語り手は、すべからく嘘をつく


カズマ氏の記事

仕切り直しまして今一度、すっきりぽんP「うちのクラスの天海さん」は二回見ましょう - 続・空から降ってくるので

がとても面白かったので、というか勉強になったので、乗っかっておきます。
上記記事を読んでいることが前提の文章です。読んでないと意味不明です。
まあ、当ブログにいらっしゃる方で、『続・空から降ってくるので』を読んでいない人があまりいるとは思えませんが。
あと、すっきりぽんP『うちのクラスの天海さん』のネタバレを含みます。


ドムドムでの、語り手と「天海さん」の出会いのシーンの話です。

カズマ氏の記事の、上から13枚目のスクショのところですけど、そもそもなんで語り手に、「天海さん」が「ドムドムに顔を出すことはなくなった。」ことがわかるのか。つーか、なんで語り手は、やたらと「天海さん」がドムドムに顔を出す頻度に言及しているのか。よーするに、彼がしょっちゅうドムドムに通っては、「天海さん」が来るかどうかチェックしているからなんですよね。
しかし、語り手は、そうやって自分が「天海さん」見たさにせっせとドムドムに通っていることは読者に隠して、あたかも客観的な事実であるかのように、「天海さん」がドムドムに来なくなった、と語っているわけです。

実は、語り手のいるドムドムに、「天海さん」がチケットを持って入ってくる、というこのシーンそのものが、彼のドムドム通いが頻繁であることを物語っています。
何故、相当に忙しくなっているだろう「天海さん」は、この日、わざわざチケットを携えて一人でドムドムを訪れたのか。あの店に行けば、きっとパセコにいた彼に会えるんじゃないかな、と考えたからです。「天海さん」からすれば、自分が友達とドムドムに行った時には、必ずと言っていいほど店内に彼の姿があった筈で、むしろ彼の方をこそ、"ドムドムにいつもいる同級生"と認識していたわけです。
彼を探すのが最初からの目的で、その相手を見つけたからこその、「げっつ。」のポーズなのです。

で、面白いのはこのシーン、「天海さん」が語り手に向かって、明らかに嘘をついていることです。彼女は、ドムドムに来た理由を「トモコたちにも渡そうと思って」と説明します。
しかし、考えてもみてください。親しい同性の友人にチケットを渡すのに、いるかいないかもわからない店を覗く、なんていう不確実な方法をとる女の子がいるものでしょうか。電話なりメールなりでアポを取る方が自然です。それ以前に、わざわざチケットを渡すためだけの場を設けなくても、登校した時など、いくらでも渡す機会があった筈です。(そう考えると、"わざわざドムドムでチケットを渡したこと"は、語り手と「天海さん」はほとんど話したこともないであろう、というカズマ氏の推理の裏付けともなります。)
「天海さん」は嘘をついた。何故か。ほとんど話したこともない男の子に、「君にチケットを渡したくてドムドムに来たんだ」なんて言うのは恥ずかしいからですよね。

語り手が読者に向かって嘘をついている文章の中で、更に登場人物が語り手に向かって嘘をついている、という入れ子のような構造が、ここにあります。読者に対してはいくらでも嘘をつき、隠したいことを隠せる語り手も、他人の嘘に対しては、語り手に対する我々と同じように無力なのです。
彼は、彼女が、話したこともないけれどパセコにきてくれたファンである、彼一人のために、わざわざ来てくれたのだ、などとは夢にも思わなかったでしょう。そして同じように彼女も、彼がこうして今日もこの店にいるのは、彼女を一目見たいがためなのだ、なんて想像もつかなかった筈です。
お互いに心の内はわからないまま、だけど、こうして二人は初めて、ドムドムで言葉を交わした。おかしくも哀しいすれ違いが、この出会いには隠されているのではないでしょうか。
ちなみにこのシーンの最後、「ここ、自動ドアじゃないよ」という言葉が(そういえばこの店は自動ドアではなかった、ではなく)自然に語り手の口から出るのも、彼が「天海さん」よりもずっと、ドムドムに慣れ親しんでしまったからこそですね。

と、いうようなことを、私は自分でこの動画を見ている時に考えたわけではありません。カズマ氏の記事を読んでいて、ああそういうことかな、と思ったわけです。私はこの動画を1回しか視聴していませんが、2回見ていたとしても、自分一人でそこまで思いつけたかどうかは怪しいところです。

つまるところ、語り手1人称で書かれた物語では、書かれた事柄がいかに客観的な事実のように見えても、語り手が見聞きして理解できる範囲のことしか書かれていようがないし、どれだけ公正な記述がなされているように見えても、語り手が正直に言いたくないこと・誤って認識していることは正しく書かれていようがありません。
そういう偏った視点による物語を、語り口によって、冷静で客観的な記録であるかのように読者に錯覚させているのが、この作品の技巧です。そして、記述されているものの性質に基づいて、物語を背後で操っている存在に目を向ければ、そこから違う読解を引き出せますよ、というのが、カズマ氏が記事を通して提示している視点です。私自身も、この作品についてはかなり漫然と読み流していたので、学ぶところが大いにありました。


ところで、物語文であれば、どう読解するかということは、どう楽しむかに影響するくらいで、大した問題ではありません。
けれども、より広く人間が行なう記述というものに目を向けるならば、主観によって書かれた(によってしか書かれ得ない)記述から、いかにその主観を見抜くか、という視点は、極めて根本的かつ必須のものであることに気づきます。それは、ニコマスの中でも当てはまることです。

たとえば、RW氏の記事

だいぶ前に作って放置してた場所 みんなで絵画をみよう

では、「アイマス教養講座」という、知識を教える=客観的事実に見えるものについて記述するジャンルの動画について、この視点に立った読解と注意がなされています。

(「さすがに資料や説明を意図的に違うものにしているということはないでしょうから、考察の部分が  独自研究ということなのでしょうか。」
 「『こういう見方もあるかもよ』というスタンスで視聴者側も受け取った方が作者様としても気が楽  なのではないかと。」
 という下り)

こうした視点に立つことの必要性は、ここで挙げられている動画だけに限りません。動画・コメント・ブログ等あらゆる場所でなされる記述において、大事なことであるわけですね。

そういうわけで、この記事をここまで読まれた方におかれましても、語り手である私の主観にまどわされることを防ぐためには、記事を2度3度と読み返し、さらに私の他の記事を巡回して私の主観を読み解く、という行為は有効かと愚考いたします。が、個人の行動選択に任される部分ですから、こちらから敢えて推奨はいたしません。
とりあえず私は、もう一度カズマ氏の記事を読みに行ってきます。


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