つらつらと百舌P作品(上)


百舌Pの現在までのニコニコ動画上での投稿活動を概観すると、大体3期に分けられると思う。

第1期が、デビュー作の『test』から『Si, Si, signorina』『Radio Time -8月第4週-』『ビッ千早』に至る4作品。『Radio Time -8月第4週-』が雪歩1人称視点であるのを例外として、プロデューサー視点でP1人アイドル1人の一対一の関係を描いた作品となっている。

第2期が『彼女の夏の城』『彼女の冬の色』『彼女の秋の芋』『彼女の春の霜』と続いた、四季の名前が冠された作品。いずれもアイドル1人称視点で二人のアイドルの関係を描いている。

第3期。第2期の後、童話調の『もりのやよいちゃん』を挟んだ後、『トランジスタ』『インダクタ』そして近作の『コンデンサ』『ダイオード』と、電子部品の名を持つ作品が続いている。いずれも、Pでもアイドルでもない第三者の視点で描かれている。

してみると、今のところ類似する作品を持たない『もりのやよいちゃん』と、セルフパロディの『ビッチ早』を除くと、現在までの百舌Pの投稿活動は4作品単位で変遷していて、そして全ての作品が1人称の「私」「俺」「僕」と特定のアイドル1人の関係を描くものであることがわかる(既述の通り、『Radio Time -8月第4週-』だけは、アイドル1人のみが登場する物語である)。『コンデンサ』『ダイオード』を区切りとして次のタームに入るのか、この電子回路シリーズが続行されるのかはわからないが、なんとなく振り返って作品の位置づけを考え直すのに良い機会かな、と思ったのでやってみる次第である。

勿論のこと、マイリスコメントに明記されている通り、本来百舌Pのニコ動上の作品は、ずっと長く連作されているSSの一部を動画化したものであるし、ついでに私は第2期の四季シリーズについてあまり真面目に見直したり考えたりしていないので、ここで考慮するのは1期と3期の8作品のみである。ようは、別に百舌Pあるいはmozukuzu氏の活動を概観するわけでも何でもなく、単に自分と百舌P作品のうち関心がある部分の関係を整理しておこう、というものである。

※記事中に百舌P各作品のネタバレ、引用を含みます。

 百舌P作品が描くものは、根本的にはいつも同じだ、と、何度か書いた。「私」(「俺」「僕」)がいて、その間近に1人のアイドルがいる。アイドルはこの上なく眩しく、瑞々しく、美しく、生々しく、危うい存在で、しかし決して「私」の手が届かず、届かせてはいけなくて、いずれ必ず失われ、あるいは(作品によっては)既に壊れている。そういう存在を目の前にしている人生、というものの一断片。
 言ってみれば、違っているのは時期と主人公の立場と対象となるアイドルの名前だけで、延々と同じテーマの変奏を続けているか、あるいは同じ曲の別の箇所を切り取って見せているようなものだ。しかし、その視点、時期、アイドルの微細な描き分けが極まっているが故に、各作品はまったく異なる色合いを見せることになる。

 そういう、百舌P作品のアイドルという存在を端的に説明しているのが、例えば『test』の次の下りである。

「きっと彼女たちの中にはおっさんには分からない酸っぱくて眩しく真っ黒な何かが詰まっているんだ。
 それはきっと軽くて、儚くて、年と共に蒸発していくんだ。
 代わりに、常識とか責任とか株式とか財産とかなんとか色々な物が詰まってどすんと重くなる」


『test』『Si,Si,Signorina』には、「それ」がある。「私」とアイドルとの間の溝は、大人と思春期の女の子との溝として説明される。思春期の女の子である彼女には「常識とか責任とか株式とか財産とか」が詰まってしまった大人というものが想像できず、それに応対する「私」は大人であるが故に彼女の心理に立つことはできず、いずれ今の彼女は失われると知っている。にもかかわらず、今の彼女に「私」は惹かれずにはいられないし、彼女がすぐそばに居る今という時は愉しまずにはいられないものである。

 『ビッ千早』は、その関係が破局した後の物語である。香水と酒の匂いを漂わせ、慣れた手つきで煙草を吸う千早からは、「それ」が失われている……。と、以前要約した覚えがあるが、それは正確ではない。
 『ビッ千早』の情景をもっともよく象徴すると思うのが、次の言葉である。

「こんな場所では星なんか見えないけど、それは見えていないだけでやっぱり星はあって、線はあって、神話がある」
「でもやっぱり、見えない物は見えないんだ。」

見えないだけでやっぱり星はある。星は、神話はもう滅んでしまったんだ、とは書かないのがこの物語の鍵である。疲れ切った落ち目のプロデューサーにも、煙草に火をつけて「やり方さえ覚えれば、簡単ですよ」と言う千早にも、縋る希望、信じたい希望はある。それが何なのかと考えれば、この作品はただ苦いばかりのすれ違いの物語ではなく、不器用で純情なラブロマンスでもあることがわかる。

 まったく唐突に脱線するが、愛識PというノベマスPがいる。(何故ここで愛識Pの名前が出るかというと、この記事の前に書こうとしていた記事で愛識Pに触れる予定だったけれど、その記事が頓挫してネタが余ったからである)
 愛識Pは、私の知る限り、ノベマスに初めて「セックス」という概念を持ち込んだ作者である。官能小説的なエロ描写を動画でやる、ということならばいくらでも例はあるが、セックスが介在する人間関係、セックスの存在を前提とする男女関係をニコマスで描いたのが愛識Pで、多分愛識P以前にそういう例はないし、以後にもほとんど存在しない。(という一文を最初に書いた時、『朝起きたら男の子になっていた。』と『真のNTR物語』のことは素で完全に忘れていた。今後もちょくちょく忘れると思う。すみませんね。)
 そういう愛識Pが描いた男女関係の一つの特徴が顕われている例が、『愛m@s 僕が電話をかけている場所』と『【Starting over】 気ままな気のせいのせいで【Cross×Over】』である。寂しさ、辛くてやりきれないことを抱えた男女が、肉体関係によって心を温めること。そういう行為、関係の肯定というか、そうやって生きていく人間を描くということ。
 しかしその愛識Pにおいてすら、という表現の仕方は微妙だけれども。そんな関係が描かれている『僕が電話をかけている場所』のラストを飾るシーンは、「すごくいやらしいです。不純です。どろどろです!」と叫ぶ春香と、そんな春香がそばにいるプロデューサーの情景なのだ。この春香は多分、「これだから、これだからプロデューサは、わかってないよ」「聞いてないんだ。どうでも良いんだ。僕の話とか、僕の事とか」と言う『test』の真、「そういうのは、なんというか、不誠実ですよ」と言う『Si,Si,signorina』の春香と同じものだ。まあなんというか、アイドルに恋するとは、実に救いがたい物語の中を生きることだと思う。

話を戻して、『ビッ千早』のプロデューサーと千早の間にも、肉体関係という救いの道は存在するわけだ。しかしそこで平然と千早を送り返すのが百舌Pの描くプロデューサーであり、だからこそこの物語には「星」が存在し、だからこそ二人は再会するし、離別するし、それでも人生は続いていく。見えないだけで星はあるけれど、やっぱりそれは見えない。実にどうしようもない話である。

だらだらと書いていたら、いっこう捗らないうちに夜が更けてきた。以下次号。
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