15/6/21雑記・改


この記事、タイトルにある通り、元々は6月21日の時点で、最近考えた雑多なネタをまとめて流す記事を作ろう、と思って書き始めたものだったのでした。(従って、本文中に、数日前、とか、今日、とかあるのは、6月21日時点が基準の表現です。)
けれども、書いているうちに、列挙している中の一つのネタとしては長過ぎるけど、単体の記事として眺めるには舌足らずで中途半端だなあ、みたいな部分が多々生じて、こういう書き方は私には向いていないなあ、とつくづく思いました。全部没にすると徒労感がひどいので、とりあえずそれなりに区切れているかなあ、という部分まで出すことにしたのが、この記事です。







数日前、続・空から降ってくるのでのカズマさんが最近近所の神社巡りを始めたと仰るので、レポート期待してます! と言ったところ、「神社に行くと足の裏が熱くなる」という回答が返ってきたので、私も人に求めてばかりではなく自ら身辺のことをレポートしていこう、と思って書いた記事です。
あ、映画『セッション』のネタバレを含みます。



『ラブライブ!』の劇場版を、それなりに興味深く見てきたのですが、あまり内容について自分で書きたいこと、書いておかなければならないこと、というのがない。考えたことがないではないけれども、どちらかと言うとそれらは、『ラブライブ!』のことというよりも、それより前に見た映画『セッション』についてだな、と。
ただ、ひとつ自分の中で確認できたのは、『ラブライブ!』劇場版のステージシーンで、たとえば高所にある円形のステージ上でメンバーが踊っているところを、カメラが下からぐるりと動きながら写す、なんてのがあったと思いますが、私はどうもそれが居心地悪くて仕方がなかった。そういえばアニマスでも、25話のライブで、大木が成長してその枝の上に並んだアイドルたちが歌っている、という幻想的なシーンがありましたが、私はあれも居心地悪くてしょうがなかったんですよね。

アイマスのゲームのステージだと、アイドルを写す視界には明確な制限があって、上から俯瞰するカメラ(スーパーロング)はあり得ても、下からアイドルを接写する、とかカメラが回りこんで舞台裏や舞台袖からの視角を映し出す、なんてことは基本的にあり得なかった。そして、どのステージにも背後に、ステージの内と外の空間を明確に区切る壁が存在していて、ステージの奥行きの長さがはっきりと定まっていた。
どうやら私の中には、ステージってものはああいう風に、どこまでがステージ内でどこからがステージ外か、どっちが前でどっちが後ろか、が明確に規定されていて、観客はその前方〜上方からしかステージを捉え得ないものだ、という観念が刻み込まれているらしい。
まあ、私は現実に芝居やコンサート、あるいはスポーツを見に行く時も、なるべく全体を俯瞰できる席から見たい、という好みがあります。ところが、ちょうど今日見てきたとある芝居(三越劇場の新派公演)で、間違えてすっごい前方の席を買ってしまいました。自分の目線より高いところに役者の顔があるもので、ずっと顔を上に向けて見ていたら首が痛くなったので、やはり舞台はなるべく遠方上方から見なければ、という思いを深くした次第です。

タクヲPとsabishiroP、という、どちらも春香派のニコマスPがいる。そしてsabishiroPはタクヲPの強烈なフォロワーであって、二人の動画はストーリーや世界観に共通性があったり連動していたりする部分が多々ある、というのは、界隈では周知の事柄です。
ただ、春香の見つめ方、写し方、というところでは結構違いがある気がします。タクヲPの動画には、私も書いたことがあるし、ついこの間カズマさんもおっしゃっていましたが、春香の身体の一部、とりわけ顔に密着して接写する、ということに異常に執着する志向を感じます。
sabishiroPにはあまりそういう執着は見られなくて、同じく春香の目線を隠したり身体の一部を切り取るカットを多用はしていても、どちらかというとカメラを引いて春香の身体全体、あるいは春香の存在する空間全体を俯瞰しようとする志向の方が強い気がします。

で、私自身の感覚としては、どちらの視界の方が腑に落ちるか、は、ここまでの話から明らかでしょう。私にとってタクヲP作品は、どんなストーリーがあるのか、とか何を表現しているのか、とかいう以前に、この人の春香さんに対する見つめ方、執着の仕方そのものがわからない、という感覚がある。
大体春香派にとって春香さんの顔なんてものは、なんかリボンにくっついているおまけ程度の存在であって、そこに描かれているのがののワだろうがへのへのもへじだろうが大して問題ない、というものではなかったのか! 
(春香派はリボンがついてさえいれば大体なんでも春香だと認識している、リボンがない場合も本当に春香じゃないかどうか確信を持てない、というのは周知の事実です。なお、伊織にもリボンがついているじゃないか、という指摘がありますが、長きにわたる思索の末、先日私はついに、伊織のアレはリボンではなくタケコプターなのだ、という結論に至りました。目下の課題は、響の頭にくっついているものが何であるかを解明することです。) 
sabishiroP作品の場合には、あまりそういうことは気にならない。これも前に書いたことがありますが、私が『Stages of Obsession』という動画を見て真っ先に、いちばんに気になったのは、無印のライブ風景ではあり得ないものが無印のライブ風景そっくりに偽装されている、という光景の不可思議さで、それは世界観、ストーリーの問題です。

話は変わって、『響け! ユーフォニアム 』というアニメをそれなりに面白く見ていますが、では自分で語りたいことがあるかと言えばあんまりないというか、私が言いたいことがあるとしたら、 コンクールってクソだな、という結論に尽きていて、その先の展望がない。
より細かいことを言おうとするとここでも、先に映画『セッション』について書く必要がある。けれども、文章を書く動機のひとつとして、自分の中でもやもやしているものを、書くという作業を通じてクリアする、ということがあるわけですが、『セッション』については頭の中でこねくり回しているうちに自分の中で一定の答えが出てしまったので、今から一から書いていこう、という気にはもうならないという。

まあ、『セッション』は音楽学校が舞台のお話で、つまり音楽で食っていくことを目指す人間のお話なのだから、音楽をやる、という事柄と、他人との競争に勝ってポストを獲る、という事柄がリンクするのが、必然とは言わないが自然ではあるシチュエーションになっています。そこは、部活で少年少女が音楽をやる話とは違う。
ただ、にも関わらず、と表現するか、だからこそ、と表現するか、一言で言うのは微妙なのだけれど。あの映画で主人公とその指導者に見えていたもの、彼らが到達できた境地は、むしろアマチュア的なものなのだと思う。『セッション』について、音楽的には素人の評論家からは、最後の演奏にはちゃんとカタルシスがあったよ、と語られる一方で、プロのジャズプレイヤーから、あんなもの音楽でもなんでもないんだよ、とボロクソに言われる、みたいな状況が起こったのは、つまりそういうことでしょう。私自身も、最後の演奏にはあれはあれでカタルシスがあると感じたけれども、要するにそれは、”アマチュアの演奏者が、必死に練習した末、ちょっとだけ思い通りの音を出せるようになった時の喜び” なのだろう、というのが私の結論です。

こう、アニマスなんかでも、「765プロ」の連中には "プロ" として他人と競争していく ”覚悟” や "努力" が足りない、という声がずっとある。劇場版で、考えの甘い集団の中で北沢志保の発言だけが "現実的" で、という感想が出てくるのも、その延長線上にあることです。けれども私は、話は逆で、彼女たちが持っている "覚悟" 、している "努力" が、"プロ" ではない我々視聴者では追いつかない高さにある、ということなのだと思っています。
「765プロ」に集っているのは、天性の才能に恵まれて、なるべくしてアイドルになったような連中ばかりで、だから彼女たちは、他人と競争するために持たなければならない "覚悟" 、勝つためにしなければならない "努力" 、なんて次元の "覚悟" や ”努力” など、端から歯牙にも掛けていない。
だって、「765プロ」にとってのオーディションなんて、たまたま気分が仕事内容とシンクロしただけの春香のパフォーマンスが、精一杯努力して本気で勝ちに来ていた筈の他のアイドル全員をあっさり上回る程度のものでしかないのだから。(「765プロ」のアイドルならどこのオーディションでも楽勝なんだろう、という話ではなくて、そういう人間にとっての ”覚悟” や "努力" とは、”オーディションで他人に勝つ” ことに対して向けられるものだろうか? という話です。)
まあ、あのアニメを見て、甘っちょろい、努力が足りない、と憤るのも、私のように、自分とは関係ない高みの世界のお話だなあ、と思うのも、どちらも凡人の悲哀、という意味で同じ穴の狢ではあります。

話を戻して、『セッション』はプロの音楽家を目指す人間のお話なのに、"本物のプロになれる正しい道筋" みたいなものが実は作中には存在しないんじゃないか? というねじれがある。批判ではなくて、そのねじれを通して何を提示しているのか、というところに面白みがある作品だと思う。
他方、『響け! ユーフォニアム』というアニメは、アマチュアの部活のお話で、つまり食うために音楽をやる話ではない。にも関わらず、"勝ち負け" と "選抜" の話ばかりしている、というねじれが存在します。で、それは、意識的に、計算ずくで置かれているねじれだ、ということはわかるのだけれど、だからこの話はどうなっていって、どういう結論に行き着くのか、というところは、未だ私には想像がつかなくて、興味深く眺めていますが、従って私に書けることはあんまりない(笑)。






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