酔ってないはずなのに酔っている


これは、この記事のすぐ上の記事

後出しジャンケンを鵜呑みにしてはならない

の続きのつもりで書いていたものなのだけれど、話が飛びすぎて自分でよくわからなくなったので、とりあえず分割。文章は上の記事から繋がったままです。





先ほど、ストーリーとして”繋ぐ”、とかメッセージ、とか相互関係、とか曖昧な言葉で区分けをしたけれど。
つまり、この動画に現れる無印の春香と2の春香は、無印のステージにいた16歳の春香がやがて2の世界に移行して17歳の春香になる、というストーリー的な連続や、無印の春香も2の春香も等しく愛すべき我らが春香である、という同一性・同質性を表現するものではなく、それぞれが別のステージ、別の世界に同時並行的に存在した上で、二人の間にコミュニケーション・相互作用が発生する関係として表現されている。それをわかりやすく要約した言葉として、「16歳の姉から、17歳の妹へ。」という動画説明文がある。
同時並行的に各々のステージに存在する16歳と17歳の春香、という表現と、それを「姉と妹」と表した言葉の関係は、たとえば射座の日Pの天海春香×ELLEGARDEN 『ジターバグ』 【NRF2011】(11/7/29)と、その動画の二人の春香を「先輩と後輩のような関係」と表現したzeit氏の言葉の関係とよく似ている。

脱線すると、以前のgouzou氏主催のチャット上の会話で、私は上記のzeit氏の文章の内容を、まさに終わり詩Pの言葉のような、無印春香⇒2春香の方向のメッセージを強調するものと要約したのだが、後から確認すると、zeit氏の原文は「互いに背中を押しあう」と表現していて、どうも私の要約は間違っている。
さらに脱線すると、別の話題で私が鴉氏の文章の内容を要約した箇所も、後から見るとかなり不正確である。いや、まったく原文の趣意からそれたことを言っていたわけではないのだが、原文にないディテールが勝手に付け足されている。アレだね、人間の記憶って当てになりませんねー、と一般論に逃げておこう。

話を戻す。そして、ここからは想像に過ぎないのだが、たとえば終わり詩Pのこの動画のような在り方、この言葉のような捉え方の背景には、春香を巡る過去のニコマスの文脈への関心の強さ、感覚の鋭敏さがあるのではないか、という気がするのである。
勿論、動画の中をみれば、過去の同曲作品の表現を直接的にリスペクトしているのは明らかだが、それだけではなく、それらの動画がどう受け止められ、語られ、位置づけられてきたか、という部分まで含めての、文脈。過去のニコマスにおいて動画の周りに思い描かれてきた世界、それが連なってきた文脈への意識。
視点を変えれば、この世界においては既に多くのことが極められ、また多くのものが失われている、そのことを知悉している人間が、にもかかわらずあえて新たな作品を投じる自己を、どう世界の中に位置づけていくか、という問題意識。
そういう問題意識は、ひとり終わり詩Pの動画にとどまらず、uhhoPの『春香』シリーズの背景にも存在すると思うし、さらに多くのPの作品、特にPV作品の背景にしばしば在るように思え、現今のニコマス(の中のある部分)を考える上での重要なポイントだと感じている。


最後に、これも動画と直接関係しない話だけれど。
この曲のメッセージのひとつの核、結論が、ラストのフレーズ

君は広い客席を見渡す 遠く後ろのほうに目を向ける
一番後ろで拍手を送るのは 地球を一周して見た君だ

にあることは確かだろう。
では、その「遠く後ろのほうに目を向け」ている「君」とは誰のことか、「一番後ろで拍手を送る」「地球を一周して見た」「君」とは誰なのか、と考えた時。
たとえばこの世界には16歳の春香たった一人しか存在しない、という前提の下で生まれた作品において、その答えはある意味、単純でわかりやすい。その世界には、どう大きく数えても、一人のアイドル・一人のプロデューサー・それ以外の人間(ファン)そして作品の作り手、という4アクターまでしか存在しないのだから。

しかしそれがたとえば、描かれているのは一人の春香だが作品が生まれる過程(作者の軌跡・脳裏上)には別の春香も存在する、一つの作品の中に複数の春香が存在する、異なる世界の春香が同時に存在する、となっていった時、(しかも後に生まれた世界はすべて、前に生まれた世界を背景として抱えている)、この世界において、見渡している「君」とは、「拍手を送る」「一周して見た」君とは、彼女/彼/この人/わたしのことである、という定義は、簡単な説明を与えにくいものになっていくだろう。※

※1 私はここで、春香の多様性・多義性だけを問題にしているのではないし、「君」=動画上のアイドル、ということも当然の前提とは置いていない。
※2 もちろん個々の動画の内部においては、作り手の結論に基づいて一定の表現が解答として与えられるだろうが。

で、私がひとつ思うのは、「このまんまるい地球を客席に」「自身をそのステージに」した歌を歌いきり、踊りを踊りきった時、春香に見えるもの。16歳の(無印の)春香と、17歳の(2の)春香に見えるものは違うのだろう、ということ。
置かれた状況、描かれた方、背負うストーリーが違うから、という要素もあるかもしれない。が、より根本的な理由は、二人は異なる3Dモデルであり、異なる素材であり、異なる(物質的な)システムの中の構成物だからである。ゆえに、各々の素材から導かれる、その素材の可能性をもっともひき出した究極の動画表現は、従って彼女たちにとっての究極のステージは、異なっているはずである。
同じことは、アーケードにも、SPにも、DSにも(DS素材だけによる春香動画が構築し得るか、という部分から含めて)、アニメにも、あるいは静止画の立ち絵にも、モバゲー上のカードにも言えるし、複数の素材の混合についても言える。それぞれに、それぞれの形の究極のステージがあるだろう。あるいは、究極に辿り着けば結局見えるものは同じなのかもしれないし、同じとか違うとか論じること自体が意味を持たないのかもしれないが。

そしてもっと言えば、その時春香に見えているもの自体は、誰にも理解することはできないし、従って誰にもそれを視覚化することはできない。誰も彼女と同じステージに立ったことはないし、これから立つこともないのだから。
けれども、彼女をそこに立たせること、そこに立った彼女を表現することは、きっとできる。
そこで見られるだろうナニカを、私は見たいのだなあということを、ラストシーンの頭の上のティアラを見ながら思っていたというか思い返していたというか。

もうとっちらかり過ぎてどこが本線のつもりだったのかわからないんだけど、「春香」って何回も書いてあるから、とりあえずカテゴリは「春香」でいいか。

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