悪意について、またはフィルターについて


一昨日書いた文章は、書いている時点で、補足が必要だなとは思っていたのですが、ただどれくらいの速度でどのくらいの補足をするべきかは、その時点ではよくわかりませんでした。
つまり、あの文章がどれくらい他人から関心を持たれるのかよくわからなかったのですが、結果、ネタにした本人から、丁寧なリアクションをいただくことになりました。
なので、それに正面から応える形に出来るかどうかはともかく、自分としてそれなりのことを書いておこうと思います。






①一昨日の記事の補足

これは、基本的に、一昨日の文章を書き終わった時点での私としてのコメントです。なので、zeit氏の二つ目の記事とは、話が食い違うところがあるかもしれません。

1、 この記事には、「面白くない」という話と、「悪意」が云々で「zeitさんはどこに行ってしまったのだろう」という下りの話と、二つの話題があります。もちろん、実際にzeit氏の記事を読んでいる段階の私の感情としては、その二つは混ざり合って同時に生じていたわけですが、話題としては別の話題です。そして、後者の話題に触れているのは、その下りのみです。

2、 「面白い」「面白くない」というのは随分と漠然とした表現で、故に私は便利に使っているわけですが。ここで「面白くない」と私が言っているのは、「ピンと来ない」「スッと入って来ない」くらいに言い換えた方がいいかもしれません。
ある人が同じ事柄について同じように書いているはずの文章の中に、読んでいてすぐにピンと来るもの、頭にスッと入ってくるものと、そうではないものがある。それは何故なんだろう、ということ。
毎回見ていくコメディ系のノベマスのシリーズがあって、ある回ではアハアハと笑い通しだったが次の回では全くのめりこめずにボーッと眺めていた。なぜだろう、と考える、というのと一緒です。

その違いはどこから来るのだろう、というか、より本質的には、そこで私の中で何が起こっているのだろう、ということを知ることが、その話をする目的です。
それは、書いているうちに私の中で見えてくれば目的は達せられるので、書いてあるもの自体に結論が載っているとは限りません。だから、zeit氏の記事はきっかけに過ぎないというのも、そこに基本的に悪意はない、というのも、私の本心です。

ただ、これはノベマスについてこの回は笑ったがこの回はダメだった、と書いた場合もそうですが、「この文章は面白くないです」という記述を他人に読ませておいて、いやそれは私の心の動きの素直な表現にすぎなくて、対象への価値判断とか非難とかそういうものじゃないです、という理屈が通るものでしょうか? 
件の文章に「面白くない」という表現が使用されているのは、それが読み手には価値判断や非難と感じられるだろうことを承知の上で、この件の場合はそれで構わない、と思って書いているからです。この話題について、悪意がないわけではない、というのは、そういうことです。

3、 上でも少し触れていますが、なんでこの文章を書いたのか、ということ。それは、結局私はzeit氏の記事をどう読んだのか、ということでもあります。
書くことで書いた内容が記憶に定着した、という経験は、ブロガーならずとも多くの人に覚えがあるでしょう。さらに、書くことで対象への愛着が生じた、あるいは愛着がより深まったと感じた、そういう経験がある人もいるのではないでしょうか。

個人的な体験としては、書くことで嫌いとか受け入れられないとかの感情が消化される、であったり、カッカ怒りながら書き始めたのが書いているうちに冷静になって頭が整理されてくる、であったり、書くことで必要に迫られて対象をそれまでよりじっくり観察することになる、であったり、あるいは単に自分の手をわずらわせたものは可愛くなる、というだけのことかもしれませんが、書くことで書かないよりも対象への好意が増した、という経験は確かに存在します。もちろん、初めからそうなることを予期したり意図したりして書いているわけではないのですが。

ただ、(ブロガーの中には、なるべく外に向けて毒は吐かない、という志をもって書いている人もいるわけですが)私の場合は、自分がどう捩れている時であっても、諸々の理由により対象とまともに取り組めない状態であっても、そのまま書いて放出して良しとしているのは、そこに私自身にとってプラスになるものがある、と思っているからです。

4、 つまり、最終的に私はzeit氏の記事のことをどう思っていたのか、というと。「面白い」か「面白くない」かという分類で言えば、「面白い」と思って読んでいたのです。
ただそれは、自分の文章をアップした時点まで書き上げた時点の私としてそうだった、ということで、記事としては、どこの時点、どこのラインの私までを見せる形にするか、という問題があります。
一昨日の私の記事にあるのは、zeit氏の記事を読み始めたその第一感、出会いの瞬間の感触から発生したもので、それより先は、私自身のためには、少なくとも一昨日の文章の中には必要ありませんでした。

5、 私はzeit氏の記事をどう理解したのか、という話。いや、理解とか解釈とか言うほどのことではないと思うのですが。
つまりこれは、 "伊達と酔狂” の話か、と思ったんですね、私。

要するに、好意を持てるチームのメンバーになってみんなで協力して頑張ったけれど、結局最後は負けた、と。負けて何かあったのかというと、そのまま解散してその後もやっぱり負けた、というだけで、別に何かが残ったわけではない。つまり、一旦は勝てたから楽しかったとか、誰かが得をしたから良かったね、とか、そういうことではない。
得られた結果や報酬が問題なのではなくて、そんなものと関係ないところ、それが吹っ飛んでしまったところに価値を見いだして生きる人間の話。伊達と酔狂の世界の話、意気、心意気の世界の話なのだな、と思いました。

それは、普通の人が普通に読めばわかる範疇の話だと思いますが、しかしzeit氏の記事を読まずに私の記事だけ読んだ人がいるとして、そういう話をしていたんだなとわかるかと言えば、わかるわけがありません。
なので、受け手のことを考えるならば、あるいは受け手から私がどう見られるかを考えるならば、一昨日の文章中にこの内容を入れておくべきであり、それは私が件の記事の性格を決める上での、ひとつのポイントになった選択でした。






②zeit氏のリアクション記事を受けての補足の追加

以下は補足の続きで、zeit氏の2つ目の記事に直接反応しているわけではありませんが、しかし2つ目の記事がなければここまでは書かなかった/こういう形では書かなかった、であろう、という内容です。

zeit氏のお話を、伊達と酔狂の話であると捉えて、しかし私はそれを、素晴らしいですね、とか感動しました、とは言いませんでした。それは何故かということ。つまり、私の一昨日の記事の、「悪意」の側の話です。
私は伊達と酔狂で生きるお話が嫌いなのか、そういうものの価値を認めないのか、というと、それは違います。そうだったら私がやっていないだろうこと、関心も持たないだろうことはいろいろあります。なぜあの文章で私は、縁もゆかりもない、得体の知れない32歳のチェコ人の名前を、わざわざ選んで出したのか。まあ、このブログの読者にスキージャンプファンがいるとは未だ聞かないので、自分で説明しない限り誰にもわからない話ですが。

けれども、伊達と酔狂を語るお話ならばなんでも好きか、というと、それも違います。
たとえば『ぷよm@s』にしろ『雀姫伝』にしろ、つまりあれは、広く見てその世界に生きるキャラクターたちすべて、に対する/を通しての人間賛歌を描いているものでしょう。そこに疑いはない。けれども、私としてそれが好みか、お気に入りか、というのは、また別問題です。
そして、好きか好きじゃないか、だけではなく、好きでないとしても認められる、という尺度も私の中にあります。
つまり、たとえば、本気で世界は伊達と酔狂で出来ている、という虚構を見せようとしているRAP氏が、伊達と酔狂で生きる人間は素晴らしい! と主張した、とします。あるいは、本気で伊達と酔狂で生きるのが至上だと信じていて、どんな場面にもそれを適用するdamehumanoid氏が、そう言う。
私自身がその意見に賛同するかどうかはともかく、どこにも文句をつける筋合いはありません。
では、なぜ私はzeit氏にだけは突っかかっているのか。

物語でも、スポーツでも、イベント、あるいはニコニコ上の動画、でも、本当になんでもいいのだけれど。何かしら、人が楽しんでいる、熱狂している、取り組んでいるというのは、そこに、その対象に、その人にとっての伊達と酔狂を見いだしているからそうしているのだと思います。
zeit氏の2つ目の記事中に、「別に楽しくないものを楽しくしようとする人たち」という表現があります。
別に楽しくないものを、楽しくしようとする。
それって、人間がする、とても普遍的で根本的な行為ではないかと、私は思うんですね。それはまあ、ある定まった基準を確信できる人ならば、そんなことはしない人、そうではない行為、を決められるかもしれませんが。

私は、zeit氏という人は、他人のやっていることを、それは自分が楽しくないから見せないでくれ、やらないでくれ、ということを、はっきり言える人だと認識しています。つまりは、他人が「楽しくしよう」としている行為を否定できる、それもただ気に入らないとボヤくレベルの話ではなくて、意識的に言葉を力として行使しようとする。もう少し強く言うと、つまり、他人にとっての楽しみ、幸せ、希望を、自覚的に言葉によって踏みにじれる人だと、私は認識しています。
その当人が、別のこと、別の世界に対しては、楽しいと言い、素晴らしいと言い、好きだと言う。そこに私は、気に入らない、と言って突っかかっている。
おわかりでしょうか。私の一昨日の記事は、モバマスについての話に反応しているように見えて、実は「悪意」という言葉にまつわる限りに、モバマスのことそのもの、zeit氏のその記事自体を問題にしているのでは全然ないのです。

さてしかし。今の下りを読まれた方は、何かおかしい、と思われたのではないでしょうか。
あるものは好きだと言い、あるものは嫌いだと言う。何も筋の通っていないことではありません。人間として当たり前の行動です。
あるいは、こういう言い方でもいいでしょう。お前が気に入らないと言っているそれは、お前がやっていることそのものじゃないか。その通りです。
すなわち、私はここまで書いてきたことを、できる限り理屈が付いている見えるよう書いたつもりでいますが、実際にはこれは、理屈の問題ではないのです。要するに私は、貴方のその好き嫌いの仕方が私の好き嫌いと違うから気に入らない、と言いたいだけです!
しかしですね。あんたのその好き嫌いが気に入らねえ、にしろ、いい機会だからその記事に絡む振りするけど本当はちっとも関係ない話なんだよん、にしろ、そんなもんそのまま書いて出してどうするの、という(笑)。

「僕等のzeitさんはどこに〜」云々の一文、いちばん素直に読めば、私はzeit氏が昔と変わってしまったのだと詠嘆しているのだ、あるいは首尾一貫していないと批判しようとしている、と見えるでしょう。でも、それが私のいちばん言いたいことであるならば、もっとストレートにそう書けばいいわけです。
つまり、それは、私の底に存在する、しかしそのまま公開したってしょうがない動機を、そこに存在させたまま、読者からは直接見通せないようにするための、フィルターです。もってまわった言い回しのすべては、フィルターの強度を高め、かつそれがフィルターであることを際立たせるために、そこに置かれていました。


フィルター、という言葉を出したので、その話を少し、します。
私はよく、自虐風味のネタとして自分の文章は長ったらしい、回りくどい、と言いますが、このブログ上においてそれを矯正しようとはしていません。それは、私が届けたいと思っていることは、その長ったらしさ、くどさにつきあって意味を汲み取ってやろう、と思ってくれる人にだけ届けばいい、と思っているからです。
自意識過剰きわまりないですが、つまり私は、さらりと数行にまとめて出してそれをさらりと読んだだけで汲み取れていいほど、自分の感情、自分の原動力が安いものだとは、思っていないのです。

しかしながら、常時やりたいことの8割方9割方を文章として発揮できるならば、全部読めばわかる、と言ってそれを出すだけで済みますが、実際には諸々、そうはいかないのです。そうはいかなければいかないほど、出力するものに強くフィルターを掛けたくなる、ということになります。私だけが知っている補助線を引き、私の手元にだけある辞書で言葉を翻訳しない限り、その向こうにある私の感情を見通せないようにしておいて、読者にはそれをやってくれ、と要求する。
「悪意」とは、身も蓋もない、殺意、にフィルターがかけられて、濁った冗談に変換された姿のことであり、そうしてフィルターを重ねて視界を歪ませていこうとする私の心理、書き方の方向性そのもののことでもあります。

一方、自分の感情が安すぎるが故にそのままでは見せられない、ということもあります。書いている理由が実にくだらない、取るに足らないので、そのまま見せたってしょうがない、あるいはそのまま見せるのは恥ずかしい。
たとえばさっきの話、要するにこの人の好き嫌いと好みが合わないんです、とか? あるいは、熱心に読んでいる書き手が近頃よく更新するのでそれ自体は嬉しいんだけど、自分と関係ない話ばかりなのが淋しいからたまには俺が関心あることも書いてほしいな♪ とか? 
あるいは……、まあ、要するに取るに足らないことなので、出そうと思えばいくらでも増やせますが、別にいいでしょう。

書いてどうする、そんなこと(笑)。
カズマ氏や、あるいはみゃーも氏であれば、そういうこともさらりとそのまま書いて芸にできるかもしれませんが、私は、なりたくてもそうはなれません。芸風が違う。
かくして私は、フィルターを掛ける。
それは、今書いているこの記事にもまた、いくつもかかっているものでもあります。





③zeit氏のリアクション記事を読んで

話の流れ上、すでに言及しているところもありますが、ここから、zeit氏の二つ目の記事に対してのコメントです。

前置き。すでに述べた通り、結局私はzeit氏の最初の記事をそれなりに面白く読んだ、というのは本当で、一方読み始めた時全然ピンと来なかった、この人は何を言っているのだろう、何をいいたいのだろう、と思いながら読んでいた、というのも本当です。
細かいところで言えば、「ドリフェス」という最初の言葉でもう、つまづいていたわけです。「ドリフェス」ってなんだ? というかまず、「モバマスのチーム対抗戦」と言われてイメージできるものが、私の中にないわけです。で、まあそれは、四段落目にその具体的な説明があって、一応そういうものか、と思ったのですが。ただ、瑣細なことなのに、その後もこの「ドリフェス」という言葉が頭に残って離れない。一体なんだ、この言葉は。ここで当たり前に使われているこの名称は一体どういう意味、いわれ因縁でこういう文字の並びになっているのか? 
そういうわけで、この言葉は私の文章の最初のネタになっています。
あるいはたとえば、「ライバルユニットを」「削る」という言葉もそうですね。それは、日常モバマスやっている人が削る削ると言っているのはしょっちゅう耳にするので、何をやっているのかというイメージはありますが、しかし自分の感覚としては体験したことのない言葉なわけで。
そういうことで、文章の大意が掴めるかどうかとは別次元のこととして、どうしてこの言葉はこの言葉になっているのだろう、どういう感覚でこの言葉は使われているんだろう、という、細かいところで気になってしょうがないことがたくさんあった、と。


また話がふくらみ気味になりましたが、それで、zeit氏の二つ目の記事の、前段について。
多分、私がいちばんピンと来なかったところ、何が言われているんだかわかっていなかったところって、カードの入手にまつわる動きなんだな、ということが、二つ目の記事を読んで初めて、わかった気がしました。
つまり私は、チームを組んで戦ってそこで誰がどういう行動をして、という話と、誰々が何々のカードを欲しがっていてそれぞれ何を手に入れたり手に入れなかったりして、という話にどう関連性があるのか、全然わかっていなかったんですね。
なにしろですね、最後の段落にありました、「柳瀬ちゃん2枚取りに失敗した私は結果的に128位で仁奈ちゃん2枚取りができてしまった。」という一文など、これまでの「ドリフェス」の話と何がどう繋がっているのかさっぱりわからない、従ってその一文を置くことでzeit氏が何を言いたかったのかなんて、そもそも皆目見当がついていなかったわけです。
それが、zeit氏の二つ目の記事を読んだらかなり状況が整理されていまして、これまで他とのつながりがわからなかった部分が多少想像つくようになった、と。

まあしかし、本気で理解したいと思ったなら、ですね。この言葉はイメージがわかない、その下りもなんだかわからない、なんて言っていないで、モバマスについてすでに知っていることをよく思い出して推測すれば。知らないことをきちんと調べれば。あるいは、単純にじっくり文章内で提示されている情報を整理すれば、何が起こっているか状況がわからない、なんてことはない筈ですよね。
最後の下りは、上で「仁奈ちゃん欲しいというPaPではなく、どーせ安くなるけどまあ、柳瀬ちゃん取れればいいな」とあったのだから、つまり「柳瀬ちゃん」より「仁奈ちゃん」は価値があって、結果的にzeit氏は狙い以上の成果を獲得したのだろう、とか。何位になって上位報酬で、というのは、つまりチームでの戦いとは別個に、しかしそこでの活動と連動した、個人それぞれの順位というものがあって、それに応じてカードが貰えるんだろう、とか。

けれども、私はモバマスのゲームそのものには関心がないわけで、関心がない人間が、文章ひとつ楽しむためにそこまでのことをやる気になるものか、ということで、私はやらずに感想を述べたわけです。
先ほど言った通り、書き手としての私は、自分の書いたものは頑張って読んでくれるひとが読んでくれればいい、と思っているわけですが、自分に都合のいいことに、読者としてはその反対なんですよ。
現在貴方のやっていることに関心がない、関心を深める気もない人間は、それでも今後も貴方の文章の読者であることを認められるのでしょうか。私の突っかかりは、ひとつには、そういう質問でもありました。


最後。私がzeit氏の前のブログを知らないのはその通りで、私はそれで人生をだいぶ損したと思っていますが。
それはそれとして、私はzeitさんが熱くない人間だとは毛頭思っていないし、そう書いたつもりもありません。そう思っていたら、わざわざその相手に文章を送りつけたりなんかしないです。
しかしながら、そんなことすら伝える気のない文章を私が書いてしまったのは、私の非です。すみませんでした。

二つ目の記事を読ませていただいた全体の印象として。私はzeitさんについて、知らないことがたくさんあるのだろう、と思いましたが、同時に、zeitさんもまだまだ私という人間を知らないんだろうな、とも思いました。それは、私がこれまでどれくらいのことを表現してきたか、と思うに、当たり前のことではありまして。
なので、私が言えることとしては、そうですね、次の時は、もう少しガチでやります。 ということでしょうか。

返答をいただいて嬉しかったです。ありがとうございました。




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