たとえば、いとしいさかなP『The Idol of the Rings』の
第二十二話(10年09月29日)、長い長い旅をしてきた春香と千早が、やよい伊織と亜美真美が、再会するシーン。
たとえば、山川出版P『戦国アイドルマスター』の
第18話(08年04月03日)、戦場から帰還した律子が、春香の姿を探し求めるシーン。
あるいは、赤ペンPの
アイドルマスター Above your shiny smiles ~明星~(09年09月27日)において、 帰国した千早が春香と会話するラストシーン。
と書いて、全部春香絡みのシーンであるあたり、実に私の例示だけれど。
たとえばこれらの動画で描かれたような再会のシーンの、読者の感情を揺さぶる力。それは、その背景にある、彼女たちが積み重ねた時間に対する共感、そして彼女たちが再会に至る道のりの長さ(すなわち彼女たちが生きている世界の広さ)に対する実感なしには成立し得ないものである。そういうものを描けるということは、創作の一つの大きな醍醐味だと思う。
そんなわけで、最近、アイドル再会シーン名場面集みたいなものを夢想していたのだけれど。それで私が見出だしたことは、思い浮かべようとして鮮明に浮かんでくるあれこれは、再会の場面よりも別れの場面の方がずっと多い、ということだった。それは最近の自分の精神状況なり関心の持ち方に照らしてとても納得のいくことだったので、なるほどなるほど、とひとりで頷いていたりしたのである。
という近況報告(?)はさておき。
動画にしろブログ記事にしろ、あるいはその上に生じてきたネット上の文化的な何か、コミュニティ的な何かにしろ、それはとても儚く脆い存在だ。私たちが膨大労力を割いて作り、鑑賞し、書き、読むと価値があると信じているそれらのものどもは、誰かのワンクリックでいとも簡単に抹消できる存在に過ぎない、というような。現今、そんな認識はいまさら強調するようなことでもないと思うが。
一つ言えば、その簡単さというのは、たとえば彼女にふられて頭が真っ白になった、とか仕事が辛くてムシャクシャした、とか親にバレた、とか嫌な奴に絡まれた、とかいう程度の日常的なありふれた事象から生じ得る点にあるのであって、権利関係がどうで、とか9.18によるコミュニティの崩壊がどうで、というような大問題から初めて生じるものではない。
本質的な問題は、それが人間の営みであって、しかも生きるのに必須の営みではない、という点にあろう。
人間の心は簡単に変わるものであって、しかもそれがいつどう変化するかは、自分にも、ましてや他人には知りようがない。そして商業的なコンテンツならば、すなわち作り手がプロであるならば、作ったものを消すということは生存する手段をなくすということであるが、我々はプロではない。
だからと言って、明日にはこの動画は消えているかもしれない、明後日にはこの人と会えなくなっているかもしれない、3日後自分は心変わりしているかもしれない、と四六時中気にして生きてはいられないわけで。とりあえず、すぐ先の未来は存続しており安定しており不変である、と仮定して生きるほかないのである。
一方で、言葉や音楽や物語がそうした働きをなし得るように、アイマスあるいはニコマスが、人間の心に対して、他の何物によってもなし得ない、魔法のような、奇跡のような働きをなす時がある。それもまた、確かなことである。実際、私自身もアイマスによって大きく人生に影響を受けた人間だ。そういう意味では、「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉は真実である。
しかしそのことは勿論、人はパンの代わりにアイマスを食べて生きていける、ということを意味するのではない。あくまでパンがあってそれからアイマスがある、というか、あったらいいな、というか。
そういうもの、と書いても、ここまでの話のどの部分を承けているのかよくわからないけれど。では、夢や祭りやユートピアやファンタジーだけでは片付けられない現実を、アイマスはどう受け止め、描くことができるのか。大上段に構えて言えば、そんな話を少し、してみたいのである。
ニコマスの中には、社会なんて力や金や縁故が罷り通って弱い者が滅ぼされる不条理な世界だろ、という認識のもとで物語を描く動画もある。あるいは作品に社会的なメッセージをこめる動画や、我々が楽しんでいるものの仮想性への意識を促すメタ的な動画もある。
が、私が念頭に置いているのは、そういう特定の思想を表現することだけではない。広く、人間の心が生み出す、不条理だったりやり切れなかったりすることごとを、アイマスという世界を媒介とした創作が、どう受け止め描き得るのか、ということである。
その行為に何の意味があるのか、ということは、とても不確かである。
一方には、フィクションが現実そのものを描いてどうするのか、現実には成せない夢を表してこそではないか、という思想があろう。もう一方には、現実と何の関わりもない空想に何の価値があるのか、リアリスティックな認識を投影してこその表現ではないか、という思想があろう。
またその表現は、ある場合には人の心に対して魔法のように働きかけるかもしれないが、まったく同時に、現実の一吹きで心から吹き飛ばされる脆く取るに足らない存在でもある。
そういう、いろいろな意味で不確かな狭間に立って、しかし確かに編まれてきた表現について、思いつくままに綴ってみよう、という話。言うまでもなく、アイマスと言いニコマスと言いつつ、具体的な内容は、私がもっとも好んで見てきた対象の中に偏っている。
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