9/22にニコマスで書かれた文章について


 ずっと迷っていましたが、書く事にします。
 ぼかしたタイトルにしましたが、つまり、9/22に卓球Pが書かれた記事(と、その後の記事)についてです。
 ご存知の通り、炎上した記事です。炎上してどこにどう飛び火するかわからない状況になった以上、誰かがその記事の言葉とか主張そのものについて正面切って書くのは困難になっていたわけです。
 多分、今ニコマスに居続けている人の中には、いろんなことについて、言葉にしなくても広く共有されている認識が結構あって、その中で口にすべきでない部分、口にする必要がない部分は言葉にされていません。
 私がこれから書く事は、きっとほじくり返すべきでないこと、ほじくる必要のないことをわざわざほじくる行為で、だからこの文章は多くの人にとって必要のないものだし、不快だったり迷惑だったりするものかもしれません。しかし、3ヶ月黙って考えた結果、私にとっては言葉にしておかなければならないものだという結論に至ったので、ここに書いておきます。
 



・9/22の記事について

 何度もこの記事を読み直した結果、私が思うことは、「この言葉を書いては駄目だ」ということです。どの言葉がどう、とは言いませんが、こんな言葉を書いては駄目なのです。駄目、というのは私がそれを言うのを禁止するとか反対するという意味ではありません。書いてしまったらおしまい、という言葉が書いてある、ということです。
 何がおしまいなのか。
 私たちはニコマスのファン、アイマスのファンである前に、ネット上の赤の他人同士です。赤の他人同士がコミュニケーションを維持するには、守るべき建前があります。それがいかに本音で、嘘偽りない気持ちであったとしても、言葉にしてしまったらおしまいの言葉がある、そう私は思います。
 勿論、何を言葉にしたら終わりだと考えるかは人によって違うし、誰にでも好意を持ってもらえる言葉などというものはありません。私がこのブログで今までに発してきた言葉、これから発する言葉によって不快になったり悲しんだりする人も必ずや存在するでしょう。
 それでも、私はこの記事に書いてある言葉は駄目だ、書いたらおしまいの言葉だと言います。
 誰に向けて書いたつもりであったかは関係ありません。誰もがナイーブになっている時期だったから、ということは関係ありません。結果として記事が多くの煽り・荒らしのタネにされた、ということも関係ありません。たとえ書いた人がどれだけ追いつめられた精神状態にあったとしても、書かれた言葉は書かれた言葉です。
 "言いたいことはわかる"では駄目なんです。"気持ちはわかる"じゃあ駄目なんです。嫌いだと言われたら、一緒にいたくないと言われたら、あなたと私は違うと言われたら、言われたと感じた人はどんな言葉を返せば良いのでしょう。それを"気持ちは伝わった"と言えるのは、元々気持ちを共有していた人、言わなくてもわかってくれる人だけで、それは言葉によって伝えたいことを伝えたのではありません。
 ここはネット上で、顔の見えない不特定多数を相手に言葉を発する場所です。お互いに顔の見える距離で一対一で会話しているなら、議論は噛み合なくても気持ちが通じ合える、ということはあり得ますが、ネット上の不特定多数との間でそれは非常に困難です。
 その後どういう事態が起こったかとは関係なしに、この記事に書かれた言葉は使われるべきでなかった、そう私は思います。


・9/23の記事について

 9/22の記事について私が思う所は上に書いたことに尽きます。その後に書かれた記事を読むに当たっては、2つの要素を考える必要があります。あの記事で書いた言葉そのものに対して卓球Pがどう考えられたか、ということと、炎上という事態に対してどう対処するか、ということです。
 実際問題として記事は炎上し、無関係の場所にも影響を及ぼす状態になっていたわけで、事態を鎮火させる必要がありました。対処の方法として、コメント欄の閉鎖、記事の削除、あるいはブログ自体やニコ動アカウントの削除といった方法もありましたが、卓球Pはそれらを残す選択をされました。
 私は残る判断と消す判断、どちらの方がふさわしいとか賢明であるとか卑怯であるとかは思いません。どちらも等しく、大きな勇気を必要とする決断です。ただ、卓球Pのこの決断には、言葉を発した者としての、自身の責任の取り方に対する考え方が示されている、とは言えるでしょう。
 23日の記事から私が読み取れるのは、他人を傷つけたと自分でも認めている(これは10/3の記事の方ですが)言葉を発してまで訴えたかったアイマスへの思いを、間違いだった、嘘だったと否定しない意志であり、それは自分が発した言葉を無かったことにしない、という意志でもあります。逃げないという発言は、起きた事態から逃げないだけでなく、自分がその言葉を発した事実から逃げないという意味でもあると、私は捉えています。
 ただ同時に、残す以上は、継続的に炎上に対処する措置を取らなければなりません。
 逃げないという表明をしながら渦中の記事をブログのトップから移したり、その後一週間以上沈黙を守ったことは、事態を沈静化させるため、意志を貫くことと現実的な対処の間のぎりぎりの所で行われた措置でしょう。炎上直後の冷静な判断が困難であろう時期に行われた措置として、一連の行動は、炎上を引き起こしたブログ主としての最大限の努力が払われたものであったと感じます。
 最後に、「去って欲しくはない」という言葉、そして「自分の本心」という言葉について私の思うこと。
「消えろ」という言葉と「去って欲しくはない」という言葉、言葉として並べれば互いに相容れないものですが、しかし言葉にすれば矛盾する筈の感情が同居し、絡み合っているのが人間の心です。本心のままに書いた二つの言葉が全く正反対になるということは往々にしてあり、間違いなくそのどちらにも嘘偽りはないでしょう。しかし自己の複雑な感情を他者に伝えることは本当に難しいことであると、自戒をこめて思います。


・10/3の記事について

 私はこの三本の記事に表れている以外の書いた人の考えについて知らないので、あとはこの記事だけからの推量になります。
 私が自分の書いていることを、必要のないことと感じる最大の理由は、10/3のこの記事は、9/22の記事に対して私が感じているようなことは全て踏まえて書かれたものだと思うからです。
 この記事にあるのは何よりもまず、自分の発した言葉が他人を傷つけるものであったことに対する謝罪であり、後悔です。書いた人自身が覚っていることに対して私が何をか言わんや、という話ですが。
 言葉を発したという記憶、その言葉を受け取ったという記憶を消すことはできません。しかしその記憶を背負ってアイマス・ニコマスを愛し続け、ニコマスに居続ける、それがこの記事を書いた人の決断です。「失ったものや変わってしまったものがそう簡単に元に戻ることはない」、この発言を私は、取り返しがつかないことを承知の上で、ニコマスを誰にとっても楽しいものにする意志を捨てない、という意味に解します。この決断は、愛し続けること、居続けることそのものによってしか意志を果たすことのできない決断で、想像を絶する困難な道であると私は思います。
 名前を名乗るだけでニコマスに和を乱すものが吸引される、名前があるだけで不快に感じる人がいる、その中でニコマスへの愛を叫び、動画によって人を楽しませなければならない。それは確かに大変なことですが、言葉そのものから逃げられないことに比べれば本質的な問題ではありません。
 私は、罪を背負い続けるべきだ、と言っているのではありません。どうして私にそんなことを決める資格があるでしょう。誰が許すとか許さないとかいう問題ではなく、すべては言葉を発した人の心の中の問題です。だから忘れてしまえればそれが一番幸せだろうし、そうなったらそれはそれで良いのです。
 ただ、忘れることができない限り、誰にも肩代わりできないものを背負ってこの人はニコマスを歩んでいるのだな、と。その人に対して、応援しますとか、頑張ってくださいとか、楽しみにしています、と言うのはやはり、私にとっては違う気がするので。結局私に言えるのは、私は見続けます、ということのみです。誰かに対して、というよりは自分に対しての言葉ですが。私は見続けます。


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