弱さの獲得、あるいは記録と記憶について


今期も20選が無事開催されるとのことで、そろそろこの半年の来し方をまとめて振り返らなければならない阿鼻叫喚の季節、界隈の方々もさぞかし悩まれていることと思います……


というような出だしで始まる何らかの記事を、日曜の夜にあげれば楽しいだろうな、と思っていたわけですが、何一つ形になりませんでした、という愚痴、自分語り。



4月に『アイマスクエスト』について記事を書いて、数日前に『ぷよm@s』について書きました。
どちらも、このブログが取り上げる話題としては、少々珍しいものです。
なんでそういう記事を書いたのかな、というか、私は自分の執筆状況を知っているわけなので、なんでその二つは記事として一応出せるところまで行ったのかな、と考えて。
それはつまり、私が弱くなった、ということなんだろうな、と思う訳です。

"マスクエで書いたらあの人が喜んでくれるだろうな"、とか、”ぷよm@sで書いたらここで話題にしてくれるだろうな”、とか。そういうのがすごくはっきり見えていますよね、この二つは。
そういう魅力に、弱くなった。

あるいは、楽である、という言い方もできます。
それをものすごく楽しんでいて、隅々までよく知っていて、とてもとても語りたがっている、そういう界隈を宛先と想定して書くことができる。
この世界がどう素晴らしく面白いのか、などということを一から自分で説き起こそう、と思う必要がない。あ、私はここんとこ興味があるんで、ここんとこだけ話して帰ります、でいい。

もちろん、何について書くにおいても、見た、感じた、何かを言葉にしたい、そういう衝動が最初にあることに変わりはありません。
しかしそれだけではなく、たとえば、この話を私以外の誰が書けようというのか、この話を私が語らずしてなんとする、という気負い、力み。
あるいは、この野郎お前がそう来るなら俺はこうしてやる、というような競争心、自負。
それらは自分が書くことに直結する原動力であり、そして自分はそれらを動力にすべきである、と自認して私はブログをやってきました。
書く事によって褒められたい、感心されたい、あるいは何かを共有したい、誰かに喜んでもらいたい、そういう欲求も、無論それに密接に結びついてあるわけだけれど、それは、書くことによって心中の気負いや自負が満たされた、その後にあればいい。

そういう力みや競争心という動力が、私の中からなくなったかと言えば、そんなことはありません。
けれども、それだけで書くという行為を完結させることが、難しくなりました。
たぶん私はいま、他人となにかを共有すること、繋がりを作ることを、欲しているのでしょう。より直接的で、より目に見える形でのそれを。12年の私の所業のいろんな部分は、多分そのことと結びついています。
それを「弱さ」と表現してしまうと、では何か、それ以前の私は強大だったり強靭だったりしたのか、ということになるので、あまり適当な表現だとも思わないのですが、とりあえずはそれを、弱さの獲得、と自分で名付けてみたわけです。


以下の文章には、直接的に書くきっかけになった文章、というか、「記録」と「記憶」というキーワードを拾ってきた元の文章がありますが、私の話は直接元の文章の本筋に関わることがないので、触れていません。

人が何かを主張する時、それがその人の立場上必然的に定まってくる部分は、必ずやあるわけです。自己の立ち位置、行動、利益を正当化しようとすれば、こういう方向性にならざるを得ない、という部分。
しかし同時に、それが全てではないことも確かなわけで、全ての主張には人間のなんらかの志、信念、理想が必ずや反映されているだろう、とも言える。
どちらも真実であって、どちらの要素を読み解くことも、必要でしょう。

記録と記憶は、どちらが大事なのか、という話。
あるいは、形あるものと形ないものは、どちらが大事なのかという話、とも言えるかもしれません。

形あるものが必要なのは、結局心の中に形ないものを呼び起こすためなのだから、究極的に大事なのは形ないものに決まっているじゃないか。という次元においては、議論の余地がなさそうにも見えますが、今問題にしているのは、とりあえずそういうことではなく、その究極的に大事なものを呼び起こすための手がかり、よるべとして、という話です。

私としてはもちろん、記録の方が大事だ、と言うことになります。
記録は、それを残そうとする意志が働き続ける限りにおいて、存続可能です。
そして、他者に伝えようという意識を持って記される限りにおいて、他者に伝わる可能性を持ちます。
それはどちらも、記憶にはない性質です。記憶は意志と無関係に変質するものですし、記憶を記憶のまま他者に受け渡すことはできません。

記録の方が大事です。

だって、記憶って後に残らないじゃないですか。

残らないんですよ。
そう感じない人は、きっとこれまで、形ないものを保持しようとする経験を、本気でしたことがないのでしょう。

もちろん、ディテールが消え、因果関係が消え、その他もろもろが消えても、なお強く脳裏に固着するものは、存在します。一度見ただけで忘れられない何か、いつまで経っても忘れられない何か、そういうものは存在するでしょう。
しかしそういう固着的に存在する何かは、記憶、あるいは愛とか信念とかいうような価値のありそうな言葉ではなく、執念とか妄念とか表現すべきものだと私は思っていて。
私も、そういう執念妄念を得てしまった以上は、自分のうちにあるそれを大切にする他ないわけですが、しかしそれを、素晴らしかったり美しかったりする行為だとは、思っていません。

一方で、記録なんて、簡単に消える、あっという間に消える、いつかは必ず消える。
記録こそ脆くてあてにならないものだ、というのも、それはまったくその通りです。

記憶があてにならないから記録する。
記録があてにならないから記憶する。

形あるものを信じたいけれどそれは消えてしまうから、形ないものを信じるしかない。
形ないものを信じたいけれどそれは消えてしまうから、形あるものを信じるしかない。

答えのない堂々めくりの中で、記録を積み上げては消して、私たちは生きています。


そこにあったものが消えて、そこに何があったか忘れて、ひょっとするとあったことすら忘れて、それでも残る何物かがあるのではないか。

そういう話を私が最初にしたのは、たぶん、グレゴールさんとでした。
最近ではgouzouさんとそういう話をしたというか、対話はしていなかったような気もするけれど、私もそういうことを考え、gouzouさんもそういうことを考えていた。
それぞれ、その時なりの私の回答はあり、それは今も私の中にあるけれど、それはその時、グレゴールさんでありgouzouさんという相手に宛てたからこそ形になったものであって、ここに同じように記すことはできません。

ただ、 そういう何物かは存在するんですか? と誰かから聞かれたならば、私は今でも、いつでも、存在します、と断言するでしょう。
それは、私が強かったり楽観的だったりするからではなく、私が、きっと私が知覚して記憶しているよりも、だいぶ多いいろんな人やものに、支えられて生きているからです。

たぶんね、けっこう誰にでも、自分は独りだと感じる瞬間がやってくるんですよ。
自分だけは「いっしょ」ではない、と感じる瞬間がね。
あるいは、過去に意味がないと感じる瞬間が。
でも案外、その瞬間にも、人はいろんな他者に支えられているし、自分の過去に支えられています……

……うん、言い足りない気がして結局、記しませんと言った内容を再展開しようとしたんだけれど、今日の私には満足のいく形にできそうもありませんね。

そんなこんなで、まあまあ元気に楽しく生きている今日この頃です。
ひどい結びだ。

関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Vinegar56%

Author:Vinegar56%

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
全記事一覧

全ての記事を表示する

検索フォーム
リンク
FC2カウンター
FC2カウンター
現在の閲覧者数: