独り舞台


この曲で100個動画を作ると、実績「百万来舞!」が解除され 、謎の超巨大ステージが出現するとかなんとか。


ヨルP 春香一人舞台 (12年03月29日再UP)











先駆者P(邪馬台国民名義) 春香 一万来舞 11年06月06日



この動画が投稿された11年の6月頃は、私のニコマス視聴歴の中でも、最低と言い切っていいくらい私の精神状態が悪化していった時期で(それはその月の末頃、底に達する)、思い返してもただただ真っ暗闇であるばかりで、当時見ていた新作動画の印象なんてまるで出て来ない。
この動画にしても、2のステージの何もかもに馴染めず、中途半端にヨルPの動画を思い起こさせる振り付けやカメラアングルが混ざっているのがまたひっかかり、で、当時の私の琴線には響かなかった。

で、いま見直して、いやいや、素晴らしい動画じゃないか、と、思ったわけである。こんなにまっすぐで強い推進力のある動画、なかなかあるものではない。そして一気に広がる間奏の解放感。

なんというか、当時の私は、あまりにも 、かつて得た感覚と同じもの、を新しい動画に対して求め過ぎていたのだろうな、といま思う。
それは、私自身にすらどうかできる事柄ではないので、別にそのこと自体は後悔していない。ただ、たとえばこの動画を、こうしてそれなりに楽しめるようになってみて。もし私が何も積み重なっていないまっさらな状態で、ここでこの春香さんと曲に出会うことができたらどうだったろう、と想像して、なにか惜しい気分がないではない。
けれども、この動画がどうして形づくられたか、また私自身がどうしてこの動画を楽しめる感受性を備え得たか、という成り立ちを考えれば、そういう巡り合わせはそもそもありえない。
だから、私はただ、今までもそうであったように、いま理解できないほとんどのものを気にせず投げ捨てながら、ほんの少しずつつ遷移していく私自身の性質に合わせて、幾度も出会いを拾いなおしていけばよいのである。私は現に生きてここにいるのだから、ひとつの作品を味わうのに3年かけようが5年かけようが構わない可能性を、未だに手にしているのだ。





uhhoP 春香 (11年10月04日 管理者削除12年2月10日)


uhhoPのこの動画も、当時私個人としてはあまり思い入れはなかったし、これに関しては今もあまり変わらない。
彼女の春香動画で、印象深いということで言えば、無タイトル・無記名・コメント禁止で投稿されていた一連の動画の中の春香ソロ動画(  11年07月26日)の方が鮮烈な視聴体験だったし、一本だけ選ぶ、ということなら3つ目の『春香』(春香 12年03月02日 まことに面倒な人である、検索・表記する上で。)を選ぶだろう。

そういうわけで、私にとってこの動画そのものは、一人のPの道程の中の1ピース、というそれ以上のものではない。
ただ、それまで私の中でこの曲が、突然歌詞と共に始まってラストも決然と断ち切られる、ヨルPと先駆者Pの動画の尺そのままのイメージだったのが、それらの動画を見ても自然に背後にイントロやアウトロの存在がイメージされるようになったのは、確かにこの動画の影響である。
多くの人にとっては、過去の春香が流れ込んで新しいuhhoPの『春香』の世界が広がったのだろうが、私にとっては、新しいuhhoPの春香が流れ込むことで過去のヨルPの春香がさらに広がったのである。





終わり詩P 春香 一生謳歌 12年04月13日



この動画については、投稿当時にそれなりに出力しているので、ここではいい、ということにしよう。
まあ、動画自体については何も書いていなかった気がするけれど、この記事の全体もそんなようなものなので。
ただ、たぶんこの動画についても、この頃よりいまの方が、素直にいい動画だな、と感じている気はする。

この動画で同曲春香ソロ(センター)4本目ということになるわけだが、実績解除までは実にあと96本である。先は長い。





ヨルP 春香 一人舞台 (10年03月02日 管理者削除12年2月10日)

    春香一人舞台 (12年03月29日再UP)






ヨルPについて、私が言いたいこと、言うべきだったことはいろいろある。

『moralist』について今度書くと言われたからずっと待っているのだが、あれは一体いつになったら来るのだろう、とか。

Pなんかよりもアイドルを見てなどと言われると、Pの視界を介在させることなく「アイドル」を見るということは物理的にあり得ないニコマス動画、というものを語りたいという衝動を持っている人間としては、思うところがないではない。けれども、おいそれと首を突っ込むには厄介な話であり、立場の違う人間がすり合わないのが目に見えている話だから、結局黙って通り過ぎるしかないんだよね、とか。


もちろん、本当に言いたいのは、そんなことではない。


10年3月2日に現れた『春香 一人舞台』という動画に、より正確には09年末から『春香 一人舞台』に至るヨルPの軌跡の中に、私は私だけの体験を持っている。それは、私が私であるために、いつかどこかで語らなければならない体験のひとつである。けれども私はそれを未だに言葉にできていないし、これからもできる見込みは立っていない。
人にはその時その場でしか形にできない事柄があり、そして私にとってそのいくつかは、私が書き始めたその時点で、すでに手遅れだったのであろう。いまも、そして今後も、それらは私の心に刺さり続ける。


上は、私自身にもやむを得ざる事柄の範疇だが、以下は、私の過去の意図的な選択に対する後悔である。


『春香 一人舞台』について、私は以前、ごく短い記事を一本書いている。それは、この動画がニコニコ動画上に再UPされた直後に上げたものであり、当然ながら、再UPというトピックを踏まえての行為であった。
しかし、何故私はあの時、再UPされた動画にリンクを貼るでもなく、その出来事に喜びを表明するどころかまともに言及すらせず、迂遠なことばかり書いて終わらせたのか。
その時ばかりではない。それから今まで、なぜ私はただ黙ってこの動画を見続ける以上のことをしなかったのか。

いやもちろん、弁明は明快にできる。大量削除の記憶覚めやらぬ時分、その対象となった物品の話題である。ましてや普通以上に揉め事を警戒しておかしくない曲が関わり、作者が関わっている事柄である。秘めるように腫れ物に触るように扱う方が、分別のある所作のように思えた。
そして、私の記事をわざわざ読みにくる読者層は、私が前提にしている事柄くらい当然把握していようし、よしんばこの動画についてなんらか広告や情報の伝達があった方が良いとして、私のブログはそのような目的には適さずそぐわず、それはもっと適任の人材によってなされるものだろう、と思っていた。

その結果が、この有り様である。

この動画がこのアドレスに投稿されてから1年と1ヶ月が過ぎたが、動画についたコメントは、未だ合計5つである。そして、ぶっちゃけてしまえばそのうち3つは私のコメントであり、しかもそのうち2つは今月に入ってからつけたものだ。
つまり、再UP直後に私が3つ目のコメントを書いたのち、再びコメントしようと思った今月まで、丸1年以上の間、誰一人のファンからも反応を寄せられることなく、ただただ踊り続けていたわけである、この ”一人舞台” の春香は。

こんなものが、「舞台」だと、「ライブ」だと、呼べるのか。

この動画が、時運利せず世の中からの関心を得なかった作品だ、というならば、仕方ないかもしれない。
遠い過去の遺物として既に忘れ去られつつある存在である、というならば、仕方ないかもしれない。
けれども、そうではないことを、私たちは知っている筈である。

過去の春香動画の懐古で話が咲くとなれば、その名の上がらぬことのない存在である。
特別のイベントで、特殊の方法でその面影が放映される、などということになれば、期待し、欣喜し、熱狂し、感涙する人の引きも切らない存在である。
『春香 一人舞台』という、タイトルは。

その、栄光と感動に彩られた思い出の反芻と共有のかたわらで、現実にここに存在する映像の方は、未だ秘め事として腫れ物として見て見ぬ振りするものとして存在し、ただその存在を元から知っている人だけがひっそりと一人で訪れて、ただ黙って見つめて去っていく場所として機能している。
それは、この映像を特別に愛好する者が各々DLした動画を確保して、それぞれ個人個人でこっそりと眺めているだけの状態と、実質的になんら違いがない。

そんなことなら、この春香がわざわざニコニコ動画の中に在る必要など、無いでないか。

私は、間違っていたのだ。
はじめに、分別ある迂遠な所作こそ適切である、と考えたこと。
その後今日に至るまで、ただ黙って見ていたこと。
私が何かせずとも誰か他の人がどうにかしてくれるだろう、と思っていたこと。
何もかもが、全部間違っていた。

あれはいつのことだったか、元の動画が削除される前、なにかの生放送で流れたことがあった。
その時流れたひとつのコメントが印象深くて、未だに憶えている。
曰く

「この動画の伝説性が、まだよくわからない」

と。

『春香 一人舞台』が ”現役の伝説” としてニコ動上に存在していた時点ですでに、そういう人が居て、もちろんそれ自体は、どんな作品、どんな事件に対しても必ずそう感じる人が出てくるであろう、自然な出来事である。

私はその時たしか、「伝説かどうかなんて、どうでもいいんじゃないかな」と書き込んだ。

私は、かつて初めてヨルPの手になる動画を見た時、そのどこが魅力なのか、なぜこれを熱狂的に褒め称える人がいるのか、さっぱりわからなかった人間である。
だから、たぶんこの動画とそれを囲む言説の盛り上がりを見た時あなたが感じたであろう、ピンと来なかったりついていけないように思った感覚が、わかる気がする。
けれども、あなたがこれからまたいろいろな動画を見ていくことで、おそらくあなたの美的感覚もまた変遷してゆき、そうしていつかこの動画に戻ってきた時、そこにはちがう景色が見えるかもしれない。
私は、できればいつの日にかそのようにして、この動画が "伝説" や "聖地" というタイトルだけの存在ではなく、あなた自身にとっても血肉を持った体験になってくれればいいと、この動画のファンとして思っている……。

と、いうようなことをそのコメントを見て考えて、もちろんそれを逐一生放送中に書き込めるわけもなく、そこでただ、そうコメントしたわけである。
伝説かどうかなんて、どうでもいいんじゃないかな。現に動画はここにあって、いつでもいくらでも、そこに自分の体験を積み重ねられる可能性があるのだから。

それから数ヶ月も経たないうちに、大量削除の日がやってきたわけであるが。
たとえば、あの時あのコメントをした人にとっては、どうだったのであろうか。結局ずっとこの動画は、"まだよくわからない伝説" のままだったのだろうか。
そうしてこの動画の周りには、これからも ”あの伝説を体験した人” の思い出語り、という "伝説"の尾ひれと、さらにそれを取り囲む "よくわからない" 感情ばかりが増えていくのだろうか?

私は、間違っていた。
あの動画が人目を引いて、その結果荒れたり攻撃されたり、結局は削除されたりして、そしてそこに私が責任を感ずべき要素があったとして、だからなんだと言うのだ。
あってもなくても何も変わらなかった今までより、よっぽど多くのものを積み上げられたではないか。

"俺達"は、あの時あの場あの動画を体験しているから、それでいい?
”俺達”は、あの熱狂を、あの素晴らしさを反芻し、確認できるから、それでいい?
"俺達"は、知っているから、忘れないから、それでいい?
"俺達"は、あれを背負っているから、引き継いでいるから、それでいい?


そんなことだから、ダメなんだよ。


わかっているさ、忘れていないさ、あんたもわかっているだろう、忘れていないだろう、ああわかります覚えてます、もちろんそうですよね。そうして世間には一人合点とうなずき合いがあふれて行き、身から離しようのない血肉の体験と思えていたものが、点検も錬磨も他との衝突もなくなって、いつの間にかその底にあったはずのいちばん言葉にならない核心がぼろぼろに摩耗して、詩句と想い出と想い入れは上で空転してふわふわ飛びはねるだけになる。やがてすべては語るまでもないこと、語らなくてもよいこと、語っても仕方ないこと、語らなくてもわかってくれるべきこととなって、現在未来は過去から断絶する。


なぜ、やあ素晴らしいことが起こっているじゃないか、と声を上げない。
なぜ、あの素敵な動画が帰ってきたぞ、と叫ばない。
なぜ、これこそがあの伝説あの聖地、これを見ずして何の生か、と煽らない。
なぜ、嬉しいと、哀しいと、怒っていると、喜んでいると、たったひとことでも言うべきそれを、言わない。


そんなんじゃ、駄目なんだよ。私も、私たちも。





と、いうようなことを、私の落書き帳と化しつつある『春香一人舞台』のコメント欄を眺めているうちに、書いていましたとさ。
4月は季節としては好きなので、この月が春香さんの誕生月であること自体は嬉しいのですが、生活と趣味の折り合いという点ではままならないことの多いタイミングで、どうも私がいらいらしていてよくありません。



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