忙しい人のためのカイザーP試案


カイザーPは実にいろいろなものを書いている人ですが、まあ、世の中、クトゥルフならなんでも見ます、とか、はるゆきエロエロイチャイチャ、どんと来いだぜ、という人ばかりではないだろうということで、私ならこうピックアップするかな、という試案。基本的に短編のみで、近作は入れていません。




<はじめに>


【川上弘美】 パンダにさそわれて散歩に出る。 【神様】 (09年12月12日 6分00秒)

原作川上弘美。私の知る限り、川上弘美作品とのコラボはニコマスでこれが唯一。川上弘美という作家はどんな人かというと、入り口の説明としては、つまりこの動画みたいな世界を描く人である、ということになります。

描かれているのは現代日本のごく普通の生活の筈なのに、アイドル事務所にパンダが居てパンダと一緒に散歩に行ったり、レッスンに失敗した主人公が唐突に穴を掘って埋まったりする。そういう、驚かれたり突っ込まれたり説明されたりしてしかるべきことが、何も説明されずにごく当たり前のこととして流れていく、日常と非日常が渾然一体となったふわふわした世界。

お分かりの通り、ここで出てくる「パンダ」にしろ「穴を掘って埋まる」にしろ、アイマス世界のギミックで、原作では別の事象が、シナリオ上の相当する場所に充てられていたわけです。こんな風に、アイマス・ニコマスのギミックで原作の物語世界を構成するギミックをひとつひとつ置き換えていくのは、カイザーPの原作翻案型の作品すべてに見られる手法です。その結果生まれる唐突さ、カオス感を、意に介さず強引に流していく感覚が、このPの一つの持ち味だと思いますが、この作品の場合にはその手法が、日常と非日常とが、とても自然で親和的なものとして一体化する、という原作の持ち味とよく溶け合って、きわめて自然な翻案となっていると感じます。

もちろん、それには、メッセージウィンドウの形式に合わせた文章の配分構成、「踊る立ち絵」のポーズの選択、音楽の趣味といった、作者のノベマスPとしての技量が大きく働いています。中でも最大のポイントはやはり、この物語に対してパンダ春香を配する、というチョイスにあると言えるでしょう。
パンダ春香のユーモラスな絵面、お前は一体何なんだという唐突感、しかしニコマス的にはまあ、パンダだったらどこに居て何をしでかしてもおかしくないよね、という納得感。そういうパンダ春香の存在感あってのこの動画化で、結果として、おそらくはなかなか難しい、この作品を映像化するならばどうしたらいいのか、という事柄への、ニコマス動画ならではの回答になっていると思います。

さて、川上弘美作品で散歩にさそわれて行き着く所は、この動画の中に表わされているとして、ではカイザーP作品というパンダに散歩にさそわれたら、私たちは一体どこに行くことになるのでしょう? というのが以下の話に、……なるのかなあ?


<ホラー>


【アイマス】萩原邸の怪【クトゥルフ】 (09年06月21日 9分22秒)

カイザーPの動画を、シナリオの出典によって大きく分けると、

⑴原作のある動画
⑵カイザーPが書いていたオリジナルのSSの、アイマスキャラクターを用いたリライト
⑶アイマスキャラクター向けに書き下ろしたもの
⑷紹介動画・教養講座の類い

の4系統になると思いますが、これは⑶。デビュー以来、ダンセイニ作品とのコラボを手がけてきたカイザーPの、最初期のクトゥルフものになります。
初期の作品のため、ネタの盛り込み具合にしろ、死や狂気の映像的な描写にしろ、良くも悪くもあっさりしていているので、オーソドックスなホラー短編として、作者が愛読する書物群から培ってきた文章表現の雰囲気を、シンプルに楽しむ作品として、見ることができます。


【ホラM@S祭】私はアウトサイダー【クトゥルフっぽいアイマス】 (09年07月30日 3分00秒)

原作ラヴクラフト。これはそもそも、原作からして完成度が高い短編だということもあります。が、画面の雰囲気作りやオチの画像のチョイスなどとても的確であり、展開がある程度想像できても引き込まれ、最後に過激ではないが新鮮な驚きを得られる、という、秀逸なホラーになっていると思います。ショッキングなギミックを何一つ入れずとも、人心を引き込み揺り動かすホラーは作れるんだ、という好例ですね。


【アイマス×ダンセイニ】 春香ちゃんの犠牲者 (10年07月26日 4分47秒)

原作ダンセイニ卿。これは「im@sミステリー祭り・推理部門」参加作品ということで、謎解き要素もあり、オチもごくごく普通の日常に回帰して後味良く終わるという、クトゥルフものの時にはあまりない味わいが面白い動画です。


<カオス>


クリスマスを覆う影 【クトゥルフっぽいアイマス】 (10年09月09日 6分9秒)

最初に、唐突感、それが強引に流されていく感覚、ということを言いましたが、カイザーP作品のそういう部分が面白みとして発揮されるきっかけとして、「踊る立ち絵」という素材の存在は大きかったように思います。

ステージ由来のアイマス素材は、静止画として用いるにしろ、モーションをそのまま持ってくるにしろ、その表情やポージング自体が持っている主張が、極めて強いものです。ために、「立ち絵」というシンプルなポーズの静止画で構成されたノベマスの世界に出現すると、その場の流れを瞬間的に断ち切ってメッセージを発するところがあります。
プロディPにしろ、やっつけP、フツーP、天才カゴシマPにしろ、「踊る立ち絵」遣いの中には、癖の強いキャラクターづけやネタを多用する、それもどシリアスなストーリーの中に平然とそれらをぶち込んでくるような作風の作者が少なくないのは、私は偶然ではないと思っているのですが、カイザーPにもそれは当てはまります。

で、荒唐無稽ということで言えば、はちゃめちゃなストーリー展開や絵面がわけわかんない動画は、カイザーPに限らずいろいろありますが。一定の世界観が構築されているのが感じられる、しかし突拍子もないカオスなパワーにみちている、ということで、私がとても好きな短編がこちら。文章と音楽で世界を形作って横に推進していく力、と、お前はなんでそのタイミングでそんなコミカルなポーズを取っているんだ、という瞬間的な笑いによる、場の空気を断ち切る力、のせめぎ合い。

一方、「踊る立ち絵」の別の側面としてやはり、その美しさ、ということがあります。たかが立ち絵の一枚一枚が、まじまじと見つめてしまうほどに美しい、見つめれば見つめるほどに美しい、という、造型の表現力。
しかもそれは、上記の唐突感、場違い感と同時一体に存在する、というところが「踊る立ち絵」を用いる動画のミソなのだと思いますが、そういう「踊る立ち絵」ならではのパワーを私がひしひしと感じるのが、この動画に出てくる伊織からなのです。

この動画の伊織は、闖入者を始末する魔術師という役どころですが、これがパンキッシュゴシックの「踊る立ち絵」の伊織に、実によく似合うのです。
もちろん、 "このキャラクターは魔術師です" 、という設定自体は、誰にでも簡単に付すことができます。けれども、この動画の世界において、目の前の人間を腕の一振りで屠れる圧倒的な力を湛えた年若い魔術師、という存在に命をふきこみ説得力を与えるのは、パンゴシでステージに立ってこちらを見据えてくる伊織の微笑をおいて他にない、と感じるのです。私はこの伊織を、およそテキスト系動画の中で描かれてきた伊織の中で、一番美しい伊織の一人だと思っています。

とまあ、そんな風に息を呑んで見つめていると、次の瞬間にはまた、荘重で意味ありげな文章に載せて呆気にとられるバカバカしい絵面が展開する、という、なんとも形容しがたいカイザーPらしい楽しさにみちた短編です。


【クトゥM@s祭】クトゥルフの呼び出し (09年08月23日 3分53秒)

原作矢野健太郎。クトゥルフ神話の怪異たちを擬人化して彼らの日常を描いたら、というネタで、今はこの系統の発想は、魔道書Pの クトゥルフのリプレイ作ったよシリーズ (11年05月03日~11年07月16日完結)という決定版的存在がありますが、そういうネタもカイザーPがやっていた、ということで。


ゆきぽの黙示録 前編 (09年09月27日) 中編 (09年10月04日) 後編 (09年10月10日) 計38分46秒

何かにかぶれてその世界にどっぷりとはまり込んだ人間が、おかしな言動をとって周りの人間を振り回していく姿を、原典から引用したエピソードや文句を万遍なく散りばめて描く。そういうパターンの話はカイザーPの十八番ですが、一例を挙げるならどれがいいか。ニーチェかぶれの春香さんの はるかっか かく語りき ~胸は死んだ~(10年01月04日) が短くていいかな、と思っていましたが、これを見直したらやっぱりこれしかないね、となりました。
聖書に目覚めた雪歩が、奇跡の力でパンダの姿に変えた春香(雪歩本人は鷲だと主張)をお供に、聖ヨハネを探して旅するうち、どんどんとんでもないことになっていく。まあ、とにかくものすごくとんでもないことになるんだ、としか言いようがない。抱腹絶倒の超展開という点では、数あるカイザーP作品の中でも最高級に抱腹絶倒の代物です。


【アイマス】魔道士はるるん 前編【クトゥルフ】 (09年07月21日) 中編 (09年07月24日) 後編 (09年08月01日) 計29分11秒

原作C・A・スミス。「カイザーPのはるゆき」「カイザーPのクトゥルフ」を読者に知らしめた、初期の代表作。原作からしてはちゃめちゃな『タイタス・春香・サーガ』などとは違い、ストーリー自体はまとまっているだけに、ののワさんやらタカギジュンイチロウやら、ニコマス化改変のネタが新鮮でした。現代の地球への転生、というこの動画の決着は、以後のカイザーPのはるゆきの展開を考える上でも、なかなか興味深いものがあると思います。


<ギャグ>


黒春香VS千早 戦慄のロシアンほうじ茶 (09年09月21日 8分3秒)

はるゆき色がなく、コラボするネタも特にない動画の中で、コメディ系のノベマスが好きな人なら普通に馴染めるだろうな、というものを。はるゆき色がないと言っても、雪歩と春香自体はほとんどの動画に出てきますが。
各々意中の相手をものにするため、ライバルを蹴落とそうと狙っている登場人物たちが、互いにお茶に下剤を入れあって自滅していく、という、オーソドックスな発想のギャグ作品。
ひとり何も知らずにのほほんとしている雪歩が一服の清涼剤であり、そしてあれこれのカイザーP作品を見てくると、この動画の雪歩の、何もエキセントリックなところがない可愛さ和みっぷりが、なんだか貴重品だと思えてきます(笑)。


春香VS雪歩 麻雀でプロデューサー争奪みたいな (10年03月06日 9分20秒)

下心丸出しのアイドルたちが、己の欲望のために、あるいはいがみあいあるいは一致団結して、麻雀でバトルする。その中でひとり何も知らず参加している真美……、という構図は上のお茶バトルと同じですが、題材が麻雀だけに、ネタや展開にいろいろ趣向を凝らすことができて、密度の濃いコメディになっています。

無邪気な真美が愛しくなり、ついつい応援せずにはいられなくなるキャラクター配置。そして、そのように読者心理を方向づけることで、あらかじめ予測がついていても満足を得られる決着点を作り出し、そこに収束していく構成。きわめて手堅く巧妙に構築された喜劇であって、”普通のことを書くと普通にうまい” 、カイザーPという作者のベースの高さが窺える作品でもあると思います。そしてこの動画もまた、「踊る立ち絵」の威力が、コミカルさと可愛さの両面で炸裂しているものの一つです。

もう一点、この動画においては、下心丸出しの小悪党的存在である春香や雪歩が、けれども、あるいはだからこそ、生き生きとして楽しげな人間として描き出されていることが、動画全体の楽しさ、結末の後味のよさに繫がっています。それは、もっとも傾倒するアイドルである雪歩をこそ、もっとも多様な役回りで、時にもっともエキセントリックなキャラクターづけで描く、カイザーPの資質と深く結びついた現象でもあるでしょう。
あと、真美派だった頃の、というか、この頃のカイザーPは既に雪歩一直線ですが、真美派:カイザーPの最後の遺産、と言うべき動画でもありますね。


善良なアイドル雪歩 一 雪歩 春閣下の付き人になる (10年01月20日~)

原作ヤロスラフ・ハシェク『兵士シュヴェイクの冒険』。「ウソm@s」祭りの開催ごとに投稿。
それぞれに利己的で欲望に忠実な小人物たちが、口ではもっともらしいことを言いつつ目的へと突進し、かしましく相争う。ここまで挙げてきた動画にも如実に表れているように、カイザーPは、好んで人間のそういう姿を、楽しげに、生き生きと描き出します。
そういう志向とぴったり適合する原作、というよりむしろ順番が逆で、このような物語を愛読してきたからこそ、そのようなカイザーPのキャラクター世界が構築されたということなのでしょうが、とにかくそういう、好きな物語、好きな人間を描く楽しさが横溢しているシリーズだと思います。


<恋愛>


雪歩は社長に恋をする (10年11月03日 5分40秒)

少女マンガm@ster参加作品。社長に告白するため、春香のもとで特訓する雪歩。オチは「私の知ってる少女漫画と違う」「俺の知ってるカイザーPだった」とある通りですが、そのいつもの「俺の知ってるカイザーP」に帰着する前段、恋する少女のコミカルな描写がストーリーの中心で、バランスのいいラブコメになっている動画だと思います。結末もまあ、追っかけていたイケメンよりも、友達だと思っていた身近な人物の方を実は好きになっていた、というオーソドックスな展開、という気がしないでもありません(笑)。


【はるゆき】 勿忘草 【百合】 (09年12月24日 8分56秒)

この作品は、ただただ、純粋に恋だけを描こうとしたもの、それも恋の、形而上的な、ロマンチックな、美しい上澄みだけを描き出そうとしたもの。つまり、美しい少女が、丘上に佇む謎めいた人物に見惚れ、恋に落ち、言葉を交わし、愛を誓う。そのイメージの美しさ、ロマンチックさ、至高さをどれだけ読者の心中に喚起できるかが、この作品のすべてでしょう。(ここで「恋」とは、必ずしも人物に対する執着心だけを指していません。)

そういう意味では、では、それが雪歩と春香である必然性、必要性は何処にあるのか、という問いは、確かに考えてみる必要があります。

事実として、この動画は、オリジナルのSSをリライトしたものの一つであって、そしてその原作もまた、短編SSとして通読に値する完成度を持ったものだと思います。つまりこの作品の骨格は、登場人物がアイマスキャラクターかどうかに左右されずに存在できるものです。

しかしながら、両者を見比べて私が思うこと。
最終的に描きたいものが瞬間的な邂逅、対話の中に集約されるとしても、物語として他者に伝達する上では、その背景となる世界、人物のイメージを与えることが必要になります。その世界、人物がオリジナルであるならば、なおさらです。ゆえに、当然にこのSSにもそうした描写がありますが、けれどもそれは、描きたいイメージが遠いところにあればあるだけ、どこかに無理や粗を伴わざるを得ません。

直截的に言ってしまえば、レトルト食品やCDや日本語が出てくる世界で、鳶色の目の少女やら聖者やらキリスト教的キーワードにみちた日常やらが出てきたら、一体この物語世界はなんなのだろうという違和感が生じてしまうものです。かといって現代日本人が、前者を排除して日常のまったき彼方のキーワードで埋め尽くされた文章を書いたら、それはそれで普通は噓臭さがつきまとうものでしょう。
あるいは、少女と少女のいる情景の美しさ、交わす会話の深遠さと言ったものの伝達のためのの描写。実際にこの作品にも、はっと言葉が心をとらえて情景を幻視させるような瞬間があります。しかし同時に、甘美なキーワード、具体的なトピックで文章を飾れば飾るほど、それが作者の想像外の働きを読者の心に起こして、言葉が上滑りして見える瞬間が生じやすくなるものです。
そういう、文章と描きたい世界の間に生じる隙や粗を、技巧や知識によって、読者が疑問をもたず渡れるくらいに埋めることができるのが、プロの書く文章だと思いますが、時として驚くべき透過力、輝きを発揮する一方で、隙や粗もまた目に見えて存在するのが、そうではない多くの人が書く文章の、当たり前の在り方というものです。

そこで再度、文章だけの世界から、動画へと立ち戻ってみます。重要なことは、そこに選び抜いた表情の、ホーリーナイトドレスの雪歩とパンキッシュゴシックの春香を置いた瞬間、その存在の美しさを、その存在を、説明する言葉は不要になる、ということです。
そこには、周知のキャラクターの2次創作だから説明が省ける、とか、何の説明もなくアイドルなんてものが幅を利かせている界隈でこの世界は一体なんなんだと突っ込んでも、とか、パンゴシの春香さんがかっこつけた物言いで喋ってもニコマス的に違和感はないね、とかいった、文脈に由来するものも、含まれるでしょう。
けれども、たぶんそれだけではなく、そこで生じる "そこに言葉は不要" の中には、アイマスという素材の持つ力、それ自体を根源としている部分がある。そう、私は確信しています。
そして、そのようにして、言葉にせずとも、言葉にならずとも存在する何かをアイドルが担う結果、表現すべき部分に集中して紡がれることになった言葉もまた、よりその研ぎ澄まされた核が表出することになった。私はこの動画を見て、そう感じました。それこそが、私がこの作品は、やはり「はるゆき」の「動画」でなければならないのだ、と考える理由です。


※以下二つの動画については、内容の全面的なネタバレを含みます。


星を往く船 ~永遠のはるゆき~ (10年04月18日 7分25秒)

カイザーPが描く恋愛には、上記動画のように思索・信仰・幻想と結びつく形而上的なものもありますし、直接的に雪歩とイチャイチャしたいという欲望の発露であるものも、たくさんあります。
ですが、普通に青春していてこっぱずかしい少年少女の恋愛(※正確には少女少女の恋愛と言うべきでしょうが)を描いてもうまいんだよね、ということで、はじめは 友達以上からはるいお 序章(11年11月05日) を挙げる予定でしたが、最後の最後になって、やはりこちらを入れておかなければならないな、と思ったので。

デビュー1周年ということで、彼の「はるゆき」の集大成、理想型の全面投影的意味合いを持つ、この動画。
風景描写や比喩表現の面白みであったり、ストレートに青春している告白シーンであったり、全編にわたってカイザーPの個性が十二分に発揮されています。

ただ、やはり、この作品の核心は、恋人たちの前に降りてきた「星を往く船」が二人を宇宙へ連れ出し、彼女たちは空の彼方で老いることなく永遠に生きる……という結末に集約されている、と言えるでしょう。
自ら「永遠属性」を名乗る通り、カイザーPが描く「はるゆき」の結末は、しばしば非日常的で永続的な世界への二人の移行、として描かれます。それはポジティブに他世界への飛躍である場合もあり、ネガティブに怪異から死や狂気を与えられる場合もあり、その両者の融合である場合もある……というより、その両者は実質的に同義である、と言うべきでしょう。

スタンダードな物語(—何がスタンダードか、と言い出すといろいろ議論の余地はあるでしょうが)とは、「行きて帰りし物語」であって、旅を始めたなら旅の終わりが物語の終着になる、日常から非日常への移行は非日常から日常への回帰によって解決される、というのがもっとも一般的な物語の終わりの形だろうと思います。
動画中で言及される宮沢賢治『銀河鉄道の夜』にしても、カムパネルラは彼岸の世界に行ったまま帰ってきませんが、視点人物であるジョバンニは日常世界に帰還して、物語の終わりはあくまで此岸の側にあります。

ところが、カイザーPという作者は、この動画の雪歩に、「あれはすてきなお話だけれど、でも——望む未来じゃないから。」と語らせます。
カイザーPは、どのような世界、どのようなシナリオを描き始めても、つねに心は、超常的で、幻想的で、そして永続的な世界を希求し、そこに理想の少女を、理想の幸せを置こうとしているのです。
カイザーPにとってもっとも自然で訴求力を持つ物語は「行きて永遠となる物語」であって、心底からの望みのままに、流れのままに描いていけば、彼の物語は必ず同じ場所に行き着くのでしょう。

しかしながら、私はこの記事において、そのような結末に行き着く作品を、意図的になるべく排除してきました。そこには、この記事のコンセプト(あるいは名目)上の都合もあります。
が、真の理由は、カイザーPの紡ぐ物語のうち、私にとって、もっとも重要で、もっとも心動かされるべきものは、氏がその理想の、望みの、流れのままに心ゆくまで描いたところに生じるもの、
ではない、と考えていたからです。

無論、たとえばこの動画が、カイザーPならではの、カイザーPにしか表現し得ない境地を見せるものであることは論を俟たず、やっぱりこれがないのはちょっと有り得なかったな、と今思っているわけですが。
ただ、結局 ”あえて” 私がこの動画を挙げたのは、単にこれがカイザーPの理想の物語の、もっとも甘美な結実の一つだから、というだけではありません。カイザーPの物語においては、たとえばこの作品で表現されるような処へ行き着こうとする、強い強い遠心力、誘引力が、つねに働きかけているのだ、ということ。その遠心力、誘引力の強さを意識しなければ、読みこめない領域が存在する、と考えたからです。


<終わりに、あるいは、序章として>


最後の魔術 (11年03月26日 6分58秒)

この動画は、クラーク・アシュトン・スミスの創作した未来世界「ゾシーク」を題材にしています。私はこの作家をあまりよく知らないので、なんとなくこの動画を原作翻案ものだと思っていて、この記事を書いていて、あ、これオリジナルか、と気づいたのですが。
ともあれ、私にとってこの動画は、現在までのカイザーPの作品群の中での、基準点のような存在です。手っ取り早くどれか一つという時には、これでいいな、というか、これを見せて何も伝わらない場所であれば、それ以上の話をする必要はないな、というか。


たとえば、この動画の中にあるもの。はるか彼方の未来の奇怪な世界、そこで不可思議な病に冒され、白銀と化して死んでいく人々。超常的で、幻想的で、此岸から隔絶した世界。
そういうものを、アイマス動画として、アイドルの物語として、現出させるということ。それはカイザーPの動画が常に宿している可能性であり、それだけで特筆するに足るものであるが、かつこの動画は、さらにその先の展開の可能性を、いくつか示しているように思う。

第一に、この動画の人間関係もまた、春香の姿をとった老魔術師と、雪歩の姿をとった少女、という二人の間の愛情に集約されている。
けれどもこの二人は、たとえば『星を往く船』における二人のように、どちらも若く美しく、そのまま切り取って永遠に保存しておける雛形、にはなり得ない存在だ。一方は死すべき時が迫った人間であり、一方は未だ長い未来のあるべき若者なのだから。
この二人の間には、「別れ」といかに向き合うのか、という問いが設定されている。それは、永遠の幸福へと向かう遠心力、誘引力と相克し、拮抗する磁場である。そういう、意識的に向き合って解決を探さねばならない磁場が、作品の中に存在する、ということ。

第二に、この動画における、”アイマス世界” の設定のされ方である。作中で少女は、(現代日本を基盤とした、我々に身近なアイマス世界、と想定される)別世界を幻視する。
読者である私たちにとっては、少女の居る世界が超常的世界であるが、あちらの世界に暮らす少女にとって見れば、こちらの世界こそが、非日常的で幻想的な夢の世界である。こうして、この作品の場合には、異世界に暮らす人間の心情に焦点を定めることで、此岸の日常から彼岸の幻想へ、という一方通行ではない、世界と世界の関係の相対化がなされている。

上記二つの事柄が、この作品にもたらした結実。結末を要約してしまえば、魔術師は彼の世界にあって死を迎え、少女はこちらの世界へとやってきて生きることになる。

ここでこの結末は、少女からすれば超常的世界への飛翔である。が、日常世界に生きる私たち、『アイドルマスター』を知り「雪歩」を知る私たち、ましてやカイザーP作品の中に生きる雪歩をずっと目の当たりにしてきた私たちにしてみれば、彼女がアイドル事務所に通う風景は、”在るべき場所への帰還” と感じられて仕方ない姿である。
ストーリー上は一方通行の移動の物語でありながら、しかも読者の心象としては帰還の物語であるという二重性を、この物語は内包する。

また一方、異世界に在るまま死んでいった、彼女あるいは彼。
あるいは魔術師、あるいは聖者、あるいは詩人。なんらかの形で「道」を極めようとする者、真理を探究してやまない存在は、カイザーP作品にしばしば登場するモティーフである。別世界に在って所与の死を受容して去っていった彼女は、広く、真理を極めて彼岸へと到達していった探究者の中に列するべき一人、と考えて良いのではないか。
この作品においては、二人の幸福は一つの永遠の中にすべて集約されて存在するのではなく、強い愛情で結ばれていながら、二人は各々に異なる道、異なる可能性を追って生き、しかもその愛情は各々の道の中にあって、心の支えとなり続けるのである。この物語は別れの物語でありながら、同時にそれゆえにこそ、継承の、不変の、再会の、輪廻の物語と成り得ている。

そしてその結末を成り立たせているのが、アイドルという存在である。
彼の世界の魔術師と、此の世界で巡り会うアイドル候補生は、別人でありながら繫がった存在である。その、絵にすれば不可思議で、言葉にすれば野暮ったかろうことを、鮮やかに具現化し納得させてみせるのが、春香というアイドルである。そして、世界を渡り新たな日常へとびこんでいくことで、その当たり前の風景に新鮮な意味を吹き込み、別れを継承へ、不変へ、再会へ、輪廻へ、幸福へと昇華してみせるのが、雪歩というアイドルである。

このようにこの作品においては、カイザーPの物語に普遍的に働く遠心力、誘引力と、異なる方向性を持つ力がいくつか存在していて、だからこそ、この作品にオリジナルの境地への到達が生まれた、と私は思っている。
それゆえ、(カイザーP自身の中心的資質と、必ずしも単純な共振をしない)さまざまな方向性をもつ磁場と遭遇して、氏がそれと向き合って反応を起こした時、何が生まれるのか、ということ。それこそが、私がカイザーP作品を読む上で、もっとも興味を惹き付けられる事柄なのである。


超常的で、幻想的で、此岸からかけ離れた光景。現存する人間は、日常に生きている私たちには、知覚することのできない世界。あるいはそれは、宇宙を永遠に行く船であり、超未来の摩訶不思議な大陸であり、冒瀆的で根源的な恐怖であり、自然の歌声であり、偉大な詩人だけが到達する場所であり、<月出ずる彼方の土地>、である。
カイザーPは、つねに憧れ、夢見、描出しようと、幻視しようと、到達しようと欲している。超常的で、幻想的で、隔絶した世界へと。それを描き出せるのは、おそらくは言葉、詩歌だけであり、そしてその先、言葉では表わし尽くされない、想像力だけが及ぼせる領域があり、さらにその先、人間の想像力すら及ばない世界がある。

けれども、それを追い求めるだけならば、他の表現方法に辿り着く可能性もあった筈である。たとえば、理想の美少女の姿を目指して求道的に彫り続ける彫刻家になっても良かった筈だし、理想の想像界を映像として具現化しようとする画家や映像作家になっても良かった筈だ。

カイザーPは、おそらくは、言葉を信じるほどには、他のものを信じていないのではないか。いや、もちろん少女キャラクターに思い入れる以上、姿形に対するこだわり、信仰がない筈はないのだが。
しかし例えば、カイザーPの動画におけるMMDの使用方法を考えた時、その使用目的は、静止画では描けない肉体の絡み、アングルを描ける、という ”実用” 的な部分にあって、より自分の理想のイメージに近い姿形のモデルに動いてほしい、とか、背景まで含めてよりリアルで自然な絵に近づけたい、といった志向を第一義的なものとしていない気がする。
あるいは、この作者は「踊る立ち絵」の表現に絶妙のセンスを発揮する一方で、しばしば絵面の不統一、カオスさ、汚さに対して、おそろしく鈍感な時がある。時として文・音・絵の複合によって、震えるような神秘的一瞬を作りだす一方で、音や絵の流れ、つながりに対して、まったく雑で無頓着な時がある。そしてそれは、ある時は鋭敏で別の時はいい加減なのだと言うより、同じ本質から生じている気がするのである。

カイザーPという作者の中では、つねに全く対照的な方向を向いたベクトルが混ざりあっている。
形而上的、観念的な少女愛を希求しながら、同時に形而下的で直接的な欲情を発散させる。神秘的探究を道する人間を慕って思い描きながら、同時に利己的で小人物の人間たちを愛してやまない。もっとも高尚で優美な言葉と、もっとも単純で下世話な笑いが両立する。

そしてまた、カイザーPは、他者の創造した世界に依り、それらを取り込んで結びあわせて創作することを好む。
いやもちろん、オリジナルの人物や世界を用いないということはない。しかしながら、彼の創作への情熱は、単純に己の内側に表現すべきものがあって、それを放出するという一方向性のものではなく、つねに、この世で巡り会った、他者の創造にかかる素晴らしい世界を知り、理解し、吸収し、楽しもうとする情熱と一体の衝動だと思うのだ。

それら全ての資質が、カイザーPをニコマスという世界に引きつけ、ノベマスという表現によらしめることを必然としていた、と私は感じるのである。

己が出会い、吸収し、思い描き、探し求め、願望する世界。カイザーPは、その世界すべてを、アイドルに見せようとする。アイドルで表現しようとする。アイドルを、その素敵な世界に巡り会わせることを希求する。

つまるところ、カイザーPとは何者なのか。
私は、彼のことを、

「アイドルを、もっとも遠くまで旅させる人」

なのだと思っている。
そのために、あるいはその結果として、二つの、あるいはそれ以上の数の、接点のなかった世界が結びあわされる。単独でそれぞれを磨き上げれば静謐な安定型となっただろう世界が、かき混ぜ合わせられるのだ。そこには渾沌、矛盾、放埒な風景が巻き起こる。
けれども、その中から生まれてくる何かがある。ただ一つだけでは届かなかった筈の何処かに、届いてしまう何かが、宿っている。それを支える存在が、それを成し遂げる存在が、カイザーPのアイドルなのである。


そんなこんな。途中まではもう少し小さく店を畳むつもりはあったのですが、今筆を措いたら、次に続きをやる気になるのはいつのことだろうか、ということで、話の重複、混乱があるのを承知で長々と書きました。
私としては、私にとってもっとも大切なノベマス作品のひとつである、ダンセイニ卿原作の長編のうちの2編、を語るとっかかりになればいいな、と思っていたのですが、結果的にはここからどう組み立てるのか、もしくはやり直すのか、ますますよくわからなくなりました。
いずれにしろ、「忙しい人のための」というタイトルは詐欺であって、実際は「とても暇な人のための」記事でありましたわけです。



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