全力の博愛、なるものについて


サイリョウP 私達のゼンリョク  (12年01月14日~12年02月05日完結)



上記作品の全面的なネタバレを含みます。ネタバレを知らなければ、大いに視聴時の楽しみが増すタイプの作品です。ご注意を。




既に指摘している人がいるように、この作品の一番興味深い特徴は、秋月涼というキャラクターが持っている他人への優しさ、に対する解釈にある、と言えるでしょう。
すなわち、作品中で語られるところによれば、涼が他人に対して優しくする理由の中に、他者に対する下心や打算、あるいは恋心、友情といったものは一切含まれず、それはただただ、万人に対して常に全力で優しくあろうとする博愛精神によるものだ、ということになります。

それによって、何が生じるか。彼のそんな優しさに触れた異性は、誰もが涼に恋せずにはいられなくなりますが、涼の中に優しくする対象への欲望や恋慕が含まれていない以上、彼女たちの恋が成就することはありません。そして彼女たちは、涼がまさにそんな精神の持ち主であるからこそ好きであるのだし、涼がそのような全ての他者への博愛的な接し方をやめることはない(できない)以上、未来永劫、彼女たちと涼との一方通行の関係が維持されることになります。
そんな関係は、そしてそのような関係を生み出し続けてしまう、"あらゆる他者に惜しみなく注がれる博愛" というものは、とても歪なものなのではないか(もっと突っ込めば、そのような精神で他者に接すること自体、他者に対する認識・態度として問題を孕んでいる行為なのではないか)、というのが本作の問いかけです。


さて、本作は、その描かれた結末について、動画についたコメントの中でいろいろ賛否があった作品です。そのように読者の受け取り方がバラけた理由は、端的には、絵理の行為、思考に共感できるか否か、という部分にあると思います。
そしてその絵理の思考の、理屈の面での支柱は、まさに涼の優しさは博愛精神により、そしてその博愛は歪な人間関係をもたらす、という上記した解釈にあります。けれども、この理屈は、二つの面で、読者にとっては必ずしも腑に落ちない可能性があります。

第一に、作品内で実際に描かれた人間模様について。具体的に涼に恋し、しかしそれが成就しない状況に陥った愛や夢子は、どうなったでしょうか。
コメントからも、また作者の解説でも認められているように、彼女たちはそれによって人間的に大きく成長し、より魅力的な女性になって、そうした状況の中で前向きに生きていると描写されています。従って、読者の目線からすると、たとえ彼女たちがこのまま報われない恋を生き続けるとしても、それが彼女たちにとって歪だったり不幸だったりするとは、あまり感じられないのです。

第二に、これもすでに指摘されているように、全員に分け隔てなく愛を注ぐ存在と、その存在に対して一方的な恋慕をよせる多数の人間たち、というここで描かれている構図は、アイドルとファンとの関係の普遍的な在り方、と読み替えることができます。
それ故にこそ、その関係は歪なのではないか、という提示は、アイマス動画の表現内容として興味深いわけですが、同時にそれ故にこそ、そうした見方は視聴者の腑に落ちにくいのではないか、ということも言えるでしょう。
わざわざアイマス動画を好き好んでみる人間は、多かれ少なかれアイドルという存在に対して好意を抱いているものであって、心の根本的な部分では、そうした関係性に対して意味を見出だし、肯定しているのではないかと考えられるからです。
これは、私という一読者の場合においても言えます。え、別に、振り向いてもらえない相手に延々と恋している人生があったっていいんじゃね? というか、それって相手がそんな異常で特別な存在じゃなくても、他人を好きになればいつでも誰にでも当たり前に起こり得ることなんじゃないの? という気分は、少なくとも私の場合には濃厚にあります。そうでなかったら、こんなブログは存続していません(笑)。


そういうわけで、私には、この結末に納得がいかないという人の感情もわかる気がしますが、それとは別に、この作品からは、様々な興味深い議論の手がかりを読み取ることが可能でしょう。
たとえば、先述の読み替えを少し展開すると、この作品における涼の精神構造と、それがもたらす関係についての問いかけは、(本作の場合には、それがもっとも身近で親しい人間に対して発揮されているからこそ、という特殊事情はあるにしろ)アイドルをするという行為、アイドルであろうとする人間の精神の在り方に対する問いかけと読み替えることもできるでしょう。
この問題についての、ごく私的な回答というか、精神的な整理をいくらかやっておきます。

たとえば春香というキャラクターは、媒体、作品を問わず、しばしば ”みんなに" "みんなで" とか  "ファン全員に" "会場にいる全員に" 対して、 ”届けたい” "楽しんでほしい" みたいなことを言う人間として描かれます。あれは、春香という人間が、個人的な好悪を超越した分け隔てない無窮の愛を備えた存在だからなのか、アイドルをそういう存在であるべきだと思っているからなのか。
私は、そうではないと思っています。家族のことが好きだから、家族と一緒にいるのは楽しい。親しい友達だから、困っている時には何かしてあげたい。その延長として、たまたまライブに来てくれた人とだって一緒に何かするのは楽しいし、会ったばかりのよく知らない人にだって、困っていたら何かしてあげたい。そうやって、身近な ”好き” "楽しい" "何かしてあげたい" を少しずつ広げていった先に、”みんな” に "届けたい" という感情が生じる。
あらかじめ、個人的な欲望や打算や好意や恋慕を超越した、 "理想的な偶像としての精神/在り方” が存在して彼女を規定しているのではなく、逆に一番卑近なところにある好意や欲望を延長していった先に、彼女のアイドルとしての動機が形成されてくる。それが、春香というアイドルについての、私の基本的な考え方です。
うん? それが結論で、結論がここで出ているのなら、もう春香コミュ論の続きとか書く必要なくね?(笑)

しかし一方、当人の思考がどうあれ、その人間がアイドルとしてなす行為は本当のところ、他人にとって善きものをもたらすのか。実のところその行為は、他人にとっては害悪にしかなっていないのではないか、という問いかけは、残り続けるでしょう。
私はそれに対する反論を持っていませんし、反論しようとも思っていません。その通りだと思っているからです。ただ、それを認識してなお、自分がやりたいからそれをやる、という人間だけが、結局はアイドルで在り続けるだろう、と思っているだけです。


作品に話を戻すと、涼=博愛精神、という図式自体に対する疑問もまた、立てることができるでしょう。
特に、本作で描かれたキャラクターを、公式のシナリオで描かれたキャラクターに対する解釈と捉えた場合には、果たしてゲームの中の涼の言動の根底にある精神は、本作で語られたようなものなのか、違う解釈の方が整合性があるのではないか、という疑問をはさむことができます。
この点も、ひっかかる人にとってはひっかるものだと思いますが、もちろんDSをプレイしていない私にはその当否はわかりません。

それとは別に、本作のシナリオそのものをどう読むか、という点においても、この図式に対していろんな疑念をはさむことができ、それは本作のシナリオの構造をよく示す、面白い事柄だと私は感じます。

「あとがき」の作者解説でも語られているように、本作において、涼自身の心理描写は、意図的に極力省かれています。
それゆえ、作中で提示されている涼の精神構造・心理も、基本的には絵理の認識によって語られ、絵理の言動によって引き出されているものです。
従ってそこには、涼の心理の中の、絵理が理解・認識していない部分、涼が絵理に対して偽ったり隠したりして絵理がそれを看破できていない部分は、描かれ得ない、という事態が生じます。
本作が、キャラクターたちが互いに真意を隠し、読み違いあっているが故のどんでん返しが幾度も起こる展開を辿っていること、実際に以前から涼は絵理に対して感情を偽り、絵理はそれを看破できていなかった、という ”前科” は、結末部においても同様のことが起こっていない保証はない、という疑いの余地を大きくします。
そして、ラストシーンにおいて、”この結末で得をしたのは誰か” という意の地の文と、それに伴って表示される涼の表情によって、それまでの読者の読みをひっくり返すことができる、ということは、まさに、ここまで描かれてきたものが ”絵理視点からの涼” でしかなく、物語が、涼視点から捉え直した時、大きく様相を変え得るものであることを、証明しています。

そこで、シナリオは絵理視点中心ゆえに涼の精神・心理が完全には描かれていない、と想定した上での、私が個人的にこうだったら面白いな、と思う解釈を、ひとつ述べておきます。

「あとがき」で作者は、涼は絵理の主張に対して、夢子や愛への接し方は友情ゆえだ、と反論することができた筈なのに、反論しなかった、それは結末を思い通りの方向に誘導するための意図的なものだった、と解説しています。
これを延長すると、涼の夢子や愛への優しさの理由の中に、たとえ異性としての下心や好意が含まれていたとしても、涼は、秋月涼は他者全てに対して博愛を注ぐ存在である、という絵理の認識を維持することで、絵理との関係を思い通りの方向に誘導するためにそれを隠し、”愛や夢子に対して、異性としての興味を一切持たない涼” を演出していたのではないか、と考えることもできるのではないでしょうか。
あるいは、ラストシーンと作者解説で提示されたような複雑な思惑がなくとも、単純に意中の人物の前でのアピール・見栄として、周りの女性に色目を使ったり下心を抱いたりなんかしていないよ、と弁解している、と想像することもできるでしょう。

まあ個人的には、絵理という特異点を除いて博愛以外の一切が欠落した異常な人格がここに顕現している、と信じるよりも、その方が人間の心理としては腑に落ちるなあ、とは思っています。もちろん、そう解釈したからと言って、物語中で描かれた構図が提示している問いの重要性が失われるわけではありませんが。


いずれにしろ、動画についたコメントを見ていると、必ずしも見た全員が結末の展開に納得しているわけではないにも関わらず、「あとがき」へ寄せられたコメントにおいて、やはりこのストーリーはあの展開、あの結末であったからこそ、という感想が異口同音に述べられているあたり、実に見た者に対して興味深い心の動き、思索を巻き起こす作品であると思います。


関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Vinegar56%

Author:Vinegar56%

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
全記事一覧

全ての記事を表示する

検索フォーム
リンク
FC2カウンター
FC2カウンター
現在の閲覧者数: