冬のナンセンス


成り行きで、今年はアニメ『ラブライブ! サンシャイン!!』2期のことを書いて終わることになりますが、このブログはあくまでニコマスブログであり、就中、春香さんとノベマスのブログなので、『ラブライブ! サンシャイン!!』の記事を装いつつ、実際には春香さんとノベマスの話をします。従って、普通に『ラブライブ!』を好きな人が見ても意味不明な内容になるでしょう。つくづく、誰に向けて書いているのか全くわからないブログですね。






『ラブライブ! サンシャイン!!』2期13話(最終回)の評価が割れるのはまあ、わからないことではないです。ただ、今までに描いてきたものを踏まえて何をどうしたか、という、話の論理そのものはきわめて明晰なお話だったと思うので、 "評価が割れる" ということの中身が、わけわかんねー話が最後にもっとわけわかんねー話になって終わったからこのアニメはダメだな、というものでしかないのなら、それはとても残念な成り行きだと思います。
実はGREE版『ミリオンライブ!』についても同じようなことを思っていて、グリマスのエピローグのストーリーの評価が、人によって分かれること自体は、わからないことではないんですが、それが単に、いつもわけわかんねーことやってるグリマスが最後だと思ってめちゃくちゃやったからこのコンテンツはダメだな、とか、いつもわけわかんねーグリマスが最後にもっとはちゃめちゃやったからグリマス最高、とかいう風にしか外に伝わらないのなら、それはとても残念なことだと思います。
で、私の中では、つまりは『ラブライブ! サンシャイン!!』もグリマスも、最後は6年前の天才カゴシマPの境地に行き着いて終わったんだな、という理解が、大前提として、結論として存在します。『アイドルマスター sideM』のアニメだけがちょっと違う方向を向いていて、ハリアーPの手描きシリーズをやっていた……という話は、昨日書きました。

 先にハリアーPの話……じゃないや、『sideM』の話をしておくと、私の中でこのアニメの印象は、8話の合宿回に尽きます。合宿回というと、アニマスにも、劇場版アニマスにも、アニメ版シンデレラガールズにもありましたが、あれらの合宿回は、直後のエピソードに接続する直接的な布石でした。
劇マスの合宿は、再集結したアイドルたちの成長と輝きを見せる場面で、同時に、バックダンサー組に問題が生じる布石。アニデレの合宿回(11話)は、寄せ集めでわりとバラバラに活動してきたメンバー全員の一体感を深める回で、同時に、この回で活躍した新田美咲が次の回で倒れて波乱が生じる布石。
オーディションもろくに受かってない連中が、売れたらこんな風に集まることもできなくなっちゃうのかしら、なんて会話をおっぱじめるアニマスの合宿回(5話)は、もう少し長い射程を持っていますが、それでもせいぜい、1クール後の、実際に彼女たちが売れた後を見据えた布石。

 そういう、短いスパンの中で機能するあからさまな伏線として置かれていた、これまでのアイマスアニメの合宿回に対して、『sideM』の合宿回が異様なのは、この合宿の中のこんな出来事が、後日大問題が生じる契機になっていたんだ、とか、あの合宿の体験があったから後の仕事がこんな風にうまく出来たんだ、というようなわかりやすい布石に全然なってないところです。1話まるごと、バカな連中がより集まって全力で遊んでいる時間ってなんて楽しく輝かしいのだろう、互いに競い合い刺激し合いながら練習するってなんて素晴らしいのだろう、とただただ歌い上げるだけで終わってしまった。
この回が、何かの布石として意味を持ってくるとしたら、それは何話後の回でどうこう、このクールの中でどうこう、という矮小なスパンの中のことではあり得ないでしょう。何ヶ月分、何年分もの時間を物語が積み重ねて振り返った時、初めて意味を持ってくるような時間を、平然とたった1クール13話の中の1話分を費やしてじっくり見せてしまうのが、「sideM」のアニメなんだな、と。

そして、こういう、バカな連中が集まってバカ騒ぎしている時間を描き出すのに、いい年こいてまっとうな仕事を放り出して歌舞音曲に打ち興じている男どもの集団は、浮世離れした美少女の集団よりもしっくり似合っているし、その輝きは、アニメの中の女の子が過ごす時間の輝きよりもむしろ、いい年こいて自分の時間と体力と財産を削って動画作って遊んでいる連中の輝きに似ていると思います。
だから、ハリアーP。ハリアー手描きシリーズは、何十話エピソードが積み重なっても、本質的には何も変化していない時間が連綿と続いているのだけれども、その世界は、大人であり社会人であり、自分自身は動画の中のアイドルのように面白おかしい日常を送っているわけではない筈の作者ハリアーPが、自分の時間を削って書き続けることで維持されているものです。「ワケあってアイドル」な男どもの、「ワケ」そのものには踏み込まないで、彼らが「アイドル」として過ごしている時間の輝きをひたすら演出し続ける「sideM」は、ハリアーPの動画のありように良く似ているなあ、と思うのです。

グリマスについては、書こうと思いつつ実行していないネタがいくつかあるのですが、そのひとつが徳川まつりの「人魚姫」の話です。とあるライブの終わり近く、徳川まつりが言います。わたしの物語では人魚姫は復活するんだ、と。変なこと言う人だなあ、と思うのは、お姫さまが最後に王子と結ばれてメデタシメデタシで終わるおとぎ話なんていくらでもあるのに、わざわざ悲恋に終わる「人魚姫」を持ち出しておいて、さらに結末をハッピーエンドにねじ曲げる、という二重にねじれたお話だからです。
二重にねじれたおとぎ話を語る人は、他にもいます。「マッチ売りの少女」の主人公を演じた時の春日未来。マッチをすって見た夢がただの幻だなんて嫌だ、そうだ、現実で夢を叶えちゃえばいいじゃないか、と言って、自分でお話を書き換えてしまう。現実がどうにもならないからマッチの火の中に幻を見る子どもに対して、現実でやりたいことをやればいいじゃないか、と言うのでは、パンが無いならケーキを食べればいいじゃない、と庶民に言う王侯貴族と同レベルですが、でも、そうやって、わざわざ夢が現実にならないおとぎ話を持ち出しておいて、夢を現実にする話にねじ曲げてしまうのが、グリマスなんですね。

それぞれの台詞を最初に見た時には、なるほど、こういうことを言うのが徳川まつりで春日未来なのか、と、個別のキャラクターの個性の問題だとしか思わなかったのだけれど、エピローグを経て振り返ると、それにとどまらない一貫した流れが、これらの台詞の中に通底して存在していたのだという気がします。すなわち、願いごとは叶わないものだし、楽しい時間にはいつか終わりが来る、という認識を踏まえた上で、それでも、ステージの上では願いが現実になるし、そこで生まれた楽しい思い出は確固たるものだ、と信じるのがグリマスの物語なのだ、と。
で、"楽しい時間の終わり" とどう向き合うか、というのは、ニコマスではとくに2011年頃にしばしば表現されたテーマで、私の中ではその総決算として、天才カゴシマPの『夏のナンセンス』とベホイミPの『小野塚小町がアイドルデビューするようです。』の2本があって、だから、私の視界では、2017年のグリマスと2011年のノベマスがダブって見えています。

さて、『ラブライブ! サンシャイン!!』最終回の話です。昨日、私は、布石は全部打たれている、と書いたわけですが、何がどう布石になっているのかは説明しませんでした。
第一に、私は7話の感想の時からずっと、この物語は成功するか失敗するか、勝つか負けるか、いつでもどっちの方向にも簡単に転ぶつくりになっていて、結果がどっちになるかは本質的な問題じゃないんだ、と言ってきました。
12話で、神社にお参りした「Aqours」は、学校の級友たちが、「Aqours」の勝利を祈願して、自分たちの知らないうちにたくさんの絵馬を掛けていたことを知ります。私たちの学校ってなんて最高なんだろう、私たちってなんて最高のチームなんだろう、と思った次の瞬間に、しかし、同じ場所に、何十何百というユニットが、同じように絵馬を掛けていたことに気づく。
すでに何度も負けてきた「Aqours」のメンバーには、ここに絵馬を掛けて、その大半は負けていくであろう、何十何百のユニットたちが、自分たちと同じように痛切な願いを心に抱き、同じように精一杯努力してきた存在であること、自分たちのユニットが、その中の、何も特別でない一例に過ぎないことがわかってしまうのです。

過去回で、ライバルユニットの敗退を目の当たりにした時、一歩間違ったら自分たちがこうなっていたのかもしれない、という感想が最初に出てくるのが「Aqours」です。「 Aqours」にとって、自分の前でステージに立ち、負けて姿を消していく有象無象の女の子たちは、"手強いライバル" や "同情すべきかわいそうな相手" である前に、"あり得たかもしれないもう一人の自分の姿" "明日こうなっているかもしれない自分の姿" なのです。
たくさんの絵馬たちを見た後で、高海千歌の口から、私たちの目的ってなんだろう、という問いが発せられます。私たちの目的って、勝つことなんだよね、勝てば、探していた「輝き」が見つかるんだよね。
12話で千歌の瞳に何が見えていて、彼女は一体何を思っていたのか、ということは、実は13話を見てもよくわからないのですが、この問答があるが故に、13話において、勝ったからあんなに素晴らしい体験ができたね、とか、負けたからこんなに悔しいね、とかいうことが物語の主題になり得ないことは初めから明らかでした。

第二に、よく、『ラブライブ!』の世界には可愛い女の子しか存在しないのか、とネタにされるように、『ラブライブ!』のアニメの映像は、"ラブライブ語法" とでもいうべき独特の秩序で構築されていて、いつもどっか現実感、生活感が欠如した光景になっています。それは初代からそうだったのだけれど、初代の場合、一歩も前に進めない猛吹雪に遭遇したと思ったら、級友たちが会場までの道を整備してしてしまう展開とか、劇場版終盤の、町中を「スクールアイドル」が埋め尽くして踊り狂うライブシーンとか、何がどこまで現実だったのか、と考えることに意味があるとはあまり思えません。初代の物語は、「μ's」というユニットの夢が広がって、「ラブライブ!」の世界そのものを形作っていく物語だったから、夢と現実を区別する必要はなかったのです。
『ラブライブ! サンシャイン!!』の映像は、ある面ではその初代以上に、現実感がありません。せっかく内浦という "ご当地" の設定を用意したのだから、たとえば漁師のおっちゃんとか商店街のおばちゃんとか旅館の常連とか出して、生活感あふれる地元との濃密な交流、みたいなものを特色として打ち出す方向性だって考えられるところ、そんなことはやらないどころか、学校の教職員すらろくに画面に出て来ない。自分たちのユニット9人にライバルユニット2人、あと家族とペットと級友、という、ぎりぎり必要最低限だけの登場人物だけで大部分の場面を回していて、その外にどんな世界が広がっているのかはよくわからない。

ただ、ならば、『サンシャイン!!』もまた、初代と同じように、夢も現実も同質な、イメージの世界の物語なのか、といううと、そうではないのです。別にガルパンみたく、分からず屋のお役人が乗り込んできて生徒に理不尽な要求をする場面なんか無いけれども、自分たちが通う学校の将来がどうなるか、という死活的に重要な事柄は、大人同士の複雑な政治交渉によって決まっていて、子どもがあがいたところでどうにもならない。ネットでPVを公開して、東京に行ってステージに立って、自分では最高のパフォーマンスを出来た筈だ、と思っていても、ホームページに記録された入学志願者の人数は、自分たちが心を動かすことができた人間の数がどの程度であるかを冷然と告げている。つるんと小綺麗で、生々しさの無い映像世界の背後に、厳然として動かしがたい社会の現実が存在しているのが、『サンシャイン!!』の物語です。

第三に、そうして映像の中から意図的に排除されている、さまざまな要素のひとつとして、『ラブライブ! サンシャイン!!』の場合、ファンの姿がある、ということ。アニマスで言えば、律子回の通称プチピーマンP、「Wake Up Girls」で言えば古参追っかけの太田、「sideM」で言えばジュピターの出待ちをしていた女の子。ああいう、"ファン代表" 的な立ち位置のキャラクターが、『サンシャイン!!』には出てきません。
あるいは、握手会にただ一人来てくれたファンの思い出、とか、落ち込んでいる時にファンレターで励まされてとか、ライブの時、自分の色のサイリウムが振られる光景がどんなに感動的で、みたいな、アイドル側の目線からファンの存在を語る話もない。
さらには、1期では東京のイベントに初めて呼ばれた、という事件を、2期ではドームのステージに立つことになった、という事件を、いかにも重大事であるように煽っておいて、実は、実際に初めて立ったステージがどれほど広大だったか、という、アニマスだったらお話全部の結論になり得るような事柄は、全然描いていないんですよね。12話で、初めてドームに足を踏み入れてその広大さに驚く、というイベントをこなすのはモブの級友たちで、肝心の「 Aqours」の "ドーム初体験" の瞬間は、描写すらされないのです。

こういった要素は、この物語が「アイドル」の物語であるならば、欠かせない要素だったはずです。だって、歌と踊りが大好きなので、仲間といっしょに楽しく歌って踊りました、というだけなら、文字通り単に "歌と踊りが好きな人" です。そうではなくて、自分のパフォーマンスを不特定多数の他人に届けようとするからこそのアイドル、不特定多数の他人と繋がることに喜びを見出すからこそのアイドル、「後ろの席までちゃんと見えてるからねー」とか言わんでもいいことをぬけぬけと臆面もなくアピールするようなのが主人公だからこそのアイドルアニメなはずですよね、普通は。

たしかに、家族や級友や地元に応援される姿は繰り返し描かれています。しかし、それらは別に "アイドル「Aqours」のファン" ではなくても、元からの身内であり、仲間であり、彼女たちにとっての日常の構成要素そのものです。
だから、ふたつ前の記事を私は、「0と1の間」と題しました。たしかに数字の上では、「Aqours」のPVの再生数は増え、大会では上位入賞するようになり、学校志願者もゼロではなくなりました。けれども、普通のアイドルアニメなら原点になり、結論になるはずの、"自分のファンとのファーストコンタクト" というイベントは、『サンシャイン!!』においては最後の最後まで描かれません。すなわち、そういうものは、『サンシャイン!!』においては原点にも結論にもならない事柄だ、ということ。ならば、この物語において、主人公たちが見出すべき「1」とは、何だったのでしょうか?

第四に、このアニメの主人公はリーダー高海千歌ですが、千歌の同級生ふたりのうち、正ヒロインポジションなのは幼馴染渡辺曜と転校生桜内梨子どちらか、という、メインヒロイン問題みたいなものがありました。2期の途中まで、大事なところでおいしい役目を持って行っていたのは桜内梨子でしたが、梨子には2期5話で、津島善子とのカップリング、という別の収まりどころが設定されて、11~12話でおいしいポジションだったのは、どちらかというと渡辺曜。それで最後はどうなるんだと思ったら、13話前半では、なんと千歌のいないところで曜と梨子が互いの友情を確認して終わってしまいましたw。
この流れが、1期あるいは2期の当初から緻密に計算された結果としてこうなった、とはあまり思えないのですが、この人間関係処理によって何が起きるかは明白です。つまり、物語のオチとして、千歌と曜から始まった物語が千歌と曜で終わる、という落とし方も、千歌と梨子から始まった物語が千歌と梨子で終わる、という落とし方もあり得た筈だったのだけれど、どちらも選ばれなかった。『ラブライブ! サンシャイン!!』のラストは、高海千歌がひとりぼっちで担うのだ、ということ。

勝ち負けは最終回の主題になり得ない。現実感がない映像世界の背後には、ままならない現実が厳然として存在する。"ファン代表の活躍" "ファンとの出会い" "群衆が集まるビッグステージの広さ" も主題ではない。ラストは高海千歌がひとりで担う。以上4点を踏まえて。

勝ち負けはどちらもあり得るしどちらでも変わりない、と言いつつ、実際に出た結果は、私がこうなるんじゃないかと予想していた展開とは逆で、そして、なんでこっちの展開になったのかは、最後まで見るとよくわかりましたが。面白かったのは、その結果を見て、ニコ動では、ここは当然勝つ流れだと思っていた、という反応と、ここは当然負ける流れだと思っていた、という反応に、綺麗にコメントが分かれていたことですね。まったく同じものを見てきて、視聴者の中では人によって、まったく正反対のイメージが思い描かれていたわけです。

ともあれ、結果がどうであったにしろ、「Aqours」はずっと目標にしていた、広い広いドームステージに立ち、人とサイリウムの光で埋め尽くされた海の中で歌い踊った。その体験こそが、高海千歌がずっと探し求めていた「輝き」であり、もはや思い残すことなく "卒業" できる……筈でした。ところが、ひとりになった千歌は、心の底に悔いを残している自分、まだ納得できていない自分に気づきます。
とどのつまり、全国大会だ、アイドルの祭典だ、優勝だ、頂点だ、ドームステージだ、サイリウムの海だ……実際に立ってみて、そんなものは別に、高海千歌が求めていた「輝き」の本質などではなかったのです。
ならば、自分にとって、本当に大切なものは、なんだったのか。

結果として立った場所に、見た光景に、本質はなかった。けれども、そこに立つまでに、仲間たちと頑張って、悩んで、傷ついて、怒って、泣いて、笑って……その過程ひとつひとつの思い出こそは、自分にとって本当に大切で、心から満足できる「輝き」だった。
だからこそ、千歌は、最後にもう一度、ステージに立たなければならないことに気づくのです。「Aqours」が最後に立つべきステージは、光の海のドームなどではありません。彼女たちが日常を過ごし、思い出を積み上げてきた、何の変哲もないいつもの場所の、ちっぽけないつもの舞台こそが、最後に歌うべきステージなのです。

ラストステージには、ばらばらに旅立っていった筈のいろんな顔が姿を見せます。どこまでが現実で、どこからが夢なのか、よくわからない。というか、普通に考えて、現実じゃない。しかし、それは夢でも現実でも、どちらでもいいんです。
だって、晴れるまでいつまでも待ち続ける時間なんてないと知った上で、雨がすべて流れ落ちれば星が見える、と手を伸ばすのが「Aqours」だからです。明日にはみんな別れ別れになる、とわかった上で、いつまでもずっといっしょだよ、とささやくのが「Aqours」だからです。
どんなに離れていても、気持ちはいっしょ。だから、夢でも現実でも、どっちでもいい。ラストステージは高海千歌のソロステージでもあり、「Aqours」のオールスターステージでもある。どちらでも同じなんです。

いつまでも一緒にはいられない。卒業したら、みんな別れ別れ。これは、現実。
ステージの上から見えた光景は、どこまでが現実でどこからが夢なのか、よくわからない。
そして、築いてきた思い出こそが、夢も現実も超えた真実。

グリマスの最後の方のエピソードもまた、後の時期になればなるほどほど、どこまでが現実でどこからが夢なのか、ごちゃごちゃであやふやになっていって、それがエピローグで、何が夢で何が現実なのか、すべてがあやふやになった世界の中で、何が信じるべき真実であり、選ぶべき道なのか、あらためて問い直される構成になっています。
アニマスの20話を見た時には、アニメがようやく、3年前の陽一Pの境地に追いついたのか、と興奮したものでしたが、17年の年末に至って、ソシャゲーもアニメも、『無免許 & 逃避行』のラストで春香さんに、日常であるはずの世界こそがとてもあやふやで不確かに思える、と語らせた、6年前の天才カゴシマPの境地に、そして『夏のナンセンス』のラストで、春香さんをひとりで佇ませた、6年前の天才カゴシマPの境地に、ようやく追いついたんだなあ、という感慨が、個人的にはあります。

もっともそのカゴシマPは、今は、春香さんですら人として老い、傷つき、死んでいくし、思い出は時とともに忘れ去られて不確かになっていく、その中で物語は何を提示できるか、という、かつての到達点を乗り越える物語の模索をしているし、東方卓遊戯の『こころちゃんはガーデンオーダーがしたい!』は、アイドルというものを、人に食い物にされ、人を食い物にし煽動する存在だと描いた上で、なおその中にある願いに、輝きに目を向けています。
ニコマスは、あるいはニコ動は、どんどん先に進んでいるので、来年も、その他の世界は、安心して頑張ってニコマスを追いかけてくれればいいと思っています。









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