うさぎをめぐる冒険


この記事は元々、そういえば伊織誕生祭でしたね、という理由だけで立てられたもので、

動画を削除します:いとしいさかなの指輪鉱炉 - ブロマガ

↑この記事とはいささかの関連もなかったのです。
というか、伊織誕生祭のために特別に準備したわけでさえありませんでした。単に、大したことはできないけれど何かしらこのブログをいじる動作をしたいな、という時のための、小ネタのストックのうちの一つだったのです。まあ、五月雨式にネタを継ぎ足した結果、多少ごちゃごちゃと長くなりはしましたが。

つまり、偶然ってたまにあるものですよね、という話であり、あるいは、まあそんなものでも何もないよりは気分がましだから、という話であるわけです。

いとしいさかなP『The Idol of the Rings』シリーズのネタバレを含みます。














いとしいさかなPThe Idol of the Rings(08年03月23日〜10年09月29日)は冒頭、アイドルたちが『指輪物語』の世界に飛ばされるところから始まります。『指輪』世界の各所にバラバラに降り立ったアイドルたちのうち、『指輪』の主役であるホビット族の元で暮らすことになるのが、伊織とやよいです。2人はホビットたちと親しく交わり、そしてその中のフロド、サム、メリー、ピピンという面々と共に、旅に出る成り行きとなります。

『The Idol of the Rings』の魅力のひとつとして、登場するアイドルたちの生彩に富んだキャラクター描写が挙げられるでしょう。鋭さと温かさを兼ね備えた観察力に基づいた、この物語のアイドル描写は、実に見事の一言に尽きます。
なかで伊織について言えば、彼女の関わる会話の機知に富んだ楽しさ、が、まず大きな魅力です。
まさにその、彼女との会話が機知に富んでいて楽しい、ということが、私が伊織というキャラクターに関して第一に欲する事項ですが、同時に、そのような台詞が書かれるためには作者にそんな台詞を書く能力がなければならない、という単純な理由によって、なかなか実現が困難な事項でもあります。

けれども、私はこの物語の伊織に、溢れるばかりの伊織らしい魅力を見いだしつつも、一方で、これはゲームの伊織そのままの生き写しだな、と思っているわけではありません。なんというのか、『IotR』の伊織は、ゲームの伊織に瓜二つと言うには、しなやかであり過ぎ、理想的な人格であり過ぎる、と私は感じてしまうのです。
ただ、そのことがおかしい、と思っているわけでもありません。つまり、『IotR』において生じたような出会いを得て、『IotR』におけるような暮らしを送ってきた伊織であれば、こんな風に成長し、こんな風に振る舞っていたのではないか。この物語はアイドルを『指輪』世界と邂逅させることによって、ある意味『アイドルマスター』原作にも描き得なかったような、あるいは原作だからこそ描き得なかったような伊織の魅力を、描き出すことを可能にしたのではないか。そう考えるのです。





IotR 十二話 のコピー
いとしいさかなP The Idol of the Rings 第十二話「正体をあらわした陰謀」(08年10月27日)より


スクショのシーンは、ピピンが自分の荷物にうさぎのぬいぐるみが紛れこんでいるのに気づいて、これは伊織かやよいの持ち物であろう、と届けにやってくる、という場面です。
私は、この場面での伊織の言動に、前々から違和感があります。この場面で、伊織はぬいぐるみが自分のものであることを恥ずかしくて言い出せず、察したやよいが自分の持ち物である振りをして受け取る、という展開になります。


いとしいさかな IotR 12話 12:36 のコピー

いとしいさかな IotR 12話 12:51 のコピー


しかしながら、言うまでもないことですが、ゲームを基準に考えれば、伊織にとって「うさちゃん」は、単なる少し大事な持ち物、程度の存在ではありません。無二の親友です。
たとえ他人の目があるからと言って、無二の親友を前に、知らない振りなどするものでしょうか? ましてや、この物語において伊織にとってピピンは知らない仲ではなく、家族同然の付き合いをしている仲間の一人なのですから。
私は、この伊織がゲームの伊織そのままであるならば、こんな態度は取らないだろう、と思います。

逆に言えば、だからこそ、この物語においては伊織のこんな姿があり得た、と言えるのかもしれない。
つまり、サムやメリーやピピンのような、同年代で異性の気のおけない仲間、友人(「水瀬の取り巻き」や「水瀬の使用人」という枠に括られずに存在できるような)が、当たり前に彼女の日常に存在したならば。
こんな風に、自分と「うさちゃん」の一対一の関係に誠実であることよりも、それを外から見た時の、”十代半ばにもなって、ぬいぐるみを後生大事に抱えている子どもっぽい子” という見られ方の方が気になる、という伊織も、充分にあり得るのではないだろうか。

もう少しこの場面について考えてみます。そもそも、この場面においてピピンがぬいぐるみの持ち主を知らなかったということは、彼がこれまで、伊織が「うさちゃん」を抱いている場面を見たことがなかった、ということを意味する筈です。伊織の住まう屋敷にちょくちょく顔を見せている筈の、しかも目敏いピピンが、です。(あるいは、ピピンは気づいていてあえて知らないフリをした、という可能性もありますが、伊織の側のどんな態度がそんな結果をもたらしたのだろうか、という観点においては同じことです。)
つまり、ホビット庄で日常を送ってきた伊織にとっては、ピピンやメリーという友人とどう付き合うのか、彼らに自分をどう見せたいのか、という事柄の重大さは、「うさちゃん」と一緒に居たいという欲求を上回るものだった。別の面から言えば、少なくともピピンやメリーたちと共に過ごしている時間においては、伊織は「うさちゃん」に一緒にいてもらう必要を感じなかった。そういうことになるのではないでしょうか。





いとしいさかな IotR 15話 6:48 のコピー

The Idol of the Rings 第十五話「トム・ボンバディルの家で」 09年04月17日


十五話、伊織&やよいとホビットたちが旅に出て、少し経った夜の会話。この会話では、彼女たちの物語全体に関わる重要な事柄が、表現されていたように思います。
定住する家、日常の暮らしを持っている誰にとっても、旅に出ている時間はイレギュラーな状態です。従って、いまともに旅をしている6人全員にとって、最終的な目標は元居た場所、元の暮らしに帰り着くこと。この点に疑いはありません。
けれども、伊織・やよいとホビットたちの間には一つ、大きな違いがあります。それは、伊織とやよいには、戻るべき ”元の暮らし” が二つある、ということです。この世界にやってきてからのホビット庄での暮らしと、その前、元いた世界での暮らしと。

そして、この二つの ”元の暮らし” の関係をめぐって、伊織とやよいの感じているものもまた、分かれています。
やよいにとって、元の世界での暮らし・元の世界にいる人々への思慕と、こちらの世界での暮らし・こちらの世界で出会った人々への愛情は、互いに照射し合い、増幅し合う関係にあります。


いとしいさかな IotR 15話 5:45 のコピー

いとしいさかな IotR 15話 5:56 のコピー

いとしいさかな IotR 15話 6:13 のコピー


けれども、伊織の場合は、違うのです。こちらでの暮らしが幸せであればあるほどに、こちらで出会った人々が大切であればあるほどに、彼女は「元の世界のこと、あんまり思い出さなくなって」、「ずっとホビット庄で暮らすのも悪くない」と感じている自分に気づくのです。

もちろん、伊織にだって、元の世界が大事でない筈はありません。何よりも、彼女がそうして元の世界を忘れていくのを恐れていることそのものが、それを物語っています。


いとしいさかな IotR 15話 6:57 のコピー


元の世界を忘れることへの不安、それ自体はやよいにも、他のアイドルたちにもあり得る悩みでしょう。
ただ、ことに伊織の場合には、こちらの世界での暮らしがあまりにも満ち足り過ぎていて、この場所ですでに理想的な幸福を掴んでしまっていて。いつか自分は本当に元の世界を、元の世界の思い出すら必要としなくなってしまうかもしれない。
伊織はそんな恐怖を、切実に、そしてどう対処したらいいのかわからないものとして、ずっと抱え続けている。

この会話において、そんな伊織の支えとなり、前を向くヒントを与えるのもまた、やよいという仲間の存在でした。ただし、やよいの言葉は伊織の悩みを解決する答えであったわけではなく、その問題自体は、『IotR』の物語が続く限り、伊織の中に存在し続けるものだった筈です。





2010年09月29日投稿の第二十二話後編をもって、連載中止が宣言された『IotR』。ですが、たとえ外部から連載を困難にする力が働かなかったとしても、連載の継続に多くの困難が存在していたであろうことは、容易に想像ができます。
第一に、単純にこの長大な原作を忠実に丁寧に動画化すること、ただそれだけで、どれだけ膨大な時間と労力を要するだろうか、という問題。
第二に、多数の登場人物が合流し錯綜していく今後、さらに12人もの重要な登場人物を加えてどのようにシナリオを整理するのか、という問題。
第三に、どのような映像表現によって今後の物語内容を表現していくのか、という問題。

『IotR』二十話に関するgase2氏の下記記事は、第三の問題に着目して、非常に示唆に富んだ内容を綴っています。
二十話は、3D動画による表現を大々的に導入して戦闘(逃走)シーンを描いた回でした。

白雅雪blog The Idol of the Rings 第二十話「浅瀬への逃走」


「ゲーム画像の多用で、映画の画像中心だった初期よりも格調の面で少し「落ちた」ところは残念とも言えますが」
「自分はこの変化には50%の賛成しか出来ませんが」

gase2氏はこのように述べて、一般には「演出の進化」「技術の向上」として誉めそやされるものであろう、3D映像によるスペクタクルな表現に対して、双手をあげて歓迎するのではない、複雑な心境を吐露します。
ここで指摘された内容からは(gase2氏自身はそこまで踏み込んでいませんが)、果たしてこのような形で映像のスペクタクル性を追求しながら、個人の努力で動画化を行い続けることが出来るのだろうか? 仮に可能であったとして、その時、今この作品が湛えている魅力は保持され得るのだろうか? そういう、作品の先行きに対する疑義、不安を展開することが可能です。


そしてまた、そういう動画表現上の問題や作者にかかる労力の問題だけではなく、私は、この作品の、物語そのものの先行きを想像した時に、とても難しく、哀しいものを覚えるのです。
なんとなれば、数多の製作上の困難がクリアされて物語がエンディングまで至ったとして、果たしてそこに、誰にとっても望ましい幸福な結末は、存在し得たのでしょうか?

疑いなく、伊織にとっても、フロドにとっても、もっとも望ましい、もっとも幸福な結末は、彼と彼女が手を携えて、平和なホビット庄の我が家に帰り、そこで暮らし続けることです。
けれども、二人が本来異なる世界、異なる物語の住人であることを考えた時。
『指輪物語』におけるフロドの物語が、どんな物語であるかを考えた時。
『アイドルマスター』における伊織の物語が、どんな物語であるかを考えた時。
何重もの意味において、”伊織とフロドが手を携えてホビット庄に帰り着く” という結末は、彼と彼女が心底から願っている幸福は、あり得ない、どこにも存在しない未来なのです。

だからこそ、私はこの物語が未完となったことに、何か必然的な力の働きを、意味を、美しさを感じたいのです。
それは、誰にも制御できない力によって、誰の意にも沿わぬ形でもたらされた結末でした。この作品の先に描かれる筈だった、多くの素晴らしい未来が、幸福が、それによって潰えました。
けれどもそれによって、結果としてこの物語は、未だ何物にもなり得る可能性を秘めたまま、そのもっとも美しく幸福な瞬間の姿を永遠に留めることになったからです。

第二十二話「数々の出会い」では、そのタイトル通り、さまざまな出会い、幸福が描かれています。
一つには、フロドの恢復と安全な地での仲間の再会、という、こちらの世界での日常が回復する幸福です。
二つには、別れ別れになっていたアイドルたちの再会、という、元の世界での日常が回復する幸福です。
そして三つ目が、「裂け谷」に集ってきた様々な登場人物同士の交流、という、アイマス世界と『指輪』世界が交わっての出会いが生まれる幸福です。
いずれもかりそめの、一時の幸福であった筈のそれらは今、その先の未来を残したまま物語が時を止めたことにより、互いに両立したまま永遠となっています。
この物語は物語にふさわしい未完を得たのだと、私が信じたくなる所以です。


先に引用したgase2氏の記事には、いま少し続きがあります。氏はそのように、二十話の映像表現に対して複雑な心境を示しつつも、同時に「初期とは別方面に進化」したと評価して、最終的には「ここまで新しいことが出来るなら、見守るべき」と肯定的に受け止める言葉で結んでいます。
それは、単にこちらはこちらで充分に魅力的だから見てみたい、というだけの話ではないように、私には思えます。

二十話のもつ特徴への対比として、あるいは二十話に至るまでの回顧の形で、上記記事は『IotR』の持っていた魅力を、簡潔な表現の中で見事に捉えています。
gase2氏はその、『IotR』が原初的に持っていた特徴、魅力に対置するものとして「ゲーム画像の多用」「『戦闘』中心のコンピュータRPG」という言葉を置きます。それらを、『IotR』の原初的な特徴とは両立しがたいもの、原初的な魅力を喪失させる方向に作用するものと見ているのです。
そして、しかしながらその「ゲーム画像の多用」「『戦闘』中心のコンピュータRPG」の側の要素が、この作品にも必要とされ、入り込んでくることを、やむを得ない、避けがたい流れと観念している。私にはそう思えるのです。

カズマ氏の下記記事もまた、異なる状況における、異なる観点、異なる語り口による言及でありながら、gase2氏の記事とよく似た感慨が示されているように思います。

久々にスランプの予感 - 続・空から降ってくるので


カズマ氏は、いとしいさかなPによるMMDへの進出作を見て、「いいセンスだった。」と言います。そしてその賞賛の後に、

「で、いいセンスなだけに『ああ、もうIotrには帰ってこないかもなあ‥‥』とちょっとへこむ。」

という言葉を続けるのです。
そこには、単に作者に『IotR』の製作を再開する気があるかどうか、という理性的な判断の問題ではなくて。もっと情緒的、感覚的なものとして、『IotR』は「帰ってこない」のだと、この新作の歩んでいる道の先に『IotR』は存在しないのだ、という知覚がある、と思うのです。
つまりここにも、いとしいさかなPの新しい作品の中に、『IotR』の原初的な魅力とは異質で、両立しがたい要素を感じ、しかもそれが生じていく変化を不可逆で、どうにもしがたいものと観念する。そんな捉え方が、存在しているのではないでしょうか。


gase2氏の記事は、次の一文で結ばれています。

「ただし、人生がそんな魅力的な「旅路」であった時代など存在しなかったのかもしれず、その意味で、やはりこういった物語というのは、すぐれて「ファンタジー」なのかもしれません。」

また、カズマ氏は、「ちょっとへこむ。へこむんだけど、」と言葉をついで、次の文で話を結んでいます。

「それぞれの導入回は本当に本当に素晴らしいもので、アレを見せてもらっただけで十二分に「与えてもらったよな」とも思う俺もいる」

結びの言葉においても、両者が核として抱えている感慨は、よく似ていると感じます。それはまた、私自身が抱いている感慨でもあります。

それは過去にも存在しない、未来にも存在しない、どこにもあり得なかった筈の出会いであり、旅であり、幸福だった。
だから、かつて一時その出会いが成立したこと、そのものが奇跡的な宝物なのであり、私たちはかつて一時その物語が編まれたこと、その物語が未完のままここにあること、ただそれだけで、十二分に与えられ、満ち足りていたのだ、と。


この記事は伊織についての記事ですから、最後にまた伊織のことに戻りましょう。
この物語の行き着く先には、どのような形であれ、必ずや別れがあり、哀しみが存在する。理想的に幸福な結末は、どこにも、誰にとってもあり得ない。
願わしい幸福な結末がどこにもあり得なければこそ、また物語が未完であればこそ。
私たちは想像しなければならないし、また想像する楽しみが残されている。それでもその先の、理想的ではない世界、手の中に望んだすべての幸福を収められない未来を、確かに歩んでいる伊織のことを。私はそう考えています。




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