飛び出し(後)


劇場版アイドルマスターについて、五つ前の記事四つ前の記事前編中編とダラダラと書いてきたものの続きです。なにか特に補足するようなことがなければ、これで打ち止め、ということになります。
内容は相変わらず、細かいネタをごちゃっと寄せ集めた感じで、自分でももう何をやっているんだかよくわかりません。


以下、劇場版アイドルマスターの全面的なネタバレを含みます。視聴から日数が経って記憶があやふやになってきているので、引用している台詞等が正確でないかもしれません。
また、最初の一かたまりの文章は、劇場版アイドルマスターとは関係ない内容となっていますので、必要ない方は読み飛ばしてください。














アイマスの話に入る前に、一つ前の記事の補足を書いておきます。
『ドラえもん』の大長編及び映画について書いていたのですが、言いたかったことは単純です。

『のび太の◯◯◯◯◯』『のび太と△△△△△』というタイトルが示す通り、大長編ドラえもん及び映画ドラえもんは第一に、のび太と同じくらいの年頃の子どもが、のび太の立ち場に立って楽しむためのものです。
ドラえもん映画の善し悪しとは、何よりのび太と同じ年頃の子どもが見て楽しかったかどうか、で判定できるものだし、またそれで判定されるべきものだと、私は思っています。
大人から、これはいろいろ工夫してますね、いいものですよ、私にはわかりますから、と褒められたところで、子どもが見て、疲れた、退屈だった、何やってるんだかわからなかった、となるようであれば、何の価値もありません。

ただ、そのことを大前提とした上で。
のび太の目線で楽しんでいた子どもが、何年かして、ドラえもんの目線から同じ場面を振り返った時、また別のものが見えてくる。そして、それからさらに時間が経って、ゲストキャラクターや、敵や、端々に少しだけ姿を見せる大人たち、それぞれにも固有の立ち場がある、ということが見えてきた時、さらに違う視聴体験となる。
そうやって、見る人それぞれの立ち場や経験に応じて、そしてその変化に応じて、どんどん新しいものが作品から引き出されてくる。
平易な楽しさの中に、そういう奥深さを備えていたのが、藤子・F・不二雄の『大長編ドラえもん』という作品の、凄みではなかったか、ということ。

あるいは、『ナルニア国ものがたり』という児童向けファンタジー小説についても、同じようなことが言えます。
私はこの作品に対して理想的な出会い方をした読者だと思うので、私の体験をそのまま、一般論として書きますが。
最初に『ナルニア国ものがたり』を読む時、私たちは、フォーンや小人やドリアードに目を輝かせるルーシィの目線、魔法のお菓子に目を見はり、白い魔女に震え上がるエドマンドの目線から、ナルニアという世界を楽しんでいます。
けれども、何年かして振り返って、彼女たちの兄と姉、物語後半に行けば行くほど口数が少なくなるピーター(本来、彼は兄弟の中でいちばん陽気で好奇心旺盛な性格です)や、口やかましくて保守的で融通の利かないスーザンが、あの時何を思い、何を背負っていたのだろうと(ちょうど、『朝びらき丸、東の海へ』でエドマンドとルーシィが考えるように)気になった時、かつて通り過ぎた同じ場面が、まったく違ったものに見えてくるのです。
そして更に何年か経って、フォーンのタムナスや、赤小人のトランプキンや、ネズミのリーピチープや、沼人の泥足にがえもんや、幾多の印象的なキャラクターたちが、ただ風変わりで面白おかしい存在なのではなくて、それぞれに何を表し、何を背負っているのだろう、ということに思い至った時、さらに違う世界が見えてくることでしょう。
シンプルで、平易で、簡潔な物語の中に、それだけ巨大なものが内包されている、ということ。

まあ、今なんでこんなことを書いているのかというと、最近『カスピアン王子のつのぶえ』を読み返して、こんなに巨大で高度な内容が内包されていたのかと、現在進行形でぶったまげているところだからなのですが、それはともかく。
ここまでの話が、劇場版アイドルマスターと関係あるのかというと、うーん、あんまり関係ないですかね? 
アイマスはそもそも小学校低学年の子どもが楽しむための作品じゃないし、シンプルで平易で簡潔だけど、というものにはなりようが無さそうです。
ただ、何か相通じるものが、あるんじゃないか。と、私が思っていることが、この記事で表現できていれば、いいのですけれど。






以下、劇場版アイドルマスターの話です。

<用語説明>
本記事では、映画に出演しているミリオンライブ! のキャラクター7人を総称して「バックダンサーズ」と呼称しています。
また、このうち矢吹可奈、望月杏奈、箱崎星梨花、(七尾百合子)を指して「ちんちくりん組」、横山奈緒、佐竹美奈子、北沢志保を指して「長身組」、という呼称を用いています。
これらの呼称を私が使用している事情に関しては、劇場版について最初に書いた記事を参照ください。


最初に、中編の後に出てきたネタをいくつか。
一つ目。中編で何かを忘れている気がしたんですが、ジュピター、というか天ヶ瀬冬馬のことをすっかり忘れていました。
冬馬については、君はまだ他人を名前で呼べないのか、ということが第一にあって。彼の「おい、765プロ」という呼びかけを聞いていると、SPの961プロ時代の響の姿がダブって見えて仕方がありませんね。
アニマス24話以来、いろいろいいこと言ってるんだからなおさら、そろそろ「天海春香」くらい普通に口に出来てもいいんじゃないでしょうか。

二つ目。観察できなかったと書いた、佐竹美奈子について。
合宿でのバーベキュー時に、バックダンサーズの誰かがあずさと並んで洗い物をしている、というのはわかったんですが、私はその時点では、それが誰かまで見分けることは出来ませんでした。それが、最近佐竹美奈子に関するネタが流行ってToggetterにまとめられているのを見たら、どうやら彼女だったらしい、ということで。
合宿でのあずさとバックダンサーズと言えば、その前の、練習でへばっているバックダンサーズにあずさがやよいと一緒に水を配るシーンが、印象的でした。
あのシーンで私が思ったのは、バックダンサーズの立ち場としては、出来ることならばむしろ、自分たちの方が765プロアイドルに水を渡す役を、やりたかったんじゃないだろうか。あんな感じでずっと先輩に世話を焼かれ続けていたならば、相当に居心地が悪かったことでしょう。で、しかし、この場面の彼女たちは、先輩に世話を焼かせて心苦しいだとか、そんなことを思う余裕すらないほどに、疲労困憊しているのだなあ、と。
そんなことを思っていたので、765プロアイドルとバックダンサーズが並んで雑用をしている姿を見て、ちょっとほっとしたのが、件の洗い物の絵でした。なるほど、あれが佐竹美奈子でしたか。

三つ目。この映画の時点での765プロアイドルたちは、ゲームで言えばどのくらいのランクに相当するんだろうね、という話題。
なんとなく、ランクBくらいじゃないかという意見を結構見かける印象です。ただ、単純にシステム的に言えば、ラストステージがアリーナなら、アイドルランクはDまたはC、ですよね。最大でランクC。
もっとも、周知の通りアケマス/無印の高ランクコミュは、一般の営業に関してはランクB以上は全て共通になり、これが ”トップアイドルに登りつめた状態” を描いた部分でした。つまり、実質的にはその手前のランクCコミュが、 ”成長途上のアイドル” が描写されていた最後の部分。
なので、感覚的には、上からS、A……と数えてランクBくらい? という捉え方も、わからないではない気がします。 


さて、劇場版アイドルマスターについて1週間ばかり、とりとめなくいろいろ書いてきましたが。
結局、私がこの映画をどういうお話だと思っているのか、ここでまとめて書いておきます。

私は、この映画は十代〜二十代の女の子が、初めて先輩/リーダーというものを経験する物語である、それ以上でもそれ以下でもない、と思っています。そして、それこそがこの作品の凄みだ、とも思っています。
天海春香だから、矢吹可奈だから、アイマスだから、アニマスだから、ミリマスだから、2nd Visionの締めだから、9年分の”思い出ボム” があるから、”世代交代” を表現しないといけないから。だから凄い、だから特殊、だから面白い、だから難しい。
そういう話では、無いと思う。

もちろん、ことがアリーナライブという大仕事だったから、ああいうシチュエーションから始まることになったから。なおさらに春香(たち)は迷い、普段通りに行動できなかった、という要素はあるでしょう。
けれども、もし最後の舞台がアリーナではなく市民ホールやライブハウスだったり、はたまた地方の祭りの余興だったり、学校の文化祭だったりしたとしても、話の本質は何も変わらなかったのではないでしょうか。

TVシリーズを経て、765プロアイドルたちは、それまで彼女たちが知っていた世界の中では、充分に成長しきったつもりだった。
けれども、先輩であるということ、リーダーであるということは、ただそれだけで、これまでの経験だけでは対応できない試練であって、もっともっと多くのものを必要としていたんだ、ということ。

この物語は人によっては、たとえば高校の部活の先輩と後輩の話に、そっくりだと思えるかもしれない。あるいは大学の研究室の話かもしれないし、会社のプロジェクトチームの話かもしれない。そのどれだと思ってもいいし、どれだと限定する必要もない。
重要なのは、この物語が、視聴者個人の知っている何かに似ていること、それ自体ではありません。身近でよく知っている何かにそっくりだと思えるほど、誰もが体験し得る、誰もが向き合っている普遍的な問題を捉えて描き出している、この物語が凄いのはそこです。

見る人それぞれの立ち場と経験に従って、この映画から引き出されるものは変わる。そのことは、すでに多くの人が指摘しています。
ただ、得てしてアイマスというコンテンツに深く漬かっている人ほど、そうしたこの映画の性質を、”思い出ボム” なるアイマス固有のギミックの働きなのだ、と錯覚し、すり替えて語ってしまいがちなのではないでしょうか。
自分がこの映画を見てこんなにも感動しているのは、自分がアケマスから付き合ってアイマスを知り尽くしているからだ。TVシリーズを隅から隅まで見てきたからだ。ミリオンライブ! をやっているからだ。いついつのライブを見ているからだ。CDを全部買って聞いているからだ。2を、DSを、SPを、L4U!を、無印を知っているからだ、etc. etc. etc.

そうした評価はすなわち、自分以外の人間の経験と能力を低く見ている、他者の想像力の限界を自らの想像力の限界と同一視している、ということでもあります。
この映画は難しいから、自分のようなアイマスへの知識と思い入れがなければ、面白くないに違いない。情報量が多いから、TVシリーズを見ていない人は自分のように理解できないに違いない。ミリマスをやっていない人は、自分のような愛着を抱けないに違いない。ライブを知らない人には、無印を知らない人には、アケマスを知らない人には、 etc. etc. etc.

けれども、そういう話では、無いと思う。
あなたの知っていることを知らない人は、だからと言って別に、代わりにからっぽの空洞だけ脳内に詰めて映画館に来ているわけではないので。
そういうのはただ、この映画が普遍的なテーマを表現していて、それ故に各々の立ち場と経験に従っていくらでも引き出せるものを内包している、ということの、一部分に過ぎないと私は思っています。


繰り返しになりますが、天海春香だから、矢吹可奈だから、というお話ではないと思う。
アイマスだから、アニマスだから、こういうお話だから、こういうキャラクターだから、このお話では春香がリーダーでなければならなかった。そんなことは、ありません。
また逆もしかりで、春香がリーダーだからうまくいかなかった、ということもない。

たとえリーダーに選ばれたのが千早だったとしても、伊織だったとしても、美希だったとしても、他の誰であったとしても。そこにはその各々なりの間違い、失敗、苦悩と、各々なりの乗り越え方があったことでしょう。
もちろん、その相手も同じです。相手がたとえば箱崎星梨花だったとしても、佐竹美奈子だったとしても、はたまたこの映画には出てこない誰かだったとしても。
同じように普遍的な訴求力を持つ物語が、成立したことでしょう。

そういう意味で、劇中で春香が、何故自分がリーダーに指名されたと思う? と聞かれて返した、いちばんプロデューサーに近いところに居たから? という台詞。あれは、とても含蓄に富んだ言葉だと思いました。
表面的にはただ、自己を客観視できていないだけのボケ回答、と見えるようで、1周して事の本質を衝いた言葉であるように、私には感じられたのです。
なぜ、今この瞬間この場所に立っているのは自分で、隣の彼女ではないのか。
それは、隣の彼女は持っていない特殊なものを自分だけが持っているから、なんてことではなく。本当はただ、ほんのちょっとした巡り会わせの差に過ぎなかったんじゃないかな、という知覚。


ただ、ならばこの物語に、主人公が天海春香であり、矢吹可奈である必然性はなかったのか、というと。それは、存在します。

ひとつの論点としては、TVシリーズ24話の時点の春香と映画の春香で、何が変化しているか、ということがあるでしょう。
もっとも、そこらへんに関しては、すでに多くの方々が論じられているところで、私に付け加えられることはありません。(というかむしろ、私自身が他の方の文章を読んで教えられたことの方が、多かったくらいです。)
なので、この記事ではそちらは置いておいて、TVシリーズ20話と映画の違いについて書きます。
20話で千早を相手にさんざっぱら描いておいて、なんでまた相手だけ変えて春香を描くんですか、ということ。

千早と矢吹可奈で、何が違ったのか。
春香の立ち場に立ってみれば、それは明確です。
千早は、歌う能力も、努力する力も、高い志も、初めから春香と同等かそれ以上に持っている存在でした。
春香にとっては、千早は最初から対等か、むしろ仰ぎ見る相手だった。
そんな相手から、「お節介はやめて」と言い放たれたのです。20話において、いやTVシリーズ全体の中で、春香にとって最大のターニングポイントとなった言葉が、この一言だったと思います。

今まで自分が、呼吸するように自然にしてきたこと、当たり前の行いだと思ってしてきたこと、良かれと思ってしてきたこと。
それが、他人にとっては迷惑であり、残酷であり、むしろ他人を傷つけてすらいるのだ、と。
どんな覚悟、どんな信念があってお前はそんな行いをしているのだ、と。
「お節介」「やめて」という言葉によって、春香は千早にそう突きつけられ、問いかけられました。おそらくそれは、彼女の人生において、初めての体験だったでしょう。

だからこそ、戻ってきて千早の前に立った時、春香は「ほっとかない」と宣言した。
「ほっと ”け” ない」ではなく「ほっと "か" ない」。
大事な仲間のことが心配でかわいそうで、自然に体が動いたから、その衝動のままに動けばいいと思ったからここに来た、のではない、ということ。そんな段階は、「お節介はやめて」という言葉を突きつけられた時点で、とっくに終わっていた。
そうではなく、たとえ自分のやったことが相手にどう思われようとも、どんな結果を生もうとも、自分がやりたいこと、信じることを貫くために、春香は千早の前に来た。
だから、「ほっとかない」なのです。

そして、そうして覚悟を決めてしまえば、千早に対して何をすればいいのか、ということは明確でした。
春香にとって千早は、最初から対等か、むしろ仰ぎ見る相手だから。
春香は別に、千早を救いにいったわけじゃない。ただ、宣言しにいっただけなんだ。
天海春香は今、自分の覚悟で、自分が歌いたい歌を歌っているぞ、と。
お前はどうなんだ、如月千早。お前は今、自分の信念を貫いているのか、自分に誇れる歌を歌っているのか、と。
「お節介」という言葉の弾丸を撃ち込んできた千早に対して、弾丸を撃ち返しにいった、それだけのこと。
だから、春香はノートを置いて千早の家を去った後、実際に千早が舞台に出てくるまで、何もしなかった。千早が復帰しやすいよう何か世話を焼いてやったわけでも、働きかけ続けたわけでもない。撃ち返した後は、千早自身がどう決断するのか、それだけの問題だったのだから。


翻って、矢吹可奈の場合。
春香は矢吹可奈を、自分と同等な、あるいは同質な相手として、見ていたことでしょう。
私と彼女は、同じように歌が好きで、同じようにアイドルに憧れていて、同じように悩んでいて、同じように周りのキラキラした才能の持ち主たちを見上げながら、同じように頑張っているんだ。
むしろ、765プロの同僚たちよりも矢吹可奈をこそ、自分と相通じるものを持つ、共感し合える存在だとすら、感じていたかもしれません。

けれども、可奈にとってはどうだったでしょうか。
ストレスを溜め、やけ食いに逃げ、練習から脱落していった時、可奈には765プロアイドルたちの姿が、どう見えただろうか。
たとえば、伊織や、美希や、千早や、響や、貴音であれば、練習についていけなくなった時、逃げたり脱落したりするだろうか? 
いや、そもそもあんなに凄い彼女たちが、自分のように練習で躓いて脱落するなんてあり得ない、そんな場面は想像できない。そう思ったんじゃないだろうか(あくまでも、可奈の目から見て、の話です)。

だけど、それが春香だった場合は、どうだろうか。
TVの中ではあんなにキラキラと輝いて見えた、アイドル天海春香。
でも、近づいて見たその当人は、可奈とは違う特別なキラキラした何かを、生まれ持った存在だっただろうか。

そうじゃなかった。春香は、春香だけの特別な才能なんて、何も持っていなかった。
ただ、当たり前に、好きだという気持ち、憧れの気持ちを持ち続け、当たり前に努力を積み重ね、当たり前に誰に対しても思いやりを持ち、当たり前にどんな辛い時でも諦めない。
誰にでも可能な当たり前のことを、当たり前にずっとやり続けることによって輝いていた、ただそれだけだった。

天海春香と比べた時、自分はどうだろうか。失敗し、挫け、逃げ、諦めた自分は。
天海春香であれば、たとえ同じ状況に立たされたとしても、そんなことは絶対にしないだろうに。
他の十二人との比較であれば、自分と彼女たちではそもそも、生まれつき天から与えられたものが違っていたんだ、自分の才能では彼女たちと同じ場所に立つことは不可能だったんだ。そう、言い訳ができる。
けれども、天海春香を前にした時。条件は同じだったのに、自分が逃げたのは、自分が輝けないのは。単に、純粋に、矢吹可奈が人間としてダメだったから! そういうことになってしまうんだ。

だから、可奈は春香に向かって、「私は、天海先輩みたいに強くない」と言った。
相手が天海春香でさえなければ、そんなことは言わずに済んだのに。そんなことを突きつけられずに済んだのに。

春香が可奈に、結論として提示したのは、「どうしたいのか、だけでいいんだよ」という言葉だったわけだけれど。
考えてみれば、わざわざその言葉を結論にしなければいけない、というのは、不思議な話だ。
だって、春香自身は初めから、可奈にこの仕事ができるかできないかが問題だ、なんて考えていたわけがない。最初から、アイドルになる上で大事なのは、自分がなりたいという気持ちだけだと、可奈にとっていま重要なのは、可奈自身がどうしたいかということだけだと、信じていた筈だ(その考えをうまく行動、表現に移せていたかどうかは、別問題として。)

春香はずっと、私とあなたの悩みは同じなんだね、だから、私が自分がどうしたいかだけでアイドルをやっているように、あなたも自分がどうしたいかだけでアイドルをやっていいんだよ、やってくれているんだよね。そういうつもりで、可奈に接してきて。
それは違う、と、可奈から突きつけられたのだ。
そんなことを言ってくるあなた自身が、どうしたいかだけじゃダメだと私に突きつけているんじゃないですか。誰よりも何よりも、天海春香の存在そのものが、矢吹可奈の存在を否定しているんじゃないですか、と。

どんな他人も天海春香と同じではなく、他人が天海春香になることは出来ない、ということ。
そしてそれ故に、天海春香がアイドルである、ということそのものが、誰かがアイドルになりたいという夢の否定になることだって、あるのだということ。
その事実を、天海春香は生まれて初めて、突きつけられた。矢吹可奈という人間と、出会ったことによって。
(なんかね、私は春香と可奈の会話を聞いていて、初めて無印をプレイした時、春香さんがお母さんみたいになりたい、と言ってきたので、君とお母さんは違う人間だよ、と返したらむくれられたことを思い出しましたよ。)

「どうしたいのか、だけでいい」。至極単純な言葉で、その言葉の何が凄いとか、どこが特別とか、どう理屈に合っているとか、そういうものではないかもしれない。
ただ、それは、私はあなたのように強くない、という言葉によって、あらかじめ否定され、拒絶されていた筈の言葉だった。
そして春香は、可奈の「どうしたいのか、だけでいい」を現在進行形で打ち砕いているのが春香自身だということを、理解していた。
理解した上で、それでもなお、「どうしたいのか、だけでいい」という言葉を言いに行ったんだ、ということ。

それこそが、矢吹可奈にしか問うことが出来なかった問いへの、天海春香にしか応えることの出来なかった、答えであり、覚悟であり、信念であり、だからこそこの言葉が、二人の物語の結論になるのです。
なんでこの物語の主人公が春香と可奈だったのか、ということについては、私はそんな風に考えています。

まあ、アニマスの春香をどう解釈しどう評価したらいいのかって、私は未だによくわかりません。
何がわからないかと言えば、だいたいがゲームの春香は、「アイドルになるのが、私の夢だった」なんて台詞は、未だかつて一度も言ったことがないわけで、そこからもう、よくわからない。
アイドルになりたいなりたいと念じているだけで具体的にどんなものになりたいかのイメージはない、なんてことは、少なくとも無印の春香ではあり得ない。「アイドル」と呼称される身分を手に入れただけで自動的に「夢」が叶っている、なんてことも、無印の春香ではあり得ない。

むしろ、私は何が好き、どんなことが楽しい、という、個々の極めて具体的な「好き」、「楽しさ」が積み上がった先に自然と形成されてくるもの、それが春香にとってのアイドル像だ、というのが、私がずっと主張してきたことです。
だから、私にはアニマスの春香というものは、無印の春香の出発点のはるか手前でドタバタしているだけの人のようにも思えるし、それをアニマスがわかってやっているのか、わかってないでやっているのかも、よくわからない。

ただ、アニマスの春香を、どう捉えどう評価するにしろ。
TV20話で千早との対話の中で描き出されたもの、そして、映画で可奈との対話の中で描き出されたもの。
少なくともその二つは、既存の公式のいかなるコンテンツにおいても突き詰めることのできなかったものであり、そして天海春香にとって重要にして欠かせざる軌跡の一部である。そのことは、確信しています。


矢吹可奈のことを書いていませんでした。
まあ、彼女について言いたいことは、ごくシンプルです。
ありがとう、という一言に尽きます。
何について、ありがとう、かと言えば、春香を救ってくれて、ありがとう、と。

そりゃあ、これはお話なんだから、最後には必ず矢吹可奈が戻ってきて、みんなでライブやって大成功、となるのは当たり前さ。そんなのは見え見えの、初めから決まっていたことじゃないか、と言われるかもしれませんが。
しかしながら、現実問題としては、うまくいかなくてすれ違った相手が、どう手を尽くして引き止めたつもりでも二度と戻ってこない、なんて出来事はざらにあるわけで。

春香本人には、電話で可奈に拒絶された時、なんだかんだ言ってもどうせ可奈は戻ってきてくれて、つつがなくアリーナでライブ出来るに決まってるんだから、なんて思えたでしょうか。
何もわからず何も出来ないままに、可奈は私たちの前から永遠に居なくなってしまうのかもしれない。私たちは可奈を見捨て、可奈に見捨てられた、という傷を背負って、これからの人生を送り続けなければならないのかもしれない。そういう瀬戸際に立たされているのだと理解したからこそ、皆があれだけ混乱したんです。
あるいは、もし彼女たちの想像がそこまで及んでいなかったとすればなおさら、映画の中の世界に生きているわけではない我々が、その恐怖を感じなければならない。

けれども、可奈は戻ってきた。戻ってきてくれた。
この物語は、矢吹可奈という人間の強さが、すべての人々を救う物語だった。
そして、そこで救われたのは、まず誰よりも天海春香だった。(もう一人挙げるとすれば、北沢志保でしょう)。
だから、私はただただ、彼女に、矢吹可奈に、ありがとう、と言いたいのです。





そんなところで……だいたい、書こうと思ったことは書いたのかな。時間かかったな、おい。
まあ、私のこの映画への評価はだいたいこんな感じだということは、すでに端々で書いていますが。
なんだかんだあって、途中までは疑問に思うところがないではなかったけれども、通して見ればなかなか良く出来た作品じゃないか。そして、春香のストーリーとしても大いに意義のある仕事だと評価できるじゃないか、と。

そんな風に、アリーナ集合時の春香の長広舌の演説を聞きながら、考えていたんですね。
ええ、春香のアリーナ演説の時点で、の話です。ここまで5つの記事で書いてきたことはすべて、春香のアリーナ演説の時点で私がどう思っていたのか、という話だったのです。


しかし、それは考えが甘かった。
この映画の真価は、本当に凄いのは、ここからでした。

春香が演説した後、矢吹可奈が出てきて、謝意と決意の言葉を述べて。

その瞬間、駆け寄ってきたのが、「ちんちくりん組」の二人なんだ。

記事中でここまで、「ちんちくりん組」として括って扱ってきた二人(あるいは、矢吹可奈を含めた三人) だけれども、実際のところ、各々の性格やバックダンサーズの中での立ち位置は、結構違っていた。

望月杏奈。彼女は、表面的には自分から動いたり喋ったりすることなんてしないようでいて、実は、そばにいる相手とは、とても密にコミュニケーションをしていた。そして、その相手は、誰よりもまず、矢吹可奈だった。
TVの中で踊る春香と響を可奈が見ていた時、隣で同じように目を輝かせていたのが杏奈。
可奈が姿を見せなくなった後、メールで可奈とのやりとりを続けていたのも杏奈。
ロッカーの中のパンダを見つけたのも、杏奈。
疑いなく、矢吹可奈ともっとも深く、長く付き合っていたのは、彼女だった。

箱崎星梨花もまた、可奈や杏奈と一緒にいる時間が長いのだけれど、彼女の場合はそれだけでなく、あの小柄な体でちょこまか動き回ることで、7人全体、20人全体の潤滑油みたいな役割を担っていた印象が強い。
合宿で、階上の765プロアイドルの様子をバックダンサーの部屋に触れ回りに来たり、橋上の捕り物劇の時に、千早と一緒にアフターケアする役割になっていたり。
誰かが強い主張をすることで場が動く、という時に、目立っていたわけではない。
でも、何をしなきゃいけないってわけじゃないんだけど誰も何もしないと場に隙間風が吹いてしまう、そういう時に彼女が当たり前のようにそこに居て、動いて、喋っていることでその隙間が埋まっていく、そういう存在だった。

そういうわけで、その個性や立ち場には違いのある二人だけど、可奈の失踪と向き合う、という局面においては、相通じる要素があった。
一つには、二人もまた、可奈と同じくらいダンスに苦しみ、練習についていけない不安、仕事をきちんと果たせない恐怖と向き合ってきたメンバーだった、ということ。彼女たちにとって可奈の失踪は、単に他人事として心配だ、可哀想、ライブどうなっちゃうんだろう、という問題ではなく、身に沁みて理解でき、我が事のように切実な恐怖だった筈だ。
そしてもう一つはもちろん、矢吹可奈ともっとも親しかったのは、矢吹可奈をもっとも知悉していたのが、誰だったかということ。矢吹可奈という人間と、もっとも深く長く付き合ってきたのは、他の誰よりも、望月杏奈であり、箱崎星梨花だった。

けれども、二人が具体的に可奈とどんな関係を結んでいたのか、可奈の失踪に何を感じ、何をしたいと思っていたのか。それが、表立って描かれることはなかった。
可奈について、可奈に対して、可奈の周りの人々に対して、春香よりも、伊織よりも、美希よりも、ずっと多くの語りたいことが、語られるべきことが、二人には絶対にあった筈なのに、それが語られる機会はなかった。

何ができるのかできないのか、という話をするならば、節目節目で状況を動かして可奈を連れ戻してきたのは、結局すべて先輩たちの仕事だった。二人はどんなに心配していても、自分の力で状況を動かすことは、何一つできなかった。
そして、どうしたいのか、という話をするならば、可奈は春香に、どうしたいの、と聞いてもらえたけれども、杏奈や星梨花に、あなたはどうしたいの、と聞いてくれる人は、誰もいなかった。

だけど、そんな二人が。
いまこの瞬間、まさしく何ができるかできないかではなく、どうしたいのかだけで駆け出したんだ。
我を忘れて駆け出してしまうような、彼女たちが抱き続けていた痛切な感情が、今、初めて表になって人に伝わったんだ。
断言します。この映画のクライマックスは、ここです。

そのすぐ後の、七尾百合子。
彼女の立ち位置は、面白いですよね。彼女は間違いなく大切な仲間として、欠かされざるピースの一人としてそこに存在していて、でも、彼女の立っている場所は、いつもちょっぴりだけ、遠いところにある。
百合子だって、練習で悩んでいたことでは、可奈を心配していたことでは、杏奈や星梨花と寸分変わらない。心情としては、二人と同じように駆け出していって、可奈に寄り添いたかった筈だ。
でも、その感情をそのまま行動に反射してしまうには、七尾百合子はちょっぴりだけ大人すぎて、そしてちょっぴりだけ遠い立ち位置に居た。
だからその代わり、彼女は駆けていった二人よりも長くて豊かな言葉を、今目の前にいる矢吹可奈だけでなく、ここにいる全員に語りかける言葉を綴った。

なんというかですね、人とお付き合いする能力も社会とお付き合いする能力もあんまり所持していない根暗人間としてはですね、この映画の七尾百合子の立ち位置は、とても ”ぐっと来る” ものと、とてもまぶしいものとが、同時にあります。
そして、彼女が弁舌を振るった瞬間、それが独白ではなく、彼女が先輩たちに囲まれて立っていたということが、別にその先輩たちが意識して何をしたというわけではないにも関わらず、とても嬉しく、頼もしく感じました。

最後に、「長身組」の3人それぞれの台詞。
もちろんこちらも、3人はそれぞれ個性も立ち場も、大きく異なっている。ただ、彼女たちの言葉の中核にあるものは、共通していた。
彼女たちは、ダンスを簡略化すべきでないと、あるいは残った者だけで出来ることをして先に進むべきだと、自分の意見を表明した時点で、決断しなければならない主体は、天海春香に、矢吹可奈になったのだと認識していた。いま問題を抱えているのは、問いを突きつけられているのは、天海春香なんだ、矢吹可奈なんだ、と。
でも、そうじゃなかった。誰よりもまず自分自身が、ずっと問いを突きつけられていたんだ、と。誰に言われるまでもなく彼女たちは理解した、そこが凄かった。

この一連の場面を見た後ではもう、要するにこの映画は天海春香と矢吹可奈の物語でしたね、なんて絶対に言えません。
そうではなく、この映画は、7人の少女がそれぞれの形で、それぞれが突きつけられた問いと向き合い、答えを出す物語だったのです。
もう一度言います、この映画のクライマックスは、ここです。


その後のことも、簡単に。日々の時間の積み重ね、努力の蓄積をどう絵として表現するか、という課題は、最後までこの映画に付きまとっていたと思います。
けれども、このアリーナまでのラストの時間においては、ここまでの100分以上の時間の蓄積があるから、一瞬一瞬、一コマ一コマの絵だけでも、これで充分なんだな、と、私は感じました。

そしてその、終息に向かっていく時間の頂点が、矢吹可奈が本番用の衣装に着替えるシーンです。
ここがこの映画の第二のクライマックスであり、そして実質的なエピローグでしょう。
ここまで来たら、20人がこの後どんな風にステージに向かい、そこでどんな結果が生まれたか、なんてことはオマケであり、むしろ蛇足ですらあるだろうと、この場面を見て思いました。

だって、これだけ大騒ぎして、これだけみんな頑張ったんだから、さぞかし最後のライブは見事なものになるだろう、そういう物語ではないと思うから。
本当のところ、結局矢吹可奈は本番で転んでしまったかもしれない。同様に本番でひどい失敗をする可能性は、他の6人にも平等にある。もっと言えば、彼女たちとしては出来る限りの、完璧な仕事をしたつもりで舞台を降りたとしても、見る側からは、あの後ろでピョンピョンしていた人たちはなんなの、邪魔だっただけじゃないか、と言われてしまうかもしれない。

けれども、たとえライブがどんな結果になったとしても、もう7人の誰も、だからアイドルを諦める、とは言わないだろうし、誰がいけなかったからこうなった、とも言わないだろう。
重要なのは、そういう境地に立って彼女たちがライブに臨んだ、ということであって、実際のライブがどっちに転んだか、ということじゃない。
だからこの後のライブシーンなんて、オマケで、蛇足だと。


その上で。
最後のライブシーンが良かった。素晴らしかった。
アイマスのステージとは、ノーマルPVとそれを素材にしたMADのことであって、アニメのステージシーンなんてどうでもいい、と思っている私が、TV6話、13話、18話、25話、劇場版OP、合宿でのダンスシーンに至るまで、アニマスのライブシーンでついぞ感動などしたことのなかった私が、このステージに限っては、本当に素晴らしいと思いました。

どこが良くてどこが悪いと思ったか、という話をするならば、そうですね、まず、悪いところは何もなかった。
いやまあ、カメラワークとか、モーションとか、細部の描き込みとか、鑑賞眼のある人が見ればいろいろあるでしょうが、私はPVの見る専としては大してものを見ていないし、未だにどう語ったらいいかよくわからないくらいなので、そこは自分の点が甘いんだろうな、とは思います。

アニメ絵と3Dモデルの混在については、私は、ニコマスのテキスト系動画がMMDに取り組む過程を、見てきた人間なので。
MMDを用いたストーリー動画、と言った時に、3Dの素材とモーションだけで全て完結した、理想の3Dドラマを目指していこう、という方向性が、主流としてあるわけです。
しかしながら、一方でテキスト系動画においては、公式素材による静止画をベースにした表現を、MMDと組み合わせることでどう拡張するか。そういうノウハウを、試行錯誤しながら積み上げてきた流れもまた、存在しています。



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アイマス素材とMMD、静止画で並べた時の質の差は、今だって全然、埋まってはいません。
けれども、それはそれとして、異なる特性を持つ素材を組み合わせることで、いかに今までになかった新しい絵を、物語を描き出すことが可能になるか。私が見てきたのは、そういう試みでした。

従ってこの映画においても、私にとって重要なのは、2Dの素材と3Dの素材を組み合わせることで、どのように新しい絵を描くことが可能になったか、ということだけです。それが提示されているのであれば、細部がどのように粗と感じられるか、は問題にしません。
この映画においては、2Dと3Dとのコンビネーションによって、あのように広い空間に、あのように大人数が立体的に存在している絵を、表現することが可能になった。それが全てだと思っています。
もちろん、私はこの映画を見終わった今も、いかなるアニメーションもゲームのノーマルPV一つに太刀打ちできない、と確信していますが、それとこれとは別問題です。

良かった点。あのバラバラピョンピョンジャンプは凄かった。こう、ヒトが跳躍する動きに興味津々な人間としては、あそこの場面だけ何度もスロー再生で確認したいくらい、興奮しました。
あとは、ダンスシーンで、会場に観客の姿が人っ子ひとり描き込まれてないのが、良かったですね。サイリウムの群れを、なんか波とか蛍の光とか、そんな自然現象みたいに思うことが出来て。あそこに人間の群衆が描き込まれていた日には、私のテンションはガタ落ちになっていたことでしょう。


しかしまあ、言いたかったのは、心動かされたのは、そんなことではないのです。
素晴らしかったのは、バックダンサーズの描かれ方です。

あの、手拍子を打ってジャンプしているだけ、みたいな、全然派手でも凄そうでもないことをやっていたのが、素晴らしかった。
そして、カメラがアップになろうがスーパーロングになろうが、ほとんどの場面で、前面に映っているのは765プロアイドルで、バックダンサーズは文字通り背景だったのが、素晴らしかった。

あんだけ長々とバックダンサーズの苦労を物語ったんだから、どんな見せ場があるのかと思いきや、傍目からはどこが大変だったんだかさっぱりわからないようなことしかやっていない。そして彼女たちはこのライブにおいて、どこまで行っても添え物に、背景に過ぎないんだ、という。
そう表現されていたのが、本当に凄いことだと思うのです。

つまりそれは、たったあれだけの、傍目には何が大変なのかわからないような任務の陰に、ただの添え物の、背景の仕事の蔭に、あれだけの苦悩と努力が存在するのだ、ということ。
ステージの上でどんなことをやっている誰にも、ステージ上のどんなに些細でくだらなく見える出来事にも、その一つ一つの陰に、それぞれ唯一無二の物語が存在するのだ、ということ。
アニマスがずっと描こうと試行錯誤し続けてきて、しかしTVシリーズにおいては、薄っぺらい表層だけの表現(たとえば練習では足を引っ張っていた誰と誰が、本番ではうまくやってスマイルを決めましたね、みたいな)に終わってきたもの。
重層的で豊かな物語を内包したステージが、バックダンサーズの存在と、映画ならではの濃密な物語とを得ることで、ここに初めて顕現したのです。

そして、アリーナライブのそのような有り様はそのまま、北沢志保の疑問に対する答えでもあります。
なぜ、たった一人の矢吹可奈を見捨てて前に進む、ではダメなのか。
それは、たとえ ”トップアイドル” のライブであってさえも、ステージは、限られた特別な才能の持ち主が独りで努力するだけで完結するものではなく、様々な個性、様々な能力を持った人間が各々の仕事をすることで支えあって、初めて組み上がるものだから。
言葉で語られることはなくとも、ライブそのものが、矢吹可奈と共に来ることによってしか、彼女たちはこのステージに辿りつけなかったんだ、と、証明していました。

なぜこの映画の最後を締めくくる場所が、アリーナでなければならなかったのか。
たぶん、大事なのは、ステージが広いこと、アリーナという場所であることそのものではなかった。
大切だったのは、描かれなければならなかったのは、20人のアイドルが主役と背景と舞台裏に別れて広がっている、という景色。その景色を映し出す必要があったからこその、あの広い空間だったのであり、
そして、私がアニマスで見たい見たいと願っていたのは、まさにこんなステージだったんだと、そう思いました。

この物語の先にあるのは、こんなステージでなければならず、このステージを描くためには、こんな物語でなければならなかった。
物語あってのステージ、ステージあっての物語として、この映画が表現したのは、唯一無二のものだと思っています。


まあ、ここまで書きながらずっと考えていてもですね、この映画がアイマス作品としてどうだったのか、ということは、私にはよくわかりません。
心から凄いな、よく描いてくれたな、と思う部分が6分の1、上から目線で見てよく頑張ったんじゃないですか、という部分が3分の1、コレジャナイって部分が2分の1、ってところですかね。いや、数字は全然重要じゃありません、ただそういう感情がぐっちゃりと混在していて判断がつかない、というだけの話です。

ただ、劇場版アイドルマスターという映画は、純粋にひとつの物語作品として、ひとつの映像作品として、本当に素晴らしいものだった。そのことは、自信を持って断言できる。
私がこの映画について言いたいことは、それに尽きます。



最後に、鑑賞時の劇場の様子について、記しておきます。
同じ会場にいた客層は、見渡した限り、2/3ほどが大学生くらい、残り1/3が20代後半から30代前半、ってところだったかな。男性3/4の女性1/4、ほとんどが2〜3人から4〜5人で連れ立っていて来場していて、女性はだいたいカップルの連れとして来ている、そんな感じでした。

印象的だったのは、会場にいるどの人も、他の人の鑑賞を邪魔しないようにものすごく気を遣っている、それがひしひしと伝わってくる空間だったこと。
上映中、客席は本当に静かでした。単にたまたま物音が立たなかったとか、皆映画に夢中だったから何も起こらなかったとかいうことではなくて、一人一人の配慮が集積することで、劇の中の世界に没頭できる空間が形成されている、それがありありと実感できる場所。

映画への反応ですが、上映中、私が座っていた列の左右からは終わりの方、三々五々、押し殺したすすり泣きが聞こえました。
ただ、上映後の観客たちは一様に言葉少なで、上映中泣いていた人たちや帰りがけにボソボソと会話をしていた人たちも含めて、ポジティブな体験をしたのかネガティブな体験をしたのか、表情や声を見聞きしても、容易には判断しがたい雰囲気でした。まあ、そもそもこれがこの映画の初見、という人がどのくらいの割合だったのかもよくわからないし。
ただ、言えることは、観賞後にずっしりとした重みが残る映画であって、ここに居る人たちがその重みをしっかりと受け止めていることによって、終演後のこの空気が作り出されているんだな、と。そう、感じました。

私は今回、とてもいい観劇体験ができたと思っています。
その何割かは確実に、同席していた人たちの力によって生み出されたものです。感謝しています。





あ、そうそう、言うまでもないと思いますが、個人的な主演女優賞は、望月杏奈を演じた方と、箱崎星梨花を演じた方に拝呈したく思います。


以上です。




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劇場版の感想について

Vinegar56%さん
 
 いつも御世話になっています、NP氏の本棚のNPです。

 Vinegar56%さんの超力作の劇場版アイマス感想記事、すべて拝読しました。あの劇場版をここまで深く鋭く、しかも登場した子達の一人一人の言動にまで目を光らせて構成された一連の記事に、ブロガーとしてものすごい衝撃と、ある種の戦慄すら覚えました。
もう私は白旗上げるしかないというか、Vinegar56%さん本当にマジぱねえです。

 私も一応2回ほど映画を見に行ったのですが、感想記事を書こうとするとどうしても考えたことが空中分解してしまいまして、今でも全然形にできていません。仕事が忙しくてじっくり考えられず……というのは正直私の言訳で、どうも自分の中で一本筋の通った論旨を展開できないことに悩まされています。


 Vinegar56%さんの記事を読んでいて感じたことはいろいろとあるのですが、その中でも自分と一番感じたことが近そうかなと思ったのは、

>この物語は人によっては、(中略)身近でよく知っている何かにそっくりだと思えるほど、誰もが体験し得る、誰もが向き合っている普遍的な問題を捉えて描き出している、この物語が凄いのはそこです。
>この映画が普遍的なテーマを表現していて、それ故に各々の立ち場と経験に従っていくらでも引き出せるものを内包している

のところかなと感じました。

 今回の劇場版で私が感動できたのは、「アイドルマスターの映画版として良かった」のではなくて、もっと普遍的な、「少女たちの青春ドラマ」をアイドルマスターというフォーマットを通じて描いたことにあるんじゃないかと思っています。だからアニメ映画というよりも、アニメ化された実写邦画を見たような感覚、というか。

 この点をもう少し考えてみると、この映画って結構ドキュメンタリー映画っぽい作品なのかなという気もするんですよね。『765プロが初めて立つアリーナという大舞台、リーダーの重責を任された天海春香、ライブに向けて動き出す少女達、新人アイドル達の努力と挫折。問題が次々と起こる中で、果たしてアリーナライブは成功するのか? 765プロのライブの裏側○○日間に密着取材!』というノリを私は感じていて、なのであの映画の映像にインタビューシーンの挿入や、テロップ・ナレーション等のメタ的な視点の演出を加えると、まんまドキュメンタリー映画風に作り変えることが出来そうだな、と思いました。
 そういうライブまでの軌跡をドキュメンタリータッチに描く側面があればこそ、「等身大の女の子達が一生懸命に頑張る姿」がしっかりとフォーカスされ、アイドルマスターという虚構の世界観を、現実的な身近に起こりうるテーマの中に落とし込めたのでは、と考えています。

 ちなみにアニマスの第一話の演出は各所で「AVの女優インタビューみたいだ」と散々な言われようでしたが、あの演出は本来ドキュメンタリーTV番組風に765プロを概観する、というのが錦織監督の意図だったと思っています。なので今回の映画の裏にそこはかとなく感じたドキュメンタリーっぽい雰囲気は、その時のリベンジなのでは、と思うのは……まあ考えすぎかもしれません。

(もっとも、この考えに行き着いたのは映画を見ていた時ではなくて、その後に「ミリオンライブ」のゲーム内で横山奈緒のカードが頒布された際、背景に「輝きの向こう側へ」のポスターがあって、どうも「劇中劇(?)」設定になっているらしいのを目にしたときです。もちろん、そうだとしても劇場版本編とはパラレルな設定でしょうが。)

 基本的に、アイマスに出てくる子たちはみんな良い子ばかりなので、そういう子たちが一生懸命やっているのをきっちり描いてもらえると、なんだか嬉しくなってしまうというのがプロデューサーの性ですね。


***
 良い子といえば、本作は矢吹加奈が本当に良い子だったと思います。彼女の劇中での行動が批判される向きも多々見受けられますが、私はあの子は「良い子過ぎて、自責に耐え切れず潰れてしまった」タイプの子だと思うので、戻ってきてくれて本当に嬉しかったものです。

 この映画の構成は前半の「合宿パート」と、後半の「ライブ準備パート」の2部構成の作りになっていますが、本来は「ダンサー組が主役でミニライブ前後の様子を描いたパート」を含めた3部構成(序破急)と見るべきではないかと、個人的には考えています。ところが、その第2部にあたるミニライブパートが極端に圧縮されてしまったせいで、前半と後半の物語のつながりが微妙に途切れた感が出てしまっている気がします(脚本家が前後半でわかれているというのも原因でしょうが)。

 この圧縮の煽りを直に食らったのが加奈だと思っていて、本来は「合宿後の様子」として、彼女とダンサー組が挫折にいたるまでの努力と苦悩がもっと段階を踏んで描かれていれば、より多くの視聴者が彼女の悩みに納得でき、さらに春香のアリーナ演説までの行動にも共感できた可能性は高いと思います。パンフレットの錦織監督のインタビューでは、加奈が太った描写は「物語として必要」だったとしていますが、これは限られた時間上、加奈の挫折描写に尺をさけなかったがゆえに、彼女の脱落理由に説得力を持たせるため、飛び道具として用いられた描写のように思えます(そもそも、アイドル養成所に通っている娘が突然ひきこもり始めたら、春香たちが動く前に実親が動くのでは? という疑問もあるのですが)。


 またVinegar56%さんの記事にて「前半の合宿は無惨な失敗だったのでは」とのご指摘がありましたが、私はむしろ「不完全な成功」だったことが問題なのではないかと考えています。765のアイドルたちにとっては、あの合宿は良い感じに終わった「楽しい思い出」になっていて、その時、そこまで深刻な事態の種がまかれていたとは気づかなかった。
 また、あの合宿を通じてダンサー組は「憧れの先輩と一緒に成長できた」という実感を持つことが出来た。それは最初に不安そうだったダンサー組の目線が合宿終わりに力強くなっていたこと、バラバラだった挨拶がそろったシーンなどに表れていると思います(ただし、一抹の不安もあったことは、雑誌取材の時の杏奈の表情等に見られますが)。
 でも実はそれは幻想だった。ミニライブで大失敗してしまい、自分達の力はまだ通用しないことがわかってしまった、いわば「上げて落とされた」わけで、そのショックがダンサー組の内部崩壊の引き金なのではと思います。ゴシップ記事は、あくまでその追い討ちだったと思いますが。
 おそらくこのショックが一番強かった子こそ、「憧れの」春香と交流を深めていた加奈だったと思うのですが、ミニライブ後からひきこもるまでの描写は端折られているので、私の勝手な想像の域を出ません。


 60分のOVA3本くらいにまとめられるなら、今回の構成のままで、ダンサー組にもかなり時間をかけられたと思いますが、Vinegar56%さんもご示唆される通り、あくまで「765のアイドルを主軸とした劇場版」というフォーマットで表現する以上、今回の脚本構成は合理的で、ベストではないにしろベターといってよいと思います。


***
 思うところは多々あるのですが、今回の映画、見終えた後にぽっと心に灯がともる温かさを感じられるような、そういう素敵な映画だったと思います。なにしろ人生で初めて、映画館に2回も足を運んでしまいましたので…… そして765アイドルだけでなく、今まで着目していなかった七尾百合子がものすごく好きなってしまった、という副賞もついてきました。

 あとは「春香がリーダーに選ばれた理由」に私なりの解釈と答えが出れば、感想を自分のブログで書けそうなのですが、まだ少し時間がかかりそうです。


***
 なんかものすごく長くなってしまって申し訳ないです。一連のVinegar56%さんの感想記事、本当に読みごたえがありました。私もこの熱烈な記事になにか反応しなければと、と思ってしまったので、長々と書き連ねてしまいました。
 あとここまで書いて、自分のブログで記事を書いてトラックバックすればよかったかも、ということに思い至ったのですが、もうこんなに書き込んでしまったので、このまま送信してしまいます。すみません。

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NPさん、非公開コメントの方へ

コメントありがとうございます! 大変嬉しく思います。
私事でこれから数日間ネットに繋ぐことができないので、いずれ改めて、じっくり読んで返信させていただきます。

非公開コメントの方へ

遅くなりましたが、改めて。

それは残念!

NPさんへ

大変にお返事が遅くなりました。
改めまして、拙記事にこのように熱く、心のこもったコメントをいただけましたこと、本当に嬉しく、有り難く思っております。
いただいたコメントとNPさんの記事を拝読して、またいろいろと考えるところ、気づかされたところがありました。その上で、数日前に2度目の鑑賞をする機会を得たところ、1回目とはまた異なった面白さを味わうことができました。NPさんからいただいたお言葉あってのことと、感謝しております。

>感想記事を書こうとするとどうしても考えたことが空中分解
おっしゃる通りで、何を語るのか、どう語るのか、自分が作品に対して抱いている感情をなんだと認識するのか。明快に形にするのが難しい奥深さを持った作品であったと思います。
私の場合は、暇と突発的な衝動にまかせて、なんでもいいからとにかく思いついたことを書き並べていったら、結果的に一応記事の形をしたものは出来上がっていた、というだけですね。

>もっと普遍的な、「少女たちの青春ドラマ」をアイドルマスターというフォーマットを通じて描いた
>「等身大の女の子達が一生懸命に頑張る姿」
まったく同感です。この映画については実にさまざまな人が感想記事を書いていますが、(リアルの)アイドルファンの方に感想を聞いたら、まるで実際のアイドルグループのエピソード/ドキュメンタリーを見ているかのようだとの答えだった、というようなケースもあるようですね。アイドル業に限らず、身近でよく知っている出来事と相通じるものがある、と感じさせる部分がそこかしこに潜んでいる、というのは、この映画の性質なんだろうと思います。
TV第一話のドキュメンタリータッチは、確かに話題になっていましたよね。TV13話のライブに至る過程の描写であったり、この劇場版であったり、とりわけライブへ向かうエピソードを描く際には、アイドルたちが仕事をやり遂げていく・完成品を作り上げていく舞台裏に迫っていく、という、ドキュメンタリー的な話作りが意識されているのかもしれないと、お話を聞いて感じました。

>本当に良い子だった
>「良い子過ぎて、自責に耐え切れず潰れてしまった」
本当に、そう思います。2回目に見に行って気がついたのですが、彼女はなんとなく練習から逃げたりやけ食いをしていたのではなくて、どの時点でもはっきりとした責任感と目的意識を持って行動していたんだと思います。結果的にそれは、ひとりで自分自身をどんどん追い詰めていく方向に作用してしまったわけですが……。
そして、自責の意識、他のみんなに迷惑をかけたくないという意識は、可奈に限らず、この映画の誰においても重くのしかかっていた事柄だったと感じました。それも、彼女たちがみんな良い子であればこそ、のことですね。

>その第2部にあたるミニライブパートが極端に圧縮されてしまったせいで、前半と後半の物語のつながりが微妙に途切れた
そうですね、このミニライブのパートというのは、映画全体を通した時、話の大きな転換点であり、重要な出来事がみっちりと詰まっている箇所であり、ここを抑えた最小限の描写にとどめて通過したことが、良くも悪くもこの映画の性格を決定づけた気がします。
可奈が太った描写は、おっしゃる通りに可奈の挫折過程の描写を省く手段になっていて、同時にこれが、”可奈が必死に隠れ続けていた理由が、クライマックスで初めて判明する” という、物語上のミステリー要素の解答になっていることが、可奈の描写を排除して765プロ側の動きだけを見せていくことを正当化・決定づける便法にもなっているんですよね。
まあ、ミニライブ前後のダンサー組の様子であったり、失踪後の可奈の様子であったりをこそ、正面からじっくりと描いたお話が見てみたかった、と感じるところは、私の場合はあります。その場合、映画全体の力点が大きく変化してダンサー組が主体の物語になり、より受け入れられる人受けいれられない人の差が広がったでしょうが、私個人の満足だけで言えば、そういう内容でも良かったなあ、と。

>「前半の合宿は無惨な失敗だったのでは」とのご指摘がありましたが、私はむしろ「不完全な成功」だったことが問題
非常に的確なご指摘だと思います。
拙記事を書き始めた時点では、映画では765プロ組はすごく成長して頼もしくなっていたよね、ぜんぜん未熟なダンサー組といい対比になっていたよね、という感想が多く見受けられるように感じていました。それで、私の文章は、それに対するカウンターを意識して、ああいう極端な論調になっていたわけです。千早・雪歩・伊織・美希といった個人への評価も、すでにある分析を意識して、極端な立ち場を取っている傾向が全般にありましたね。
おっしゃる通りで、確かに合宿終盤には、ダンサー組も765プロ組も、合宿で得たものと未来への展望に手応えを感じているし、両者の信頼関係も、最初より深まっているんですよね。あの時点としては、合宿は成功裏に終わり、全員が順調にライブへのロードマップを進んでいる、筈だった。765プロ側の認識は、「あの合宿は良い感じに終わった「楽しい思い出」」というお言葉通りで、従って「深刻な事態の種がまかれていた」ことに誰も気づかなかったわけです。
けれども、結果的にダンサー組がミニライブで感じた壁は想像していたよりずっと高く、そしてその壁の高さを、765プロの側も想像できていなかったことが判明した。まさに、合宿が表面上は成功であったからこそ、ああいう結果が生まれたんだな、と。NPさんのコメントを読んで、改めて認識し直すことができました。
(ただ、765プロがダンサー組を引き取ってからの練習で、あれだけダンサー組の問題点がぽろぽろ洗い出されてくるのだから、合宿の時点でもうちょっとなんとかしてあげられたんじゃないか、という感情は、2回見てもやっぱり変わりませんでしたね。)
ミニライブ後の可奈とダンサー組の変化(ひきこもり・内部崩壊)の過程に関しては、見直してみてまたいろいろ考えさせられるところがあったので、また別の機会に書くことができたらなあ……と思っています。

>見終えた後にぽっと心に灯がともる温かさを感じられるような、そういう素敵な映画
そうですね、本当にそうですね。私の場合も、同じ映画を映画館で2回見たのは、この映画が始めてです(笑)。
今まで着目していなかったアイドルを好きになる、というのも、我がことのようで、そのようなお言葉をお聞きできて、私もなんだか幸せです。

ではでは。まったく、この内容をこんな狭い場所のコメントにしておくなんてもったいない! といただいた瞬間思ったものですが。
それなりに気持ちを入れて自分が書いたものに、こんな風に熱く細やかな反応をいただけて、書き手として私は幸せ者だなあ、と思っております。
本当に、有り難うございました!
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