたいと思った時点で生み出して、自分が終わらせようと思った時点で自動的に死ぬものだ、と。自分の心の外のどこかに伝わったり外から影響を受けて変化するものではなくて、自分の中だけで完結する存在だ、と認識していた、ということです。

けれども、それは間違っていたのです。ウサミンは菜々ひとりの独占物ではなく、前川みくというファンの中にも生きている存在だった。別の言い方をすると、菜々は自分ひとりでウサミンを支え、生かしてきたつもりだったけれども、気づいていないだけで、ウサミンはすでに みく という他者によっても支えられて、生きていたんだと。自分自身の、ウサミンを貫きたい、という意志が折れかけた時、初めて菜々は、それでもなおウサミンは生きている、他者に支えられて生きている、ということに気づいたのです。アニデレ16話は、安部菜々がウサミンを通じて、前川みくというファンの心を救うお話であるのと同時に、いやそれ以上に、安部菜々が、前川みくを通して、自分が生み出したウサミンというキャラクターそのものに、そしてウサミンとしてステージに立ってきた過去の安部菜々自身に応援されるお話なのです。
カゴシマPにおける春香の変化もまた、安部菜々における16話のウサミンチェンジと似た力が呼び起こしたのしょう。他者の前でアイドルを演じることで、春香自身もまた、かつて本気でアイドルを夢見た過去の春香に応援されたのであり、他者にとっての神や希望を信じることによって、それはまた自分にも降り注ぎ、自分の中にも存在するものだと信じられたのです。
では、前川みくにとっては、これはどんなお話だったのか。みくは、菜々のことなんか全然わかってないかもしれないし、自分が何をしたのか全然意識していないかもしれない。けれども、たとえ今は何もわからなかったとしても、みく にもいつかステージの上で、自分は何をしてきたのか、自分は何をやりたいのか、問われる時が、きっと来る。その時、少なくともひとりのファンを、みくは既に持っている。いつか みく のために声をあげるファンの心を通して、みくもまた、かつてひとりでステージに声援を送った自分自身に、もう一度出会うことになるのでしょう。

この記事の冒頭で、「欲望」と「絆」というキーワードを、対立項として挙げました。けれどもそれは、本当に、両極に分断して捉えるべきものなのでしょうか。安部菜々がウサミンにこだわりたい、というのは、菜々自身が「どうしたいか」という「欲望」の問題である筈です。他方、前川みくというファンに応援される、前川みくというファンのために頑張る、というのは、他者を思いやり他者に思われる、という「絆」の問題である筈です。
けれども実際には、みくを思い、みくに思われる、ということが、ウサミンをやりたい、という、自分が本当に「どうしたい」のかを見つけることに繋がり、ウサミンという自分の「やりたい」にこだわることが、ファンに気持ちを伝え、ファンに応援されることに繋がっている。

前の段ではわざと話を飛ばしたのですが、SPパーフェクトサンでアイドルアルティメイトの舞台に立つ春香にも、アニデレ16話やカゴシマP作品に存在したのと、似た心の動きが生じていたように思います。
プロデューサーさんが信じてくれるから、私には強い味方がついているから、だから頑張れる、と言った春香は、いざ本戦の舞台に立った時、「すごくうれしくて、ワクワクしちゃう」「心からの笑顔ですよ! だって、最高の舞台で歌ってるんですから!」と言います。他者に支えられて自分がいる、と思い切った後に、ステージが楽しい、という思いが生じてくるのです。
そしてステージが終わった時には、「「応援してくれてるプロデューサーさんの声とか、ファンの皆の声援とか、全部よくきこえて……」「歌に、すごく気持ちをこめられたんです!」という言葉が出てきます。「ひとりじゃない」「強い味方がいる」、だからアイドルをやれる、というのは、最終的にはP個人との関係だけの話ではなくて、ファンや、家族や、仲間や、事務所や、自分を囲む「みんな」をめぐる思いに、発展していく(あるいは、立ち戻っていく)。
「みんな」に支えられて自分がいて、「みんな」のために自分は歌いたくて、そして「みんな」が見ているステージで歌うことは楽しい。歌と、自分自身のやりたいことと、他者への思いとは、最終的には春香の中で、すべてリンクした感情となっていくのです。

実は、アケマス・無印のエンディングも、行き着く結論は似ていました。Aランクドーム成功EDで、春香は言います。「最後の曲、歌い終わって、思ったんです。これだけの人が、私を応援してくれてる……」 「なら、このまま、走り続けるのもいいかなって。」と。
仕事が楽しくなくなったらどうしよう、いや、私には「歌が好き」という気持ちがあるんだ。……という自分自身の「欲望」を追求していた筈のアケ・無印の春香が、応援してくれる人がいるからアイドルを続けたい、という結論にたどり着く。「ひとりじゃない」から頑張れる、というSPの春香が、ステージで歌うのが楽しい、という境地にたどり着く。「欲望」と「絆」なんて、繋がって巡るもの、というところでしょうか。

ところで、SPの春香をめぐって、弱い人間なのに他者に支えられて立っているアイドルが居てもいいじゃないか、と言いましたが、また別の物語として、こういうものがあってもいいでしょう。
別に、迷った結果、ステージに立たない人間が居てもいいじゃないか。
アイドルであり続けようと思ったら、ステージに立ち続けようと思ったら、何かしらそこに"覚悟" や "決断" が必要だろう。……という発想は、ステージは立ち続けなければならないものである、アイドルはやり遂げるべきものである(ステージに立ち続ける人間こそが素晴らしい)、という前提があるから生まれてくるものです。でも、そもそも、ステージは立たなければならないものだ、アイドルは志すべきものだ、なんてルールは存在しない筈です。アイドルって、誰かが決めたルール、誰かが決めた優劣に従ってやるものじゃないですよね。問題は「どうしたいか、だけ」なんですよ。 
私が言いたいのは、自分が「どうしたい」のか、という事柄も、他人を思いやる、という事柄も、他人に思われる、という事柄も、どれもそれ一つでは完結しないものであって、だから、大事なのはそこに、時間をかけた、十二分に尽くされた対話が存在するかどうか、だと。
アニマス劇場版のラストステージは、私にとってはおまけのようなものでした。アニメ版デレマスの島村卯月においても、ステージはおまけであっていいし、なんなら無かったとしても構わないと、私個人は思っています。まあ、そうはならないでしょうけれども。

デレアニ24話の放送を締め切りにしようと思って書いたので、最後の方すごい大雑把だけど、こんなところで。


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