カニとかうぇうぇ↑ について駄弁る


ニチカP 【孕m@s】ありおーしゅ【HAЯUCANNIBAL'11】 (11/6/8)


なんとなくニチカPの上記作品を見ながら連想していたことについて、駄弁ります。
動画自体にはなんにも触れてませんが、ネタバレだけはしっかりあります。



「HAЯUCANNIBAL'11」は、ネームレスPによる開催宣言

HAЯUCANNIBAL'11 勝手に開催のお知らせ(11/5/31)

から本放送までの2ヶ月強にわたって、ノベマス、PV、手描きの各畑の人が入り混じって三々五々投稿していく、という、なかなか面白い風景になっていました。
その中で真っ先に、それも処女作で参加したのがニチカPで、この人がいなかったらここまで形にならなかったというか、もっと狭い範囲のものになっていただろうな、という気はします。
狭い広いというのは量の問題ではなくて、コミュの構成メンバーを見ても、ひょっとするとこの祭りがなかったらお互い何やっている人なのか全然知らなかったんじゃないか、と感じる人たちが一つの集団になっているのが、私がこの祭りを面白いと思う点です。
まあ、あくまで作品を見ていての感想であって、作者が普段どんなコミュニティにいてどんな視聴領域を持っているかというのは、製作されたものを見ていてもわからないことが多いのですが。

さて、冒頭に貼った動画は、4作あるニチカPの「HAЯUCANNIBAL'11」参加動画の2作目。タイトルにある通り「孕m@s」参加動画でもあって、さらに「藤子m@ster」と「野生のジョナサン・スウィフト」というタグがついています。「HAЯUCANNIBAL'11」参加作品中でも、タグがこんなににぎやかなことになっているのは、この動画だけです。
有り体に言ってしまえばこの動画、赤ん坊を食べる、というお話です。
ジョナサン・スウィフトの名前が出てくるのは、赤ん坊食という題材からスウィフトの『アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案』が連想されたからですね。まあ、私は読んだことがありませんが。
「藤子m@ster」の方は、カニバリズムから一番連想されるのは、藤子・F・不二雄の『カンビュセスの籤』だと思います。
スウィフトにしろ藤子にしろ、カニバリズムが扱われるにおいては、人間が生存するために人間を殺して食べなければならないという、緊急避難と倫理の問題がテーマとして据えられているわけですが、ニチカPの動画にそういうものがあるかどうかはよくわからなくて、どちらかというとカニバリズムへの嗜好的で官能的な傾倒が、テーマとして強く打ち出されているように感じます。

しかしながら、ここで藤子の名前が挙げられているのは、確かにとてもふさわしい、と私は感じました。なぜなら、この動画には、出産と殺害という行為を、非常に即物的な資源の生産と消費としてみる視点が描かれていて、それは藤子・F・不二雄がしばしば打ち出す視点と、とても似通っているからです。
藤子は、たとえば『定年退食』においては、一定の年齢に達した人間には生産活動させる必要が無く、更に一定の年齢に達した人間には生き延びさせる必要もない、というルールで動く社会を描いています。
また、『気楽に殺ろうよ』において主人公が体験する世界では、誰でも人間一人を自由に殺していい、という権利が公式に認められています。『気楽に殺ろうよ』には更に、赤ん坊を捨てようとした若者が、代わりの赤ん坊を作ってから捨てなさいと警官に説教されるシーンもあります。ここから考えると、描写はされていないものの、恐らく殺害する権利に対する補完としても、一定量の出産を促進なり義務づけるなりする仕組みがあるだろうことも想像できます(※1)。
こうした世界の先に、人口が増加すると自然に個人の持つ倫理が衰退して殺人が増えて、人口が減少すると倫理が回復するという形で、地球規模の大きな意思で人間はコントロールされているのだ、という『間引き』の視点があります。
と、藤子作品の名前を挙げてみましたが、特にそれらについて語る用意があるわけでもなく、単に連想が働いたものを並べただけです。以下の文章も全く同様の思いつきで続いていきます。

※1 と書きましたが、よく考えれば、セックスがあけっぴろげに許容され推進されている、あの世界の社会的価値観自体が、出産数を増やす要因であり、同時に殺害権によって死亡数をコントロールするシステムが生まれる理由でもあるんですな。


藤子・F・不二雄のSF短編は、しばしば人類の衰退あるいは滅亡を題材としています。その要因として描かれるテーマは、おおまかに分けると3つあるように思われます。
一つは全面核戦争。『ある日…』『マイシェルター』『みどりの守り神』などがそうですね。
もう一つは、強大で想像外の外的存在の来襲。『絶滅の島』『ヒョンヒョロ』などがそう。人間が簡単に蟻を踏みつぶせるように、人間を簡単に踏みつぶせる存在もまたあるのではないか、という視点。
そして最後の一つが、人口の爆発的増加。そして人口増加の問題は、結局のところ食糧確保の問題に行き着くもの、として描かれています。既に挙げた『間引き』『定年退食』がそうであり、その更に先には、他に何もないんだから、生き延びるためには仲間の肉を食べるしかないじゃないか、という、『カンビュセスの籤』で提示されるシンプルな結論があります。

食う人間の数が増加すれば、その先には避け難い飢餓がある、というイメージ。
それを藤子は、極めて自明で切実なものとして思い描いていた、と言っていいと思います。そこから私が連想するのが、北杜夫(昭和2(1927)年生まれ。昭和8年生まれの藤子より6歳年上)の言葉です。
北は『どくとるマンボウ青春記』で、終戦当時の自分の食糧難の体験を詳細に描写した上で、自分は(食べるに困らなくなった)今でも性欲より食欲を上位に置く、それは当時の許し難い飢えの体験から来ている、ということを述べています。その北の視界を物語上に移せばそのまま、食事とセックスの社会的地位が入れ替わった『気楽に殺ろうよ』の世界になります。
藤子や北と同じ時代を生きてきた、大正末~昭和ヒトケタ生まれのSF作家たちもまた、各々にカニバリズムを題材とした作品を書いています。
安部公房(大正13(1924)年生):『人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち』『事業』『自己犠牲』
小松左京(昭和6年生):『凶暴な口』
筒井康隆(昭和9年生):『定年食』
星新一(大正15年生)、と書いて、星だけ作品を挙げられませんが、多分なんかあるでしょう(汗)。
上述の北杜夫の思考をここに並べて考える時、つまるところ、彼らにとって、個人が生存に必要な食糧を確保できるかどうかがクリティカルな状態、更にその先、生存するためには同じ人間を食糧として扱わなければならない状態というのは、高度で知的なSF的想像でもなんでもなく、自分たちが体験してきた現実のすぐ先にあり得るものとして見えていたのではないか、と思うのです。

現在の娯楽作品で描かれるカニバリズム、と言って、私は引き出しが少ないので『ひぐらしのなく頃に』くらいしか出てきませんが。
たとえば『ひぐらしのなく頃』には、人肉缶詰の流通、という話題がでてきます。が、その話題それ自体から導かれるテーマが何か存在するのかといえば、多分ありません。『ひぐらしのなく頃に』にしろ『うみねこのなく頃に』にしろ、描かれるカニバリズムは、ようするに猟奇色で物語を飾るためのファッションに過ぎないわけです。
現代日本に生きる多くの人間にとって、カニバリズムとはそういうもので、ファッションか、思考実験か、せいぜいが個人的趣味にしかなり得ない。それはただ、そうであるという事実であって、とてもとても幸福なことであるわけです。
ただ、たとえば私のような人間が、世代の違う作家が描いた作品を読む時、注意すべきこととして、作品に宿っている作者にとっては自明で切実な問題意識を、汲み取れていない場面が多々あるのだろうな、と思うわけです。

えーと、これ一応ニコマス記事のつもりなので、ニチカPの動画の話に戻ります。
実はこの動画を見て私が最初に連想したのは、スウィフトでも藤子・F・不二雄でもなく、小松左京の『凶暴な口』でした。(もっとも、私はこれを安部公房作品と混同して記憶していたので、最初いくら調べても名前が出て来なかったのですが。)
『凶暴な口』は、自分の肉体を機械に置き換えながら切り刻んで食べていって、最後は何もかも食べ尽くして死んでしまう、という話です。切って料理して肉体を代替して、というのを、全部機械が自動的にやってくれる。ニチカPの動画でも、人間を肉にして食べるまでの工程が、非常に機械的で自動化されたものとして描かれていて、それがよく似ていると思ったのですね。
この『凶暴な口』が面白いのは、カニバリズムを扱う際には、倫理をテーマとするにしても性的倒錯をテーマとするにしても、他者を殺して食べる、あるいは自分が誰かに食べられる、という他者との関係が大きな焦点になることが多いのに、この作品はそういう他者との人間関係を取っ払ってしまって、ただただ「食べる」行為のみを描いている、という点です。
人間を食べるというテーマを行き着くところまで行き着かせた一つの形が、この『凶暴な口』になるのかな、と思ったのですが、ここまでくるとまた別の物とも似ている気がします。

村野四郎に『惨憺たる鮟鱇』という有名な詩があります。吊り下げられた鮟鱇が、解体されて何もかも食べ尽くされて、跡形もなくなってしまう、という詩です。
この『惨憺たる鮟鱇』と『凶暴な口』から、食べられるものが自分の体か鮟鱇か、という対象物の違いを除いてしまえば、両者が描いている光景はまったく同じになります。
『凶暴な口』には最後、食べるという行為を担当している口が、食べるあるいは食べられる自分の意思を司っている筈の脳から、独立しているかのような描写があります。そして、肉体が食べ尽くされても、食べた口はまだ残っているわけです。『惨憺たる鮟鱇』もまた、鮟鱇が消滅しても鮟鱇を吊り下げていた鉤がまだ残っている、という結末になっています。この「口」と「鉤」とは、同質のものを表しているように思えるのです。

ニコマスで「食欲」(「グルメ」ではなく)に焦点を絞った動画というと、ニチカPのカニバリズムシリーズの道もありますし、あるいはオヤジオナ氏のこれ

架空戦記かノベマス 『かっこいいスキヤキ』 えっ、祝ってるよ? (10/2/24)


や、ハリアーPのこれ

『【ノベマス】765プロの焼肉はスゴイ【短編】』(前編(09/10/21)、後編(09/10/23))



の道もあります。
これらが行き着くところまで行き着くと、『凶暴な口』や『惨憺たる鮟鱇』の世界になるのではないか、と思ったりするわけで、誰かそのうちそういう世界を描いてくれるんじゃないかな、と楽しみにしています。




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