内と外


無印版ゲーム『アイドルマスター』伊織シナリオ、及びアニメ版アイドルマスターのTVシリーズ・劇場版のネタバレを含みます。

※12月6日追記 アニマスの話数表記に誤りがあったので、修正いたしました。













水瀬伊織という人間にとって、「アイドル」って、「事務所」(765プロ)って、「プロデューサー」って、なんなのだろうか。
もちろん、伊織を知る上で重要なコミュはたくさんあって、本気で考えるならばその総体を踏まえる必要がある。
ただ、彼女にとってアイドルでなければ、この場所でなければ、プロデューサーでなければならない理由が、端的な言葉で示されている、ということで言えば、ランクCコミュ「ある日の仕事5」であろう。


ぶたP 伊織 アイドルマスター 女王様と豚 38  (07年04月06日)



「私にとっては、ここはつまんない場所。どんな
すごくたって、ぜーんぶ、パパの物だもん」

「自分で欲しいと思った物を、自分でつかむ!
これが、やっぱり最高よねっ」
「やっと、パパのものでも、ママのものでもない
物を、手に入れたわ……」
「私の歌、私の仕事、私の仲間……。
わ、私の……プロデューサーもね……」


つまり、伊織にとって、事務所に入り・プロデューサーと出会い・アイドル業を始める前、自分の周りにあったものは「ぜーんぶ」、「パパのもの」、「ママのもの」、”水瀬家のもの” だったから。
ことは物質的な財産にとどまらない。伊織は、学校で自分の周りにいる人間のことを「取り巻き」、家で自分の周りにいる人間のことを「使用人」と表現する。本人の口ぶりから想像する限り、伊織は決して同級生との交遊関係を持っていないわけではないし、日常の会話の端々にその名前がのぼるありさまからは、「新堂」を筆頭とする家人たちが伊織にとってとても身近な存在であることもうかがえる。

けれども、水瀬の家の中で暮らす限り、どれだけ親身で身近な人間であっても、結局それは自分という個人と関係を結んだ相手ではない。「パパの」、「ママの」、水瀬家の力が引き寄せた、"水瀬家の「取り巻き」" "水瀬家の「使用人」" に過ぎない、という認識が、伊織の中に抜きがたく存在するのだ。
(「取り巻き」でも「使用人」でもなく「親友」と呼ばれるウサギのぬいぐるみが、彼女にとってどれだけ重要な存在か、ということが、ここから想像できる。)

事務所に来てから、アイドルになってから得たものは、それとは違う。アイドルとして歌った歌、アイドルとして行った活動、アイドルとして築いた人間関係、アイドルとしての自分のパートナー。それは、「私の歌」、「私の仕事」、「私の仲間」、「私のプロデューサー」なのだ。
アイドルであることを通じて自分を中心に結合している、"私のもの" である世界、と、その外側にあってそれ以外のすべてを包含する ”水瀬家のもの” である世界。あるいは、状況としては、自分の周りを取り囲んでいた”水瀬家のもの” の世界を飛び出して、その外側に ”私のもの” の世界を築いた、と言った方がいいかもしれないが、まあそれはどちらでもいい。
とにかく、”私のもの” と ”水瀬家のもの” という、所有者の違いによって世界のあらゆるものが綺麗に二分されているのが、水瀬伊織の世界認識のありようである。

ところで、本人の言を聞く限り、伊織という人間はこれまで、 ”水瀬家のもの” である周りの世界に対して、意識的に自分をコントロールして ”水瀬のお嬢さま” を演じてきた筈である。
でも、そのわりに低ランクコミュでの伊織はわりと隙だらけだし、見ず知らずの他人に等しいはずのPに対して無警戒に過ぎると思う。
なにしろ、初対面のPに対して「アンタごとき」には「コビ売る」必要ない、とあっさり「パーフェクトなお嬢様」演技を放棄してしまうその判断は、どこから生じているのだろうか。
(もちろん、ざっくばらんでノリのいい態度もまた、こっちはこっちで意識的な演技ではあって、決して彼女の本音、本心がそのまま表れているわけではないのだが。)

そうじゃないと話が始まらないから、と言ってしまえばそれまでなんだけど、一頃私はそんなことが気になって、周りの人を捕まえては意見を求めていた。それで、初対面のころの伊織は、窮屈な水瀬家をやっと抜け出せたというだけでもう有頂天だったんじゃないか、という、さそPからいただいたサジェスチョンが、今のところ私にとっても解答になっている。
たしかに、駆け出し当初の伊織は、自分がアイドルを始めればあっさり全部が手に入るに違いない、という全能感にあふれている。まあ、その自信は早々に打ち砕かれて、公園で鳩の鳴き真似をしたり、タクシーの料金の高さに驚いたり、ということになっていくわけだけれど。
ともあれ、それがどこまで彼女自身の計算通りなのかはともかく、「取り巻き」や「使用人」の前での伊織もまた、おそらくは「パーフェクトなお嬢様」であるよりはPの前でのそれに似て、結構楽しげで面白おかしい人なんだろうなー、という気はする。


閑話休題。アニマスの水瀬伊織は、もとより無印の水瀬伊織とは別人である。
けれども、”私のもの” とそうでないものによる世界の二分、という無印の伊織の世界認識に類似したものをアニマスの伊織も持っている。そう考えることでアニマスの伊織も理解しやすくなり、そしてそれによって、"別の経路をたどった二つの未来像" としてゲームの伊織とアニマスの伊織を把握することもできる、と私は考えている。

私はアニマス2話の伊織が、あまり好きではない。というより、あれが水瀬伊織である、という気がしない。あれではただの、頭が悪くて子どもっぽくて周りが見えてない子だ。
いや、子どもっぽくて常識知らずなのはゲームの伊織も似たようなものなので、問題は子どもっぽさの方向性である。私が知っている水瀬伊織はもっと面白おかしい人で、その面白おかしさは、この問いに対してこう答えが返ってくるのか、この流れでそんな発想が飛び出てくるのか、という機敏な才知がなせる業だ。その才知の輝きが、この2話の「水瀬伊織」からはみじんも感じられない。

が、それはそれとして、2話のエピソードは、伊織を描いた物語として、重要な意義を持つものだと思う。
ここでの伊織は、年長のアイドルとスタッフたちに囲まれた「765プロ」、という何の心配も気兼ねもいらない安全な環境の中で、やよい・亜美・真美を引き連れて、意気揚々とひたすらバカなことをやっている。
それが、無印の "水瀬のお嬢様” だった伊織には決して持てなかったものであることは、すでに述べた。どれだけ親しい人間ができても、結局それは ”水瀬家のもの” だったから。

何の心置きもなくつきあえる、同世代の友人。見守り、導き、励まし、諭してくれる先輩と大人。みんなが、紛れもない伊織という個人を認め、愛してくれている。そしてそういう信頼できる、心を開ける「仲間」だけで構成された、居心地のいい自分だけの居場所。
無印においては、アイドルとしての活動を積み重ねて成功を勝ち取り、そこで出会った相手との関係を深めていくことでようやく形成できた、伊織の ”私のもの” である世界。それを、アニマスの伊織は、ただ「765プロ」という場所に所属していることによって、初めから手にしているわけだ。
私が気に入らないと言った、アニマス2話の伊織のありさまは、そのままアニマスが伊織のために達成したものが何であるか、アニマスだからこそ描けたものが何であるか、を示す記念碑でもある。「765プロ」の中で「仲間」たちと遊んでいる伊織には、どんな背伸びも賢しさもいらなくて、だからこそこの場面の彼女は、年相応のただバカな子どもで居られるのだろう。

アニマスにおいて、伊織とうさぎのぬいぐるみの間の距離感は、伊織の感情を示すバロメーターになっているようだ。
1話でインタビューを受けている時、伊織はぬいぐるみを抱えていた。見ず知らずの相手と対面して自分をアピールする仕事に挑む、という緊張にある時、彼女のそばにぬいぐるみが必要だったのだろう。劇場版でも、伊織がぬいぐるみを抱いて撫でる様子が描かれたのは、彼女が不安な心情になっているのが窺われるシーンでのことだった。
対照的に、2話でやよい・亜美・真美を引き連れてドタバタ騒いでる時には、ぬいぐるみは伊織の腕の中にはおらず、棚の中で横になっていた。「765プロ」の中で「仲間」に囲まれて楽しくある時、伊織は「シャルル」に一緒に居てもらう必要を感じなかったのだ。

アニマスの春香について、春香の「夢」は「アイドルになる」ことだから、アイドルになったことで、初めから彼女の「夢」は達成されていた、という論評がときどき見られるが、私は、そのような構図はむしろ伊織にこそよく当てはまると思う。伊織の「夢」は本来 ”私のもの” を手に入れることであって、「765プロ」という自分だけのものを手に入れたことで、初めから彼女のいちばんの「夢」は叶えられていたのだ。
アニマスの伊織にとって、もっとも根本的な目的は、「765プロ」に居ることで初めから達成されている。そう考えると、物語を通しての伊織の行動も考えやすくなると思う。

第一に、 "水瀬家" との関係。10話でやよいをいびった「こだまプロ」に対してや、14話で雑誌の表紙を差し替えさせた黒井社長に対してなど、何らかの外敵の行為によって「765プロ」が不利益を被った時。伊織は(ゲームだと、使わないことにこだわりがある筈の) "水瀬家" のコネ、 "水瀬家" の権力を使って外敵を排除することをためらわない。
そうした態度を、さぞかし内面で葛藤があったことだろう、と重い描写と見るか、逆にゲームにおける重要な要素に対する軽い扱いと見るか、卑怯で超法規的な力の行使に対しては同様の力で対応する、という合理性と見るか、感じ方は人それぞれだろう。
いずれと取るにせよ、構図そのものは明確だ。アニマスの伊織においては、こと "「765プロ」を守る" ことの価値に比べれば、”水瀬家" に対する自分の面子、こだわりは、 ごくごく軽い存在でしかない、ということ。考えてみれば当たり前の話で、「765プロ」は伊織がいちばん欲しかったものそのもので、"水瀬家" はかつて欲しいものの前に立ちはだかる存在だったからこそ意識していた対象。 "水瀬家" への意地で「765プロ」を失ってしまったら、本末転倒である。

すでに ”水瀬家” の手の中を脱し、「765プロ」という確固たる橋頭堡を築いているアニマスの伊織には、もはや無印のように ”水瀬家” にこだわる必要はない。しかし、ならばアニマスの伊織には、もはや世界を二分して把握する発想は存在しないのか、というと、それは違う。
上で私は、「こだまプロ」や黒井社長に対して「外敵」という表現を使った。”私” と "水瀬家" という区分の代わり、アニマスの伊織の中には、”「765プロ」の内側” と "「765プロ」の外側" (もっと強く表現するならば、”「765プロ」” と ”「765プロ」の敵”)という区分が存在する。「765プロ」という集団の内部にあって彼女に幸福をもたらすものと、外部にあって「765プロ」の和を乱し、幸福を破壊するもの。

「こだまプロ」や黒井社長の例に明らかなように、伊織は、ひとたび対象が「765プロ」に対する脅威であり、「765プロ」の幸福を破壊するものと認識したならば、手段を選ばず全力でそれを排除しようとする。
一方で、長介はじめ高槻家の兄弟姉妹たちへの態度に明らかなように、対象が「765プロ」に幸福をもたらすもの、「仲間」の延長線上にある存在だと認識したならば、最大限親身に好意的に接するわけだ。そして、7話での長介とやよいをめぐる言動、18話での律子をめぐる言動に見られるように、こと視線が「765プロ」の内側の人間に向けられている場合には、彼女はすぐれた観察と理解を発揮する。

興味深いのが、赤羽根Pが「765プロ」にやってきた時の対応である。「765プロ」の内部の生活に突如闖入してきた、得体の知れない大人の男。本来それは、「765プロ」の中の世界を乱す異分子であり、排除すべき存在の筈だ。
けれども、一方で彼は順二朗社長という「765プロ」の一員が連れて来た人間でもあるから、無碍に否定すべき相手ではないし、社長の眼鏡に適ったということで一定の信用は寄せていい。そしてプロデューサーを置くことが「765プロ」全体の利益になることは明らかだ。
赤羽根Pに対して伊織は、プロデューサーなら律子でいいではないかと言い、自分は自分がふさわしいと確信するまで赤羽根P を ”「765プロ」のプロデューサー”として認めない、という態度をとる。
これを、アイドル活動への高い志と現実感覚ゆえのシビアな対応、と捉えることは、もちろんできるだろう。ただ、私は伊織のそうした態度は、単に理性的な判断のみが理由ではなく、彼女が、今まで「765プロ」が形作っていた秩序、幸福が異分子によって乱されるのを、誰よりも強く恐れる心情を抱えていたからではないか、と感じるのだ。

21話後半、順二朗社長に連れられて行った店で黒井社長と遭遇した際の伊織の態度は、彼女の "「765プロ」の内側" の幸福が乱されることに対する恐れが、明瞭に顕われているエピソードであろう。
店に入ってすぐ、カウンター席に座る黒井社長の姿を見て、一瞬千早が顔を伏せて辛そうな表情になる。これを見て取った伊織がただちに声を上げて、

「ちょっと、なんであいつがここに居るのよ? 気分悪いじゃない! 追い返してやるわよ」

と言う。
「仲間」が苦しそうな顔をしているから、その原因をここから追い出そう。なるほど、それは優しさや気配りのなせる業かもしれない。
けれども、第一に、いま彼女らが居る場所は、「765プロ」専用のパーソナルスペースでもなんでもない。客でありさえすれば誰がいても構わない場所だ。そこに先客として居た黒井社長が、(少なくともこの場において)追い出されたり不愉快な目を味わされたりしなければならない正当な理由は、何もない。さらに、黒井を追い出すために因縁をつけて騒ぐことは、他の客にとっても迷惑であろう。
そして、単にいま千早を落ち着かせてやる、というだけなら、誰かが千早に付き添って一旦席を外す、という選択肢だってある。なのに何故、真っ先に出てくる選択肢が「追い返してやる」になるのだろうか?

第二に、黒井を見ることで千早にとって嫌なものが呼び覚まされる、だから黒井を見えないところに押しやればいい、というのは、そして千早の意志と無関係にそのように事が運ぶということは、果たして千早の今、千早の今後のために本当に良いことなのだろうか? 
もちろん、軽々に判断できる問題ではない。いま、無理に千早を黒井と同席させた結果、千早の心に取り返しのつかない悪い変化が生じる可能性だってあるだろう。
ただ、伊織のこの場での発言は、千早にとって何が一番良いのだろうか、という熟慮と苦悩の末に決断された、というよりは、もっと生理的で衝動的な行動に思える。
とにかく・一刻も早く・何が何でも、いま「仲間」を不快にさせているものを、「765プロ」の幸福を乱しているものを、目の前から消し去りたい、見えないところに押しやりたい。"私のもの" を取り巻く空間を、安全で不愉快でないものだけで満たして安心したい。

10話での、やよいをめぐっての「新幹少女」と「こだまプロ」への態度においても、同じ志向が認められよう。どちらの場合も、伊織の行動のトリガーになったのは「仲間」の辛そうな顔。取ろうとした行動は、その原因を排除して、「仲間」から見えないところに遠ざけること。原因として認定した対象の取扱いにはなんら人間的配慮は必要なく、排除のためには自分が取り得るいかなる手段の行使も許される。
そこには、ただ高槻やよい、如月千早という個人のための思いやり、というだけでは説明がつかない衝動性、攻撃性が発現している。私はその理由を、その行動が伊織の、世界を ”私のもの” とそうでないものとに峻別する世界認識、そして自分の周りが前者で満たされた環境を守ろうとする行動原理、に根ざしたものだったからだと考えている。

”私のもの” にこだわる伊織の行動原理は、彼女が何故「竜宮小町」というユニットのリーダーになったか、を考える際にも一つのヒントになると思う。それはまた、伊織と他のアイドルの共通点と相違点をも浮き彫りにするだろう。

5話、就寝時の会話のエピソード。1年後の未来の話で真と盛り上がった春香が、

「でも、もし、そうなったら、みんなそろってこんな旅行とか、もうできなくなっちゃうのかな……」

と言い、二人がちょっとしんみりした空気になったところで、伊織が

「そんな事は、なってから考えなさいよ」

と言う。
「仲間」で構成された「765プロ」という空間を、その空間で過ごす「今」という時間を、大事に思う心情。
そのような心情は、アニマスを通して「765プロ」メンバーに広く見られるものではあるが、考えてみると、ここで会話している春香、真、伊織の3人は、そうした心情がとりわけ前面に出ている面々ではないだろうか。

アニマス春香の「仲間」へのこだわりは、言うまでもない。真については、劇場版において、合宿中に雪歩とともに律子の運転で送られるシーンでの、

「ずっと合宿していたいなぁ……」

という言葉が思い起こされる。
ここで真が表明している、「仲間」みんなで過ごす合宿、という楽しい時間がいつまでも続いてほしい、という心情は、TV5話での春香との会話に顕われているものと、そっくり同じと言っていい。

そして伊織。「なってから考えなさいよ」という台詞は、絵に描いた餅を空想する二人へのたしなめのようでいて、いまのような時間が続いてほしい、という心情そのものは全く否定していない。むしろ、同じ心情を共有しているからこそ、ここで二人の会話に乗ってきたのであろう。

けれども、3人の考え方がまったく同じわけではない。もしアイドルとして成功したら、という仮想に、まず意識が向く春香と真。そして真は劇場版では、この時間がずっと続いてほしい、という理想・願望を真っ先に口する。対して伊織は、売れていないし売れそうもない現状、に最初に意識を向ける。
5話の時点ですでに、「竜宮小町」のプロジェクトは動き出している。「竜宮小町」は、売れてなくて貧乏な「765プロ」が芸能界に打ってでるための、旗艦プロジェクトだ。
合宿での台詞と、「竜宮小町」のプロジェクトをリーダーとして率先して引っ張っていこうとする、という行動を重ね合わせた時、「765プロ」についての伊織の最大の関心が、芸能事務所として立ち行かなそうな現状への危惧にあることがうかがえる。

おそらく春香や真にとっては、心を分かち合える親友と一緒に過ごす時間、というものは、「765プロ」で初めて体験したものではない。
けれども、”水瀬家” から来た伊織にとっては、違う。それは、今まで得たことのなかったもの、「765プロ」に居ることで初めて手にしたものであり、従って「765プロ」が失われれば取り戻せない、2度と手に入らないかもしれないものだ。いま手にしている幸福の脆さ、儚さへの知覚、それが失われることへの限りない不安。

だから伊織の意識はつねに、いま「765プロ」に対してどんな危機がふりかかっているか、に向き、そして彼女は自分が動くことでその危機から「765プロ」を守ろうとする。
5話の時点で伊織が認識する最重要の危険要素は、"売れないために「765プロ」が潰れること” であって、"売れた時にどうなるか" は、それより優先して考えるべき問題ではなかった。
「竜宮小町」を率いることで「765プロ」を滅亡の危機から救う、という行動にもまた、"「765プロ」の外側" の敵を排除することで "「765プロ」の内側" の幸福を守る、という、「こだまプロ」からやよいを守り、黒井から千早を守ったのと同じ行動原理が働いていたと言えるのではないだろうか。

もちろん私は、アニマスの伊織に、ここまで述べたような構図では説明できない、向上心、競争心、責任感、優しさといった要素が存在することを、否定するつもりはない。
ただ私には、アニマスの伊織は立派に成長していて大人で頼れて、向上心、責任感etc. の美徳に満ちているからあんな風にふるまっているのだ、と考えるよりも、ゲームの伊織と根本的に変わってない心情、解決されないままの問題を抱えているからこそあの伊織なのだ、と考えた方が腑に落ちる、というだけの話である。

やや余談になる。私は、TVシリーズ初期から劇場版まで繰り返される、伊織と真の ”闊達な議論” を見るたび、このなんとも言えない生温さ、予定調和感はなんなのだろう、と感じるのだけれど。
こうして見てきてわかるのは、なんのことはない、「765プロ」で一番 ”闊達に議論” しているのは、初めから根本的なところで同じ方向を向いている、価値観を当然に共有している二人だということだ。
(「ぼくたち ”めんどくさい” よね!」と言い合いながら会話しているアイマスPサークル、みたいなものだ。)

その価値観はまた、春香とも共有されているものであって、春香と、初期から春香の良きサポート役、会話相手としてふるまってきたこの2人のやりとり、態度は、「765プロ」の中の主流派というか、ラウドな空気を表していると思う。
「765プロ」の中にはしかし、そこに納まらない考え方の持ち主として、美希が、20話以前の千早が、そして劇場版では北沢志保がいる。いるけれども、そういう価値観を当たり前には共有していない相手との間で日常から真剣に言葉がぶつかり合う、なんてことはちっとも起こらないのが、アニマスのカラーではある。
逆に言って、美希が、千早が、志保が心情を露わにした時、それは春香との衝突を発生させ、それぞれ物語が大きく動く軸になったわけだけれども、伊織の持つライバル心、向上心といったものがそういう形で物語の軸になることがついに無かったのもまた、伊織が初めから根本的なものを春香と共有している存在だったからだと思う。


劇場版の伊織についてはこの記事では扱わなかったが、ここまでの話との関連で2点、簡単に述べておく。
一点目。黒井への態度を見る限り、TVシリーズでは終盤まで堅持されていた伊織の、"私のもの” の内側と外側を峻別する態度。それは、その後の時間の中でどうなっていったのであろうか。
「765プロ」の身内、およびバックダンサーズとのコミュニケーションしかない劇場版からは、はっきりとは窺えない。ただ、バックダンサーズたちへの伊織のふるまいから、「仲間」かそうでないか、だけではない、もっと柔軟で視野の広い他人の捉え方を身につける変化を、成長を感じ取ってもいいのかもしれない。

二点目。北沢志保は、伊織と全然似ていない。志保にとって春香が不可解な、わかり合えない人間に見えるとすれば、伊織もまた同じくらい不可解な人間に見えると思う。同じくコミュニケーションが頻繁だからと言って、春香と可奈がそうであるように、「765プロ」における伊織とバックダンサーズにおける志保がカウンターパートになる関係なわけではない。
だとすれば、志保と同じ視野に立ち得る、カウンターパートになり得るアイドルは、誰なのだろうか?
……ということで、あとは美希の話だな。いつ書けるのか知らないけれど。



関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

非公開コメントの方へ

ご指摘ありがとうございます!
こういう勘違い、記憶違いは自分では絶対気づけないので、大変ありがたいです。
プロフィール

Vinegar56%

Author:Vinegar56%

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
全記事一覧

全ての記事を表示する

検索フォーム
リンク
FC2カウンター
FC2カウンター
現在の閲覧者数: