相剋


劇場版アイドルマスターについて、一つ前の記事の追記というか、ぐだーっとどうでもいい理屈を並べているだけで、新しいことは何も言っていないので、前の記事に付ける必要はないなと思ったんですが。まあせっかく書いたので、載せておきます。

劇場版アイドルマスターのネタバレを含みます。












また映画と関係ない話から。
矢吹可奈というキャラクターについて私が知ることはとても少ないのですが、漏れ聞く彼女のプロフィールは謎が多い。なにしろ、音痴だけど楽器が上手い、らしい、という。
いや、もしそれが、歌は苦手だからあまり練習したこともなくて、という話なら、某声優さんの言う絶対音感持ちだけど出力器官が……というギャグ、みたいな理屈も成り立つかもしれません。
けれども、歌うことは好きでしょっちゅう歌っているのだという。にも関わらず聴くに耐えない音声を出してしまう、つまりは自分の音を自分の耳で聴いて修正することが出来なくて、歌い続けてもその判断力・修正力が向上していくこともない。とするならば、それはもう耳の問題、音感の問題でしかあり得ないように思います。
努力ではどうにもならないレベルで音感がない。のはわかるとして、そこまで音感が酷いが、しかし楽器が上手い、そんなことがあり得るのだろうか。あり得るとしたら、その「上手さ」とはどういう性質の「上手さ」なのだろうか。
というかそれ以前にですね、そんなに楽器が上手いなら贅沢言わずに楽器に打ち込めばいいじゃないか、という気分も私の中にはあったりして、いやはや矢吹可奈というキャラクターの生態は謎が多い。そこらへんの疑問が今回の映画で解消されるのではないか……、という期待は全然していませんでしたが、実際、映画とは関係ありませんでしたね。依然として矢吹可奈は、私の前に大いなる謎として立ちはだかっています。


映画の中身の話。何点か、個人的にポイントだと思った事柄を。
一点目。SP以降のアイマスでは、 "765プロ的な考え方・アイドル観・アイドル道" というものと、それとは対立する、別の考え方・アイドル観・アイドル道が存在して、両者の思想が邂逅する、ということが、ストーリーの一つの軸になっています。
映画で言えば、春香の意見と北沢志保の意見の対立、というのが代表的な事例ですが、2nd Visionを通して ”非765プロ的な考え方・在り方” を提示する役割をもっとも多く担ってきたのは、なんといっても961プロの黒井社長でしょう。

で、これは作品を問わず、そうだと思うのだけれど。
2nd Visionのアイマスのストーリーの特徴は、765プロのアイドルが、相容れない961プロ的な思想を打破して勝利する物語になっている、わけではない、というところにあります。
黒井社長はいつも黒井社長自身の行動によって自滅していき、765プロアイドルは765プロアイドルで各々自分が得た課題を乗り越える。どこの時点で765プロが黒井社長を完全に言い負かしたとか、どこの時点で765プロの育成したアイドルの魅力が他の思想の下で育成されたアイドルを上回ったとか、そういう話にはならない。
各々の作品単体で見たとき、それはシナリオの拙さ、ズルさの現れなのではないか、という評価は、確かに成り立つでしょう。せっかくの黒井社長、961プロという素材を、もっとうまく生かしたシナリオがあり得るのではないか、という声はよく聞くところです。私自身も、それに同感するところは大いにあります。

ただ、一方で、2nd Vision を通して一貫している、物語のそういう在り方を、懐の深さ、射程の広さとして評価することもできるでしょう。
つまり、ライバルは敗れ去り、765プロアイドルはトップに登り詰めてハッピーエンドにたどり着いた。しかし、だから765プロの選択した道こそが絶対的・唯一的に正しい道だったのだ、彼女たちが今正しいと信じている考えこそが正しい考えなのだ、と、そういう話にはならないのだということ。
劇場版アイドルマスターについても、同じ評価ができます。春香の意見と北沢志保の意見が対立する。春香の考え方こそがアイドルとして正しい考え方で、だからどこかの時点で北沢志保は言い負かされる、と、そういう話にはならないのです。そこがこの物語の懐の深さ、射程の広さなのだと思います。


二点目。上とやや関連した話。バックダンサーズが登場してからずっと思っていたのだけれど。
彼女たちは「スクール生」で「バックダンサー」なのだという。実に微妙な立ち位置ですよね。
とどのつまり、彼女たちは765プロ側にとっては、ドライに取引すべき「仕事のパートナー」なのか、丁重にもてなすべき「お客様」なのか、教え導くべき「弟子」なのか、親身に付き合うべき「新たな仲間」なのか。どうにもはっきりしない。

もしこれが、彼女たち7人は765プロの第Ⅱ期生であって、今までの13人は第Ⅰ期生として、初めて後輩と一緒にステージを作り上げるのだ。そんな設定であったならば、話はもっとシンプルでわかりやすくなっていたことでしょう。
なにしろその場合、TVシリーズの続きにあるお話として、ついていけない者は置いていってでもとにかく仕事をやり遂げましょう、という論理は通りようがありません。美希が苦しんだ時に、春香が苦しんだ時に、切り捨てて先に行く、という選択肢があり得たか? 新しい仲間を、未来を託すべき相手を切り捨てて、何が765プロのライブか! そういう話にしかなり得なかった筈です。

実際の映画でも、バックダンサーズは、実態としては育成を兼ねて先輩の元に預けられた、半人前の見習いだ。そういう一面が、どう見てもある。
けれども一方で、彼女たちは立ち場としては別の組織に所属して、765プロから仕事を請け負っているのだと、そういう一面もある。だから、765プロ側がどうこう干渉せずとも、バックダンサーズはバックダンサーズ独力で、請け負った仕事をプロとして果たすのが当然ではないか、という理屈も、当然に成り立つ。
だから話がややこしくなった、とも言えるし、だからこそ懐の深い物語が成立した、とも言えるでしょう。


三点目。鑑賞する以前にいろんな人が書いていた、映画の中の矢吹可奈の話を読んでいて、何が問題なのかいまいちわからなかったのだけれど。
自分で見て、問題は、最初の合宿で矢吹可奈が(あるいはバックダンサーズ全員が)どれだけ苦労したか、辛かったか、そのことがたったあれだけの描写で、どれほど伝わるものだろうか。そこだと感じました。

矢吹可奈は、いかにも物語の中心にいるように見えます。
けれども、思い返してみてください。ならば、矢吹可奈が物語に登場してから失踪するまでの間、実際に彼女が練習し、思考し、行動している様子を描くことに割かれた時間が、どれほどあっただろうか。
たとえば合宿での初めての練習。自己紹介が終わって、次のシーンではもうバックダンサーズが畳の上で伸びて、大変だったねー、先輩たち凄かったねー、と言っている。ああ大変だったねえ、と、そりゃあ誰でも頭では理解できますが。
あるいは最初のミニライブでもいい。止め絵で転んでいるバックダンサーズの絵が何枚か写って、それがそのまま週刊誌を写したカットに移行して、おしまい。初めての舞台に出る瞬間、矢吹可奈はどんな表情をしていたのだろうか。前で踊る765プロのアイドルたちは、彼女の目にどんな風に映っていただろうか。転んだ瞬間、どんな景色が見えていただろうか。

比べて見てください。たとえばTV3話、雪歩が舞台から逃げた時の、雪歩自身の体験についての描写の質量と。あるいは12話、美希が失踪した時の描写の質量と。(いわんや20話の千早、23話の春香に於いてをや。)
映画中で、バックダンサーズの得た体験についての描写が、どれだけ断片的で寡少であることか。
しかも矢吹可奈の場合、バックダンサーズが本当に行き詰まって、誰の目にも彼女たちがどれだけ深刻に苦悩しているのかわかるようになった頃にはもう、失踪して描写されなくなってしまっているのです。

初めてプロのアイドルと一緒に仕事をして、彼女がどれだけハードな時間を過ごし、壁にぶつかり、挫折したのか。
その、一番核となる部分の体験が、さて各々の視聴者には、彼女が過ごした時間を理解するための、いかほどの想像力、いかほどの人生経験の持ち合わせがあるのでしょうね? という問題になってしまっている。
私は、この映画の問題点は、最初の合宿の描写がまったく足りなかった、圧倒的に足りなかった、そこに尽きると思っています。本当は、”矢吹可奈失踪後” と同じレベルのじっくりさ、丁寧さをもって、”失踪前” の時間が描かれなければならなかったのだと思う。

ただ、それが不可能であることもまた、明らかなわけで。
第一に、戦術的な問題。矢吹可奈は何故、あそこまで徹底して逃げ隠れするのか。その事柄は、土壇場まで引っ張られる物語上の謎になっている。だから、特に失踪以降の彼女を、あれ以上前面に出して描いてしまうわけにはいかない、ということ。
第二に、戦略的な問題。構成上、これ以上どこを削ることも、長くすることも困難でしょう。合宿に至る導入部分のシーンは既に、これ以上削れないほどギリギリまで切り詰められている。そして後半はもう、削ってはいけない、ここを短くしたら物語が成立しない、そういう内容になっている。だからと言って合宿のシーンをこれ以上盛り込んだら、一本の作品として一息に見通すことが不可能なものになってしまうでしょう。
第三に、技術的な問題。練習なりミニライブでのバックダンサーズの描写に、もっと時間を割いたとして。それをモーションを付けて正面から描こうとしたら、本番のライブと同じだけの作画の手間がかかる。そしてそれが物理的には可能だったとしても、彼女たちがどんなに努力してどんなに苦労しているのか、誰にでも実感できるような絵とは、果たしてどんな絵なのだろうか? 
アイドルとして活動していく中で、日々積み上げられていく、膨大な質量の努力や苦労。そんなものを、どうやって視覚化するのか。全編を通して、そのことにこの映画は苦心し続けていて、そして結局、十全な解は見つかっていないように、私には思えます。

まあ、結局のところこの映画は、非常に合理的に出来ているのです。
あの合宿はそれ自体が、”765プロ リターンズ” を、 ”765プロの楽しい夏休み” を見せて視聴者を一時の非日常へと運んでいく、という大きなテーマを、単独で受け持っている。
天才カゴシマPの『夏のナンセンス』の世界であり、『究極超人あ〜る』のOVAの世界だ。
そういう、それだけで優に映画一本分の重さになるテーマを、ギリギリに切り詰められた時間の中に押し込んで、しかもその中で後半への伏線を撒かなければならない。豪胆というか、繊細な荒業というか、よくまあこんなことが出来たものだと思います。
そして、前半で一体どうなっているのか、描写が足りないんじゃないのか、という部分は、後半のじっくりした展開(あれでもまだギリギリ最小限、でもあるでしょうが)の中で反芻されて、回収されていくことになる。
だから、全部見通して見た後で、何かが不足だ、どこかが至らない、ということは全くない。
ただ、それは全体図が見えた後だから言えることで。前に書いた、一度目の鑑賞と二度目の鑑賞で感触が変わる方も多いようですね、という話も、全体図を頭に浮かべられるかという問題なのではないか、という気はしました。
そんなところですね。



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