必殺技や合体について考えた結果


うろ覚えで語ろう劇場版シリーズ。DVD、まだ買ってません。記憶が頼みです。
劇場版アイドルマスターのネタバレを含みますが、劇場版の内容についてどの程度正確な記述がなされているかは、非常に怪しいです。

また、今回は、私としてこの記事で新出の発見、解釈、というようなものは特にない内容になっています。
特にここ最近は、劇場版アイドルマスターに関する議論が再び盛んになってきて、日々新しい論説が提示されている最中です。今さらお前にこんな内容を得々と喋られてもなあ、という部分が多々あることと思います。それでも読んでやろう、という奇特な方には、お読みいただければ幸いです。












ただの倉庫:劇マス終盤の構成はあの有名ロボットアニメだった!!

cha73氏の上記記事を読んで、自分にはあまりピンと来ないな、と思ったんです。
いや、”コン・バトラーVにおける決め技のシークエンス” についてはよくわかりました。すっごくわかりやすい。
わからなかったのは、そのコン・バトラーVについての解説が、劇場版アイマスの何をどう説明しているのだろうか、というところで。

それで、自分でも、cha73氏の記事で語られている”劇場版アイドルマスターのクライマックス” について、つらつら考えてみたのですが。
”映像作品としてのクライマックス” と、”物語としてのクライマックス” を分けて考えるとわかりやすくなる、という話なんだろうな、と思いました。
(後でもう一度こっちの話に戻ってきますが、)劇場版アイマスの物語が、いろんな視点から読み解き得るものであること、それ故に、見る人次第で、どこで一番感動したかも千差万別である、ということは、以前からしばしば指摘されていました。
ただ、そのことと、一まとまりの映像作品として、どこにテンションの底があってどこに頂点が来るように構成されているか、という話は、別の問題だろう、と。

最近話題になった下記の記事は、劇場版アイドルマスターの、映像作品としての構成がどうなっていたかについて、わかりやすく描出していると感じたので、引用します。


「中盤から画面が暗い 天気が悪い コレが物語のテンションが落ちてる事を表しているのはすぐわかるんです 最後にはライブで画面がパーッと明るくなっていくだろうというのは想像に難くない ただその暗いのがやっぱり長い」

俺は何故こんなにも劇場版アイマスが嫌いなのか:はっぱのブロマガより引用)


引用した文章に端的にまとめられているように、中盤から、映像の色調・明暗、BGM、会話のトーン、画面上の動きの多寡、すべてにおいて、暗い・陰鬱・静謐なシーンが続く。ターニングポイントになるのは、雨の中、可奈を探しにアイドルたちが飛び出していく場面で、ここから動きのあるシーンが連続するようになり、アリーナへの集合を経て空も晴れ、そして専用の新曲とともにもっとも光と動きにあふれたライブが始まって、頂点となる。
そんな展開になるだろうことは簡単に想像がつく、という点も引用文に指摘されている通りで、中盤でテンションを落として最後で上げる、という構成そのものはごくごくオーソドックスで何の不思議もないものです。

ただ、この作品の何が特徴的なのかと言えば、これも引用文に「ただその暗いのがやっぱり長い」と端的に指摘されている通りです。
テンションが落ちていって、上がり始めて、頂点に達して、というシークエンスのひとつひとつが、ゆっくり、じっくり、たっぷりと時間をとって表現されている、という点でしょう。
そしてそのお話の内容は、可奈が失踪する。春香が決断する。可奈を説得する。可奈が立ち直る。みんなで舞台に立つ。メインイベントを箇条書きで要約してしまえば、実に簡単明瞭で、いくらでも切り詰めてもっと手早く表現できそうなものです。

すなわち、同じ展開でも、

765アイドルとダンサーズが顔を合わせたと思ったら、杏奈が「天海先輩! 可奈が来ていません!」と手を挙げ、「あんな人放っておきましょう!」と志保が意見するのを、間髪入れず春香が制して「さあ、みんなで可奈ちゃんを探しにいこう!」と号令をかける。
と、シーン変わって全力疾走するアイドルたち、前方に逃げ惑う可奈。その場で春香が熱く一喝すると「わたし、やっぱりアイドル諦めません!」と涙を流す可奈、二人を囲んで泣いて喜ぶ全員。
すぐにシーン変わって、手をつないで幕が開くのを見つめる20人の晴れ姿……

というような、ジェットコースターのごとく飽きる余地のない構成で見せるやり方だって、考えられるわけです。

これが30分アニメの一回で描かれたエピソードなら、そんな構成になるのは大いにありそうですし、映画だとしてもそうした形にまとめて、他のよりインパクトのある描写(たとえば楽しい合宿の様子なり、より充実したライブシーンなり)に時間を割くのは、難しいことではなさそうに思えます。
けれども、そうではなく、そのシークエンスをゆったり時間を使って細部まで見せる、というのがこの作品の選択でした。

この点を批判的に指摘した人は多いですが、次に引用する文章など、端的にまとめて表現している好例だと思います。


「この話、劇場版向きではなく、TV版の1エピソード分ですね。
 30分で出来る話を2時間に水増ししてるので、かなりダレます。」

Antikim.net ~blog version~:「THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!」 の3つの残念なポイントより)


かりふらPの下記記事もまた、現象としては同じ部分を、異なる視点から指摘しています。一部引用します。


「問題は、複数人が似たような言葉が重ねてしまい焦点がボヤける事。そして、言葉と映像で二重に物事を説明するので冗長に感じられる事。何より、映像作品として退屈になる事です」

「合宿が終わるまではとても良かったのです。(中略)
しかしその後のイザコザは、分かり切った心情吐露を繰り返し、発言者以外はうつむいてる、そんな平坦な光景、目をつぶっていても想像できるような退屈な光景が、延々と続くばかり。

イザコザが解決する会話も、橋の上でほとんど終わってるのに、わざわざアリーナに移動して、さらにアリーナの外でもダラダラと話し続ける。」

メモ 『ある愛へと続く旅』『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』より)


引用箇所のみでもある程度は読み取れるかと思いますが、この記事においては、作品の性質を前半と後半で区切って考え、後半部分について、映像作品としての展開の少なさと言葉による説明の過剰さ、という観点から批判が行われています。
作品の、「物語」よりも「映画」としてのつくりに注目する書き手(同ブログの最新記事メモ 『記憶探偵と鍵のかかった少女』『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』参照)ならではの視点ですが、

・より短時間で表現できるはずの内容を、時間をかけて表現している
・短時間で構成した方が、観客を飽きさせないつくりに出来たはず

であることを指摘している、という点では先に引用した二つの記事と同様です。

”クライマックスはどこか” というテーマに戻って再度確認しますが、

・後半のシークエンスの一つ一つのスパンを長く、ゆったりと、たっぷりと描くのがこの作品の選択であり、特徴的な点である。
・しかしながら、落ちる→上がる→最後に頂点を迎える、という展開そのものはあくまでオーソドックス。
・従って、映像作品としてどこがクライマックスかは明らか(最後のライブシーン)であって、別に本作品が、普通の映像作品と異なる理解しがたい構造を持っているわけではない。

とまとめられるのではないでしょうか。

ところで、冒頭で挙げたcha73氏の記事では、サッカーのゴールに喩えた説明も行われています。


「サッカーでいえば、例えばカウンターに成功してフォワードが相手ゴールに迫り、ファウルで倒される。
フリーキックが与えられて、これをキックの精度が高いプレイヤーが蹴ってクロスをあげて、
ゴール前につめていた選手がヘディングで押し込む、といった感じになるでしょうか。
決定的チャンスを作ったのはファウルをもらった選手で、
ゴールシーンにおいて最重要な役割を果たしたのはフリーキックを蹴った選手で、
実質ゴールを決めたのはヘディングをした選手、という。
どれがクライマックス? と言われてもちょいと判断が難しいですよね。好みもあるだろうし。
一番盛り上がるのはゴールシーンで間違いないけどw」

ただの倉庫:劇マス終盤の構成はあの有名ロボットアニメだった!!より)


このサッカーの例でも、最後に書かれている通りに、一まとまりの映像として見て「一番盛り上がる」のはゴールが決まったその瞬間、であることは間違いないでしょう。
ただ、鑑賞する側が、どのプレーをいちばん大切で面白いものだと感じるか(「ファウルをもら」うことか、「フリーキックを蹴」ることか、「ヘディングで押し込む」ことか)は、個人個人によって変わるわけです。
それは、サッカーという競技をどんな性質の勝負・遊びだと捉えているか、どのような点をサッカーの面白さだと思って鑑賞しているか、という認識の違いのもたらすもので、映画の場合で言えば、物語としてはどこがクライマックスだと考えるか(=どういう物語だと思って作品を見ているか)、という話に相当している。
そう考えると、この喩えを通じても、”映像作品としてのクライマックス” と ”物語としてのクライマックス” を分けて考えることで話が整理できる、と言えるのではないかと思います。

ここで、そもそも、”映像作品としてのクライマックス” と ”物語としてのクライマックス” を分けて考えなければいけないのが、「映画」としておかしなことなんじゃないだろうか? だから議論がわかりにくくなっている(いえ、私が個人的にそう感じただけですが)のではないか 、という疑問が浮かびます。
実はこの点も、先述したかりふらPの記事で、すでに指摘されています。


「そして、致命的だと思う二つ目の点は、作劇と映像のクライマックスが一致していない事です。」

「この映画が描いてきた研修生の子たちと春香の物語は、アリーナ下見の時点で解決してしまい、ライブシーンに全く寄与しません。」

(前出メモ 『ある愛へと続く旅』『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』より)


そこで、今度は本作品の ”物語としてのクライマックス” について、少々考えてみます。
(引用文後段で指摘されているのは、「研修生の子たちと春香の物語」のクライマックスが、映像上のクライマックスであるライブシーンと一致していない、ということですが、この論点については後述します。)

まず気がつくのは、引用文で「物語」に「研修生の子たちと春香」という限定が付されていることからも明らかなように、そもそも、 ”物語としてのクライマックス” とは言っても、どんな立ち場から眺めても、この瞬間に問題が集約的に解決してみんなが同じ方向を向いている、というような形でのクライマックスは、この作品にはないんじゃないか、ということです。
描写の濃淡、比重の多寡はあるにしろ、この作品には、”春香と可奈の物語” ・"千早と春香の物語" ・ ”ダンサーズの物語” ・ "765プロと赤羽根Pの物語" と言った、複数並行する物語が存在していて、そのクライマックスのタイミングは必ずしも一致しない。
この点、どういう視点から眺めるとどんな物語が読み取れるかは、言い出せばきりがありませんし、すでに多くの書き手が種々論じられているところですから、立ち入りません。当記事では、”ダンサーズの物語” と、”765アイドルの物語” という大きなくくりで分けた二つについてだけ、記述します。

ダンサーズの物語において大きなポイントになるシーンはどこか、と言えば、誰もいないアリーナに集まった時が、間違いなくそのひとつでしょう。

ここに来て、箱崎星梨花と望月杏奈が、可奈に駆け寄って言葉を掛ける、という今までになくアグレッシブで衝動的な行動をする。
七尾百合子は、「みんなで、元のフォーメーションでもいけるように」と、やりたいことを明快に宣言する。
横山奈緒と佐竹美奈子は、周りが見えていなかった、もっとお互い協力すべきだった、という、今まで持っていなかった視野を手に入れる。
そして北沢志保の、「今立っているこの場所は、私が思っていたよりも、ずっと重たかった」という、ここまでの彼女の言動からすれば意外(?)かもしれない一言が出る。

ここに至るまでの流れとして、もちろん、ミニライブ以来、踊れない不安に苦しみ続け、全体練習を繰り返しても解決の展望は見えなず、メンバー間の意識疎通もうまくいかない……という、辛い時間の積み重ねがある。萩原邸・水瀬邸での一夜ではじめて、落ち着いて悩みを打ち明ける時間を持ち、そしてこのアリーナに来て初めて、可奈の心情を聞いた。
なにより、このアリーナに来て初めて、彼女たちはアイドルが立つべきステージの広さ、そこから見える光景、というものを体感した。それは、ただそのことだけで、アイドル候補生になってこの方最大級の衝撃的体験ですらあったかもしれない。
そういう、映画の中で積み重なってきた諸々が、この瞬間に集約的に重なって、この場面でダンサーズひとりひとりが、それぞれ特筆すべき行動・表現に出た。
下記の記事は、このシーンで表現されたダンサーズたちの行動を、物語上の重要なポイントとして指摘している例です。


「この作品で最も重要なポイントはここだと確信を抱いている箇所があります。

終盤の『春香の独白』を受けて「一緒にステージに立ちたい!」と可奈が叫んだ直後、“星梨花が駆け寄る瞬間”です。」

“アイマス”だから好きなのか(劇場版について): ksskのブロマガより 太字は原文ママ 理由・解説は原文参照)


一方、同じアリーナの場面も、765アイドルたちにとってはどうだったでしょうか。
もちろん彼女たちも、春香の演説に感極まり、涙ぐんでいました。けれども、765アイドルたちは、踊れないことに苦しみ、不安な時間を過ごしてきた当事者ではありません。それに、いくつもの舞台を踏んできた百戦錬磨のアイドルである彼女たちにとって、アリーナからの光景が、ダンサーズたちと同等に想像外の新鮮な体験だった、ということもないはずです。
実際、765アイドルたちの方は、この場面で今までなかったような珍しい行動を見せたわけではありません。

では、765アイドルに着目して見るならば、クライマックスはどこになるのでしょうか。
以前の記事で私は、765アイドルたちはダンサーズに対して先輩としての責任を果たしていない、未熟である、と非難しました。けれども、多くの方がすでに指摘している通り、TVシリーズと対比して見るならば、彼女たちは以前に比べて成長した、と言える点がはっきりと存在します。
仕事が忙しくてなんとなくライブの練習に集まれなくなってしまったTV23~24話とは違って、劇場版では自分たちの意志でスケジュールを調整して合宿に楽しく参加している、というのは、そのわかりやすい例です。

この例にも顕著なように、とりわけTV23話~24話の事件を踏まえての彼女たちの変化・成長が、劇場版では随所に描き込まれています。後半で春香以外の765プロアイドルの行動も、その変化・成長に裏打ちされたものだった、と見ることができるでしょう。

なぜ、可奈の失踪が明らかになってから春香が気持ちを固めるまで、他の765アイドルたちはただ手をこまねいて見ていたんだろうか? 
春香はいま立ち止まって悩んでいる。でも、春香のことだから、最終的に可奈を見捨てよう、なんて言い出すわけはないだろう。そんなことは、彼女たちは当然わかっていたはずです。でも、春香がぐずぐずしていてまどろっこしいから、私たちで手際良く問題を解決してしまいましょう、などとは誰も考えなかった。

春香が、こういうところで深く悩む人間であること、それでも最後には必ず自分の答えを見つける人間であること。その全部を含めて、春香という人間を信頼している。だから、彼女たちはただひたすら、春香が答えを出すまで待ち続けた。
それは、何の根拠もなくなんとなく仲間だから、友達だからそうしたのではなくて、23~24話で悩んだ末に答えを見つけて戻ってきた春香を、実際に目の当たりにしているから。
そしてそこには、誰もそんなことを想像もしないうちに、気づいたら春香がボロボロになって引きこもっていた23~24話当時とはまったく異なった、765アイドルたちの周りへの観察と決断が存在する。

もちろん、春香の答えを待っている間、765アイドルたちが何もしなかったわけではありません。
たとえば、練習でのダンサーズ個々への指導、アドバイス。伊織と真の間の、ライブの方針をめぐる議論。萩原邸・水瀬邸でのダンサーズとの対話。
春香ひとりでは手が届かない領域については惜しみなくサポートし、気を配り続けながら、大方針としては、春香を信じてただただ待ち続けた。

だから、この映画を、TVシリーズを踏まえて成長した765アイドルたちの物語、として見るのであれば。
クライマックスは間違いなく、春香の、可奈を探しにいこう、という決断を受けて、信じて待ち続けた仲間たちが一斉に走り出すその瞬間、ということになるでしょう。その瞬間に、この映画で彼女たちがやってきたことが凝縮されている。

この、可奈を探しにいくシーンの持つ重要性については、zeit氏の記事において、すでに指摘がされています。


「(前略)春香さんが話をするために皆が集まる。そして結論が出て皆が動く。別に急を要するとかではなかったはず。でも皆が、雨の中を、走ったんです。それだけ真剣に、彼女たちは、待っていたんです。」

Augenblicke:雨の日に走るということ(劇場版ネタバレ有です)より 長文記事のため、ごく一部のみ引用)


同じように誰も居ないアリーナに立ったシーンでも、ダンサーズにとってと765アイドルにとってでは、その重みが違う。
同じように雨の中を走っているシーンでも、765アイドルにとってとダンサーズにとってでは、その重みが違う。

もしこの映画の後半部が、先に私が例示した、30分アニメ1話に納まるような、ジェットコースター的目まぐるしい構成になっていたら、どうだったでしょうか。どんな視聴者も飽きる余地もなく映像を楽しめたに違いない。可奈が落ち込んで、春香が可奈を引っ張ってきてみんなで舞台に立ってめでたしめでたしなんだね、というあらすじは、それだけでもわかったことでしょう。
でも、春香が悩み続ける間、ずっと信じて待ち続けた時間の積み重ねがなければ、765アイドルたちが走り出す瞬間の重みは、生まれなかったに違いない。
ダンサーズが苦しみ続けた、ミニライブ以来の長い経緯がなければ、アリーナの舞台に出たその瞬間の彼女たちに、あそこまでの激しい心の動きを与えることはできなかったに違いない。

「30分で出来る話を2時間」でやった。シークエンスの一つ一つを、ゆっくりと細部まで描き込みながら進めた。それはつまり、各々の瞬間に籠められた、キャラクターの心の動きを表現できるだけの物語の厚みを、作品に生じさせるための仕掛けでした。
映像の構成としては、人によっては風変わりで馴染めないと思えるものになったかもしれない。その代わりに、どんな視点から観察しても、心を動かされる重い瞬間が見つかる、いくつもの豊かな物語が輻輳する作品になることができたのです。


最後に、先に飛ばした、「研修生の子たちと春香の物語」のクライマックスが、映像上のクライマックスであるライブシーンと一致していない、という問題について、少し考えます。同じ問題が、様々な書き手によって指摘されていますが、ここでは非常に丁寧に、わかりやすく説明されている、下記の記事から引用します。


「でも、あの全体曲にはたしてバックダンサーが必要だったのだろうか。

 彼女たちは何のための練習をしていたんだ。」

「突然やってくるM@STERPIECEという曲でのステージは、
「長い間お疲れ様! 最後にステージ観ていってね」
っていう来場者プレゼントみたいなもので、
それ自体はせっかくのドラマに組み込まれていなかったので、そこが残念。」

「1分間でいい。
メインカメラは765を映した状態でいい。

端々に映る懸命な姿で、あぁ練習頑張ったね、バックダンサーとしてしっかりやってるね、すごいね。
そうはっきりと分かるシーンが欲しかった。」

花丸倉庫 THE IDOLM@STER MOVIE        輝きの向こう側へ!  (修正版)より)


ライブシーンでのダンサーズが、簡単な振り付けで後ろに存在感なく居るばかりで、ここまでの物語の流れを受けての彼女たちの成果、進歩、解決といったものが感じ取れない、という問題。

上記記事では、具体的にここを違う形で表現すべきだったのではないか、という問題提起もなされています。


「思い返すと、ちゃんとバックダンサーとしてやってた描写って、
可奈ちゃんが失敗して雑誌でとりあげられちゃったアレだけだったような。

あのステージこそ、突然の回想ではなくきちんと見せておくべきステージだったのではなかろうかと。」

(同記事より)


可奈が転んでゴシップ誌に取り上げられたミニライブについては、私もこのエピソードを正面から描いた方が、よりわかりやすい物語になったのではないか、と書いたことがありますが。
ただ、最後のライブシーンにおいて、練習を踏まえたダンサーズの目に見える成果、進歩、解決といったものが描かれていないのは、この映画が作劇のお約束も弁えていない欠陥作品だから、とは、私は思っていません。むしろそれが描かれていないことにこそ物語上の重要な意味がある、と考えています。(過去の記事でも同工の内容を書いていますが、再度書きます。)

外から見たアリーナライブの成功度、というようなものは、劇中では描かれません。
実際のところ、ダンサーズ自身としては全力を尽くせた、完璧だった、というつもりだったとしても、観客からは、せっかくのトップアイドルのライブなのに、あの後ろにいる連中は何の役にも立ってなくて邪魔なだけじゃないか、と罵声を浴びせかけられていたかもしれない。ゴシップ誌に、またまた足を引っ張った情けないバックダンサーたち、とか大々的に書かれていたかもしれない。

あるいは、描かれていないところではダンサーズが練習の成果を発揮していたのだとしても、その先はどうでしょうか。たとえば、噂を聞きつけた他のプロダクションが依頼をしてきて、今度はもっと難しくて厳しい仕事をこなすことになり、今度こそは本番で主役の面目丸つぶれの大失敗をしてしまうかもしれない。
そうなった時、可奈や杏奈や星梨花は、どうするのでしょうか? 甘い765プロ相手だからなんとかなったけれど、やっぱり芸能界は厳しいからアイドルは諦めようね、という話になるのかな?

あれだけ練習で苦労して辛い思いをしたんだから、本番ではかっこよく活躍できた筈。それはつまり、できなくて逃げた可奈だけれど、彼女だって逃げずに頑張って努力すればできるようになる、ってこと。現に今回のライブは最後にはうまくいったし、今後の仕事だって頑張れば必ずうまくいくはず。だから、可奈だってアイドルを諦めなくていいんだよ。
それは裏を返して言うならば、今後も頑張っても出来ない可能性が、本番で失敗する可能性があるならば、結局出来ない可奈はどこかでアイドルを諦めるしかない、ということです。
この映画が矢吹可奈を通して描いてきたのは、果たしてそういうお話だったでしょうか? 

アリーナで可奈が表明したのは、どんな決意だったでしょうか。努力しても、うまくいくかどうかはわからない。それでも、自分の中にある、アイドルを諦めたくない、という気持ちを大事にする。そういう話だったはずです。その物語に、結局本番では練習の成果が顕われて、確実な成功を手にすることが出来た、という描写は必要でしょうか? いやむしろ、そんな描写が存在するべきでしょうか?

かりふらPが、映像と物語の齟齬という視点から論じられている、千早をめぐる描写についても、同じようなことが言えます。 


「その後に続く、千早がポストに手紙を投函するシーンは、テレビシリーズを見てきた人にとって、この映画屈指の感動ポイントに成り得る瞬間です。あの手紙を投函した瞬間、千早が抑圧してきた時間が真に動き出すのですから、丁寧に演出して然るべきです。にも関わらず、延々と続く、焦点のボヤけた会話のついでに、何となく投函してしまう。映像的に、ポスト内にカメラを置くという閉塞感に満ちた画(チケット送っても母親来ないんじゃないかって雰囲気)にしているのも疑問です。」

(前記かりふらP記事より)


指摘されている、
・TVシリーズ以来の千早の物語を考えると重い意味を持つシーンであるという点。
・にもかかわらず映像的な盛り上がりを持ったシーンとしては全く表現されていないという点。
私もまったく同意見です。
ただ、「あの手紙を投函した瞬間、千早が抑圧してきた時間が真に動き出す」という表現には、私はひっかかりを覚えます。手紙の投函を分水嶺として、その手前には閉鎖的で鬱屈していて苦しい千早が存在して、その後には開かれて希望に満ちた明るい未来が約束されている、というような二分法で千早の物語が解釈されているように感じてしまうからです。

引用文中、「(チケット送っても母親来ないんじゃないかって雰囲気)」という表現があります。
逆に言えば、書き手は手紙を送る行為によって、母親がライブにやってくる結果が生まれる筈だ、そういう未来が存在するべきだ、と考えているということだと思います。映像がそこにそぐっていない、という着眼を除けば、同様の意見は多くの人が語っています。

もちろん、そうした未来が存在する可能性は肯定されてしかるべきでしょう。
ただ、作品が、千早の決断によって家族との絆の回復という成果がもたらされる、という物語を描こうとしているのならば、もっと明快な結末を、容易に描けたです。実際にライブシーンで、千早の母が客席で微笑んでいるワンカットを入れさえすればいい。
けれども、そんな描写はなかった。ということは、千早の母がライブに来なかった可能性、千早と家族のあたたかい可能性が未来においても回復しない可能性もまた、残っているということ。

今までは家族の問題から逃げ、自分を閉ざしてきた千早だけれど、決意して家族にアクションしたのだから、必ずいい結果に繋がるよね。
千早の物語が重くて難しかったのって、そういうお話だったからでしょうか。離婚や勘当や家出をして、その後よかれと思っていろいろコミュニケーションしてみても、結局冷えた関係を取り戻せなかった。現実には、そんな経験をする家族だって少なくないはずです。

勇気を出して行動してみても、望ましい未来にはつながらないかもしれない。それでも、そうした方がいいと思ったから、そうしたいと思えたから、そう行動する。だからこそ、この先にどんな未来が待ち受けていてもこの行為は千早にとってちゃんと意味があって、大事なエピソードとなり得ているのではないでしょうか。
何よりも千早自身が自分の言葉で、そう語っています。

「これで何が変わる訳じゃないけど、このままじゃいけないって思えるようになってきて」

もう少し言えば、「これで何かが変わる訳じゃない」ということは、千早が手紙の投函という行為を、この一点で自分の未来が決まる大勝負だ、と思ってやっているわけではない、ということでもあります。
TV20話で歌った千早の眼前には、内に押し込めていた弟との思い出が、すでにイメージとなって溢れていた。劇場版が始まった時点ではもう、カメラ趣味という新しい世界を手にしている。合宿中も早朝の走り込みを怠らず歌を磨き続けている。
そんな、ずっと続いてきた変化の積み重ねの一貫として、母への手紙がある。
それは千早がアニマスで積み重ねたものが籠められた、大切な一歩ではあるけれど、劇的にそこで何かを区切り、決定づける世紀の一瞬ではない。それでいいんじゃないだろうか、と私は思っています。

ダンサーズたちは頑張った。でも、その成果がどうだったかはわからない。千早は手紙を投函した。でも、それがどんな結果を生んだかはわからない。視聴者をすっきりと安心させて、気持ちよく帰してくれる解決は、そこにない。

まあ、劇場版アイドルマスターの物語において、”彼女たちの未来” がどう扱われているのか、という点に関しては、すでに下記の記事が、鮮やかに切り取ってまとめられています。こちらを読まれた方は、私のこんなくどくどしい文章を読む必要もないでしょう……、と、最後になって言ってもアレですが。

「輝きの向こう側」は希望ではない――問題作としての劇場版アイドルマスター - 長椅子と本棚


当記事はもともと、冒頭に書いた通り、cha73氏のコン・バトラーVの喩えが個人的にピンと来なかったので、こういう風に考えたらいいのかな、という自己解決のためだけに書き始めたものでした。
しかしながら、のろのろと書いているうちにブルーレイ/DVDの発売があって劇場版をめぐる話題が再燃して、いろんな方の文章を読ませていただくうちに内容がふくらんで、いま公開している形になったものです。なんというか、ここまで全文読んでくださった方には、乱文申し訳ない限りです。


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 こんにちは。

 まあ、ホームランとはいかなくても、ランナー送れればいいか、みたいな打球もゲームのうちなので、私の中では、cha73さんにしろ、かりふらさんにしろ、あれが全力ではなかろうなという印象を持っています。chaさんネタで書いたって言ってたしね。

 ところで「魔法の天使クリーミィマミ」というアニメがありまして、これが、最終話の1つ手前の回でそこまでの緊迫したドラマを全て解決してしまい、最終話はマミがファイナル・ライブをするだけ、という構成になっています。まあ、これは大作RPGがラスボスを倒した後に、延々と壮大なエンディングを見せるのと同じようなものかなと今なら理解できますが、当時はかなり驚きました。

 でもって、音楽を前面に出す物語、ミュージカルとかそうですが、それが哀しい終り方だったり、しんみりした終り方だったりしても、最後にアンコールというか、口直しというかで思いっきり明るい曲をあえて演奏する、という場合があります。

 ストーリー仕立ての代表的なロックアルバムであるデヴィッド・ボウイの「ジギー・スターダスト」が典型的。他にRUSHの「2112」なんかもそうで、どっちも物語としては悲劇なんだけど、最後は陽気な楽曲で〆ている。

 一方で、最後の1曲が、物語のクライマックスでもある例というと、プリンスの「パープルレイン」や、ジャックブラックの「スクール・オブ・ロック」などがそうです。これはどちらもミュージシャンを主人公にした映画です。後者のような、コンクールやオーディションで勝つために背水の陣で演奏する、というパターンは、他にもたくさんあります。

 あとまあ、クライマックスで派手に1曲やるけど、ストーリーにはあまり関係ないというか、むしろ派手に終るけど物語的には苦味を残すのが「フェーム」とか、「ストリート・オブ・ファイヤー」。これも映画。

 まあそんなわけで映像が乗ると、音楽だけでクライマックスを迎えるのは避けて、物語としての意味も乗っけるのが一般的なのかもしれませんが、音楽の比重が強い、コンセプトアルバムなんかでは、大団円的な曲をストーリーと繋がりが弱くてもあえてもってくる場合が割とあるってことですかね。

 あ、映画でもありますね、たけしの「座頭市」。まあレアケースなのかも知れません、しかし私としては、先述の、音楽コンクールで優勝しないと全てを失うんだ!みたいなノリは既にさんざん見たので、別にそんな要望は今では持ってないです。

 ではでは。

Re:

zeitさん、いらっしゃいませ。

本文末尾に書いていますが、私のこの記事自体、元々はcha73さんの記事を読んで、マウンドに上がったら走者がいるのが見えたから、ちょっと牽制球でも投げて様子をうかがってみようか、程度のノリだったんですよね。それが書き始めた時にちょうど劇場版でいろいろあって、複数の目的が混ざりこんでよくわからない記事になってしまいましたが。
まあ、そうやってよくわからないぐちゃぐちゃしたことになっている時に、書きやすいきっかけを作ってくださる、という点でも、cha73さんには感謝しています。この記事ひとつのことにとどまらず。

かりふらPの全開の批評とか、考えただけでも恐ろしいですが。
ただ、そうですね、現在のアイマスに関わることに、氏がそれなりに文面を割いて言及することなんて、もうそうそうない機会なわけで、一期一会というか、どうせならそういうものも見てみたかった、そんな希望というか未練があったのかもしれません、この記事が最終的にかりふらPの文章へと引き寄せられていったのは。
というか、恐ろしい、ということで言えば、かりふらPが動画作っていた頃だったら、発言に絡むとか怖くてできなかったですね、私は。それこそアイマスが映画になるなんてことでもなければ、氏と自分との間に何の接点も出来ようが無い今だったら、書いてどうなっても別にいいか、という気分もあったと思います。

音楽に関しては、御承知の通り拙記事では何一つ言っていないので、そちらはzeitさんにお任せします! というかw。ご教示ありがとうございました。
音楽コンクールで優勝しないと全てを失うノリ、というと、SP以降のアイマスのゲームって、基本的にお話としてはそういう構成でしたが、アニマスは意識してそこから外れる道を選んだろうな、と、いただいたコメントを読んでいて改めて思いました。

では、コメント、ありがとうございました。


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