座礁中


アイマスと関係ない話です。













現在、自分で自分の書いたものがつまらない症候群を発症中であります。いや、自分で書いたものがしばらく経つと見るのも嫌になるのはいつものことですが、そのタイミングが公開する前とか書いてる途中になると、身動きが取れないんですよね。私が読んで面白くない文章は等しく人外魔境に蹴り落とされるべきであり、ともあれ春香派は滅ぼされるべきである。そうしろと囁くのよ、私のポルターガイストが。きゃあ、じぶんごろし。やめろよ、じぶんどうしのあらそいは、みにくいものだ。135歳にしてバンド結成、ただしメンバー全員テルミン、みたいなっ。いやいや、むしろそれは見てみたいぞ、すごく。
そういうわけで、この記事は、いま私の脳内にある選択肢の中で一番どうでもよさそうなところから話を始めて自分を宥めていこう、という目的で書いているもので、何の珍しさもなく、かつどこに行くんだかわからんような話になるだろうと思います。




『Fate/Zero』という小説は、大変なバッドエンドのお話だと一般に言われているし、作者自身もそんな説明をしている。けれども、ならば読んでひたすら陰鬱で後味悪い感触ばかりが残る作品かというと、そんなことはないと思う(もちろん、そういう部分が無いとは言わないが。)
それは、確かに登場人物の多くが悲惨な目にあったり死んだりはする。けれどもその死に際して、少なくとも最期の最期、死んでいく当人の主観の中では平穏と満足が見い出されている。そういう様子が、しばしば描写されているからだと思う。

ここからの話の続け方は二通りあって、どっちでも大して変わらない気もするんだけど。
一つは、この作品においては主要な登場人物が死ぬ場合、いまわの際に死にゆく当人の主観の中で見えているヴィジョンを描写する、というのが、一つのパターンになっている、ということ。
すると逆に、死ぬ時に当人が見たヴィジョンを描写してもらえなかった登場人物たちは、なぜそういう扱いになったのだろう、ということが気になってくる。
死ぬ当人の主観が描写されない、ということは、殺した側、絶息を看取った側の人間が見た死の様子のみが描写される、ということ。で、誰がどういう形で殺した(看取った)場合に死者当人のヴィジョンが描写されなかったか、と振り返ってみると、それは限られた数名の登場人物が、相手を目前にして殺した(看取った)場合に集中していたように思われる。
つまりは、他者の死を見つめながら生きていく、という役割を特別に強く受け持っているキャラクターが何人かいるんじゃないか、という話だけれども、その場合、他者の主観、他者の死は不可知だってことが重要なわけだ。

もう一つは、さっきの、登場人物がいまわの際には平穏で満ち足りたヴィジョンを得る、というお話からは、どんな人間、どのような生にとっても、死だけは、あるいは死こそが救済である、というテーゼが導けるだろう。
それを裏返せば、死なない(死ねない)こと、これから生きなければならないことこそが不幸であり、絶望なんだ、というテーゼにもなる。
で、しかし、苦しみながら生を送って最期に死によって救済される、というのがどんな人間にも適用される普遍的なサイクルだとすると、そのシステムというか原理に対して対抗したり、乗り越えたり、補完したりするような何ものかがあり得るとすれば、それを生み出す可能性は、死なない(死ねない)宿命を負った者だけが持っている、ということにもなろう。(もちろん、死なない人間なんて普通居ないんだけど。)

そんなわけで、この小説は、『Fate/stay night』の前日談という設定になっている。
たぶん、『Fate/stay night』を全く知らずに単体で読んでも十二分に面白い物語だと思うし、また当然、『Fate/stay night』はそもそもこの小説抜きに単体で楽しめる作品だ。にもかかわらず、この物語が存立するためには『Fate/stay night』の存在が必須である、という関係が、ちょっと面白い。
……という締めは、「つまらない」の第一声で始まったこの文章の末尾に「面白い」を出して "均衡” を整えるために、いま適当にこしらえたものである。


上の話題はここで終わりで、特にこれからどう発展する、どこの話に繋がる、というような予定はないのですが。
ただ、冒頭で言いませんでしたが、私の中でいつ書いても書かなくてもいい位置づけだったこの話をなんで今のタイミングで書いたか、というと。
東方卓遊戯動画で、毎週日曜日に新作が来る『東方緋想剣』シリーズ。その、10章が連載されているリアルタイムのうちに当の10章を語る記事を書きたいとずっと思っていて、結局何も出来ないうちに新章が始まってしまったなあ、と見返していたらこの場面が出てきたからです。

緋想剣 10−1 3:17 のコピー
(ゆらゆら氏 【卓遊戯】 東方緋想剣 session 10-1 【SW2.0】 (14年10月05日) より)


ちなみに、動画について書きたいと思っていた内容は、この記事の話題とは全然リンクしていません。


この記事の私の中での必要性ということに絡んで、もう少し話を続ける、というより話を遡ると、去年エヴァンゲリオンの劇場版『Q』を見たのと、まどかマギカの劇場版『叛逆の物語』を見たのと、二つのトピックが出てくる。
いや、どちらもそれぞれに面白かった、視聴体験そのものは。ただ、見た後にそれぞれ、ちょっとしたしこりが私の中に残った。
『Q』でのしこりは、視聴中あるタイミングで不意に生じたもので、これだけ手間隙かけて工夫して化粧直しして、それでも結局は「第九」にすがるしかないのか、という。
『叛逆の物語』の方は視聴中の出来事ではなくて、あるライター氏のまどかマギカ語りの文章を読んだ時のこと。TV版ではまだ「一元論的な世界」で「物足りな」いところがあったのが、劇場版に至って「ファンタジーのスタンダード」である「『魔法世界が光と闇で対立している』二元論世界」が整った、というようなことを言って喜んでいるのを読んで、古典ファンタジーみたいなお話が見たいなら古典ファンタジーを読んでりゃいいんだよな、という。

従って、この話はさらに遡って、個人的に『ゲド戦記』後期3巻をどうしたらいいか、というトピックに繋がって、そしてそれは結局、『ナルニア国物語』を私がどう読み直すか、という問題に行き着く。ところで『指輪物語』はどうしたんだと言うと、あのいとしいものは、メニューから魚が消えたので、魚還りますまで、今はおさらばなのだ。あれだよね、考えてみると指輪って、つくるのはきっと焼いてると思われる。よくさ、映画とかの釜とかにも入ってるかもしんないなって感じ。絶対こんな説明じゃわかんないよ!

……ここまで書いて飽きたので、次の記事はこの続きになるのかもしれないし、ならない可能性の方が高いでしょう。





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