Only in dark the light


昨日の記事の続きで、わりと昨日の記事と関係がある筈の話。






本記事は、

アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』
ておくれP『アイマスクエストⅣ』

のネタバレを含みます。











『魔法少女まどか☆マギカ』では、「願い」と「呪い」という言葉が、対になるキーワードとして出てきます。
すなわち、何かを願えば願っただけ、願いと等しい大きさの呪いが生み出される。あるいは「穢れ」という言い方もあって、「願い」を叶えるために魔法を使えば使っただけ、「穢れ」が蓄積していく。
「呪い」と「穢れ」という言い方に何か違いがあるのかというと、「穢れ」と言った場合には自己の内部で起こることを指すのに対して、「呪い」と言った場合には他者に対して与えるものと自己に跳ね返ってくるものの両方を含み込む、という整理ができるのかなと思いますが、まあ細かいところはここではいいのです。

とにかく、良いものである筈の「願い」が、悪いものである「呪い」を生み出してしまう。
別にアニメやゲームで描かれるような特別な人生を送っておらずとも、普通に生活しているだけで、そういうものだよね、と思うことはままあります。そういう意味では、この作品の語っていることは、まったく難しくない。
ただ難しいのは、願えば願っただけ呪いも生まれる、世の中はそういう風に出来ているんだよ、という認識を徹底すればするほど、そんな世の中を丸ごとハッピーにするような結末は、ロジカルにはつけようがなくなります。
にも関わらず、物語である上は結末が必要であって。オチのつけようのない話にどうオチをつけるのか、そういう難しさがそこには生じるものだと思います。




『まどか☆マギカ』の世界において「願い」と「呪い」が対であるのと同じように、『アイマスクエストⅣ』の世界においては「光」と「闇」という概念が対である。
「魔物」の素たる「闇」を打ち消せるのは、人の心が生み出す「光」のみ。だが、当の「闇」自体もまた、人の心が生み出すもの。「闇」が蓄積し続ければやがて世界は滅ぶが、「闇」だけを一方的に除去するのは不可能。
従ってここに、定期的に「勇者」という存在を犠牲にすることで世界を維持する、というシステムが必要になる。

それでは世界が「救済」されたとは言えない、もっと根本的な解決があるべきだ。そう考えたのが、閣下というキャラクターだった。
世界の完全な「救済」の実現は、必然的に先に述べたごときこの世界のシステム、ルール、因果関係そのものの改変・消滅を要求し、それは実行者自身がシステム内の通常の循環を超越した存在になることをも必然的に要求する。
閣下のプランを、対世界という点において簡単に要約すれば、閣下自身の存在と引き換えにすることで、継続的な犠牲を必要とするこの世界のシステムそのものを改変すること、とまとめられるのではないだろうか。

では、その閣下が活動不可能な現在、物語内で結末に至るプランがどう構想されているか。以前、雑駁ながらも少々述べたことである。
いま現在の「勇者」である春香が考えていることは、要するに、自分が閣下の立ち位置と手法を模倣して成り代わり、閣下が用意したプランに従って、閣下が負おうとした役割を引き受け(て世界を「救済」す)ること、と言えると思う。(ここらへん、私の認識はごくざっくりとしているが、私は「ドラクエ」「マスクエ」のギミック自体に興味があるわけではないので。)

この点、閣下と春香に限らず、ピサロであれ、あずさであれ、かつての美希であれ、『アイマスクエストⅣ』のほとんどのキャラクターが思い描く事態解決プランというのは、実は大して差がない。
ようは、最終的には自分が不条理な部分、不都合な部分を一人で引き受けることで、自分が守りたいものを残せばいい、という発想。異なっているのは、各キャラクターにとっての守りたいものの範囲、自分の力で守れると思っているものの範囲だけである。

たぶん、このまま話が進んでいった行く末を、ハッピーエンドとして見せようとするならば、そこにはちょっとアクロバティックなごまかしが必要になるよね、と私は思っているのだけれど。
ならば、そうではない綺麗に納まったオチなんてものが、あり得るのだろうか。『アイマスクエストⅣ』という物語の範囲内で言うならば、あり得るし、そのための道具はすでに過去のストーリーの中で用意されているように思われる、というのは、以前述べた通り。

もっとも、この記事の本題は ”マスクエ語り” をすることではないので、ここでは別の話をしておく。

「願い」と「呪い」、「光」と「闇」が表裏一体であるとは、そもそもどういうことなのか。
たとえばピサロが「魔物」を無害化したエピソードからは、それを具体的にイメージすることが可能になる。

あのエピソードの、一体何が問題だったのか。
人間の中にどうしようもないクズのならず者が存在して、平和に暮らしていた「魔物」たちを虐殺していったこと? 
まさか。そんなことは本質的な問題でもなんでもない。
もし、あれが「『闇』は人の心が生む」 ことの本質だと言うならば、ああいうクズの悪人だけを人間社会から根こそぎ抹殺して、トルネコやネネや "やくそう" のごとき善人だけを残していけば、いずれ「闇」など生まれない平和な社会が実現するはずだ。

そうではない。
誰が、無力になった「魔物」を、率先して殺すのか。
ネネにもう少し楽な暮らしをさせてやりたい、子どもたちに未来永劫「魔物」と遭遇しないで済む安全な世界を渡してやりたい。そう願う幾万の善良なトルネコたちが、「魔物」を殺すのだ。
義に厚く責任感に溢れ、人間の弱小さと「魔物」の危険さを身に沁みて知っているバトランドの戦士たちが、「魔物」を殺すのだ。

無力な「魔物」を虐殺した悪人に憤った人は、それを実行したのが家族を想うトルネコや故郷を想うバトランドの戦士だったら、同じように憤ったのだろうか。
もっと言うならば、「魔物」を虐殺したならず者たち、ロザリーを襲ったならず者たちにも、彼らにとってのネネ、彼らにとってのバトランドがあったのかもしれない、と考えたことはあるだろうか。

『アイマスクエストⅣ』という作品は、ドット絵の持つ抽象性を実に巧妙に利用して、深刻な主題を描きながらも、そこに生じるもっとも難しいもの、正視しがたいもの、扱いにくいものが、あからさまに剥き出しにならないように表現されている。
けれども、その巧みなごまかし方を意識して読み解いていけば、難しいものがきちんと射程に入ってくる作品なのだと思う。

同じように「魔物」を無害化する実験を行ったにも関わらず、なぜそこで人間に対して出した結論が、閣下とピサロで異なっていたのか。そのことは、もっと考えられてよい。
根本的な原因は、二人の性格の違いや実験後の経過状況の違いなどではない。壮大な実験が可能なほどの力を手にするまでに歩んできた、両者の人生経験の違いである。

魔族のエリートとして、生まれながらに周囲をはるかに凌ぐ力と知恵を手にして、強く賢い自分ができること、すべきことを考えてきたピサロと、ただの人に生まれ、レベル1の「勇者」から育ってきた閣下。
弱い人間の身体ひとつで、強大な「魔物」と隣り合わせに暮らす恐ろしさを、閣下は知っている。
弱い人間だけが感じられる、悲しみや、苦しみや、喜びを、誰よりも閣下が知っている。

だから彼女は言うのだ。

「人の心は闇を生むけれど、光も生む」

と。
「闇」が「光」の中に存在するのであれば、「光」もまた「闇」の中にこそ存在する。
ピサロが持っていない(ピサロ自体の経験はともかくとして、彼の「プロデューサー」としての人生経験、謀略と知識以外の人生経験は、一体 ”デスPサロ” というキャラクターのどこに生きているというのだろうか?)そういう視野を、閣下は持っている。
デスパレスでの戦いでピサロとの一騎打ちに完勝して閣下が言った、

「弱き身から強くなる経験は… 必要なのよ」

という言葉。それは決して、戦闘力だけの問題ではないはずである。
閣下とピサロのこの差異について、未だ指摘されているところを見ないように思うので、ここで書いておいた。

途中に書いた通り、この記事の本題は『アイマスクエストⅣ』ではなかった筈なのだが、いい加減長くなってきたので、ここで話を切っておく。



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