「微笑ましく見守る」ということについて


この記事は、5週間ほど前の私の記事基準点との再会への、Augenblicke氏のtwitterでのコメントに対するレスポンスとして書いたものです。

レスポンスであるからには、記事としてのわかりやすさというか、どこまでが他人の書いたことを受けていて、どこからが私の付け加えた事柄か、ということを明示するためには当然、元の発言をそのまま引用した方がいいわけですが。
ただ、他方で、twitterというものは、それぞれの人が、どれくらい自分の発言を、広く他人に読まれるもの、後々まで残るものと考えて発言しているかよくわからないし、たとえばこちらはブログしか持ってなくて相手はtwitterしか持っていない、というような場合に、私は私のブログで2万字かけてあなたに言いたいことを言いましたから、あなたも何か言い返したいことがあったらあなたのtwitterで好きに言い返してくださいね、というのがやりとりとして成り立つかと考えたら、無理がありますよね。

だから、このブログは基本的に、さっきtwitterでこんな話題が流れてきましてね、とネタ振りに使うくらいのことはともかくとして、テキストとしてあれこれ細かく論じる対象としてtwitterの発言を引用することはしない、という方針でやっています。今回のように、twitter上の他人のテキストを前提にして初めて自分の書きたいことが書ける、という場合に、どうしたらいいのか、考えてはみましたが、まだよくわかりません。
とりあえず今回は、誰の何に対するレスポンスであるかは最初に示すけれども、テキストとして個別に具体的に引用はしない、という形で出してみることにします。

アケマス・無印版「アイドルマスター」と「アイドルマスターSP」のやよいシナリオ、及び、GREE版「アイドルマスターミリオンライブ!」の複数のCD・ボイスドラマ・イベントストーリーのネタバレを含みます。






長い記事なので、最初に結論と構成を示しておきます。
私がこの記事で扱うのは、誰かが誰かのことを、"子ども" "かわいい" "微笑ましい" と見なしながら接する、という事象です。
私は、コミュニケーションの当事者の一方が、そういう意識を持ってもう一方に接している場面では、しばしば双方の意志のすれ違いが起こる、と考えています。なぜならば、自分の方はものをわかっている "大人" で、相手はわかっていない "子ども" だ、という意識が、相手の立場と気持ちに対する想像力とリスペクトを失わせることがあるからです。
グリマスには、誰かが誰かのことを "子ども" "かわいい" "微笑ましい" と見なしている状態で起きるすれ違いを描いたエピソードが、少なからず存在するように思います。それは、書き手が意図的に描きこんだものであって、そうしたエピソードの積み重ねによって、キャラクターたちがそれぞれに、次第に他者への想像力とリスペクトを身に付けていく成長が描かれている、というのが私の主張です。

記事本文では、最初に、私がグリマスの中でこういうことを考え出したきっかけを述べます。次に、私が、すれ違いが描かれていると考える事例を、高槻やよい、周防桃子、箱崎星梨花という3人のキャラクターについて、順番に述べます。最後に、元記事の本題である、イベント「ようこそ♪ 聖ミリオン女学園」の中の「おじょうさま修行中!」の会話について、あらためて詳しく読み直します。
内容的には、要するに、いま書いた結論を繰り返し確認しているだけなので、同じ話の繰り返しでも退屈しない、という方だけお読みください。





発端の記事では、中谷育と水瀬伊織、エミリー・スチュアートの会話を扱っていますが、そこで私が問題にしていたのは、誰かが誰かによって "子ども" "可愛いもの" "微笑ましい存在" として認識されている・扱われている時に、コミュニケーションの中で何が起こるか、ということでした。私が、グリマスの中でそれを問題として意識し始めたきっかけは、「頭を撫でる」という行為だった気がします。

グリマスを見ていると、なんだか "プロデューサーがアイドルの頭を撫でて喜ばせる" という場面が、やたらと出てくる印象があります。なにせ、大神環、野々原茜、真壁瑞樹と、何かというと撫でられて喜んでいるキャラクターが三人もいます。
それだけでなくて、たとえばライブに出演するタイプの「イベント」だと、ステージに向かうアイドルを励ます時の選択肢として、「背中を押す」「手を握る」と並んで「頭を撫でる」というのがあって、このタイプの「イベント」をプレイすると、Pがいろんなアイドルの「頭を撫で」ている光景を延々と見続けることになります。どうもグリマスの中の「プロデューサー」にとっては、「頭を撫でる」という行為が、10歳から24歳までの幅広い個性の女の子に対して、アイドルを励ましたり、褒めたり、信頼関係を確認したりする時に、いつでも当たり前にとりうる選択肢らしいのです。

しかし、「頭を撫でる」という行為は(だいぶ昔にK_1155氏とのコラボ記事で言及したことがありますが)基本的に、立場的にも物理的にも、撫でる側と撫でられる側の力関係に差がないと成り立たないものです。「大人」が「子ども」の頭を撫でる、ということはあっても、逆は普通ありません。「主人」が「ペット」の頭を撫でる、ということはあっても、逆は普通ありません。
物理的には大きくて強い側と小さくて弱い側、立場的には "可愛がってやる" 側と "可愛がってもらう" 側、という差があって初めて、一方が一方の頭を撫でる、という行為が成立します。で、それは撫でられる側、"可愛がってやる" 対象と見なされ扱われる側にとって、当たり前に嬉しい事柄だろうか、という疑問が、私にはあるのです。

もっとも、では昔のアイマスの「プロデューサー」はアイドルの頭なんか撫でなかったかというと、そんなことはありません。無印やよいシナリオに、まさに"プロデューサーがアイドルの頭を撫でて喜ばせる" という内容のコミュがありました。


ランクAB「ある日の風景7」

やよい「プロデューサー、収録終了でーす!」
P「おつかれさま。機材トラブル、続出したのに、よくめげなかったな」
やよい「えらいですか!?」

選択肢:「えらい」

やよい「えへへー。私、こういうドタバタは、昔から慣れっこだったりして!」
やよい「弟や妹が、いっぺんに泣き出した時とかー、あわててられないですから」
P「……やよいは、長女だったっけ?」
やよい「はい。だからいつも、誰かに頼ったり、できなかったです……」
P「そうか。まあ、俺には甘えてくれよな。年齢的には、兄貴みたいなものだし」
やよい「プロデューサーが、私の……? じゃあ、一度だけ……お、お兄ちゃんって呼んでも?」

選択肢:「ああ、いいよ」

やよい「よ、よーし……。ぉ、お兄ちゃん」
P「なんだ、やよい?」
やよい「え、わ……! 私、どうしよ~」
P「今日は、よくがんばったな。ごほうびに……」

(タッチコミュ:頭を撫でる)

やよい「あ、あ……」
P「いい子いい子……」
やよい「え、えへへ、ありがと……。お兄ちゃん……」
P(うれしそうに、目を細めてる。なんか、こうしてると、本当の兄妹みたいな気分だな)


ただし、このコミュは、かなり限定された文脈の中で成り立っています。「長女」としていつでも「誰かに頼ったり」せずにふるまってきた子が、信頼関係を育んで一緒にトップアイドルに上り詰めた相手に、初めて、「一度だけ」「お兄ちゃん」として振舞ってもらって喜ぶ、というお話だからです。
逆に言えば、無印アイマスにおいては、そういう、キャラクター固有の事情に基づいた特別なシチュエーションでもない限り、アイドルと触れ合う時の選択肢として「頭を撫でる」行為が浮上してくることはありません。やよいにしても、普段彼女が「プロデューサー」に求めてくるスキンシップ、されて喜ぶ行為は何よりも、互いの手と手を合わせる「ハイタッチ」であって、頭を撫でられることではなかったのです。

ひるがえって、"子どもの頭を撫でる" ということを「プロデューサー」(や、場合によっては年上のアイドル)が当然のコミュニケーション手段として行使して、何の疑問を抱いていないように見えるグリマスの世界では、年長者と年少者の間に、どのような関係が築かれているのでしょうか。私には、グリマスの中で、"年上のアイドル(やプロデューサー)が年下のアイドルを可愛がる" という構図になっているいくつかのエピソードが、とても引っかかるのです。


たとえば、やよい。グリマスのやよいをめぐるエピソードを最初にひとあたり眺めた時、"やよいが周りの人間からモノ(とりわけ食べ物)を貰って喜ぶ" というパターンのお話が目立つように、私は感じました。 たとえばボイスドラマ「全国キャラバン編」のやよいのストーリーがそうですが、先に、無印のやよいの話を、もう少ししましょう。

やよいシナリオの中では、お金やモノをめぐる話題がしばしば出てきます。お賽銭で500円玉入れたショックで三日間寝込む(ランクF「ミーティング」)給食費が払えなくて、「一生働いてでも、返」すからとPに頼みこむ(ランクE「ランクアップ」)。
切実なエピソードの数々から、やよいがアイドルになろうと思った動機には、"お金を稼ぐ" とか"家を支える(家族を助ける)" ということが深く関わっているのだろう、と安易に想像してしまいがちなところですが、実はやよいは、無印の中でも稀なほど明確に、「アイドルになりたい」という気持ちとその理由とを明確に語っているキャラクターであって、そこで語られているのは、そうした即物的な理由とは、まったく異なった事柄です。(この点は、私自身がかつてよくわかっていなくて、K_1155氏に教えられたところです。)


ランクD「ある日の風景4」

P「なんで、こんなヘンピな場所に、連れてきたんだ?」
やよい「プロデューサーに、どうしても、見てもらいたかったんです、ここっ!」
P「ただの空き地にしか、見えないけど……」

選択肢:「思い出の場所なのか?」

やよい「はいっ! ここで……、私、はじめて、『アイドルになりたいっ』って思ったんです!」
やよい「私の家、この近所なんです。小学生の時に、ここで、町内会のお祭りがあってー……」
やよい「みんなの前で、ダンスしながら歌ったら、すっごく、盛り上がったんです!」
P「そうか……」
やよい「それで私ー、もっと、大勢の人に、楽しんでもらえたらなーって……」
P「ここは……、やよいの原点なんだ?」
やよい「はいっ。いつかチャンスがあったら、また、ここのお祭りで歌おーって、思ってたりして! 」


「みんなの前で、ダンスしながら歌って」「盛り上が」るのが楽しい、「もっと、大勢の人に、楽しんでもら」いたい、だから「アイドルになりたいっ」。それがやよいです。
ただ、複雑なのは、他方で「お賽銭500円」のコミュや「給食費」のコミュに見るように、モノやお金との付き合いは、やよいの生活とつ常に密着した問題であって、それゆえに、イベントのMCで好きなことをしゃべっていいと言われて 「地下の食品売り場で、アジが3尾158円! 特売中」だった」ことを「すごいもの」として夢中で喋る(ランクF「営業(デパート屋上)ように、彼女のアイドルとしてのふるまい、あり方を強く規定しているものでもある、ということです。

そんなやよいは、アイドルランクが上がるにつれ、プロデューサーの前で、ある行為に対する欲求、希望を示すようになります。


ランクC「ランクアップ」

やよい「あ、プロデューサー。せっかくデパートきたんだし、ゴハン食べてから、戻りませんか?」
P「いいかもな。じゃあ、メジャー出世記念に……」

選択肢:おごってくれる?

P「おごってくれる?」
やよい「え! そうしてもいいですか?」
P「え、あ、いや……」
やよい「私、一度、プロデューサーにお礼したかったんです!」
P「そ、そう? じゃあ、頼むよ」
やよい「えへへ、いっしょにたくさん食べて、もっともっと、すごいとこ、めざそーっ!」
P(こんなうれしそうに、人におごるの、やよいぐらいだろうなあ。今日は好意に甘えるか)


「お礼」をする、「人におごる」という行為です。自分が感謝している相手(「プロデューサー」)に、「お礼」の気持ちをこめて、自分の力で、モノ(とくに食べ物)を「おごる」。そんな時のやよいは実に「うれしそう」だ、と「プロデューサー」は語っています。
そして、無印やよいシナリオの最後の最後、引退コンサート後の会話でもふたたび、やよいの口から「お礼」という言葉が出てきます。


市民ホール成功ED

やよい「ありがとうございまーす! あ、そうだ! プロデューサー、話は全然変わるんですけど~」
やよい「私、これまでお世話になったお礼に、プレゼントを用意したんです」
P「プレゼント? 俺にか?」
やよい「はい! といっても、そんなにたいしたものでも、ないんですけど」
P「いったい、なにを用意してくれたんだ?」
やよい「クルミです! クルミの実……」
P「えっ!? いったい、どういう理由で、そんなものを、選んだんだ???」
やよい「ホントは、別の物を贈りたかったんです。でも、予算とか、あまりにも足りなくて……」
やよい「それで、せめて似ている物にしようと思って、クルミにしました!」
P「似ている物、ねえ……。イマイチ、つながりがわからないけど、まあ、いいか」


ユニットが解散し、「プロデューサー」との関係も一区切りになる、という時、「これまでお世話になったお礼」に、「プレゼント」を贈る。その「プレゼント」の内容は、たとえばランクDくらいのあまりうまくいかなかったユニットの場合には「クルミの実」ですが(ちなみに、グリマス終了についての私の記事の末尾で「アイドルにとっては一粒のクルミの実ほどの価値」とかなんとか書いてあるのは、言うまでもなくこのエンディングのネタです)、ユニットの成功度に応じてどんどん豪華なものになっていきます。
しかし、どの結末においても、「お世話になった」相手に、「お礼」の気持ちを込めて、やよいが自分で考えて(場合によっては、家族へも相談して)選んだモノを、自分の力で手に入れて、「プレゼント」として贈ることで締めくくりとする、という展開は同じです。

ランク外「初対面」コミュにおいて、「プロデューサー」からアイドルになった理由を聞かれたやよいは、「えっと、歌番組とか、クイズ番組とか出るの、すごく楽しそうだな~って、思って!」と答えた次に、「それから......もうひとつ、あるんですけど、そ、そっちの理由は、言うほどのことじゃ......」とお茶を濁しますが、このエンディングの展開を考えた時、ひとつの想像として、やよいが口にしなかったもう一つの理由とは、"大切な人に贈り物をしたい(できるようになりたい)" ということだった、と考えることもできるかもしれません。

さて、しかし、そのように、少なくとも無印においては人にモノを「おごる」こと、「贈る」ことを大きな望みとし、喜びとしていたやよいに対して、"やよいにモノを与える" ("やよいからモノを貰う" のではなく)ことに強く執着したキャラクターがいます。「アイドルマスターSP」の我那覇響です。

『THE IDOLM@STER SP』パーフェクトサン、やよいのストーリープロデュース、アイドルアルティメイト予選前における、我那覇響と初遭遇時の会話は、こんな風です。


響「ねえねえ、君、名前は何ていうの?」
やよい「私、高槻やよいでーすっ! よろしくお願いしますっ!」
響「やよいかー! 雰囲気が、うちのハム蔵に、似てるな! くぅ〜、かわいすぎる〜!」
やよい「ハム蔵……、ですか?」
響「そう、ハムスターのハム蔵! 小さくて、 チョロチョロしてるところとか、そっくりだ!」
やよい「うあ〜。ハムスターさんに似てるって 言われたの、初めてです!」
(中略)
響「あ、そうだ! やよいに、これあげるよっ!」
響「ほら、サーターアンダーギーだよっ!うまいぞ〜! 食え食え〜!」
響「サーターアンダーギーだよ。 沖縄の砂糖をたっぷり使った、揚げドーナツだぞ」
響「やよいは、甘いお菓子、好きだよな?  小さい子は、たいてい、好きだぞ!」


さらに、予選終了後の会話。


響「くぁ〜、やっぱ、やよいは、かわいいーっ!  765プロには、もったいないー!」
やよい「あ、響さん!」
響「ほら、新しいサーターアンダーギー!  おいしいから、食べてみて! はい、あ〜ん」
やよい「あ〜ん……」
P「2人とも、ちょ、ちょっと待った!」
やよい「あ。つい、あ〜んってしちゃいました……。プロデューサーに黙って食べちゃダメですよね?」
響「何だよーっ! オーディション終わったら、 食べてもいいんじゃないのか!?」
響「エサを与えないと、動物は慣れてくれないんだ。信頼関係を作るために、大切なんだぞ!」
P「やよいは動物じゃないぞ! いや、まあ、人間だから、動物ではあるけど」
P「とにかく、餌付けをするなってば!」
響「もう! せこい765プロは、言うことまでケチだなーっ!」
(中略)
P「なんで、そんなに、やよいにお菓子を、 あげたがるんだ、響?」
響「そんなの決まってるさー! やよいが、 かわいいからだぞ! 自分、昔から……」
響「ちょこまか動く小動物には、目がなくて。必死で生きてる感じがいいよな! あっははは!」
やよい「えへへー。そんなにほめられると、 何だか照れちゃいます〜」


響曰く、やよいは「小さくて、 チョロチョロしてる」「ちょこまか動く小動物」「ハムスター」みたいで「かわいいーっ!」。だから、響はやよいに「お菓子」を与える。 だって、「小さい子」は「甘いお菓子」が好きなものだから。だって、「エサを与えないと、動物は慣れてくれない」ものだから。
この一場面だけをもって、SPの我那覇響は、年下の女の子を、目の前にいる人間を、"かわいい小動物"としてしか見ることができず、"動物にエサを与えてなつかせる" 以外に他者とのコミュニケーションの仕方というものを知らない人間だった、と言ってしまうのは、言い過ぎかもしれません。
ただ、少なくともやよいシナリオにおいて、この後も響がひたすらにやよいに食べ物を与えようとし続けること、そして、そんな響が最終的に、やよいを自分と対等なライバルとして、尊敬すべき人間として見なすようになる、というのが、このシナリオを響の物語として見た時の大きな変化であることは確かです。

さて、グリマスです。「全国キャラバン編」シーズン4(2015年9月30日~11月29日)、やよいのショートストーリー(ボイスドラマ)は。やよい、響、天空橋朋花の3人が「高級ブランド牛の宣伝イベント」に出演する、というお話です。
このエピソードにおいて、イベントの一環で、出演者たちに牛串が振る舞われますが、やよいはあまり楽しめない様子を見せます。

やよい「でも、家族のことを考えると、私だけお肉を食べちゃうのって、悪いなーって…」

そして、やよいは、遅れてやってきた響に自分の串をあげてしまいます。
これを見た天空橋朋花が、「プロデューサー」に何事か耳打ちをします。

朋花「…あら〜、これはいけませんね〜。…ダメプロデューサー、少し耳をお借りしますよ〜。」

やがてイベントのひとつ、早食いコンテストが始まると、出場者の中に朋花と響の姿が! やよいは二人を応援しますが、やよいには、なぜ二人が懸命にコンテストに勝とうとしているのか、わかりません。しかし、二人は驚くべき奮闘を見せ、とうとう優勝してしまいます。
喜びつつもとまどっているやよいに、朋花が言います。

やよい「朋花さん、響さん、おめでとうございます! すごいです! …でも、どうして?」
朋花「目的のためなら、私はなんだって、やり遂げますよ〜」
朋花「はい。…コンテストの優勝賞品のブランド牛10kg、すべて、やよいちゃんにさしあげます〜♪」
やよい「え? ええ〜っ?」

響も言います。

響「10キロあれば、家族みーんなでお腹いっぱい食べられるぞ!」
やよい「ほ、本当にいいんですか? わたしがコンテストに出たわけじゃないのに、悪いなーって。」
朋花「そんなこと、いいんですよ、やよいちゃん。」
響「うん、気にすることないさー。それに、早食いコンテストで優勝できたのは、やよいのおかげだぞ。」

そして、お話は「プロデューサー」によるこんなモノローグで締めくくられます。

(響と朋花が優勝できたおかげで、俺達のキャラバンの知名度も上がった…。)
(その上、やよいの家族におみやげまでできた! まさに一石二鳥、みんな幸せだ!)


仕事はうまくいった。「肉」をたくさん貰えて、やよいも、やよいの家族も嬉しかろう。やよいが喜んでくれるから、朋花も響も嬉しい。「みんな」が嬉しいから「プロデューサー」も嬉しい。「一石二鳥、みんな幸せだ!」。
けれども、年上のアイドルたちが、やよいのあずかり知らぬところで、やよい自身には手に入れられないごちそうを手に入れて、やよいに与えて、やよいが食べているところを見て満足する、というこのお話、やっていることは、SP響の "小動物の餌付け" とまったく同じではないでしょうか?

いえ、「全国キャラバン編」の朋花・響と、SPの響が同じだとは言いません。グリマスの二人は、やよいがどれだけ頑張っているか、どれだけ周りを思いやってくれているかを知っていて、やよいに感謝しているからこそ、自分たちが頑張ってやよいに「プレゼント」して喜んでもらおう、と考えたのですから。
そして、「ブランド牛10kg」を貰って、「家族におみやげまで」できて、やよいが喜ばなかったわけでもないでしょう。SPの時だって、やよいは響の「小動物」扱いに対して気を悪くした様子はなかったし、珍しい、おいしい食べ物を食べられることを、純粋に楽しんでいる様子でした。

けれども、そのことと、やよい自身が、仲間と一緒に、好きな人と一緒に、いちばんやりたいことはなんだろうか、ということは、別の問題です。
私はつい、こんなことを思ってしまいます。やよい自身にとっては、自分が知らないうちに仲間が勝ち取ってきた商品を「わたしがコンテストに出たわけじゃないのに、悪いなーって」思いながら受け取るよりも、3人でコンテストに出て優勝賞品を勝ち取ろう、と誘われて、一緒に頑張る方が楽しかったんじゃないだろうか、と。「優勝賞品のブランド牛10kg、すべて、やよいちゃん」にくれる、と言われるよりも、この賞品の牛肉で、みんなで楽しくパーティーをしましょう、と言う方が、嬉しかったんじゃないだろうか、と。

最初にこのエピソードを見た時は、グリマスの世界では、高槻やよいというキャラクターは "食べ物をあげると喜んでくれる可愛い子" でしかないのだろうか、とだいぶ失望したものでしたが、今は、そうではなくて、喜んでもらおうとしている年上の子(天空橋朋花と我那覇響、と、「プロデューサー」)と、されている年下の子側(やよい)の意識のすれ違いまで含めて、計算して描かれたエピソードだったのではないか、と考えています。
何故ならば、2017年の伊吹翼誕生祭(7月30日)における、やよいと翼の次の会話があるからです。


やよい「翼ちゃん、お誕生日おめでとうっ!  今日は翼ちゃんのために大大大奮発して、 ビーフステーキを作ってご馳走しちゃおうかなーって!」
翼「え! ホントに!? ありがと~♪ やよいちゃん、ご飯の前に、みんなで一緒に遊ぼ~?  いっぱい遊んで、お腹ペコペコにしなきゃ~! えへへ♪」


「翼ちゃんのために」、(自分が)「大大大奮発して」、(自分で)「ビーフステーキを作って」、「ご馳走」する。「全国キャラバン編」では "やよいちゃんのため" に頑張った仲間たちの「ご馳走」を受け取って、家に持ち帰るだけだったやよいが、ここでは、仲間のために自分の力で「ご馳走」する、という立場に回っています。言われた翼の側も、驚いたり、心配したり、すまながったりする様子はなく、「みんなで一緒に遊」んで、「お腹ペコペコにし」よう、という、やよいにとってもいちばん嬉しいであろう反応を、ごく自然にしています。

両者で「ご馳走」の内容が「牛肉」で共通していることも含め(いや、そもそものネタの淵源は例の「うし、うしを使う」だったりするのかもしれませんが)、2017年になって反対の構図のエピソードが描かれたのは偶然ではなくて、二つのエピソードの間でのやよいの立場の変化、やよいと仲間の関係の変化を表している、と考えてもいいのではないでしょうか。「全国キャラバン編」の時点での朋花と響は、やよいのためによかれと思って精一杯のことをしていました。けれども、やよいの側の気持ちを充分に想像できていない部分があったし、やよい自身も、自分の側から「プレゼント」「ご馳走」をしたい、という望みを素直に口にしたり実行したりできる状況にはなかった。それに対して、2017年7月時点のやよいは、自分の望みを当たり前に実行できているし、やよいの周りには、互いに感謝しあい、楽しみを分かち合う関係が築かれているのだ、と。


あるいは、周防桃子。桃子と、周囲の年上のアイドルとの距離が近づくにつれて、年上の側が桃子を子ども扱いしだす傾向がある、ということは前に書きました。
たとえば、CD「THE IDOLM@STER LIVE THE@TER PERFORMANCE」(2014年3月26日発売)の閉幕後の会話です。
終演後に楽屋で会話する桃子、雪歩、ロコ、二階堂千鶴。桃子のとある発言をきっかけに全員が爆笑し、笑い声が響き続ける中、次の台詞があって幕切れとなります。


桃子「ちょっと、なんで笑うの!」
ロコ「それは桃子がチルドレンだからです!」
桃子「ち、チルドレンって…、なに?」
雪歩「やっぱり桃子ちゃんは、子どもだよね」
桃子「ちょ、ちょっと雪歩さん? もう、桃子は子どもじゃないよ! もう、大人なんだからー!」


これは、この直前まで桃子が得意気に雪歩をやり込める調子だったのが、土壇場で力関係がひっくり返る、というオチなのですが、それにしても、雪歩が桃子に真摯に向き合うことで桃子が変化して心を開いていく、という明快な筋を描いていたドラマの、最後の最後を締めくくる言葉が、よりによって当の雪歩による「やっぱり桃子ちゃんは子ども」発言というのは、なかなかがっくり来るものがあります。

ただ、やよいの牛肉話と同様、桃子と雪歩のこの会話も、ゲーム内の別のエピソードに接続している、と考えることができます。ほぼ同時に公開された、イベント「大合奏! アイドルシンフォニー」(2014年3月13日〜24日)における次の会話がそれです。


雪歩「桃子ちゃん、ありがとう…。私、桃子ちゃん達のパーカッションに何度も助けられた気がするよ。」
桃子「桃子がリーダーなんだから、トーゼン…じゃなくて! えっと、今日は桃子もみんなに助けられたよ?」
桃子「それに、雪歩さんの演奏もいいところがたくさんあったよ? もっと自信持っていいと思うな。」
雪歩「えへへ…なんだか桃子ちゃんがいつもより大人っぽく見えるね。何かあったのかな?」
桃子「べ、別に何もないよ? それより練習しよ! みんなで話し合って、次はカンペキにできるように、ね?」
雪歩「やっぱり、大人っぽい…。桃子ちゃんも成長してるんだなぁ…私も、頑張るからね、桃子ちゃん!」


桃子の「大人っぽ」さ、「成長」を感じ、自分も頑張ろうと考える雪歩。LTP12では「子ども」と見なすことで自らの安心を得ていた桃子の言動から、雪歩が学んだり勇気を得たりしているこの会話は、桃子のみならず、雪歩の側の内面的な成長をも表しているように感じます。
逆に言えば、「全国キャラバン編」の朋花や響と同様、LTP12の雪歩もまた、完璧なよくできたお姉さんだったのではなくて、未熟なところ、未完成な部分があって、まだまだこれから変化していく可能性がある人間、として描かれていたのではないだろうか。そう考えると、私にはLTP12のオチがしっくりくるのです。

桃子を「子ども」扱いして可愛がる年長者は、雪歩だけではありません。「プラチナスターライブ編」シーズン3(2014年9月29日〜11月27日)のユニット「リコッタ」の面々は、雪歩よりも盛大に、桃子を "可愛い子ども" 扱いします。しかし、「リコッタ」の場合も、最初からそうだったわけではありませんでした。
「リコッタ」のストーリー(ボイスドラマ)の第1話、初顔合わせにおいて、自分たちの作る公演はこれまでの公演と同じであってはならない、という桃子の演説を聞いた年上のメンバーたちは、感銘を受けます。


春香「すごいな…桃子ちゃんはさすがだね! その通りだと思う。本当に、第一弾と第二弾を超えるって気持ちでやらないと、お客さんにも…千早ちゃん達にだって、失礼だよ。」
桃子「え、あの…桃子に気を遣って言ってるんだったら、そんなのは別に…。」
福田のり子「いや、気を遣ってなんかないよ、桃子! さっきだまっちゃったのは桃子の意見に感心したせいだから。桃子の言ってること、正しすぎるよ! アタシの考えが甘かった!」
横山奈緒「確かに、新しいもんみせていかんと、お客さんは納得してくれへんやんね。つまらんわー、金返せーって言われてまうとこやったわ〜!」
松田亜利沙「ありさ、桃子ちゃんのプロ根性に感動しました…! 桃子ちゃん…いえ、桃子センパイと呼ばせてくださいっ!」
(中略)
のり子「桃子、これからもアタシ達にいろいろ教えてよ。頼りにしてるからさ!」


さらに2話、初めてのレッスンの際には、皆がこぞって桃子にアドバイスを求めます。


のり子「へえ…すごいな、見違えたよ。亜利沙、桃子の言う通り、いい声してるよね!」
亜利沙「えっ…! そ、そうですか…?」
のり子「うんうん。今みたいに自信持って歌ったほうが絶対いいって!」
亜利沙「ありさ、のり子ちゃんにほめてもらっちゃいました…! 全部、桃子ちゃんセンパイのおかげカモ…ムフフ♪」
のり子「桃子も、的確にアドバイスできてすごいじゃん! ねえねえ、アタシは? どうすればもっとうまく歌えるかな?」
奈緒「あっ、ええな〜っ! 私も桃子にアドバイスしてもらいたいわ〜。」


1話では「みんなプロ意識低すぎ」、2話では「もう、みんな全然ダメ」と、桃子が意見を求められて最初に口にする言葉は、とてもとげとげしくて上から目線です。しかし、のり子たちは、そういう桃子の態度、習性に対していちいち目くじらを立てるのではなく、そうした表層的なふるまいの内側にある、仕事への熱意の強さ、考えの鋭さ、知識の確かさ……桃子の中のいいところを最大限に見出して、それを評価していること、尊敬していることを伝えるのです。

では、そんなコミュニケーションから始まった、桃子と他のユニットメンバーの関係は、過ごす時間が長くなり、いろいろな苦難を乗り越えた結果、どうなったでしょうか?
公演本番直前の第8話で、2話の時と同じ調子で「センパイ」として指導を始めた桃子に対して、奈緒はこんな反応します。


桃子「桃子がいない間、ちゃんとストレッチやってた? あと発声のコツも、桃子教えたよね。考えなくても、できるようになってる?」
奈緒「あぁ〜もう、戻ってきたとたんにうるさいわ〜。こないだまでは、おとなしくてかわいかってんけどな〜?」
桃子「う、うるさいの、奈緒さんは!」
P「あははっ! 照れるな、照れるな、桃子!」


「うるさいわ〜」というからかいの返答、そして「かわいい」もの扱い。
さらに、公演終了後の第9話、全員で遊園地に行っての会話。


桃子「みんな、ジェットコースターくらいで怖がりすぎだよ。座ってるだけでいいんだから、ライブよりも疲れないでしょ? そんなの、桃子は楽勝だよ。」
奈緒「身長制限にひっかかって乗れんかった桃子は、余裕やなぁ♪ ほな次は、桃子にも乗れる絶叫系…行ってみよか?」
桃子「うっ…。も、桃子はカメラが回ってなかったら、怖がってる演技なんてしないからね?」
のり子「ほほぉ…なら演技じゃない、マジもんの絶叫を、桃子に味あわせてあげたいな〜♪」
桃子「な…なにする気なの、のり子さん…。」
(中略)
奈緒「桃子、よかったな? 絶叫マシンに乗らんですんで。」
桃子「だから、桃子は別にジェットコースターでも大丈夫だったってば!」
(中略)
桃子「えっ、春香さんのおべんとうがあるの?」
のり子「おおっ、桃子は春香のお弁当で釣れるのか〜。案外カンタンな子だよねぇ、桃子は!」
桃子「し、失礼なこと言わないで!」


8話以降、桃子の発言を "大人ぶった生意気な言葉" として扱い、桃子を"実は可愛らしいお子ちゃま" としてイジる、からかうのが、奈緒やのり子の、桃子に対する接し方になっていることがわかります。そして、「な…なにする気なの、のり子さん…。」という台詞に表れているように、複数人で連携して遠慮なしにイジりに来るようになった高校生たちに対して、ときに桃子がおびえていることもわかります。最後にメンバーたちが、私たちは「家族」で、その中で桃子は「子ども」、という会話をして、「リコッタ」のストーリーは終わります。

まあ、周防桃子の見栄と虚勢で張り詰めた言動に対して、周りの人間がいつでも桃子の都合のいいように素直に受け取ってくれるわけではないことを知る、というのは、桃子に対する"教育" としては意味のあることでしょうし、もちろん、奈緒やのり子は難しいことを考えて桃子に対する態度を変化させたわけではなくて、ただ単に桃子に対する親愛の感情を素直に表現しているだけなのでしょう。
けれども、気になるのは、第一に、出会った当初の奈緒やのり子はあった、桃子の言葉の中のいいところをちゃんと褒める、という態度が、「子ども」扱いを前面に出すようになってからは消え失せてしまう、ということ。第二に、自分にとっては親しみをこめた軽いじゃれ合い、のつもりのふるまいによって、相手が感じているかもしれない怖さや恥ずかしさ、辛さを、奈緒やのり子は感じ取っていたのだろうか、ということです。

周防桃子関係でもう一つ。イベント「鬼だらけ! アイドル節分パニック」(2015年1月29日〜2月8日)。
劇の主役になって意気込む桃子ですが、いざ鬼ヶ島に乗り込んでみると、鬼役のやよいは歓迎会を始めるわ、ボスの天空橋朋花はやってきた者をみんな鬼の仲間にすると言いだすわで、なし崩しに大宴会になっておしまい。そのまま打ち上げの席になって、桃子は不満をつぶやきます。


桃子「はあ…。桃子、せっかく主役に抜擢されたと思ったのに、こんなグダグダになっちゃうなんて…。」
桃子「だいいち、これなら豆なんていらなかったじゃない…ブツブツ」
朋花「さあさあ、打ち上げですよ〜。桃子ちゃんも、私の特製恵方巻きを召し上がれ〜。…あーん♪」
桃子「うう…も、桃子は、食べ物なんかでだまされたりしないんだから…んっ! …お、おいし…………はっ!」
朋花「おいしいですか〜? おかわりはまだたくさんありますからね〜。」
桃子「…………そ、それより! 朋花さん、演技上手なんだね。本物の鬼みたいだったよ!」
朋花「うふふ、ありがとうございます〜。桃子ちゃんに褒めていただけるとは、思ってもみませんでしたよ〜?」
百瀬莉緒「あーあ、桃子姫ってば鬼の女王に手懐けられちゃったわね…。でもコレ、おいしいから仕方ないわね♪」


百瀬莉緒がわかりやすく総括しているように、意地を張っていてもなんだかんだでお子ちゃまな桃子が、海千山千の天空橋朋花に手玉に取られて「餌付け」されてしまって、八方丸く収まった、そんなお話に見えます。
けれども、桃子の言葉には続きがあります。

桃子「…桃子は別に、鬼の女王に負けたわけじゃないからね! 恵方巻きで買収されたんでもないんだから!」
桃子「やっぱり、天空騎士団の人達で討伐隊を組織したのが間違いだったんじゃ…。」
朋花「うふふ。騎士団のみなさんと私の絆は、たとえ敵味方に引き裂かれたとしても、不滅なんですよ〜。」
桃子「…お兄ちゃんはこれはこれで新鮮でいいって言ったけど…、桃子は納得してないからね!」
桃子「こんなの、桃子の女優としてのプライドが許せないの! 次は絶対、ちゃんとした劇にするんだから!」


本当は、最後まで、桃子は納得していないのです。
桃子が納得できないのは「劇」の出来、仕事のクオリティです。そこで、「リコッタ」結成時の桃子ならば、もう、鬼役のみんなは全然ダメ、プロ意識低すぎ、と突き放していたかもしれません。
ところが、「アイドル節分パニック」の桃子は、決して共演者を責めようとはしません。それは、鬼役の朋花も莉緒も春香もやよいも、それぞれはよかれと思ってやりたいことをやっただけであって、悪気はないと理解しているからです。自分は納得がいかなくとも、自分の感じ方だけが絶対ではなくて、「これはこれで新鮮でいい」と感じる人がいることを知っているからです。そして、「劇」全体には不満があっても、朋花の演技は素晴らしいと思ったから、その点は率直に賞賛する。けれども、桃子自身の決意としては、次はもっときちんとプランを練って、「ちゃんとした劇」を作りたい、と言っているのです。

……まあ、私はどちらかと言うと、この展開を実際に芝居として見せられたら、「これはこれで新鮮」というよりは「こんなグダグダ」に感じるだろうな、と思うので、桃子に肩入れしたくなるのですが、それは好みの問題として。このエピソードは、莉緒の総括とは裏腹に、桃子の側が相手の立場と心情を慮って一歩引くことで、誰も傷つけずに穏便に場を収める(それが良いことか悪いことかは別として)、というお話なのだと思っています。

LTP12から「アイドルシンフォニー」では、雪歩の桃子に対する見方、接し方が、"かわいい子ども" から "尊敬すべき一人前の相手" へと変化します。「リコッタ」では逆に、関係が深まるにつれ、奈緒やのり子が桃子を "かわいい子ども" として扱おうとする側面が立ち現れてきます。「アイドル節分パニック」では、桃子の側が、自分を "かわいい子ども" として扱おうとする朋花や莉緒の中にある善意や熱意を汲み取ります。
必ずしも、全てのエピソードを通じて、時系列に沿って一直線に成長や関係の進展が描かれているわけではありませんが、いずれのエピソードにおいても、他人の立場と心情に対する想像力をどう働かせるか、という事柄が、お話の核心にあると言えるでしょう。


あるいは、箱崎星梨花。
たとえば、「劇場版発表記念ドラマキャンペーン」の箱崎星梨花編(ボイスドラマ)(2013年11月11日〜17日)で、「大人」になりたい、「世の中」のことを知りたい、と考えた星梨花は、「大人」らしく「業界用語」を知りたい、「大人」らしく「接待」をしよう、などと思いつくごとに、それはやらなくていい、と「プロデューサー」になだめすかされます。
最終的に、事務所の他のアイドルたちに「大人」のなり方を聞いて回って、それを文章にまとめて学校で自由研究として発表した星梨花は、「みんな不思議そうな顔をしていた」けれども先生が「字が力強い」と褒めてくれた、と「プロデューサー」に報告します。

このエピソードに典型的なように、箱崎星梨花をめぐるエピソードには、星梨花が世間知らずであるがゆえにとっぴな想像をしてとんちんかんなことを言ってします。でも、誰もそのおかしさを突っ込まない、何がどうとんちんかんなのか説明しない、という構図になっているものが時々あります。こんなお話は星梨花にはまだ早いんじゃないかしら。星梨花はこんなことを知らなくていいんだよ。
その展開を、無邪気でいてほしい、汚れを知らない天使のような存在であり続けてほしい、という、周囲の年上の人間たちの星梨花に対する願望を守るための扱いである、と言い切ってしまうのは極論かもしれません。
ただ、私は、グリマスにおいて、箱崎星梨花という人間が本来内面に持っている強さや思考力(上記の劇場版発表記念ドラマにしても、星梨花は、途中で理由を説明してもらえなかったあれこれのことがわからないまま、わからないなりに、「大人」になることの難しさを自分なりに学んでいるます)に対して、周囲の人間が星梨花に持っているイメージ、星梨花への扱い(それは、人気投票、選挙運動となると「妖精」とか「妹」とかの役に箱崎星梨花を押し込もうとせざるを得ない、という、作品世界の外側にある事象も含めて)が制約をかけて、充分に発揮させきらなかった部分があるのではないかと感じていて、それが少し、残念なのです。


以上、高槻やよい、周防桃子、箱崎星梨花の例を通して、グリマスの中で、年長者が年少者を "子ども" 、"かわいい" もの、"微笑ましい" ものとして見なして扱う時に起こる、両者の意識のすれ違いについて考えてきました。
元記事を書いた時、背景として私の頭の中にあったのはこうした事柄で、「ようこそ♪ 聖ミリオン女学園」の会話を読んだ際にも、中田育(10歳)という年少者と、水瀬伊織(15歳)、エミリー・スチュアート(13歳)という年長者の間にすれ違いがあるのではないか、ということが気になったのです。
それでは、本題の会話について、いま少していねいに見ていくことにしましょう。

この会話について、次のような疑問があるかもしれません。育が「おじょうさま」らしくなりたいのだとして、指導を頼む相手がエミリーや伊織なのは何故なのだろうか。たとえば、篠宮可憐や二階堂千鶴に聞く、という選択肢はなかったのだろうか。彼女たちには聞かず(聞けず)に、とっつきやすそうなエミリーや伊織にだけ聞いている、というのは、育の気持ちの弱さや、思考のピントがズレていることを表しているのではないだろうか、と。

まあ、「オフショット」というのは断片的な会話で、どういう理由でこの組み合わせのメンバーが喋っているか、ということは説明されないものなので、真相はわかりません。「聖ミリオン女学園」での育の相談相手がエミリーと伊織なのは、育にとってこの2人がとりわけ親しみやすい相手だったからなのかもしれませんし、たまたま仕事上の都合で居合わせていたのがこのメンバーだっただけなのかもしれません。

ただ、この会話の場合、育が質問する相手として、なぜ他のアイドルではなくエミリー(と伊織)こそがふさわしいのか、という点は、会話の中で示されていると考えます。
元記事では省略した、会話の冒頭部分を引用します。


「ようこそ♪ 聖ミリオン女学園」(2015年10月14日〜25日)
アイドルオフショット「おじょうさま修行中!」
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会話中、育が最初に尋ねたのは、「行く」という動詞をおじょうさまらしく表現するにはどんな言葉がいいのか、ということで、尋ねた相手はエミリーです。後で見る後半の会話でも、育が具体的に教えてほしいと頼んでいるものは「おじょうさま言葉」です。育の関心は、なんとなく漠然とお嬢様らしくなりたい、ということではなくて、「おじょうさま」役を演じるのにふさわしい言葉遣いを身に付けたい、という具体的なこと。だから、質問する相手は他の誰彼ではなく、言葉に関心があって語彙が豊富なエミリーであり、喋りが達者な伊織なのです。
従って、私は、この会話がこの取り合わせになったのは偶然の成り行きではなく、育が意識的に、教えを受けるのにふさわしい相手を選んだ結果だったのだろうと思っています。育と同様に、「お嬢さま」の演じ方について周りの年長者に尋ねるお話になっている、周防桃子、大神環の「オフショット」の内容が、傍証になるになるのではないでしょうか。


オフショット「演技vs本物!」
桃子「ミルフィーユをお嬢さまっぽく食べるやり方なんて、桃子わかんない…。どうしたら、キレイに食べられるの?」
四条貴音「そう気負わないことです、桃子。自然な振る舞いこそが、もっとも美しく見えるもの…。」
桃子「自然に、か。たしかに貴音さんは、ラーメンをすすっても、優雅だよね。」
箱崎星梨花「わたしも、そう思います! 自然にしていれば大丈夫だよ、桃子ちゃん♪」


オフショット「お嬢さまの品格」
大神環「じゅりあ、お嬢さまらしくって、どうすればいいの? たまき、よくわかんないよ〜!」
ジュリア「あたしにも、見当つかなくてつぁ…。制服はなんかヒラヒラしてるし、こういうのガラじゃないんだけど。」
環「じゅりあもわからないの? なんか、むずかしい…。」


桃子が悩んでいるのは「ミルフィーユをお嬢さまっぽく食べるやり方」で、聞いた相手は貴音。環の方は、「お嬢さまらしくって、どうすればいい」のかがわからない、言っていて、相談相手はジュリアです。
育が知りたいのは言葉遣い。だから、聞く相手はエミリー(と伊織)。桃子が知りたいのは物腰、ふるまい方、なかんずく、ものを食べる時のふるまい方。だから、聞く相手は貴音(と星梨花)。この二人は、具体的に学びたい課題が定まっているので、それを教わるのにふさわしそうな相手を自分で選んでいる。一方で、そもそも「お嬢さま」「お嬢さまらしさ」とはどういうものなのか見当がつかない環は、とりあえず信頼している人、頼れる人ということでジュリアに相談して、相手もわからないと知って困惑している。そう考えることができるのではないでしょうか。

続けて、後半部分も見ていきましょう。


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後半の疑問点として、本物のお嬢さまである伊織やエミリーからすれば、「おじょうさま言葉」を喋ろうとして言い間違える育の姿は、かわいらしく、ぎこちなく見えるだろうし、「おじょうさま」について育が言っていること、思い描いているものがとんちんかんだと感じているだろう。しかし、二人はそういうかわいらしさ、ぎこちなさ、とんちんかんさを含めて育のよさ、魅力だと思ってあたたかく見守っているのだし、他方、この二人は自分自身の経験を通して、「本物のおじょうさま」になる、ということ、「本物のおじょうさま」になろうとする、ということを無邪気に素晴らしいことだとは考えていないからこそ、このような態度を取ったのだろう。それを、単なる意地悪のように評価するのはどうだろうか、ということがあるかもしれません。
前半はいったんおいて、後半は、私の元記事の中では、

まあ、伊織にしろエミリーにしろ、「おじょうさま」らしくふるまう、ということ、さらにはそれを演技として、仕事として行う、ということには何かしら思うところがあるのかもしれません。

と書いたところですね。まあ、グリマスの中の彼女たちが自分の家とか立場についてどう考えているのか、私はあまりよく掴めていないのですが、少なくとも、意識的に大人の前で "かわいらしい小悪魔なお嬢さん" を演じていて、自分の家の広い庭をさして、ここには私のものは何一つない、と言っていたりした無印の伊織を考えれば、「本物のおじょうさま」になれるかな? と育に聞かれて、そいつは素晴らしい思いつきだ、是非とも「本物」になりなさい、と思うはずがないのは当然のことです。

しかし、私が問題にしているのは、元記事で続けて書いた、

が、だとすればなおさら、なぜ「そこまで頑張らなくても、いい」のか、「今のままが一番」なのか、という点こそが言葉を尽くして相手に伝えるべき部分であって

という事柄です。いったい、育よりも「大人」で「本物」でものをわかっているにちがいない伊織とエミリーの深謀遠慮を育に伝えるのに、この場面での彼女たちの言動は最善の伝え方だったと言えるでしょうか?

育の側からしてみると、この会話で伊織からもらった最初の反応は、"台詞を喋ったら笑われた" ということであり、お次は "仕事を頑張りたいと言ったら、頑張らなくていい、できないままでいいと言われた”、というものです。
後半の会話は、育が "「おしばい」の中でちゃんと「おじょうさま」を演じられるかどうか"、と、"育自身が「本物のおじょうさま」になれるかどうか"、という、レベルの違う話が混在しているので、解釈が難しいところがあります。ただ、素直に読めば、エミリーの「育さんは、今のままが一番」は "「本物のおじょうさま」になれるかどうか" という問いに対する返答でしょう。他方で、伊織の「頑張らなくていい」「ぎこちない方がカワイイ」は、「本物のおじょうさま」になんかならなくていい、それのみならず、「おしばい」の中でも、おかしな言い間違いをするようなぎこちない演技のままでいい、と言っているように読めますし、エミリーも「私も伊織さまのご意見に賛同」と言っているので、まるごとそれに同調しているようにも読めます。
普通、練習しているところを笑われて、そしてその笑われるような演技のまま改善しなくていいんだ、と言われて、なるほど、言った側にはいろいろ深い考えがあるからこんなアドバイスをしてくれるんだな、と思えるものでしょうか?

ここで、さきの桃子・貴音・星梨花のオフショット「演技vs本物!」の続きを見てみます。


桃子「貴音さんも星梨花も、元からお嬢さまっぽいもんね。ふたりは、それでいいかもしれないけど…。」
桃子「…でも、桃子はプロなんだから。本物以上に、お嬢さまらしく演じてみせなきゃ!」
貴音「なるほど…桃子の心意気には、いつも感銘を受けます。ならば、私も付き合いましょう。」
星梨花「わぁ、いいな桃子ちゃん! 貴音さんに演技指導してもらえるなんて、楽しそう!」
桃子「た、楽しいわけないじゃない! お仕事のために、演技の勉強をするんだから…。」
貴音「もちろん、学びも大事ですが…。お茶とみるふぃーゆが美味であることを伝えるのも、大事です。」
桃子「お嬢さまらしく、おいしそうに…なんか、どんどん難しくなってきたかも…。」
星梨花「でも、楽しそうですね! 貴音さん、わたしもご一緒していいですか?」
貴音「もちろん、そのつもりでしたよ。さあ、皆でお茶とお菓子に、舌鼓を打つといたしましょう。」
桃子「まぁ、貴音さんがそういうなら…。でも演技のことも、忘れないでね!」


貴音は、何かをする時に大事なことは「自然な振る舞い」であり、ものを食べる時に大事なことは、食べ物のおいしさを伝えることだ、と考えています。前者については「本物らしく演じること」、後者については「仕事のために勉強すること」が大事だと考えている桃子とは、どちらの点についても考えが異なっています。貴音目線で見れば、桃子の「お嬢さま」観はピントがズレている、ということになるでしょう。
けれども、貴音は、互いの考え方の違いは違いとして、そこにある桃子の「心意気」、真剣さを賞賛するのです。貴音にしても、別に、なぜ「自然な振る舞い」がいいのか、「美味であることを伝えのも、大事」なのか、理屈立ててとうとうと解説したわけではありません。ただ、貴音は相手の「心意気」に対するリスペクトを忘れないから、あなたの考え方は素敵だし私も学ぶところがある、でも、それはそれとして私はこういうことが大事だと思う、という伝え方をするのです。
その、相手の「心意気」をリスペクトする、というシンプルな1アクションが、育の周りの人間にもあったならば、"ちゃんと「おじょうさま」を演じようってあんたの心意気は素敵よ。でも、私はこういうことの方が大事だと思う" という伝え方になっていたのではないでしょうか。

それでは、特段、そういうリスペクトを言葉で示すことなく、「そこまで頑張らなくていい」「ぎこちないほうがカワイイ」「今のままが一番」という、自分の立場から見えた結論だけを率直に示した二人の意見を、育はどのように受け取ったのでしょうか。
元記事では「「教えて」「協力してね」と笑顔で言」った、と簡単に要約してしまったので、わかりにくかったかもしれませんが、最後から2番目の、「もー! ふたりとも、そんなこと言わないで! おじょうさま言葉、教えて!」という台詞において、育がムッとした表情をしていることがわかります。明らかに育には、二人の言葉と態度に、納得のいかない部分があったのです。
けれども、次の「わたしちゃんと「おじょうさま」になるの! だからエミリーさんも伊織さんも、協力してね!」という台詞のときにはもう、明るい表情に戻っていて、彼女が、ふくれっ面で不満たらたらで二人を責めた、ということではないわけです。

興味深いのは、育の最後の台詞では、「「おじょうさま」になるの!」の「「おじょうさま」」が、カッコつきで表記されていることです。前の方で「本物のおじょうさまになれるかなあ?」と言った時の「本物のおじょうさま」には、そのような特別な表記はなされていませんでした。
従って、この表記は、ここで言う「「おじょうさま」」が第一義的に "「おしばい」の中で演じる「おじょうさま」役" を指していることを表す、と考えることができるのではないでしょうか。一つ前の台詞も、あくまで「おじょうさま言葉」という特定の技術を教えてほしい、という内容であって、"おじょうさま事情全般" を話題にしているのではありません。
すなわち、育はここで、自分が「本物のおじょうさま」になれるかどうか、を問題にしているわけではなく(そこから、「本物のおじょうさま」になりきることについて、育が二人の反応から何かを感じ取ったのではないか、ということは、もちろん考えられるでしょう)、自分が「本物のおじょうさま」になることに二人が賛成しない、味方しない、と怒っているわけではないのです。

けれども同時に、育は、二人の意見の中で、仕事において「頑張らなくて」いい、「ぎこちない」ままでいい、と聞こえる部分については、きっぱりと否定しています。私は「ちゃんと」「おしばい」をやりたい。「ちゃんと」「おじょうさま」を演じたい。そのために、「ちゃんと」「おじょうさま言葉」を身につけるために「がんばる」。だから、「おじょうさま言葉」の練習には「協力してね」、と。
もちろん、育がそのことを、怒り出したり意固地になったりせず明るく伝えているのは、二人を信頼していて、二人の言葉の自分にはよくわからない部分も、好意と善意から出たものだと信じているからでしょう。(いったい、この記事を通じて、悪意をもって誰かに意地悪をしているキャラクターなんて、どこにも出てきません。まさにその、"悪気があってやっているのではない" ということこそ、私がずっと問題にしていることの一部です。)
そしてもちろん、育はここでの二人との会話を通していろいろ大切なことを学んだでしょうし、「おしばい」で立派に役をこなせるようになったことでしょう。しかし、それは、育の側が相手の立場と気持ちの想像力を働かせたからであって、伊織とエミリーがそうしたからではないと思います。

まあ、伊織の言動がしばしば、受け手側が伊織の性格と真意を理解して受け止めてくれることに依存して成り立っている、というのはグリマスに始まったことでもありませんが、それは措いておいて。私がなぜ、このエピソードでのエミリーの言動をことさらに問題にするのかというと、年上の人間から、"かわいい" "微笑ましい" "子ども" と扱われる、というここでの育の立場は、エミリー自身が仕事や日常生活の中の多くの場面で置かれている立場でもあるはずだからです。
「LIVE THE@TER PERFORMANCE 05」(2013年8月28日発売)のドラマパートでは、百瀬莉緒の探し物を手伝おうとして、勘違いでまったく別の物を持ってきたエミリーが、かわいい、面白い、と笑われます。「大人」であるわたしから見れば行動がとんちんかんだけれども、そこが "かわいい” "微笑ましい" "子ども" なあなた。LTP05での莉緒→エミリーと、「聖ミリオン女学園」での伊織・エミリー→育の関係は、まったく同じです。
いま、目の前で言い間違いをして伊織に笑われている育と、あの公演の時のわたしは、一緒じゃないか、ということに、エミリーは気づいているのでしょうか。もし、自分が、あなたの日本語はおかしいけれど、そのままの方が「カワイイ」から「本物の大和撫子」になんかならなくていいよ、と言われたらどんな気持ちがするだろう、という想像は、思い浮かばなかったのでしょうか。

いや、「ええ、私も伊織さまのご意見に賛同いたします。育さんは、今のままが一番かと。」というたった一つの台詞から、エミリーもきっと、育を"かわいい子ども" 扱いしているに違いない、エミリーには相手に対する想像力が足りないに違いない、と決めつけるのは、思い込みが過ぎるかもしれません。
ただ、まんざら私の思い込みだけとも限らないのではないか、と思うのは、次のエピソードがあるからです。 


「アイドルヒーローズ サイドストーリー」(2017年4月11日〜18日)
「仕掛け人さま、聞いてください! 私の役は、悪の集団デストルドーの幹部なんですが…少し、不安です。」
「悪いことをする人の気持ちは、私にはわかりません。そんな私にこの役が演じられるのでしょうか?」
「暴力を振るうのは、いけないことだと習いました。なのに自分が、このような役を演じるなんて…。」
「たとえ演技でも、凶暴な人間として振る舞うのは…怖いです。うまくできるかわかりません…。」
「あ…! 私ったら、始める前から泣き言ばかり…。不安ですが、とにかく、頑張ってみますね!」

「仕掛け人さま…私、やっぱり上手に演じられていない気がします。どうしたらようのでしょうか?」
「台本を読んで、役の気持ちを理解する…。悪役に、そのようなものが必要なのでしょうか?」
「た、確かに、役を理解できなければ上手く演じることはできません。ですが、悪役の気持ちなんて…。」
「それとも、私…表面だけで物事を判断しているのでしょうか? 悪役だからと、人の内面を無視して…?」
「仕掛け人さま…わかりました! 私、やってみます。デストルドー幹部になりきれるように、もっと深く…。」
「ありがとうございます、仕掛け人さま。私、この役を理解できるように、頑張りますね!」

「仕掛け人さま。私、ほんの少しだけですが…悪役の気持ちがわかってきたかもしれません。」
「はい。悪役は、自分達の信念を、悪だと思っていないこともある…そのことに気づきました。」
「たとえ私から見て悪いことでも、自分が信じた道を貫き、突き進む。それは、正義の味方と同じ…。」
「もちろん、理解できないこともまだまだありますが…一歩、先に進めたのではないかと。」
「私…撮影が始まるまで、この役を理解すること、あきらめたくないです! 最後まで、頑張ります。」
 
「仕掛け人さま。ここまで私を導いてくださって、ありがとうございました。」
「最初は、悪役なんて絶対に無理だと思ったのですが…なんとか、やり遂げることができました。」
「合わないと思った役でも、真剣に向き合って練習することで、演じることができるんですね。」
「演技をする上で、大事なことを学びました。この役は私にとって、大切なものになったと思います。」
「私…少しは、成長することができましたか? 仕掛け人さま! ふふっ♪」


自分が悪役を演じる、と聞いて、「悪いことをする人の気持ちは、私にはわかりません。」と言うエミリー。「台本を読んで、役の気持ちを理解する…。悪役に、そのようなものが必要なのでしょうか?」と「プロデューサー」に問いかけます。逆に言えば、エミリーはそれまで、「悪役」の「気持ち」というもの、自分がその立場になったことがない人の「気持ち」というものを、想像したことがなかったのです。
けれども、「役を理解できるように、頑張」っていくうちに、彼女は「悪役」にも「気持ち」や「信念」があることに気づいてゆき、「合わないと思った役でも、真剣に向き合って練習する」ことが大切なのだ、ということを学びます。

「全国キャラバン編」と2017年伊吹翼誕生祭でのやよいの扱いの変化や、LTP12と「アイドルシンフォニー」での雪歩と桃子の関係の変化と考え合わせた時、エミリーの場合にも、古いエピソードと新しいエピソードの間で、彼女が次第に、自分と立場の違う人間に対する想像力と、そこから生まれるリスペクトを身に付けていっている、と捉えられるのではないでしょうか。
もし、「アイドルヒーローズ サイドストーリー」を経た今のエミリー・スチュアートが、中谷育にふたたび「本物のおじょうさまになれるかな?」と聞かれたならば、あの時とはちょっと違った答え方、伝え方をするのではないでしょうか。
そして、こんな風に、何気ない日常的なエピソードの積み重ねによって、キャラクターの地に足のついた成長が着実に描かれていくところが、グリマスのテキストの魅力ではないかと私は思っているのですが、いかがでしょうか。


ところで、元記事は、平日の夜に無理のない範囲で書き上げるとだいたいあのくらいになる、という分量なのですが、書いた私の中では、あれでこっちの記事に書いた長さ分くらいのことを説明し終えたようなつもりになっているんですね。実際には、あれではどういう文脈で何を言っているんだか読んでいる方はわからない、というのは、考えてみれば当たり前のことではあるのですが、人から言われないとなかなか自分では気づけないもので。
他方で、この記事は、書こうと思ってから実際に出来上がるまでに一ヶ月以上かかっていて(別に、一ヶ月間コツコツと書き進めて今日完成した、という話ではなくて、単に4月中はブログを書く暇がなかっただけです)、まあ、年々できることの範囲が狭くなってはいるわけですが、これからも、できることをできる範囲でやります、ということで。





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こんにちは。
ミリオンライブにおけるアイドルの関係性と成長にまつわる記事、いつも興味深く読ませていただいてます。
クルミのくだり、先だっての記事で目に入った時には「ふふっ」と嬉しくさせてもらいました。

ミリオンライブ内でのことについては、私としては語るところがほとんど無いようなものですが、SPやよい編についても触れられていたので、いつぞやの続きということで、少しだけ。

やよい編の響が、やよいに対して何か(主に食品)を与えたがる、というのは仰る通りで。
これは黒井社長から、765プロは変態事務所であり、所属アイドルはプロデューサーから酷い仕打ちを受けていると信じさせられていることも一因かと思われます。
やよいは単に小動物的かわいさを持つだけでなく、(少なくとも序盤から中盤にかけては)響から見たら保護しなくてはならない対象であったということですね。

また、そもそも響は、コミュニケーションの導入として食べ物を使うのがクセになっている、ということも、別のシーンからも読み取れます。
中盤でのプロデューサーとの会話でも、それまでの対立姿勢が和らいだ場面で、響がサーターアンダギーを差し出すシーンがありますので。

こうした「餌付け」によるコミュニケーションは、その部分を見れば確かに他者を、やよいを同一の目線に置くことができていない、向き合えていないといえると思います。
また一方では、沖縄を離れ孤立した自分が、本来は敵であらねばならない他者と関わりあうにあたって、意識的にか無自覚にか、故郷で自分が慣れ親しんだ食品を後ろ盾として頼った、一種の防衛行動とみることもできるでしょう。
ここら辺は、対決を軸としたSPなどのシナリオと、シアターというひとつの箱の中で関わりあうミリオンライブでは、同じ行動であっても背景にある心理は違ってくるのかもしれません。

いずれにせよ、こうした響に対して、響を追いかけ、成長したやよいが「キラメキラリ」を贈り、さらにお手製の(つまり自らのホームグラウンドの)お弁当を贈るという行動をとり、響もそれを受けて成長する、という展開があるワケで「やよいの願望と成長、そして行動」というVinegar56%さんが指摘されている特性が、見事にあらわれたシナリオだったのだなと、改めてSPを振り返っています。


こういう形で、ミリオンライブにおけるアイドル同士の関係の変遷を見せていただくと、やはり「続いていく」ということには大きな価値があったのだと気づかされます。
コンテンツ全体の継続を意図して分岐し、枝分かれしていくそれぞれの世界。
それはそれとして価値あることと思いつつ、やはり、ひとつの世界、ひとつの時空を継続していくことでしか得られないものが、きっとあるのでしょう。
そのひとつを見せていただけたことに、感謝いたします。
ではでは、また何かの機会に。

K_1155さんへ

こんにちは。
お返事が遅くなって、大変申し訳ありません。

やよいのクルミは、ウマPの「やよいじり」シリーズで見たのが慣れ初め(?)で、自分で最初にプレイした時には、たしかカニを貰うところまでは行った気がするんですが、自力で見たED以上に印象に残っていますね。それこそ、アイマス世界の中で、アイドルたちにとって「プロデューサー」ってなんなのだろう、「アイドル活動」ってなんなのだろう、と考える時の一つの原点、原風景です、私の中で。

>これは黒井社長から、765プロは変態事務所であり、所属アイドルはプロデューサーから酷い仕打ちを受けていると信じさせられていることも一因かと思われます。
ああ、なるほど。この観点は思い至っていませんでした。確かに、見直してみると、やよいが765プロ所属だと知った後の響のPに対しての反応は、やよいを守ろう、救い出そう、という意志が強く示されているんですね。そのあたりは、警戒してある筈のPの前でも、響って基本的に人懐っこくてチョロい(失敬!)よね、という第一印象が先に立ちすぎて、あれはあれで本気でやよいのことを心配しているからこその態度なのだ、ということを見落としていました。
一方で、いちばん最初のやよい=小動物発言とサーターアンダギーによる「餌付け」は、やよいが765プロ所属と知る前なので、"やよいと仲良くなりたい" ということと、"やよいを保護しなければならない" ということはちょっと違う問題だという見方も出来ると思います。前者の仲良くなりたい感情の発露が「餌付け」行動であって、おっしゃる通り、そこで食べ物を使うというのは響のクセなんでしょうね。
ただ、他方で、わりと最初から自然に友達になっている真(初対面時、ダンスという共通の話題で会話が盛り上がる)や、基本的にずっと仲が悪い(笑)春香(初対面時、春香の側から話しかけるが、黒井社長の言いつけを守っている響は話したがらない)相手には、食べ物を差し出して距離を縮めようとする態度はついぞ取らなかったと思うので、P相手も含め、食べ物を差し出してくるという行動自体が、やよいシナリオに特徴的なものだと言えるかもしれません。響にとって、距離があるけれども自分から近づきたい相手に接する時のイメージが、"懐いていない動物にエサをやる" なんでしょうね。

>沖縄を離れ孤立した自分が、本来は敵であらねばならない他者と関わりあうにあたって、意識的にか無自覚にか、故郷で自分が慣れ親しんだ食品を後ろ盾として頼った、一種の防衛行動
上述の話に関連して、真シナリオと春香シナリオを少し見直してみて気づいたんですが、響の真に対する第一印象は”次郎に似ている”、やよいに対しては"ハム蔵に似ている" で、どっちも、自分にとって身近な存在の面影を相手の中に見出して好意を抱いているんですね。そして、故郷や家族の思い出と重なるものを何も見いだせない、純粋な他者である春香に対しては興味を示さない。響が、やよいや真を「ライバル」として認めるという変化は、「故郷で自分が慣れ親しんだ」ものにすがらなくても他者を認知し、他者と関係を結べるようになる、という変化でもあったのかもしれません。

パーフェクサンの各シナリオを見直していてもう一点、響と春香の関係、響から春香がどう見えているか、ということについても思うところがいろいろありましたが、ちょっと書こうとしてみたら収拾がつかなくなってしまったので、また別の機会にします。

>やはり「続いていく」ということには大きな価値があったのだと気づかされます。
ご存知の通り、私はグリマスのテキストを後からまとめて読んだので、グリマスの中でどう時間が積み重ねられてきたのか、ということは今でもわかりません。ただ、LTPのドラマは正直頭を抱えたくなるものの方が多かったし、グリマスのストーリーが最初の1年分だけで終わっていたら、なーんだ、ソシャゲのシナリオってこんなものですか、とバカにして終わっていた気がします。2年分、3年分を読んでようやく、このゲームではこういうシーンを描けるのか、と目を開かされる部分が増えてきて、そして5年目の時点から振り返って、2年前、3年前の場面にこんな意味があったのだなあ、と思える。で、それは行き当たりばったりで結果としてそうなったのではなくて、初めからある程度、時間をかけて何かを描いていくことを作り手が意図していたからではないか(裏の意図としては、だから、すべてが終わった後でしか語れないグリマスというものがあるんじゃないかな、ということ)、というのが、私のグリマス記事の一つの主張ですね。

グリマスを離れて、私自身はどっちかというと、機敏に新しいコンテンツを取り入れていくのが億劫だし、ひとつの世界の中の事柄を5年10年考えていてもわりと飽きない人間だと自分で思っていますが。けれども、この記事とコメント欄の中で、5年前の対談の続きを考えることができたように、コンテンツの側が絶え間なく変化していって、どこかしらで自分自身もそれと付き合って変わらざるを得ないからこそ、前から知っている世界の中から新しいものを見出せることもあるわけで、まあ、継続と変化はつながってめぐるもの、というか、自分の中でうまくつなげてめぐらせていきたいですよね、これからも。
合わせて、このように、私が書くものを真摯に読み込みつつ、私には持てない視点をもって意見を提示してくださる読者がいるからこそ、「継続」が「停滞」「堂々巡り」にとどまらずに済んでいる(と、言えるのかどうかはわかりませんが)わけで、こうしてコメントをいただけること、本当にありがたく思っております。

では、またの機会に。


zeitさんへ

お返事が大変遅くなりましたが、拙記事への丁寧なコメント、ありがとうございました。
以下、いただいたコメントを読んで、思ったことを書いておきます。


>でも、すごろくさんは大前提として育ちゃんの言動が正しいかのようにふるまっていて、そこが、わからない。

思想や嗜好の違いはともかくとして、解釈において何がここまですれ違っているんだろう、と思いながら見ていたのですが。つまり、ここなんですね。

>言葉遣いを変えたとて、それは上品な言葉を使う田舎娘が出来上がるだけであり、そんなことを期待されてキャスティングされているのではない。それを育ちゃんだけがわかっていない。言葉は脚本に既に書かれてあるのであり、大事なのは演技だ。

この点は、私も、このエピソードを読んでいて最初に気になったところでした。そもそも、脚本に「お姉さま、わたしもいっしょに行き」と書いてあるなら、そのテキストをどのように読み上げるかを考えるのが筋であって、台詞を全部別の言い回しに言い換えようとする、なんてのはそりゃあ見当違いでしょう、普通の芝居なら。
だから、私がこの記事の大前提として想定しているのは、グリマスの芝居においては、世間一般の映画や演劇において使われるような、厳密に台詞と行動を指定した脚本などというものはなくて、誰がどういう役柄で、どの場面で出てきて何をする、という大枠だけが指定されていて、細部の肉付けはすべてアイドル自身の裁量に任されている。それがグリマスにおける芝居づくりなんだろう、ということです。

なぜそう想定したかというと、そう考えないと、中谷育ひとりの努力が子どもらしい見当違いだ、というレベルの話ではなくて、彼女たちのやっていること全体が意味不明になるからです。
「アイドル節分パニック」でいうと、あれは桃子視点では、自分以外の全員が思い思いにふるまった結果、芝居の筋がぐちゃぐちゃになってしまった、という話になっている。一般的な意味での脚本があの芝居にあったのなら、桃子以外の全員が脚本を完全無視して好き勝手にやっていたか、さもなければ桃子ひとりだけが本当の筋書を教えられていないドッキリだった、ということになってしまいます。
あるいは、春日未来が「マッチ売りの少女」を演じる話(「メルヘンアイドル物語」)でも、マッチを擦って出てくる夢は幻だと教えられた未来が、夢を見るのはやめて実際にアイドルになっちゃいました、とか言うのがオチになっていますが、おかし過ぎるでしょう、普通の芝居だったら。鬼が島にしろマッチ売りにしろ、台詞改変どころの騒ぎではなくて、いち役者に過ぎないアイドルが、お話の展開を根本的に書き換えてしまっているのですから。

「聖ミリオン女学園」の中の事柄で言えば、大神環のオフショットでは、引用部分の続きで環が、お嬢さまは虫を捕まえちゃいけないのか、とか言っていますが、これだっておかしい。脚本に虫を捕まえるシーンが書き込まれているならそれをどう演技するか考えるべきだし、書いていないのならそもそもしてはいけない、それだけの話でしょう、普通の芝居なら。
けれども、そうではなくて、自分でそれが自分の役に必要なことだと思ったのなら虫を捕まえてもいいし、マジックをやってもいいし、詩を読んでもいい。現にストーリー本編では、園芸係の役になった木下ひなたが野菜を植えまくって、なんでお嬢さま学校に家庭菜園があるんだと舞浜歩に驚かれていますが、これが通っている一方で、高坂海美が、もうよくわかんないから決闘しちゃおう! と言ったのは、NGが出て止められています。
アイドルが自分で、自分の役にそれが必要だと思って実行したならば、別に虫を捕まえたって家庭菜園を作ったって決闘したっていい(ダメな時にはその場で却下される)というのがグリマスにおける「演技」「役づくり」というものだとするならば、指定された内容をどんな言い回しで喋ろうか、という中谷育の努力は、「役づくり」のあり方として、グリマスにおいて当然ありうる行い(それが育の資質能力にふさわしいか、キャスティング時に期待された方向性か、ということとは別の問題として)だと考えています。

実際のところ、ストーリー本編において、木下ひなた、舞浜歩、高坂海美は、一旦普段通りに喋ったあと慌てて”お嬢さまっぽい言い回し”で言い直す(「あたし」と言いかけて「私」と言い直す、台詞を言い終わったあと「ですわ」と付け加える、など)ということをさんざんやっていますが、育に関しては、そもそも”お嬢さまっぽい言い回し”を使おうとせず、まったく普段通りの喋り方で喋っているように見えます。この点、オフショットと本編の間にどんな経緯があったかは何も語られていないのでいかようにも想像できますが、だから、中谷育の「キャラクター論」として、あるいは”キャスティングの意図に対する推測” として、zeitさんの”中谷育に求められている演技像” に説得力があることは私も認めます。
 ただ、本編では育はあずさに呼びかける時、オフショット時点の「お姉さま」ではなく、「あずさお姉ちゃん」という言い回しで呼びかけている。改変の方向性が違うだけで、もし、脚本に「行く」と指定してあるものを「参ります」と言い換えるのが見当違いだとするならば、「お姉さま」と指定してあるものを「あずさお姉ちゃん」と言い換えるのだって同じくらい見当違いなはずです。

そして、「聖ミリオン女学園」の場合、おそらくキャスティングしたのはプロデューサー(豊川風花が、Pが珍しく清楚な役をくれた、と言っている。ちなみに、「アイドルヒーローズ サイドストーリー」のエミリーは、今度もらった役はこんな役で、とPに相談を持ちかけていて、おそらく765プロの外部に監督や演出がいる。「アイドルヒーローズ サイドストーリー」のお話は、指定されたテキストをどう読み込んでどう演じるか、という、一般的な芝居と役者の関係に近い仕事がなされている印象を受けますが、この差は、765プロ内輪の”手づくり”の仕事なのか、外部の仕事にキャストとして参加しているか、という違いなのだろう、ととりあえず考えています。)で、他に舞台監督とか演出みたいな立場の大人がいるかも不明ですが、少なくとも、Pにしろ他の制作側の人間にしろ、何を考えてキャストを選んで、どんな指導をしていたのかは、何も描写されていないのであって、”この仕事において、制作者が中谷育に何を期待していたか” は、自明の事柄ではありません。

従って、zeitさんのお説を「キャラクター論」として、「中谷育論」として示される分には、何も異を唱えることはありませんが、その「中谷育論」を、”この仕事において中谷育に求められていたはずのもの” として語られるのであれば、それは、伊織・エミリーという ”自分が育より大人だと思っている人間” は、「ぎこちないほうが、カワイイ」「今のままが一番」なのが ”育らしさ” “育に求められるもの” だという思い込みをもって育に接している、同じようにzeitさんという ”自分が育より大人だと思っている人間” は、「普通の子供には難しい、空気を読んで合わせるという演技」 こそが ”育らしさ” “育に求められるもの” だという思い込みをもって中谷育に接しているんだな、私にとってはそれだけの話になります。どういう前提に立つとzeitさんの論になるのかは了解できましたが、自分の前提が見当違いだったんだなあ、という気は、今でもしません。

あとのことは、まあ言わずもがなという気もしますが、一応。
>成長したエミリーなら何と答えるのか、エミリーでなく貴音が育ちゃんから同じ問いを投げられたら何と答えるのか。

書いてある通りで、桃子のオフショットにおける貴音のようにふるまえばそれでいいと思っています。貴音と桃子の会話だって、別に貴音がわかりやすく筋道を立てて解説して桃子を納得させている、というわけではまったくありませんが、ただ、貴音は、あなたの意志は尊重するが、それはそれとして私はこういうことも大切だと思う、という物言いをしていて、それゆえに、この人は誠意をもって自分に助言してくれているんだ、ということがシンプルに相手に伝わっている。
グリマスにおいて貴音がワイルドカードなのは確かですが、それは伊織やエミリーには到底できないような困難な行いなの? むしろ、そこで育のこととして軽く笑われている問題は、伊織やエミリーにとってこそクリティカルな問題じゃないの? というのがこのエピソードを見て最初に感じたひっかかりで、それは「エミリー論」じゃないのか? というのはまあ、その通りですねというか、最初に、初めにエミリーの話としてこのエピソードを読んで、次に育の話として読んだ、と書いた通りです、というか。

>まあ論点は「子供扱いされるとイラッとするよね」ということなのかも知れない。でもそれは「オジサン扱いされるとイラっとするよね」というのと何が違うのだろう? 子供はいずれ大人になるけども、大人になったときに「子供扱いされてたんじゃなくて単にバカにされてたに過ぎない」と気付くもの。
>結局、育ちゃんの子供扱いされたくはない、というのと、風花さんの、次こそは清純派の仕事がしたい、というのは同じベクトルの話で、いわばセクハラの形態のひとつで、作り手からすればそれはサービスの一環で、それに対してプレイヤー側がどんだけ自覚があるのか、て話だと思うんだけど。

私が一連の記事で「大人」と「子ども」と言う時、問題にしているのは、中谷育や周防桃子から見れば伊織やエミリー・スチュアートは「大人」だが、百瀬莉緒や馬場このみから見れば伊織やエミリーだって「子ども」だし、その莉緒や このみだって、高木社長から見れば「子ども」だろう。そして、もし北沢志保の弟と中谷育が出会ったとしたら、その時志保の弟にとって育は「大人」だろう、という相対性の問題だけです。固定的なクラスとしての「子ども」と「大人」が存在して、いまクラスを「子ども」と設定されているキャラもいつかは「大人」にクラスチェンジするのだ、という話をしているのではありません。”誰かが誰かを「子ども」だと見なす”、という視界のあり方だけがここでの私の関心で、それは別に、単に”誰かが誰かをバカにする” “バカにしている誰かも、また別の誰かにバカにされている”という問題だと言い換えてもまったく構わないものです。

そこで私は、現状で ”「子ども」とみなされる側” にも ”「大人」とみなされる側” にも回り得るエミリーの言動は問題視しても、今のところ ”「大人」とみなされる側” になる機会がない中谷育に対して同等の要求はしていません。(これは私の、アニデレの前川みくに対する態度と同じですね。現状で、安部菜々のように誰かからの期待を背負ってステージに立つ、という経験をしたことのない みくに対して、安部菜々の立場を想像してみろ、という要求を私はしません。)今の中谷育に足りないものは何で彼女はこれからどう成長すべきか、という話をしなければ「キャラクター論」「中谷育論」ではない、ということであれば、たしかに私はそういう話はしていません。

「オジサン扱い」や豊川風花に対するセクハラと同じじゃないか、というのは、その通りですよね。「オジサン扱い」については、だからたとえば、育や桃子が、このみや莉緒に対して、「大人なんだからしっかりしなさいよ」とか「大人って頭が固くてイヤよね」とか言っている、というエピソードがあったとしたら、それはこの記事に組み込まれていたかもしれませんが、グリマスにおいて、そういう次元で ”「大人」をバカにする” “「大人」を決めつける” という言動は思い当たらないので俎上に上がらなかっただけです。

で、豊川風花については、私はブログ上で2回くらい触れた記憶があって、どちらの時も、不満をほのめかしてはいるがはっきりした結論は言わない、という微妙な態度に終始した気がしますが、なんでそんな微妙な扱いなのか、と言うと。
アイドルゲーム、アイドルアニメはどうしようもなく構造的にセクハラを含むものですが、そういうものだからしょうがないよね、でとどまらないストーリーやキャラクターが描けるのであれば、それに越したことはないと思っています。
無印でいうなら、あずさシナリオは、比較的それに成功した例だと思っています。あのシナリオでは、どうしようもなくセクハラに晒されていて(電車に乗っていると痴漢される、仕事をすると勘違いした男が言い寄ってくる)、それを軽くあしらえるほど強くない女の子が生きていくにはどうしたらいいか、という問題が、ストーリーの中に組み込まれていた。画面上の女の子の体に触ったり、ちょっかいをかけて反応を楽しんだりする、という、ゲームの都合上の仕様が、ストーリー上も意味を持っていたと思うのです。あるいは、春香さんにパイタッチすると、他の子のように色っぽい楽しめる反応を返してこないで普通にドン引きしてマジ切れしてくる、なんてのは、別に絶賛しなければならないような大したことではありませんが、ここだけ世界が狂ってなくていいな、と思いましたし。

だから、グリマスが、豊川風花の設定を生かしてゲームの構造的な問題にまで踏み込んだシナリオを提示していたならば、それは私にとって特記すべき重大な成果だったでしょうし、そこまでのことでなくとも、風花が毅然とセクハラを拒否しました、という挿話がどっかにあったなら、春香さんや育を褒めたのと同じノリで、豊川風花なかなかかっこいいじゃないか、と書いていたことでしょう。しかし、現状そんなことにはなっていない(私が見て覚えている範囲では)のを、なんでグリマスは無印あずさシナリオみたく出来ないんだ! と怒ったところで不毛なだけなので、 私は ”アイドルが「子ども扱い」される話” については語っても、”アイドルがセクハラされる話” は見なかったことにして口を噤んでいます。

あずさシナリオの評価はともかく、 雪歩とか千早とか美希とかのパイタッチ反応より春香さんのマジ切れの方が気分がいい、というのは、私の好みの話でしかありません。頭ナデナデされて嬉しがるリアクションよりも、子ども扱いを怒るリアクションの方が気分がいいし、単に怒って意固地になるのではなくて前向きに事態を収拾しようとするのはなおかっこいい、というのも、私の好みの問題でしかないでしょう。要するに ”「ジェンダー論」的に「正しい」反応” がすごろくさんの好みなんでしょ、とまとめられれば、反論はできません。
それはそれとして、私の内的な動機としては、たてまえの綺麗事を誰が言うのか、という関心がずっと、自分の中にあるのだと思います。

アイマスはただ女の子にセクハラして楽しむだけのゲームじゃないんだ、というのは、たてまえの綺麗事です。アイドル活動ってのはライバル同士で足の引っ張り合いをして仕事をぶんどり合うってことじゃないんだ、というのは、たてまえの綺麗事です。765プロには主役も脇役も上下の区別もなく、みんなが主人公でみんなが互いに助け合い尊重し合っているんだ、というのは、たてまえの綺麗事です。ゲーム自体においても、ゲームをめぐる現実のコミュニティにおいても、実際に起きている事象は、そのたてまえ通りではまったくありません。
けれどもそこで、皆が、現実はこんなもんだよねと思って問題にもしなくなっている時に、アイマスってそういうものじゃないはずだろ、という綺麗事を、誰が言うのか、誰ならば言えるのか。このキャラクターは、こういう場面に遭遇した時にこういう綺麗事を主張する存在なんだな、という発見は、私にとっては、キャラクターを認知する上で重要な要素なのです。

まあ、もっと直接的にはですね。近頃は、アイマスファンがあっちでもこっちでも、選挙だ投票だという話をしています。何をしてもいいから目立って話題になって票を獲った者勝ちだ、という声ばかり聞いていると、心底うんざりして、せめて物語の中でくらい、誰か違う話をしてくれないものだろうか、と思う。そういう時に、春香さんなり中谷育なりの言動を見ると、幾分か慰められる。だから、綺麗事を言ってくれてありがとう、と、根本的には、それだけの理由で書いた話ではあります、発端の記事(の「エミリー論」ではない部分)は。

では、zeitさんから見て疑問なところ、おかしく思われるところはまだあるかもしれませんが、とりあえず、長文失礼いたしました。
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