嘘から出た真


レストP 陽気なアイドルが地球と踊る 15-中 15年07月16日

レストP『陽気なアイドルが地球を回す』『陽気なアイドルが地球と踊る』シリーズのネタバレを含みます。







"「ぐねぐねしている」けれど「聡い」"。
というのは、『陽気なアイドルが地球と踊る』15話中編における、真による春香評ですが、『陽気なアイドルが地球と踊る』という作品全体の雰囲気にも、当てはまる部分があると思います。
前作である『陽気なアイドルが地球を回す』シリーズは、毎回のエピソードが、終盤で話がきゅーっと収束して、視聴者にカタルシスをもたらしつつ次話への期待を煽って終わる、そしてシリーズ全体を通しても、バラバラに動いているように見えた各登場人物、各エピソードがある時点から一点に収束して全貌が見えてくる、という、部分と全体の両方で綺麗なパターンを辿る構成が、特徴的な作品でした。

『回す』と比べると、続編『踊る』のストーリーは、より曲がりくねっていて話のスパンが長い印象を受けます。
もちろん、本作においても、多数の登場人物からの視点を細切れに切り替える、各回の終盤でとっておきのBGMを流して話をギアチェンジする定番の演出、といった特徴的な手法は踏襲されています。ただ、そうではあっても、ここから話が綺麗に収束する、とかここからスカッとした大逆転が始まる、みたいなわかりやすい快感は、やや薄い。むしろ、なかなか全体を俯瞰できないが故に、各登場人物・各エピソードがどこに向かおうとしているのかわからない、もやもやした不安のようなものがずっとお話に漂っているところが、今作の持ち味であるように思います。
よりスカッとした快感があって、わかりやすく面白いのは、『回す』の方。けれども、話の息が長く、紆余曲折があって一直線には進まないからこそ、描けるもの、たどり着ける場所、というものもある。それを示したのが、たとえばこの15話中編だ、というのが、この記事で私が書きたいことです。


さて、上に述べたような1作目と2作目でのテイストの違いというのは、(シリーズものの続編にはよくある現象、と言ってしまえばそれまでですが)、たとえば白紙の状態から描くことのできた1作目に比べ、キャラクターの背景の情報が増え人間関係もより錯綜して、一人一人の内面についてより細かく複雑な掘り下げが必要になった、ということであったり。あるいは、”一軒のホテルで一夜の間にキーアイテム/重要人物を奪い合う" という『回す』にあったわかりやすい縛りがなくなって、ストーリーが展開する時間的・空間的な幅が拡大したこと、であったり。いろんな要因が複合的に絡み合った結果だと思いますが、この記事では、二つの作品の違いとして私が重要だと感じた点を、2点、特に注目して書いてみます。

一つは、そもそも作品が全体として描いているテーマに、違いがあるのではないか、という点です。
シリーズが全体として何を描いてるのか、と考えた時、『回す』には、"居場所を探す" というテーマがあった、と言えるでしょう。では『踊る』には何があるのか? それがクリアに見えてきたのが本話で、そしてそれは、"個人の意志では抗いがたい大きなものに対して、個人がどう向き合うか" というものではないか、と私は考えています。

『陽気なアイドル』シリーズは、伊坂幸太郎の小説から多くのネタやエピソードの断片を引用していますが、伊坂作品では時々、人間の悪意を一身に体現にしたようなキャラクター、というのが出て来て、そういう存在をどう倒すか、がお話の一つのポイントになったりします。
たとえば、『オーデュボンの祈り』においては、悪意をもった存在は常人の想定を超えた動き方をするが故に、別の形でイレギュラーな思考をし、常人の理屈の外で動く存在だけが結果的に対抗できる、という展開になっていました。まあ、イレギュラーな因子同士を打ち消し合わせて話を整理する、というのは、群像劇の作劇の手管として珍しいものではないと思いますが、これが『マリアビートル』になると少し変化して、どんな人も当たり前に築き得る関係性や、そこから生まれる感情が、悪意を倒す原動力になる、という展開になっています。(と、私は理解しています。)
作品の発表時期が前後しますが、一方で『魔王』『ゴールデンスランバー』『モダン・タイムス』では、悪というものの描き方自体に変化があって、誰か特定の個人に原因が集約されるのではなくて、人が寄り集まって組織なり、社会なり、国家なり大きな集団を形成した時、そこに何物か個人を害するものが宿る。そういう何物かと個人との関係が、これらの作品では問題になってきます。

レストPの『陽気なアイドルが地球と踊る』においても、人間の心理に入り込み利用する力をもった存在であったり、個人を歯車として動かす大きな組織的な力であったりが、多くのキャラクターの前に脅威として立ちはだかってきます。けれども、レストP作品には一つ、伊坂作品にはない要素があります。それは、「アイドル」という存在が絡んでくる、という点です。『回す』の終盤の展開は「アイドル」という要素と不可分でしたが、『踊る』においても、本話で春香がぎりぎりの局面に立たされたとき、浮かび上がってきたのは "アイドルとは何か" という問いでした。


アイドル、そして春香、という具体的な要素が出てきたところで、もう一点の違いについて。
多数の登場人物のうち、「銀行強盗組」(春香・真・律子・雪歩の4人)の立ち位置の違い、というのが一つ、両作品の違いを考える上での重要なポイントだと思います。

『陽気なアイドル』シリーズの真と春香は、伊坂幸太郎の『陽気なギャング』シリーズにおける響野と成瀬というキャラクターをモティーフにしています。で、二人の間の関係も、伊坂作品における響野と成瀬のそれと呼応しているところがある、って話は、昔書いたことがあるような気がしますが。
つまり、『陽気なギャング』における響野は、基本的に思いつきで喋ったり行動したりしているだけの人で、頭脳的な、プラグマティックな面でのチームの司令塔は成瀬でした。だったら響野がいなくても成瀬さえいれば、『陽気なギャング』の銀行強盗チームは成り立つんじゃないか? というとむしろ話は逆で、なぜ彼ら4人は集まって一緒に行動しているのか、なんで銀行強盗なんかやっているのか、という、動機・理由の部分を担っているのが誰かと言えば、それは響野なのだろう、と。
いや、伊坂作品において、そして『陽気なアイドルが地球を回す』においても、そんなことが明言されているわけではありません。ただ、『陽気なアイドルが地球を回す』での「銀行強盗組」を見ていれば、彼女たちがチームとして動き出す時、そこにはいつも、真の "やりたい" という意志、”やろう!” という一声が存在することがわかります。

そしてまた、そういう「銀行強盗組」内部での真と春香(をはじめ他の3人)の関係のありようは、『回す』という物語全体と彼女たち「銀行強盗組」の関係とも呼応している部分があります。
物語全体を見回した時、盤面全部が見えているとか、状況を自分の意図通りに動かす力がある、とかいう意味で真や春香よりも影響力のある登場人物は、何人もいました。けれども、読者の目線から見た時、お話を牽引していたのは、必ずしもそういう、盤面が見えて、強い影響力のある黒幕的・英雄的な連中ではなかった。状況が見えてない、大した目的もない「銀行強盗組」こそが、就中その筆頭である真こそが、誰よりも生き生きと動き回り、話を転がす推進力になっていたのです。
逆説的ですが、あのお話では、状況が見えていて強い影響力を行使し得る人間ほど、自分の抱えた目的や計算から自由であることが出来なくて、真の "やりたい" "やろう" に引っ張られている「銀行強盗組」だけが、思いつきやなりゆきだけを理由にして自由に動き回ることができたのでしょう。

まあ、『陽気なアイドルが地球を回す』における真のように、自分の面白さや好奇心だけを原理に行動して、お話全体を引っ掻き回しつつ最終的にプラスの方向へ引きずっていく存在というのは、他にもいろいろ例があって、いずれもその作品のノリを象徴するようなキャラクターになっています。(たとえば場面大根P『ぽんこつ冒険者の冒険譚』における貴音、ブースP『ダブルクロスオンラインセッション!!!!11172』におけるガットゥーゾ=律子、ちりめん氏『ゆっくり華扇とぶち破るダブルクロス』における東風谷早苗なんかがそうですね。さかのぼれば、登場人物の大半がそういう連中ばっかり、という吾粲P『その時貧乳が動いた』なんて快作もありました。)
こういうキャラクターは、本人の内面を細かく複雑に描写したりなどしないからこそ、フラットな立ち場で自由に振る舞える存在として成立できている部分があって、それはレストP作品においても当てはまります。『回す』において、真、そして春香当人の過去、悩み、感情と言ったものが深く追及され明示されることはありませんでした。

ところが、『踊る』における「銀行強盗組」は、各個人がバラバラにエピソードに絡んできていて、『回す』のようにチームで行動して自由な立ち位置からお話をかき回す、という存在ではありません。また、それと連動した事柄ですが、『踊る』においては、春香や真もまた、内面や過去について詳細に追及される対象になっています。
そして、この15話こそはまさに、春香の内面に正面から光が当てられる回であり、春香と真の関係が今までになくあからさまに、直截的に説明される回なのです。


すなわち15話は、個人にとって大きくて抗いがたい存在に対してどう個人が向き合うのか、という問い、そしてその時「アイドル」という存在はどういう意味を持つのか、という問いが浮かび上がってくる回である。また同時に、前作におけるある意味での主役であり原点だった、春香と真という二人(『回す』の第一話は、春香の視点で演説する真を眺める場面から始まっています)に、前作と異なる形で再びスポットライトが当たる回でもある。
それらがこの回で同時に立ち上がってきたことには、必然性があります。何故ならば、『陽気なアイドル』における春香というキャラクターの今は、彼女がかつて、真という人間と一緒に行動することを選んだ、という決断を抜きに語ることはできないからです。
真という人間の中に、何か自分が信じるべき可能性を見いだしたからこそ、春香はその決断をした筈で、そして、人が他人の可能性を信じて賭ける、というその行為の先に浮かび上がってくるのが「アイドル」という存在です。だから、『陽気なアイドル』の春香という人間を掘り下げていくと、最後には、「アイドル」という存在と、真との出会い、という事柄に、同時に突き当たる。

では、春香に決定的な影響を与えた『陽気なアイドル』の真とは、どういう人間なのか。
自分のお喋りを他人に聞かせるのが生きがいで、口を開けば突拍子もないホラ話が出てきて、口癖は「ロマンはどこだ」。
でも、そんな彼女が生きてきた世界が、彼女の嘘を歓迎し、ホラを一緒に楽しんでくれるような居心地よい環境だったかと言えば、そんな生易しいものではなかった筈なのです。彼女にとってつまらない、思い通りに行かない、周りに理解してもらえない場面がたくさんあったことでしょう。けれどもそれは、仕方のない、どうにもならない事柄なのでしょうか?
いや、そんなことはない。どこかにもっと面白い、自分がワクワクできる世界があるはずなんだ。それが見つからないのであれば、自分からそういう世界を探しにいくべきなんだ、と信じる。だから真は、「ロマンはどこだ」と言う。
自分の中にどうしても貫き通したい、見つけ出したい何物かがあって、それが口をついて出てきて言葉になる。真の「嘘」とは、そういうものです。

『陽気なアイドルが地球と踊る』の真が言っていることを、結論だけ取り出すならば、たぶん、ごく陳腐で他愛もないものに聞こえることでしょう。そして、その陳腐で他愛もない内容を、長い時間をかけて逐一言葉で説明する本話は、レストP流の切れ味のいい演出と台詞回しにも関わらず、決してスマートとは言えなくて、むしろ愚直で野暮ったくすらある、と私は感じます。
だけど、その、愚直で野暮ったくあることにこそ、意味があるのです。読者は現に、彼女たちが長い物語の中で、曲がりくねった道を歩みながら、自分の生き方を見いだし、貫こうとし続けてきたことを知っているのですから。だからこそ、陳腐で他愛もなくて、鼻で笑い飛ばしたくなるような言葉に、真実の重みが載るのです。

15話中編には、『陽気なアイドルが地球を回す』『陽気なアイドルが地球と踊る』の過去回のみならず、これまで『陽気なアイドル』とのつながりが明言はされていなかった短編『道端ダイアモンド』『ホットミルク・ウィスパーボイス』からも、絵や音楽が引用されています。さらに思えば、これら設定上の連続性をもった作品だけではなくて、レストPの処女作『アイドルと道づれ』シリーズでも、また『アイドル・プラネテス』でも、真と春香、という二人のキャラクターの対比、あるいは対峙は、話の大きな軸となる要素でした。

それぞれの世界、それぞれの場面で答えを探し続けてきた真たち、春香たちの歩みを承けて、いま『陽気なアイドルが地球と踊る』の真と春香は、自分のための問いに向き合って答えを出そうとしている。そして、その問いに向き合って来たのは、レストPの真、レストPの春香ひとりのことでもありません。顔を上げて周りを見渡せばそこには、たとえば さそPの、肉棒Pの、きっちょむPの描いてきた、描こうとしてきた真たちが、あるいは陽一Pの、ほうとうの具Pの、天才カゴシマPの春香たちが居る。
"アイドルとは何か" という問いをめぐって生成し続けている、ニコマスの深く熱い鉱脈の中に、今日もまたひとつ、大粒の結晶が生まれました。





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