雑記:時には敷居の話を


「敷居」という言葉から連想した話を思いつくままに書きました。途中で、互いに何の関連性もないことに気づきましたが、気づいたところでどうにもならないので、そのまま箇条書きで並べました。


 「敷居が高い」という言葉は、何かに参加しようとする時に心理的ハードルがあって参加しにくい、くらいの意味で使われることが多くなりました。私も最近の記事でそんな使い方をしましたが、それは誤用であって、本来の意味は「相手に不義理などをしてしまい、行きにくい」である、という異議があります。で、無論それは正しいわけです、語義的には。
 しかし、言い訳も兼ねて(笑)言えば、この誤用が広まっていくのは無理からぬことでもあります。なぜならば、現代の日本人の多くにとって、もはや「敷居をまたいで相手の家に上がる」という生活様式、それと結びついた人付き合いの感覚が、身に馴染んだものではないからです。だから、「敷居が高い」という言葉を聞いた時に、「とても失礼なことをしてしまった。もうあの人の家の敷居はまたげない」という体感的イメージを瞬間的に連想することができない。
 しかし、そうして「敷居」という言葉が指すものの生活的実感が薄れた一方で、今でも「敷居」という言葉が指す物体の物理的形態のイメージは、広く共有されています。だから、敷居⇒心理的ハードルと連想する感覚を、それは誤用だよと言う人も含めて皆が理解することができる。
 言葉とはそういうもので、常に使用者の感覚的理解に沿った形に変化していきます。有名な「情けは人の為ならず」の誤用もそうですよね。口語的な感覚で捉えれば、「為」と「ならず」の間に助詞を補って「情けは人のためにならない」と訓んでしまって無理はない。それは、「情けは人の為ならず」という言葉が当然の背景として持っていた文語表現の文法感覚が、現代人にとって縁遠いものになった以上、ある意味で自然なできごとです。
 誤用表現の普及とは、角度を変えて見れば、社会・文化の変化に対して言語が追随していくための、必然的な反応です。



「敷居の高さ」を巡ってわっと議論が盛り上がる光景を見て、私が真っ先に連想するのが、高校の文化祭であります。
 大体において、学校には文化祭なるものがあり、その文化祭を執り行う為に生徒は文化祭実行委員会というようなものを拵えて(もしくは、拵えさせられて)活動することになっています。どれくらい一般性のある体験なのかはわかりませんが、少なくとも私の所属していた高校では、文化祭を運営執行する行為には熱狂し信仰するに足る価値がある、と考える生徒が少なからずいて、そういった文化祭信者が蝟集して文化祭実行委員会という集団をなしていたのです。
 ここに、構造的問題があります。この信者集団の内部の人間にとっては、文化祭の絶対的存在価値は自明のものであって、彼らはその価値ある文化祭をより多くの生徒と共有したいと感じています。ところがこれに対し、集団外部の人間は、しばしば文化祭を学業や部活や自由時間よりも価値がある存在とは見なしません。それどころか、集団を作ってそのようなものを崇め熱狂する行動様式自体を敬遠し嫌悪することすらあります。ここに、「敷居」「内輪」「閉鎖的」「熱さ」「盛り上がり」といったキーワードが浮上し、集団内外に議論が生じることになります。

例題:「今の文化祭の熱さは内輪だけで盛り上がっている熱さで、一般生徒に文実は閉鎖的で敷居が高いと感じさせている。いかにして開かれた文実を作り、敷居を下げていくべきか」

 このように、特定集団の「敷居の高さ」が、議論すべき問題として広く生徒間で共有されうるのは、高校においてのみです。小中学校においては、学校行事は全て教師が管理しお膳立てするものであることが自明です。そして、大学においては生徒の母数が大きすぎて、行事に主体的に関与するのはごく少数の特殊な層だけがであることが、初めから明らかだからです。
 さて、長々と高校の文化祭の話をしたのは、私が昔からそのような議論に首をつっこむのが大好きだったからです。思い返すと私の高校時代の生活はすべて、「敷居」について語り合うことで費やされていた気がいたします(誇張あり)。従いまして、「敷居」について熱く語り合っている人々を見ると、自分の青春時代が蘇ってきたかのようで、胸が熱くならずにはいられません。ニコマスとは高校の文化祭と見つけたり、と。ああ青春。



 アイマスを好きになる第一の障壁とは、ファンコミュニティの閉鎖性、や、そこにいる人間の気持ち悪さ、などではありません。女の子と喋ったり触ったりするようなゲームに興味がある、そのこと自体の個人的な気恥ずかしさです。それには、人にはとてもそんなところを見せられない、という外に対する恥ずかしさだけでなく、そういう下世話なものに興味を抱いてしまう自分を心理的に正当化できない、という自尊心に対する恥ずかしさを含みます。
 ところがその気恥ずかしい興味の持ち方こそ、もっとも本能的で、多くの人(論旨上、男性のみを念頭においた話になりますが)の根底で共通する興味の持ち方でもあり、その興味の芽は潜在的に多くの人の中にあります。(潜在的に興味を惹かれる部分があるからこそ、オタク的趣味に対してネガティブキャンペーンを張る人は、ネガキャンの対象を無視できていないわけです。)
 自己の中の気恥ずかしさと、恥も外聞もなく2次元のキャラクターを楽しんでいる集団とを引き比べる時、その集団は気持ち悪く社会的に恥ずかしい存在である(ということにせずにはいられない)という、否定と排除の衝動が起こってきます。この否定衝動は、のめりこむことができずにいる人全てが潜在的に持つものです。私はこのことを、自信を持って断言できます。なぜなら、ニコマスにのめりこむ前の私自身が、アイマス動画を見ることに気恥ずかしさを感じ、3Dのキャラクターが踊っている姿に熱狂的なコメントがつく風景を気持ち悪く思い、しかし結局はその気恥ずかしい下世話な興味のために見ずにはいられなかったからです。
 この点、気恥ずかしさを既に自分の中で消化してしまった(あるいは最初から持っていなかった)ファンコミュニティ内部の人は、初心者が感じる心理的障壁なり、ネガキャン衝動が起こる原因なりの、根本的部分を見落としたまま話をする場合があるように思います。



 これは前項の話と関連。ニコマスが否定される文脈において、攻撃されるのはアイドルを愛でることであって、ニコマスPVの技術のスゴさ、とか、テキスト動画のストーリーのスゴさ、とかではありません。これはボカロでもそうですね。ボカロが攻撃される時は、「ミクとかいう2次元のキャラに熱狂するキモいオタクの集団」というレッテルで攻撃されるのであって、「VOCALOIDというツールを使って音楽を創造する」という行為の部分が攻撃されるのではない。
 それは何故か。創作という行為は、芸術的価値があり能力の高さを示すものである、という社会的認識があるからです。創作性を認めてしまうとニコマスやボカロは、「キモいオタクの集団」ではなく「クリエイティブで能力の高い人間の集団」になってしまう。(その二つは両立するだろう、という突っ込みは、非常に正当にして野暮である。)創作物のクオリティの否定・2次創作の創作性の否定・違法性の攻撃(後二者はボカロには使えませんが)といった手法もありますが、それらは既に創作の価値を認める土俵に乗ってしまっているので、否定の仕方としては下策と言わざるを得ません。
 最上にして本物のネガキャンとは、2次元キャラクターに熱狂する集団の気持ち悪さ滑稽さ社会的恥ずかしさを挙げづらい嘲笑し、それ以外の要素は全て捨象するものです。従って、(これはゲームのアイマスについても含め)ネガキャンに対して、いやアイマス(ニコマス)にはこういう良いところがある、こういう凄いところがある、という反論は、正面の相手に対するカウンターパンチとしては、ほとんど効果を期待できません。
 では、そのような反論は意味がないかと言えば、さにあらず。前項に述べたように、気恥ずかしさとそこから生まれる否定衝動は、アクティブな否定者だけでなく、広く集団外の人が潜在的に抱く感情です。アイマス(ニコマス)の魅力の主張(=創作物としての価値の強調)は、気恥ずかしさに抗してアイマス(ニコマス)に手を出すことの根拠を与えて自己正当化を助け(もしくはそこから意識を反らし)、すなわち初心者の心理的ハードルを引き下げるのです。



 せっかく高校時代の話をしたので、もう一つ、思い出話をします。こっちは中学時代のことです。

 一体どういう状況でその言葉が出てきたのかは、もう忘れましたが。
「この教室の中に一人でも俺の言葉を聞いている奴がいる間は、俺は絶対に授業をやめないよ」と、その教師は言ったのでした。
 無論、彼は教師として、教室にいる全員に聞いてもらえる授業をしたいと思い、それを目指していたでしょう。そして、現実的にその目標が果たし得ないことも知っていた。けれども彼は、たとえ自分の言葉が届かない人間がどれだけ多く見えようとも、その中に、たった一人や二人であったとしても、言葉が届く相手が必ずいることを知っていて、そしてその一人のために言葉を紡ぐことの価値を知っていたのです。
 私が学生時代に聞いた言葉の中で、もっとも忘れがたいものの一つです。

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