生きるべきか死なないべきか、それが問題だ


 胡桃坂氏に絡もうシリーズ。 というネタを思いつく。
→思いついただけでぼんやりしていたらあっというまに時間が経っていた。どうしたものかな。
→そうだ、arakawa77氏に絡もうシリーズに名目を代えよう。
→あれ、結局どちらの記事とも全然絡んでないぞ? ⇦イマココ

ておくれP『アイマスクエスト』の第八章16話・17話、及び各章のストーリーについてのネタバレを含みます。


『アイマスクエスト』の第八章17話、個人的な感想と言えば、

バズズは変態

ということに尽きるわけですが、まあいくつか、それ以外のことを(※)。


※書き始めた時点では「いくつか」の予定でしたが、結局話題はひとつしかありません。

第八章16話は、美希・勇者パーティ・あずさ・ピサロという4アクターが、各自の思惑(信念、善意、あるいは正義と言い換えても良い)に従って行動していった結果、それらがお互いに噛み合わず、取り返しのつかない結末に辿り着く、という、まるでシェイクスピア悲劇でも見ているかのような、すれ違いの展開が特徴的なシナリオでした。
さて、しかし、古典的な悲劇であれば、そうして運命に翻弄されていく登場人物一人一人は大きな構造の中の歯車として、最後には大方死に絶えて終劇、でいいわけです。ところが、『アイマスクエスト』の場合は現代的な自我を与えられたキャラクターの物語であって、各キャラクターには、(現代人的な)内面が描写されてきました。そして、悲劇的展開が一つくらい生起したところで、大半のキャラクターは別段死ぬこともなく物語は継続するのであり、現に継続しているわけです。

そういう物語の中で、このような悲劇のシナリオが展開するということ。
これをキャラクター同士の(人間関係上の)相互作用のストーリーとして観ると、各アクターが、会話を交わしているにも関わらず、相手の内面をなんら理解(あるいは共感。不穏当と感じられるならば、納得と置いても良い)できず、相手の内面になんらの影響も与えることなく対立し続ける物語、ということになります。
現に、美希の行動阻止を巡るシナリオがあのような結果になったのは、単純にパワーゲームにおいて美希は勇者パーティ・あずさに勝ち、ピサロが美希に勝ったからだけで、誰の想いがより強かったから、誰の判断がより優れて適切だったから、誰の意見にはより説得力があったから、というような判定基準はそこに存在しません。

17話の冒頭、復帰した美希がパーティの面々と顔を合わせる場面には、非常な気まずさが漂っていると思います。キャラクターの心情に寄り添った観察は既に厚く語られているところですから、そこはすっ飛ばして、私がその気まずさが何に由来していると感じたかを述べれば、それは上述した前話の構造そのものにあります。
そもそも、美希がここでパーティに復帰するに至った根本的原因は、単に小鳥がさらわれて、「ピサロを守る」という行動目的が成立しなくなった結果、パーティと対立するメリットが失われたからです。前話までの美希の言動が、(呪いのアイテムが云々というギミックをとりあえず脇に置いて)真実彼女自身の覚悟に基づいた意思決定であったならば、彼女は自己の正義に反することは何もやっていないのだから、他人に対して謝ったり負い目を感じたりする理由は一切ないはずです。
もちろん、実際の彼女にはそれだけでは塗りつぶせない人間性が与えられているが故に、「どうして誰も責めないの!」という台詞になるわけですが。それはつまり、彼女(たち)は前話のすれ違いの意味を知覚できる、ということを意味するでしょう。
複雑な人間性を備え、それを互いに知っている筈の人間同士が、互いに深く思いあっている筈の人間同士が、もっともクリティカルな局面においては互いの内面に対してまったく影響を与えられない存在だったという現実を、彼女たち全員が目の当たりにした。その体験を記憶に刻み付けたまま、”仲間” としての関係を再構築していかなければならない、ということ。それが、私が考えるこのシーンの気まずさの由来です。

既に指摘されている通り、こうした美希を巡る展開、そこでのキャラクターの心情の移り変わりは、過去にパーティから離脱して単独で行動した、何人かのキャラクターのエピソードと類似性があります。
もっとも共通度が高いのが第七章17話における雪歩で、雪歩の場合は、行動目的の対象である筈の千早を自ら殺してしまうことで、呪いが解けました。彼女の場合にも、呪いが解けるまでの過程において、千早や伊織の言動自体は、彼女の内面にまったく影響を与えることができなかったのです。
第五章終盤におけるあずさも同様で、あずさの場合は意識的に、パーティに対して真意を隠すことで他人との意志の衝突を避ける選択がなされているわけですが、この場合にも、そうして自ら死を選んだ彼女の判断に対して、パーティの誰も干渉できなかったわけです。
これら、単独行動したアイドル各々の結末は、『アイマスクエスト』という物語全体の行く末を考える上でも興味深いものです。それは、ここには、作者の考えるこの物語の正義の在り方が、反映されていると思われるからです。

一般に、物語には、その物語の正義(作者がそれを描きがたいがために、それを描くべきだと思ってその物語を構築しているテーマ)が存在するものでしょう。物語の展開、導かれる結末は、その正義を反映したものになる筈です。
「ハンサムな主人公が突如反撃のアイデアをひらめく」というテーマを描きたい作者は、「結局アイデアはひらめかず、主人公は死んでしまった」という結末は描きません。もしそういう結末が描かれたのなら、「現実は非情である」というテーマが「ハンサムな主人公の活躍」に優越する物語の正義として存在しているのです。
美希のエピソードは、世界を救うために活動する、仲間全員の帰還を優先する、誰か一人だけを守ることを優先する、等々のキャラクター個人の正義のいずれも、必ずしも物語全体として絶対に果たされなければならない物語の正義ではないことを示しています。

では、物語の正義はどこにあるのか、キャラクター個々が現時点で見出だしている正義は、物語の正義にどう繋がってくるのか、と考えた時、ポイントになるのが、再三言及しているコミュニケーションの問題です。
すなわち簡単に分けてしまえば、作者は
”人間は話せばわかる。だから対話させれば良い” と考えているのか。
”人間は話してもわからない。対話は無益である” と考えているのか。
あるいは ”人間は話してもわからない。ただし特殊な条件ではその限りではない。しかしそういう条件は大概満たされないものである。” と考えているのか。
それとも ”人間は話してもわからない。ただし特殊な条件ではその限りではない。従って物語ではその特殊な条件が満たされるべきである” と考えるのか。

ここで面白いのが、六章末での真によるあずさの救出です。真は、あずさを発見してから城が崩壊するまでの短時間の会話で、あずさの心を変えることに成功しています。なぜ真の言葉だけが、(どのような言葉、論理を説得に用いたか、という点においては、雪歩に対する千早・伊織や美希に対するあずさ・伊織と大差ないにも関わらず)他人の信念に対する影響力、説得力を持ち得たのか。
真のエピソードが特徴的なのは、彼女の場合だけは、他のキャラクター(ポッポ、ヘラルド、リバストetc.)との出会い、コミュニケーションが、彼女自身の最終的な信念の確立に影響を与えているということです。真の主張する正義は、真一人が持ち得た思考だけに依るのではなく、それら彼女が出会ってきた他人の信念を踏まえた上に成立しています。その特殊性は、他人の説得と自力での帰還(パーティへの合流)という特例的な結末とリンクしているのでしょう。
この、成功例である真のエピソードの特徴と、そのような成功例が描かれた後でありながらコミュニケーションの失敗に終わった雪歩のエピソード、美希のエピソード(あるいは、失敗のままに終わらせたことそのもの)には、作者の持つ、コミュニケーションに対する観念が表れていると思います。

もちろん、物語作者の中ではつねに、物語の今後に対して、”こうありたい。こうなってほしい” という理想と、”こうなりそうである。こうなるしかない” という現実認識が鬩ぎあっているものでしょう。ゆえに、物語の結末をあらかじめ知ることは誰にもできないわけです。
けれどもそこで、この物語の場合にはどのような選択肢が有り得、作者はどのような道を歩んでいくのかと想像する時、これらのエピソードは興味深い情報を示していると思います。

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