「紙芝居」からの挑戦状


怒っています。怒っているんですよ、私は。人がせっかく、ノベマス制作動画の流行に乗ってストレートPの研究に励もうとしている時に、半年ぶりやら10ヶ月ぶりやらで動画をあげるんじゃなーい!! もっとやれ。

ペデューサーP 職業アイドル 第10話 (11/5/27)


不在P プロデューサーのいない ある日の風景76 (11/5/26)


 

 というわけで、狙ったとしか思えないタイミングでの、ペデューサーP・不在Pの新作である。
 ストーリー内容においては全く異なる両作品は、しかし一目瞭然、ある一点で共通している。すなわち、画面内に連続的な動きが一切存在しない。立ち絵も動かないし、カメラも動かない。完全な静止画像の組み合わせと切り替えだけで構成された、純然たる「紙芝居」である、という一点においてだ。
 素材面でも両者の共通性はある。どちらの作品も、08年春頃に成立した、いわゆる「基本立ち絵セット」の立ち絵のみで構成されている。ダンスから自抜きした「踊る立ち絵」でないのは勿論、より新しい「福笑い立ち絵」も、その他現在では多数にのぼる捏造立ち絵、改変立ち絵も使われていない。(一枚だけ、不在Pの「イーヤーサーサー」の響があるが…。)いわば、紙芝居クリエーターの最低限の基本機能と、最低限の素材しか使われていない動画である。

 ノベマスというものは、ようするに紙芝居でしかないわけで。我々が本来ノベマスにおいて表現したがっている・見たがっているものを、ストーリーでありドラマであり映像作品だとするならば、随分と不自由で迂遠な表現方法を使っていることになる。
 なので、ノベマスPが今日まで研究してきた表現方法の方向性の一つとして、「紙芝居を、紙芝居でないもの(PV、ドラマ、映画、アニメーション)に近づけていく」ということがある。絵を動かす、カメラを動かす、色調を補正する、エフェクトを掛ける、表情パターンを増やす、CG化する、ドット絵を使う、文字をタイポグラフィ化する、etc、etc。一般にノベマスにおいて、あの動画の演出は凄い、このPには技術がある、と言う時の「演出」「技術」は、このような「紙芝居を、紙芝居でないものに近づける」工夫のことを意味している。

 この、「演出」または「技術」は、いろいろと難しい言葉だ。
 その理由の一つ目は、上に適当に挙げたうちからもわかるように、これらの言葉が漠然と指している概念は、・「動き」を増やす ・画面の「情報量」を増やす ・画面を「美しく」見せる ・音と画像を「同期」させる といった複数の要素がはっきりと区別されないままに混在したものである、ということ。
 もう一つは、それが目に見えるものであるが故に、「演出」「技術」は動画の魅力や再生数といった動画の生む結果と結びつけて語りやすい、ということ。たとえば、そいPやひのきの薪Pや無免許P、あるいはドラム缶Pの動画が何故凄いのかを語ろうとする時、我々はまず「演出が凄い」と口にすることになる。それが一番目に見えやすく、言語化しやすいからである。(それが終わると、「あのキャラクターの描き方がうまい」「あのストーリー展開がすごい」という「物語」に注目点が移ることになる。)
 こうした視点の持ち方の延長線上で、ノベマスはどれも似たような動画ばかりで個性がない(もしくは、この動画は面白いところもあるけれど全然伸びない)→何か工夫が足りないんだろう、という言説が生じた時に、動画を面白くする・伸ばす工夫が「演出」「技術」とイコールで語られる場面が出てくることになる。

 実際のところ、ブルーバックコマンドが普及し、紙芝居クリエーター及びそのプラグインの機能拡充が進み、高価な編集ソフトを所持するノベマスPも増え、そしてそれらに対応して編集技術に熟達した制作者の数もまた増え、高度な「技術」「演出」を駆使したノベマスは、決して珍しい存在ではなくなっている。
 それに伴って、改めて確認できる事実が二つ。
 一つは、「演出」「技術」と再生数の間に相関性はない、ということ。動画の見た目を工夫するということは、見始めた視聴者の目を惹き付ける・視聴を切らさないという視点では意味があるが、動画にどれだけ人を集められるか、という視点ではほとんど意味を持たない。それらは、有り体に言えば動画の外面がどれだけ人を「釣れる」か、祭りや流行ジャンルといった環境要因がどうなっているか、作者・題材のネームバリュー、そして運、といった外部要素でほぼ決定されるからだ。
 もう一つは、演出が動画を面白くするのではなく、演出が表現したい内容と噛み合った時初めて動画が面白くなるのだという、至極当然と言えば当然の事実。実のところ、ノベマスでキャラクターが動いていたりPVのように美麗だったりすればそれだけで珍しかった時代はいざ知らず、現在のノベマス界にいる人は、作者も視聴者もそのことに勘づいていると思う。しかし我々は相変わらず、「演出がすごくて、面白くて、伸びている動画」のことを「この動画は演出がすごい。そして面白い。そして伸びている」としか語ることができない。
 問題は、「演出」「技術」が常に動画にメリットをもたらす存在として語られがちな点にある。作者の持てるリソースには限りがあって、「演出」に力を入れるとは、すなわちリソース(時間、労力、精神力、資金)を特定の場所に費やすということである。それは必ずやメリットとデメリットの両面を持つわけだが、単体の動画を中心にそれを楽しむ言説が形成されていくというニコ動の特性上、なかなかそのような視点を、動画を巡る建設的な議論に組み込んでいくのは難しいのかもしれない。

 長くなったが、「演出が凄い」動画は、その「演出の凄さ」で動画を説明され得る、と。 その一方で、ノベマスの中には「紙芝居を、紙芝居でないものに近づける」方向性を目指さずに人気を博す動画もある。2010年の代表格でいえば、ダイアルアップPの「雪ねぇの部屋」シリーズだろうか。あるいは、介党鱈Pの「ぷよm@s」は、回を追うごとに「ぷよぷよ」のプレイシーンをベースにする場面の比重が減り、そうでない「紙芝居」パートの時間的割合が増しているが、相変わらずの人気を誇っている。
 これら、「演出」によって説明できない、単なる「紙芝居」でしかない動画は、何故面白いのか。その語られ方は、先程述べた、もう一つの視点による。キャラクター描写によって、ストーリー展開によって、ギャグによって、「物語」によって説明される。
 ここにおいて気づかされるのが、「紙芝居を紙芝居のまま作品たらしめる」技術に対する、現今の言説の乏しさである。それらは、せいぜい「間」とか「テンポ」といった曖昧で感覚的な言葉でしか説明されない。あるいは、それすらも、ごく限られた特定作者の個性を指し示すための言葉でしかなくなっているように思える。
 その点で、近時投稿されているノベマス制作講座を、私は非常に興味深く思う。それはその中に、おしるP、ゆうのPという、「紙芝居を、紙芝居でないものに近づける」方向性を取っていない作者の作品が含まれ、どのようにして「紙芝居」を作るか、どのようにして「紙芝居」に適合したストーリーを構築するか、という旧来言語化に乏しかった部分が語られていると感じるからだ。

 さて、しかし、これらの動画においても、まだまだ語られていない領域が存在する訳だ。たとえば、おしるPが扱っていた、「立ち絵の選択」という話題。前の記事で述べたように、最近私は、立ち絵の選択とは、PVにおけるダンスシンクロと等しい存在でないかと考えている。しかし、ダンスシンクロという用語が長く好事家の分析の対象となってきたのに対して、立ち絵の選択という行為は、各々の作者の心中に個人的なメソッドあるいは感覚があるばかりで、それを可視化する分析は乏しい。「表示している文字に合わせて立ち絵を表示する」という単純にして根本的な行為に対して、我々はまだ何も知らないのではないか。
 そんなこと考え(ながらストレートPの動画を見ていた)折、来たわけである。冒頭に挙げた2本の動画が。
 どうも私には、この二つの動画が、「これは何も特別なことをしていない、タダの紙芝居ですよ。タダの紙芝居が何故こんなに面白いか、説明できますか?」と私に向かって問いかけているように思えてならない。冒頭に書いた「狙ったとしか思えない」、タイトルの「挑戦状」、とはそういうことである。同時にこれらの動画は、今後ゼロからノベマスPを目指す人にとっては、その道を照らし出す希望であり、最上の実習教材であり、また絶望的に高いハードルでもあろう。
 そういうわけで、この挑戦状は私が個人的に受け取ったもので、面倒なのでそのまま仕舞い込もうと思っているけれど、時を同じくしてこのような動画が出現している今だからこそ、考えてみてもいいのではないだろうか。

ダイヤモンドP MMDM@ster】 どうでもいい劇場


タダの「紙芝居」に過ぎない、ペデューサーPの、不在Pの動画を作品たらしめている原理を。いやむしろ、タダの「紙芝居」に過ぎない、これらの動画が楽しまれてきたことの意味を、と言うべきか。イーヤーサーサー。




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先達。

私はまだデビューして1年チョイで、動画も大した数は作っていませんが、
多くの先達の偉業を目の当たりにし続けている訳で、
そこには敬意と親愛の情を、あるいは時に畏敬の念を感じずにはいられません。

私の動画も、基本立ち絵を使っていないというだけで、
構造としては背景+立ち絵+文字ウィンドウの紙芝居です。
流麗な演出や動画取り込みなどもしていませんが、
それでも見てくれる方がいるというのはとてもありがたいですね。
ニコマスというフィールドは多くの価値観が集まり、共存しているので、
結果的に多様性を認め、受け入れる懐の深さが素晴らしいと感じます。

画面演出で言うと、『えのしまなう』とか、『ディライトスーパーノヴァ』とか、
弓削P作品全般とか見るたび、やっぱり素敵だなぁと思いますね。

Re: 先達。

ガルシアP、いらっしゃいませ!
おっしゃる通り、多くの先人の積み重ねの上に今のノベマスがあって、目には見えなくてもそこには確実に繋がりがあります。ノベマスを作ってきた多くのPの所業に畏敬を覚えます。

特異な演出を施されていない背景+立ち絵+メッセージウィンドウの紙芝居型ノベマスでも、そこにはそれを動画として完成度の高いものとする技術があって、たとえばペデューサーPのような人はその技術を極めている、というのが本文の主旨ですが、それを突き詰めていくと、なぜ我々はノベマスを見て面白いと感じるのか、何故ノベマスを見て画面の向こうに生き生きと動くアイドルたちを思い浮かべられるのか、という根源的な問いにつながっていく気がします。その意味でも、立ち絵を使わないガルシアPの作品が示唆するものは非常に大きくて、大変興味深く拝見しております。

画面演出について個人的なことを言いますと、ニコマスにある演出技術を総動員すると最終的にどうなるのか、というところは、例えば『3A07』なりim@s新年会の『im@s side story』なりである程度示されていると思います。なので最近は演出それ自体よりも、演出をどのように作品に生かすのか、シナリオと演出の間にどのような相乗効果、関係性を作るのか、その結果としてシリーズ全体をどのように構成するか、といった演出の周辺部に興味が向いています。名前が挙がりました『えのしまなう』で言うと、フツーPは『えのしまなう』の前に連載していた『暁のアマミハルカと蒼い鳥 』でも様々に意欲的な演出を試みられていましたが、『暁のアマミハルカと蒼い鳥 』は1年10ヶ月をかけても完結の目処が立たないまま更新中断に至ってしまい、一方で『えのしまなう』は演出に特色を誇るシリーズでありながら完結した。その違いはどこにあるのか、というようなことですね。

返信にかこつけて本記事に書き足りなかったことを付け加えるような形になりましたが、コメント、ありがとうございました!
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