ネタ在庫一掃セール 貴方がアイドルを覗き込む時、アイドルもまた貴方を(以下略)

 
去年の夏頃、百舌Pについてシリーズ記事を書いていました。それは私のブログによくあることとして、途中でどっかに行って消えましたが、その時の余りネタ、というか辿り着かなかったネタを焼き直したお話です。

スイッチ (11/8/6)



NP氏の本棚 スイッチひとつで会いに行けるアイドル

巻かないネジ。(8/6) - メモ書きライフ



NP氏の表現を借りれば、「世間一般の人からみたら華やかで人生勝ち組みなアイドル業界も、その中にいる人達にすれば当然悩みも叶わぬ想いもある」。従って、今度は鴉氏の表現を借りれば「結果的に、ままならぬ世の中を人はそれぞれに生きていて、それでも生きようとしていると言う事。」 そのことを、本作へと続く一連の作品で、読者は動画を通して体験してきました。
そして、「一般人」から見ればひたすら輝かしい存在の「アイドル」、しかしアイドル自身にとっては、というひっくり返しの視点は、本作と他の4作の対比で観察できるだけではありません。たとえば1作目のインダクタにおいて既に、同僚である律子を、自分とは違った輝かしい存在とみている語り手、しかし律子の視点に立った時にはそんな彼女はどう見えているのだろう、というひっくり返しがありました。

さらにダイオードでは、そうした双方向的な構造は、より複雑な形で提示されます。
きらきらしていたりドロドロしていたり、いずれ失われてしまう何かを一杯抱えた「少女」と、それがいずれ失われる・失われた事を知っている、現実にまみれた「大人」、という対比の存在を、私は繰り返し百舌Pの作品について述べてきました。
そして『ダイオード』では、

・アイドル時代の真
・現実に塗れた生活の中でアイドル時代の真に出会った、かつての語り手
・かつての自分を、子どもであった、と振り返るようになった、しかし今なお語り手とは異なる位置に立っている、現在の真
・もう一周り、現実に塗れた生活を重ねた位置から、そんな真を眺めている現在の語り手

と、登場人物二人の現在と過去を交錯させることで、アイドルや少女や夢のような存在と、大人や現実や煙草のような存在の関係は、何周も重なり合った複層的なものとなっています。
また、現在の二人の会話にも、すれ違いが存在します。互いに相手ではなく、己が捨てきれずに追い求めている影を見出だそうとするすれ違い。

「彼女はこちらを見て、けれども、俺ではない誰かを見て、笑顔なのか泣き顔なのかわからない、あの曖昧な笑顔を見せた。」

「多分、俺は今、彼女と同じ目をしている。

 つまり、最後の最後には白馬の王子が自分を助けに来てくれるんだっていう妄想を、いまだに捨てられない、夢見る瞳だ。」

『ダイオード』において、百舌Pが描いてきた双方向的な視点は、幾重にも重なり交錯しあう重層的な構造に到達しています。

『スイッチ』に話を戻します。
さて、しかし、私がこの作品を見て真っ先に感じたのは、一般人とアイドル、此岸と彼岸という対比ではありませんでした。
私が思ったのは、友達とカラオケで歌い、ラジオを聴きながら中の上の志望校を目指して勉強し、アイドルは美人で幸せで何でもできるのだろうと想像するこの語り手は、たとえば春香であってもまったく不思議ではないな、ということです。彼女がアイドルにならなかったパラレルワールドの、でもいいけれど、もっとシンプルに、アイドル候補生としてプロデューサーの前に現れるたった数ヶ月前、中学3年生だった彼女はこんな生活を送っていておかしくない。雪歩にだって真にだって、こんな過去があっておかしくない。本当を言えば、千早にだってこんな生活が有り得ていい。
そのままひっくり返せば、いまアイドルなんて自分と別世界の特別な存在だと思っている彼女が、半年後にはテレビ、ラジオの中の特別な存在になっていてもおかしくない、ということ。

此岸と彼岸に生きているのは同じ人間であるだけでなく、その二つは、行き来不可能な透明な壁で区切られたものでもないのです。もっと言えば、『インダクタ』の語り手がそうであったように、テレビの中の存在にはならなかったとしても、いまの彼女そのものもまた、きっと誰かにとってはアイドルなのです。
『インダクタ』~『トランジスタ』の語り手たちが彼岸にあると捉えてきた存在が、此岸の存在、私達自身の物語でも有り得ること。そのようにして、「私」と「アイドル」の関係が相対化されること。それが、『スイッチ』という作品が一連の動画の末尾にあることの大きな意味なのかな、と私は思っています。


以上述べたことは、『スイッチ』が投稿された当時に言及していれば多少の意義があったかもしれません。けれども、今となってはわざわざ言うほどのことでもない気がしていて。

すっきりぽんP うちのクラスの天海さん (11/8/28)
Pボウイ氏 【アイドルマスター】 天海春香の夏物語 【2011】 (11/9/15)

これらの動画を経た今、この語り手が春香でもおかしくないよね、と『スイッチ』について私が言ったことは、何の説明を要さずとも多くの人が容易に発想できるでしょう。
あるいはキャラクターで言うならば、サイネリアこと鈴木彩音という、まさしく一般人としての視点を初めから含有するキャラクターの物語が描かれるようになって、

rftz氏 チキンを食べられないなんて君こそチキンだよ (11/12/20)
(特段この動画だけを例にする理由はないけれど、良作なのでこの機会に貼っておく。)

さらには中子右子、レッドショルダーという、一般人からの出発や能力的な平凡さを当たり前の物語の中核に据えられるキャラクターが使われるようになり。

にわP 【Novelsm@ster】 渋谷凛のある日の風景 1 (12/2/5)
ガルシアP シンデレラ候補生:喜多見 柚 【Novelsm@ster】 (12/2/5)

そしてこれらのキャラクターの物語が登場するに及んで、”アイドルもまた普通の女の子である・普通の女の子がアイドルになる、という発想の普遍化・一般化”は完了したと言えるでしょう。

いろんなことが当たり前になっていく、と言うとあまりにも曖昧で何でも当てはめることができてしまいますが、それは近年のノベマスの大きな流れで、”普通の女の子がアイドルになる”という物語のパターンもその例の一つ、と私は思っています。もう少し言えば、それは共有されている認識が増えていくことと、作り手が利用できるパレットが増えていくことの二つ(または両面)から成っていて、もちろんそれに伴って可能になる表現がある一方、滅びる、とまでは言わずとも、描かれにくくなるものもまた存在するでしょう。
そういう流れについて私は、ただ双手を挙げて素晴らしいという心境でもなく、しかしまあ感慨深く思っていますが、だんだん何の話だかわからなくなってきたのでおしまいにしましょう。


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