FC2ブログ

「サッカー」と、「サッカーのようなもの」(前編)


今日の21時までに書き上げようと思っていましたが、まったく無理だったので、前半だけ上げます。
サッカーの2018年ロシア・ワールドカップのネタバレを含みません。







2007年の9月だから、今からもう一昔以上前のことである。当時、まだ週刊だった「サッカーマガジン」にコラムを連載していたスポーツライターの藤島大(当時のサッカーマガジンは、巻頭に西部謙司、真ん中に藤島大、そして巻末に武智幸徳のコラム、というのがお決まりの構成だった。)が、ある週の自分の欄に「賢き者は同じ」と題した文章を載せた。
 それは、こんな書き出しから始まる。

「いじるな、勝ってるチームを。サッカーの古くからの教えだ。正しいかは知らない。とにかく、そういうことになっている。
 上野良治を見たかった。上野良治だけを。でも出場しないだろう。なにしろマリノスは連勝中だ。」

横浜マリノスのミッドフィールダー、上野良治の話である。当時、レギュラー落ちした彼は、出場機会のない日が続いていた。果たしてこの試合も上野は控えであることを知った藤島は、ならば、対戦相手、柏レイソルのブラジル人MFフランサを見よう、と話を続ける。中盤の底で長短のパスを出してゲームをコントロールするボランチの上野と、トップ下で自由奔放でイマジネーション溢れるプレーを披露するフランサ、プレースタイルは異なる。しかし、彼らはその「賢さ」において似ているのだ、というのが、このコラムの趣旨である。

上野良治。1973年生まれ、埼玉県出身。中学、高校時代から天才ゲームメーカーとして全国的に知られ、1994年、横浜マリノスに入団。プレーのイメージは、一にも二にも、”沈着冷静”。当時、少々ボールタッチが柔らかくて、リズムが独特で、複雑なフェイントを駆使したドリブルで相手を抜いてみたり、ちょっと意表をついたパスを出してみたり……という「天才少年」は他にいくらも居たが、上野はちょっと違う。ボールを受ける時も蹴る時も、常に背筋がピンと伸びて目線が前を向き、決して前かがみの不格好な体勢にはならない。その直立した姿勢のまま、教科書のように綺麗で無駄のないフォームで、飛んできた球をピタッと止め、悠然と運び、スッと出したパスがまた狙った場所にピタッと届く。すべての動きが、シンプルで、平明で、無駄がなくて、それゆえに、美しい。
その直立した姿勢がもたらす広い視野と高い判断力は、攻撃時のゲームメイクのみならず、守備時に危険を察知して急所を埋めることにも発揮された。上背があってボディバランスが抜群だったから、空中戦やボールの奪い合いにも強く、ディフェンダーから前線までどのポジションにおいてもソツなくこなすことができた。
他方でまた、彼のイメージは、その独特の風貌とふるまいにも大きく依るところがある。とにかく無口で無表情。おおよそ、”ふざける” とか ”はしゃぐ” とか、”怒る”とか ”熱くなる” とかいった姿が想像できない、いつでも超然として悠揚せまらぬ挙措。どこを見ているのかわからない薄目にへの字の口、どんよりと生気のない顔色、茫洋として変化に乏しい表情……、長髪にしていた若手の頃、恐るべきテロ事件を起こした某新興宗教団体の「尊師」にそっくりだともっぱらの評判だった風貌は、内面を窺わせず、闘志というものを感じさせなかった。

その素質と前評判の高さにも関わらず、上野がプレイヤーとしての地位を確立したのは遅かった。(そのことと、上述したような彼の風貌と立ち居振る舞いは、おそらく密接な関係がある。)進学した大学のサッカー部ではレギュラーを獲得できず、大学を中退して入団したマリノスでも、ベンチ暮らしが続いた。高校生の時、一世代上のバルセロナ五輪予選代表(1969~1972年生まれ)にすでに招集されていた上野だが、主力となるべきアトランタ五輪の代表(1973~1976年生まれ)からは早々に外された。当時、上野や石塚啓次のような高いテクニックを持つプレイヤーをなぜ起用しないのか、と記者に問われた五輪代表監督西野朗は、”彼はボールを持っていない時は何もできない”(=守備ができない、守備時に走らない)と答えたという。(ところで、私はこの、上野を容赦なく落とした五輪代表チームが好きである。松田直樹、鈴木秀人、上村健一ら潰し屋揃いのDFを自陣前に張り付くかのように低く並べた3バックの前を服部年宏、伊東輝悦の労働者型ボランチに警戒させた上、さらにサイドにまで守備職人の白井博幸を置いて敵のエースをマンマークさせるような、身も蓋もない専守防衛戦術だったあのチームが好きである。守っても守っても後から後から侵入してくる敵を、スイーパー田中誠の芸術的なカバーリングと、怒り狂いながら飛び出してくるGK川口能活の勇気で、紙一重で防いでいたあのチームが好きである。ふんわり上げてピンポイントに落とす路木龍次の左足クロスに、特異な判断力でよくわからないタイミングでスルスル進出してくる伊東輝悦の攻め上がり、という個性的な一芸の連結でブラジルから点を取ってしまったあのチームが好きである。なるほど、今から思えばあのチームは、戦術的でも技巧的でもなかった。城彰二はいまの大迫勇也のように体を張ったが、大迫のようにボールを収めることはできず、前園真聖はいまの中島翔哉のようにがむしゃらにドリブルで仕掛けたが、中島のように敵陣を切り裂くことはできなかった。鈴木や白井の密着マークはしばしばファウルすれすれというよりファウルそのものであり、坊主頭の高校生だった松田直樹は、最終予選の最中に熱を出して寝込んでいた。おそらくもっとも”世界の通じる” 能力だったであろう中田英寿の弾丸スルーパスは、配球役のボランチも合わせる快速FWもいないチームと噛み合っているとは言い難かった。だからこそ、そうした埋めがたい能力の不足にも関わらず、”体を張って限界まで守る” というその一点を貫徹することで世界と戦える、というあのチームが示した軌跡は、私にとって脳裏に深く刻み込まれて薄れない衝撃であり、たぶん、私のサッカー観を根本的に規定している体験のひとつである。)

上野がマリノスでレギュラーに定着するのは、1997年、スペイン人ハビエル・アスカルゴルタが監督に就任した時のことである。アスカルゴルタは、それまでトップ下の攻撃プレイヤーだと思われていた上野を、中盤の底、ボランチの位置で起用した。ドリブルによる前への推進力と運動量の豊富さを持ち味とする遠藤彰弘とコンビを組んだ上野は、より低い位置に陣取ってあまり動き回らず、パスによる味方の攻撃の組み立てと、敵の攻撃の芽を摘む役割を担った。後に上野自身が、”自分は守備ができないというイメージで見られていたが、外国人のアスカルゴルタは偏見なく自分を評価して、ボランチで使ってくれた” という意味のことを語ったこのコンバートがぴたりと嵌まって、彼はチーム内で不動の地位を確立し、代表候補にも名を連ねるようになる。以後、1999年にはフリューゲルスとの合併、2001年には成績不振による降格危機と、チームの情勢は激しく変転したが、上野は中盤の主軸であり続け、2000年には主将としてリーグの前半ステージ優勝の栄誉を得た。
上野に2度目の転機が訪れるのは、2003年、元日本代表監督の岡田武史がマリノスの監督に就任した際である。この年、岡田は、それまで不動のレギュラーだった上野を干しに干した。(岡田武史と言えば、1度目に代表監督に就任した際には三浦知良と北澤豪を本選のメンバーから外し、2度目の際には直前で戦術を変えて多数のレギュラーを入れ替えたことで有名であるが、どうもあれは、冷徹にチームに与える効果を計算して実行している策略というよりも、監督岡田が”ガチで勝負に勝ちに行くモード” に入ろうとする時、やらずにはいられない発作的、衝動的な行為なのだという気がする。マリノスの場合にこの”発作” の犠牲となったのが上野良治であった。)8年ぶりのリーグ総合優勝を果たしたチームの中で、上野は途中出場の機会すらろくに与えられず、デビュー以来最低の出場時間数を記録した。(ジュビロ磐田とのチャンピオンシップの当日、彼はベンチの控えメンバーにすら入らなかった。勝利に湧くチームの中で、なんとも言えないつまらなそうな表情でつっ立ていた、背広を着た上野の姿をよく覚えている。)
戦力外通告こそ出さなかったものの、後の発言によると、岡田はこのシーズンが終わった際、上野はチームから出ていくものと考えていたらしい。しかし、案に相違して、岡田に意向を問われた上野は、来年もマリノスに残ると答えたという。”こちらは使うつもりはないんだけどなあ” と思ったという岡田は、しかし次のシーズンの始め、どういう心境の変化かいきなり上野をボランチの先発で起用する。そして、遠藤彰弘、柳想鐡、奥大介ら前年の主力が次々負傷離脱するチームの台所事情に応じて、今度は定位置のボランチに加えてトップ下からセンターバックまで、あらゆる機会にあらゆる位置で上野を使い倒す。2年連続のリーグ優勝を果たして、その最大の功労者として岡田の口から絶賛されたのは、”残っても使わない” はずだった上野良治であった。




関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Vinegar56%

Author:Vinegar56%

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
全記事一覧

全ての記事を表示する

検索フォーム
リンク
FC2カウンター
FC2カウンター
現在の閲覧者数: